ポスト基礎付け主義

執筆者の先生方より、以下をお贈りいただきました。御礼が遅くなり申し訳ございませんでしたが、誠にありがとうございます。

政治において正しいとはどういうことか: ポスト基礎付け主義と規範の行方

哲学・倫理学・思想史・政治学・教育学の研究者による共同研究に基づく論文集とのことで、出版社サイトの宣伝文句を借りれば、「いかなる究極の価値も真理も前提にできない現代、「政治における正しさ」をどのように語ることができるか」という問題意識のもとで、「「ポスト基礎付け主義」という理論的立場を手掛かりに、いわゆる相対主義に諦観することのない、新しい哲学、規範、そしてデモクラシーのあり方を構想する」内容となっています。

執筆者一同のお名前で頂戴しましたが、まずは面識のある編者のお三方と田村哲樹先生、寺尾範野さんがご執筆の序章から5章までを拝読しました(初めて書影を拝見したときに、どのカエルがどなたなのだろうと考えてしまいましたが、どうもそういうことではないようだと我に返りました)。いずれも大変勉強になるご論文ばかりでしたが、議論の文脈に通じていない上に「いわゆる相対主義」(2頁)に類するかもしれない私のような者の眼から見ますと、疑問に思うところが多かったのも事実です。

まず玉手さんと田畑さんがご執筆の序章「ポスト基礎付け主義の問題関心」では、かつては政治が何を目指すべきかについての論争が「単一の結論に到達しうるであろうこと」は疑われていなかったけれども、「いまや私たちはいかなる本質も真理も、そして価値も、自明のものとして前提することができない時代に生きている」として、かつてのような「政治の確固たる目標、いわば政治の「基礎付け」の存在を素朴に信じることができない」とされます(1頁)。しかし次に、「こうした状況下において、あらゆる主張が等価であるということになるのだろうか」との問いかけが続き、「現代においてなお「政治における正しさ」を語ることができるのか、できるとすればどのような形でありうるのか」という問題関心が示されます(2頁)。そこで念頭に置かれているのは、ヘイトスピーチなど差別的な主張と差別に反対する主張が、ともに「各人の自己主張に過ぎないもの」として扱われる事態の例です(同)。この前後の箇所では、「いかなる規範も決定的なものではあり得ず、問い直しの可能性に開かれていると、ただ距離を置いた視点に立つこと」、「あらゆる主張が等価である」と認めること、「いわゆる相対主義に諦観すること」が、共通の意味内容を指しているように読めます。しかし、相対主義を直ちに「諦観」と結び付けることに飛躍はないでしょうか。相対主義にとどまりながら「各人の自己主張」を幅広く支持されるもの・共有できるものにしていこうとする立場はありうるでしょうし、そういった姿勢を「諦観」とは呼びにくいように思います。

玉手/田畑論文はオリヴァー・マーヒャルトに依拠し、ポスト基礎付け主義を「いかなる究極的な根拠も――いかなる超越的な正当化原理も、異論の余地のないようなアルキメデスの点も――決して利用可能ではない」という理解を前提する立場と定義した上で(3頁)、これは基礎付けの単純な拒否ではないとして、「反基礎付け主義」との差異に注意を促しています。すなわち、リチャード・ローティを主要な論者とする反基礎付け主義が「端的にあらゆる意味での根拠付けが説得力を失ったと考える」のに対して、ポスト基礎付け主義は「基礎の不確かさを受け入れつつなお正しい政治のあり方を考えよう」(原文では傍点あり)とする立場として提示されます(4頁)。そこでは、「なんらかの基礎は必要なのだ」というマーヒャルトの言葉も引かれています(5頁)。ですが、なぜ必要なのかは説明されていません。各人の自己主張を超えた基礎を不確かながらも持つような「正しさ」が求められなければならない理由(反基礎付け主義との差異化を図るべき理由)が、よく解りません。

