倫理学の根本問題

 

確か修論を書き上げた後の数週間で一気に書いたのだけれど、その先がどこに向かうのか、今一つ見通しが悪い気がして寝かしておいた論文がありまして。「覚え書き」を書くことで社会学的な見通しは付けられたし、Egoist Manifestを書いて自身の暴力衝動の発露の仕方についても一区切り付いたと思うので、改めてブラッシュアップして完成させることにしました。でも内容と今の私の立場を鑑みて、きちんとした媒体で近くに公開できる当ても無いので、なかなか迷ったのですが、自分で公開することにします。

 

倫理学の根本問題――価値相対主義とエゴイズム――」(pdf)

 

中身は、価値相対主義を批判から擁護し、正義に対するエゴイズムの優位を主張することを通じて、倫理学の殺害を企図するものです。リベラリズム批判やデリダ批判、応答責任論批判なども含まれています。参考までに、目次を以下に掲げます。

 

  • はじめに
  • 1.正義は存在しない
    • 1-1.価値相対主義への批判
    • 1-2.価値相対主義の擁護
    • 1-3.正義には従うべきか
    • 1-4.価値の比較不能性とリベラルな中立性
    • 1-5.政治の不可避性と正義の不可能性
  • 2.自分さえよければよい
    • 2-1.エゴイズムの意味と選択
    • 2-2.エゴイズムの主体
    • 2-3.責任とエゴイストの生
  • おわりに

 

あと、この論文の姉妹編と位置付けることが可能な「神と正義について(正義の臨界を超えて)」についても、加筆・再構成して一本の論文に仕上げた方が良いのかどうか、思案しています。シュティルナーそのものについての研究はもう少し寝かせざるを得ないのですが……。

Egoist Manifest

 

時々思う。世界の全てに優しくしたい/ 私にとって必要なヒトやモノ以外は全て消え去ってしまえばいい。矛盾するような二つの思いが、同じ瞬間に顔を出す。脳内に畳み込まれている異なる想念が、交互に顔を出すのではない。穏やかな心向きによる世界の肯定と、他者に向けられた猛々しい暴力への衝動とが、全く同じ刹那に、自己を顕示するのだ。

世界の肯定とは、私に必要な限りでの世界を肯定するということでは、決してない。今・在る全てを、在るもの自体として肯定したい。それはそれだけで価値を持っている。私はその全てを尊び・重んじたい。

けれども、それらのほとんどは、ごみくず程度の価値しか持たない存在である。私は、それらが滅んでも何も変わらない。むしろ、消え去ってくれた方がありがたい。そんなヒトやモノは、傷付け・破壊し尽くしてしまいたい。否、破壊し尽くしてしまうべきなのだ。

 

この世界には、否定したくなるような光景が満ち溢れている。同時に、言いようもなく素敵なもの・美しいもの・素晴らしいものも、確かに在る。 一方では、目を覆いたくなるような偏狭さ・冷酷さ・残虐さ・凶悪さが、時に明白、時に隠然と姿を見せる。他方、輝きや温もりや柔らかさを伴った幸福が、絶え間なく息づいてもいる。

世界には、クソッタレな現実と「隣り合わせに」ささやかな幸福が在る――のではない。温かな優しさの「裏側に」昏い暴力性が潜んでいる――のでもない。そのような表現は、それぞれの事象が本来的には世界の中で独立の位置を占めているはずだという、誤った想定に拠っている。そうではない。ここで否定すべきものと肯定すべきものとは、隣接しているのでも密着しているのでもなく、終始一体なのである。

一つは、クソッタレな現実の「ゆえにこそ」優しい幸福が生まれるということ。二つは、優しい幸福の「ためにこそ」クソッタレな現実が生み出されるということ。三つには、クソッタレな現実「そのものが」優しい幸福として在るということ。つまり両者は、「同じものの異なる側面」とか「表裏の関係」などと言うよりも、もっと渾然とした形で混ざり合っている。

 

例えば、何か/誰かを笑う。腹がよじれる。可笑しいと思う。その笑いが共有される「場」には、共同性が生まれる。笑いの前提/帰結としての共同性とは、何が正常/普通であるかの想定の共有である。本来的な位置からの逸脱についての認識の共有である。だから、私たちが笑う時、こちら側とあちら側が分けられる。笑う側と笑われる側が分けられる(笑われることと笑わせることは、人が思う程簡単には分けられない)。それは暴力である。幸福を象徴する「笑い」なる現象は、最初からずっと、暴力的である。

あるいは、誰かを愛する。抱き締めたい衝動に駆られる。その人が幸せであれば嬉しい、と思う。その想念は、自分の外の世界に「愛するもの」と「そうでないもの」の分断を持ち込む、差別感情にほかならない。誰かを愛するがゆえに他の誰かを傷つけたり排したりするより前に、誰かを愛し他の誰かを愛さないとの恣意的でしか在り得ない選択そのものが、そっくりそのまま、暴力的なのである。

人が言うように、対立する者同士でも、互いに誰かを愛する気持ちを持つならば「わかりあえる」、のだろうか。そんなことは在り得ない。あるいは互いに「解り合えた」としても、対立を解くことはできない。「解り合えた」当の「誰かを愛する気持ち」こそが、対立の理由なのだから。愛は人を引き裂く。愛は人を殺す。愛は世界を灼き尽くす。

 

分断=対立=政治=暴力などは、クソッタレだ。だが、私たちはクソッタレな世界から抜け出すパスポートなど持っていない。それが私たちの世界であり、私たちの幸福の条件だ。ただし、だからといって、絶望したり悲観したりする必要など無い。私たちは誰か/何かを傷付けなければ幸せになれない。でも、誰か/何かを傷付ければ幸せになり得る。幸せになりたいなら、誰か/何かを傷付ければいい。否、むしろ傷付けるべきだ。幸せを望む者は誰でも、無条件の幸福へのパスポートを用意してくれる超越的な誰か/何か――例えば神・あるいは正義――に期待するよりも、ただ自分が愛し・欲しようとする対象と、撃ち・棄て・消し潰そうとする対象とを明確に認識し、その意志を実現しようとする努力を尽くすべきなのである。

目の前に広がっている現実と遠く隔絶した高みに拠る視線を拒むことは、このクソッタレな現実=今・此処に在る生活そのものをそのまま受け止め、自ら抱え込むことへの強い確信から来ているはずである。それは、自らの小さな幸福を守るために善良な隣人の生命を奪うことさえ為し得る私たちのエゴと、そこから構成される共同性が発現せずにはいられない暴力を、決して手放すまいと覚悟することに直接結び付いている。エゴイストとして言おう。人を殺してでも生きる覚悟が無い奴は、死ねばいい。

 

「エゴイズムegoism」とは、利己主義を意味する。それは、何の留保も無い通俗的な利己主義である。では、エゴイズムとは単なる個体の行為態度に過ぎず、社会一般の事象について語ることはできないのであろうか。答えは否だ。エゴイズムは社会について語ることができる。その立場は、ヒト種に限られないあまねく「個」――利するべき「己」――を主体として想定する政治理論として、一般的な主張を為し得るのである。それは、徹頭徹尾「個」のためにある理論であり、その認識と分析と方策はあらゆる個体によって採用され得る。社会の仕組みを云々する場合にも、「個」にとっての意味を最初に置く。したがって、エゴイズムからすれば、社会の帰趨そのものは重要でない。仮に「個」に最大限の可能性を付与することによって当該社会が内破される結果がもたらされるとしても、理論的な失敗や欠陥とは見做されない。社会など、壊れてもよいのだ。