玉手/田畑論文の説明では、「現実を批判する上で、その根拠を現実の人々の直観や意見とは別の何らかの価値から導こう」とする場合に、「確かなものなど何もないという考えに行き着いてしまえば、私たちの議論は現実への批判力を失い、望ましい状況への移行(あるいは事態の悪化への抵抗)は望むべくもなくなる」と述べられています(6-7頁)。しかし、規範の根拠が確かでないとしても、どういう規範が「正しい」のか「望ましい」のかを、自分なりに考えたり話したりすることは可能でしょう。「あらゆる正しさや望ましさには根拠がない」と述べたからといって、現実を評価・批判して優劣を付けることができなくなるとは考えられませんし、「正義とは所詮パワーゲームなのだ(力こそが正義だ)」と主張することにも当然なりません(8頁)。反基礎付け主義は、「たとえばデモクラシーを西洋的価値とみなしてその一切を拒否することによって、そこに住まう人々の、人権保護を求める声が奪われてしまう」といった事態を招きうるとされているのですが(11頁)、究極的に確かな根拠などないと知りつつもデモクラシーは人間社会に共通して重要な価値であると信じて圧政に反対する、といった立場は無理なくありうるでしょう。反基礎付け主義がデモクラシーを否定するとは限らないのに、ポスト基礎付け主義だけをデモクラシーと接合しようとするのは(10-11頁)、いささか不当に映ります。反基礎付け主義は本当に「すべてを現実に還元」(8頁)する立場でしかないのでしょうか。それはポスト基礎付け主義にとっての「わら人形」ではないと言えるのでしょうか。あるいは、ポスト基礎付け主義による反基礎付け主義との差異化は成功しているのでしょうか。こうした点が、本書前半を拝読した限りでは解消されなかった最大の疑問です。

山本さんがご執筆の第1章「アゴニズム再考――ポスト基礎付け主義と民主主義」でも同様に、反基礎付け主義のもとで「あらゆる規範や社会構想が、少なくとも権利上等価とみなされる」なら、「自由民主主義を擁護する言説と、ほとんど妄言に等しい差別的言説が同じメニューに載って提示される」と語られ、基礎付けの(不可能性と)必要性が示されるわけですが(23-24頁)、なぜ必要と言えるのかが論証されているわけではありません。また、ローティと(いっときの)スラヴォイ・ジジェクが反基礎付け主義の問題性を示す例として持ち出されていますが、そこでの指摘が反基礎付け主義にとっての必然的な問題であるのかは論じられていません(26頁)。反基礎付け主義(相対主義)の立場でありつつリベラル・デモクラシーを擁護することは不可能ではないと思いますので、結局のところ反基礎付け主義の何が問題なのかは解らないままでした(民主的な政治対立を可能にする制度的枠組みを認めることが基礎付けを認めることになるとお考えのようにも読めるのですが、その理由は判然としません)。そういうわけで、クロード・ルフォールとエルネスト・ラクラウの比較などは勉強になったのですが、ラクラウの立場を通じて「仮初めの基礎付け」「一時的な基礎付け」の重要性が示されても(30頁)、なぜそうまでして基礎付けに固執するのか(反基礎付け主義と差異化したいのか)理解できずにおります。なぜ基礎付けは必要なのでしょうか。また、基礎付けは「それ以上遡って根拠を問うことを禁じられた正統性の源泉」(25頁)とされていますが、一時的な基礎付けが許されるならば、それは反基礎付け主義(相対主義)が各々の社会構想を追求することと何が違うのでしょうか。

丸山眞男などに触れつつ、社会構想を絶対的な真実とは言えない「擬制」や比較的マシな「虚妄(illusion)」として提示する議論も興味深いのですが(35-36頁)、やはりこうした立場が反基礎付け主義と相容れないものなのかは触れられないため、スッキリしません。本文と離れて少し考えたのは、ここで示されているポスト基礎付け主義とは、要するに「顕教」では差別や排外主義は許されないといった規範(基礎付けの必要性)を掲げつつ、「密教」としてはそれらが一つの論争的な構想や擬制でしかない(基礎付けの暫定性)ことを認めておくという姿勢なのかもしれないということです。これは的外れであればそれまでの雑感ですが、たとえば「社会を基礎付ける」という表現(31頁)にも、どこか統治者の目線を感じました。相対主義はどうしても居直っていると言われてしまうわけですが(24頁)、そこには単純さゆえの誠実さがあるかもしれず、よりデモクラシーと親和的なのではないかと私などは思います。

玉手さんご執筆の第2章「われわれは「明白な不正義」に同意できるか――アマルティア・センのアイデンティティ論の検討から」は、センのアイデンティティ論をアイデンティティの重複性、解釈の多様性、変容可能性、非階層性、選択可能性に整理した上で、こうしたアイデンティティの複数性が人びとにとって協調可能な側面を見つけて対立を乗り越える鍵になり、デモクラシーのもとでより望ましい社会を構想していく可能性につながるとの議論が展開されています。センの議論を詳しく知ることができ勉強になりましたし、私は本章の論旨にあまり違和感を持たないのですが、こうした議論はポスト基礎付け主義でないとできないのだろうかという点は引っかかります。「一切の基礎的な価値の提示を放棄すれば、人々の生活の改善も不正義の除去も期待できなくなってしまう」(70頁)とされるわけですが、既に上で述べたように、基礎付けを拒否したからといって、生活の改善や不正義の除去に役立つ価値の提示ができなくなるわけではないと思います。本書が全体として何と格闘しているのか、そもそも格闘の必要があるのか、そういった根本的な部分が共有しにくいという感想を抱くのは、私がとても特殊な読者だからなのでしょうか(そうかもしれません)。

田村先生ご執筆の第3章「熟議民主主義における「正しさと政治」とその調停――熟議システム論を中心に」では、哲学的正当化と政治の緊張関係を踏まえつつ、ポスト基礎付け主義(究極的ないし超越的な正しさの根拠に依拠しない考え方)を念頭に置いた場合に、「正しさと政治」のどのような調停のあり方が適切なのかという問題設定が為されます。その上で、手続独立的な正しさの基準を求める基礎付け主義的な方法ではなく、熟議のプロセスに内在的な「正しさ」を追求するなどの「熟議的な正しさ」という概念が提起され、これにより一種の調停が可能になるとされます。本章は、哲学的正当化と政治の緊張関係への捉え方や手続独立的な正しさの基準への慎重な態度などに私自身の考えと共通する部分が多いこと、反基礎付け主義が明示的に扱われているわけでないことなどから、ほとんど違和感なく拝読しました。

田畑さんご執筆の第4章「批判は可能か――再構成に基づく内在的批判の試み」は、批判理論におけるポスト基礎付け主義的な議論潮流を踏まえつつ、「一般に基礎付け主義者と見なされている」(104頁)ユルゲン・ハーバーマスの議論をその文脈のなかで捉え直すものになっています。内容からは批判理論と討議倫理について大いに学ばせて頂いたのですが、その前段でのポスト基礎付け主義と反基礎付け主義の区別に(やはり)目がとまりました。反基礎付け主義は「いかなる基礎をも想定せず、正当化という営みそれ自体を否定、もしくは相対化する」とされています(103頁)。否定と相対化にはそれなりの差があるように思いますので、ここで意図されていることが気になるところです。また、「ポスト基礎付け主義は、反基礎付け主義ではない以上、正当化という営みそのものを拒絶するわけではない」し、「正当化という営みがそもそも恣意的であると主張するのではなく、いかに正当化された規範といえどもその規範が最終的なものではありえないと主張する」とも述べられています(104頁)。ここでは反基礎付け主義と正当化が相容れないことは既に前提とされており、詳しく説明は為されません。その一方で、規範の正当化を最終的なものとは捉えないというのは当たり前すぎるように思え(それぞれの主張の正しさや望ましさを争う対話が継続する限り、基礎付け主義であっても規範を最終的なものとしては示しにくいように思いますが、そうではないということなのでしょうね)、本当にポスト基礎付け主義が独立した立場を占めうるものなのか疑問が残ります。

寺尾さんご執筆の第5章「イデオロギー研究は「政治における正しさ」について何をいいうるか――マイケル・フリーデンの諸研究の検討を通して」は、政治における多様な「正しさ」を「イデオロギー」と捉えて各言説が持つ「規範としての説得性」を問うフリーデンの方法を、言説外的な権力関係に注目しがちなレイモンド・ゴイスの政治的リアリズムとの比較から特徴づけた上で、そうしたイデオロギー研究の有効性を世紀転換期のニューリベラリズムを事例として示すものになっています。言説を通じた闘争の分析は、思想史研究と経験的な政治研究との連続性に改めて目を開かせるものとして興味深く拝読しました。他方で、「政治における規範(=正しさ)の「基礎付け」を徹底して拒否する」ゴイスの立場を、「基礎付け」という行為そのものは政治の重要な要素と見なす、つまり特定の規範が「普遍化(≒正統化)された規範」として作用することでイデオロギー(特定の権力に資する目的のもとに行使される言説)の機能を果たすと考える点で「すぐれてポスト基礎付け主義的なアプローチ」と規定する部分には(138-139頁)、疑問を持たざるを得ません。反基礎付け主義でもそうした把握は可能だと考えられるのに、こうした立場さえポスト基礎付け主義と呼ばれてしまうなら、何が反基礎付け主義なのかはますます見えにくくなるのではないでしょうか。

長くなりましたが、規範について思考をめぐらせるよい機会を頂きました。後半の各章も機会を見て拝読いたします。どうもありがとうございました。

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