エゴイズムにとって、つまり「個」にとってベストなのは、「私」が誰/何であり・どの位置に居ても、その/この/あの社会から目的の対象を獲得することができるようになることである。全体主義にせよ民主主義にせよ、常に誰か/何かが排除されることには変わりない。そして、その事実は排除される側にとっては致命的である。「私」がある社会にとって、外部者――「未だ見ぬ他者」――として現われる可能性は、常に存在する。だから、さしあたり「私」が帰属しているこの社会について、誰/何に対しても開かれ得る可能性を全方位的に確保しておくことは、(誰/何によっても利用し得る)エゴイズム理論にとって必須の課題なのである。

 

無論、日本社会の中でそれなりの権利や地位を所有している私個人としては、適度に社会が閉じている方が好都合である。実際に社会が壊れたら困るのも確かだろう。だが、それは可能性を一度開いてから、私自身が考えればよい問題である。開放可能性は閉鎖可能性でもある。エゴイズムの立場から境界線の再審可能性の引き上げを主張する時、再審の方向性や結果を問うことはない。再審によって境界線が更に内側に引き寄せられる――排除が拡大する――ことも有り得る帰結として否定されない。

可能性はあくまでも可能性である。可能性をいかなる現実に結び付けることができるかは、意志と行為の力に拠る。しかし、そもそも可能性が閉ざされているところでは、期待できるものは少ない。それゆえ、まず可能性を開かねばならない。それはあらゆる「個」に適用できるエゴイズム理論としての、一般的な主張である。ただし、そこから先は知らない。そこから先は、個別のエゴイストの政治的営為が問題となるべきである。それは、私とあなたのエゴが衝突するフェーズである。

理論としてのエゴイズムの唱道者たる私は、社会が内破する可能性を開く理論的帰結を、断固として支持する。しかし他方で、一人のエゴイストとしての私は、自らが帰属する社会を脅かす「外部者」に対する排除に、迷いなく加担する。前段の立場は他者と共有可能であり、一般の支持を求め得るが、後段の立場は私個人の利害だけに基づく選択であり、個別的な問題である。だから私は、後の問題については語らない。語れば語るほど不利になるだけだ。エゴイストであることを公言して回るなど、これほど愚かなこともない。なぜ語るのか。そんなことは知らない。語りたいから語るのだ。あなたの知ったことではない。それが私の欲望なのだ。あなたはただ、あなたの欲望に配慮すればよい。私は、私の幸運を祈る。

戦後アメリカの政治思想

 

    • 仲正昌樹『集中講義!アメリカ現代思想――リベラリズムの冒険』日本放送出版協会(NHKブックス)、2008年

 

  • 会田弘継『追跡・アメリカの思想家たち』新潮社(新潮選書)、2008年

 

米大統領選イヤーの今年はアメリカにまつわる書籍が多数刊行されたが、今回はその中で、戦後アメリカの政治思想ないし思想家に焦点を当てた上の二冊を採り上げたい。『集中講義』は、複雑な哲学的議論を一般向けに解り易く――かつ皮肉たっぷりに――解説する手腕に定評がある政治思想史家の書き下ろしであり、「自由」と「リベラリズム」を巡る様々な理論(フロム、ハイエク、アレント、ロールズ、リバタリアニズム、コミュニタリアニズム、ポストモダン思想、フェミニズム、多文化主義、ローティなど)の歴史的展開を、現実の政治や社会の動向との関連を明示しながら丁寧に解説している。

著者によれば、かつてアメリカはA.トクヴィルにその「非哲学性」を指摘され、長い間「アメリカ哲学」や「アメリカ思想」などの存在は無きに等しいものと考えられていた。ところが1980年代後半以降、フランス現代思想が有意な発展を見せずに衰退していくのと入れ代わりに、「アメリカ発」の哲学が世界的に幅を利かせるようになった。「アメリカ発」の哲学は、第一にアメリカ版ポストモダン思想としてフランス現代思想を独自に継承し、第二に分析哲学としてドイツ観念論を傍流へと押しやり、第三に本書が扱うロールズ以降の「正義論」として倫理学・政治哲学・法哲学を再活性化させた。これら「アメリカ発」の哲学は、社会主義の退潮とグローバリゼーションの進行とともに日本でも90年代から影響力を増しており、今や思想や哲学と言えば、まずアメリカの議論が参照されるようになっている。したがって、本書はアメリカ思想についての導入であると同時に、価値を巡る哲学全般への導入としても有用である。

ただし、『集中講義』はリベラリズムを議論の軸としているために、必ずしもアメリカの戦後思潮の全体をカバーできているわけではない。保守的な思想家を多数採り上げている『思想家たち』は、その補完として役立つであろう。『集中講義』が専門的な議論の変遷を中心に扱っているのに対して、ジャーナリストである著者の雑誌連載をまとめた『思想家たち』には、大学人のみならず、在野の思想家や宗教家、ジャーナリストなど多様な人物が登場する。そこで問題とされるのは学問的な理論の体系であるよりもむしろ、一般大衆や現実政治とより直接に結び付きやすい思想運動や言論活動が主である。タイトルからもうかがえる通り、本書は思想そのものと同等か、それ以上に思想家の生にも関心を寄せており、読み物としても楽しめる水準に出来ている(もっとも、その分だけ思想そのものへの踏み込みには物足りないところも少なくない)。

ロールズ(第7章)やノージック(第8章)も扱われてはいるが、中心となっているのは、伝統の存在しない若い国家アメリカで進歩への懐疑と伝統の重視を旨とするバーク的保守主義を「創造」したラッセル・カーク(第1章)をはじめとする、保守的な思想家たちである。カークに近い反近代的な思想家としては、非国家的な共同体の役割を重視するロバート・ニスベット(第9章)や、産業主義を敵視した南部農本主義者リチャード・ウィーバー(第4章)、やや立ち位置は異なるが戦後アメリカの保守論壇を代表する論客でレーガン政権誕生に大きく寄与したウィリアム・バックリー(第10章)、古代ギリシア哲学の解読を通じて近代への批判的視線を形成しているレオ・シュトラウス(第5章)などが扱われている。シュトラウスに代表されるような反近代的な視線を織り込みながらも近代的な価値を積極的に肯定する保守派としては、アーヴィング・クリストルとともにいわゆるネオ・コンサバティブの始祖とされているノーマン・ポドレッツ(第2章)と、単独主義的な軍事行動や介入主義的な価値観外交を積極的に推進しようとするネオコン第三世代(ロバート・ケーガン、ウィリアム・クリストルら)との微妙な距離感を見せる第二世代フランシス・フクヤマ(第11章)が採り上げられている。さらに、硬骨のジャーナリストH.L.メンケン(第6章)や、1920年代から30年代にかけて自由主義神学に抵抗して宗教右派の源流を作ったJ.グレシャム・メンチェン(第3章)にも章が割かれている。

佐々木毅は『現代アメリカの保守主義』(岩波書店(岩波同時代ライブラリー)、1993年)で、アメリカの保守主義者を(1)東北部の大企業などに足場を置く共和党エスタブリッシュメント(ウォールストリート保守派)、(2)中西部の小企業家などを中心とするオールドライト、(3)60年代後半から転向知識人によって形成されたネオコン、(4)黒人運動へのホワイトバックラッシュを契機に70年代初頭から若者を中心に活発な運動を開始したニューライト、(5)TVを通じた伝導と草の根の運動で70年代を通じて結束力を強めたキリスト教ニューライト(宗教右派)の5つのグループに分類している。『思想家たち』の中では、ゴールドウォーターの選挙戦(64年)を支え、レーガン政権を誕生させたバックリーが代表的なオールドライトの思想家であり、宗教右派の中心的な指導者であったビリー・グラハムとジェリー・フォルウェルは、ともにメンチェンの孫弟子である。カークら伝統主義的保守派は大衆的基盤を持っているとは言えず、オールドライト・ニューライト・宗教右派などと隣接しながらも、完全には重ならない位置を占めている。また、ポドレッツとフクヤマはネオコンに分類されるが、その思想的特徴が十分に把握されているとは言えないネオコンの来歴を詳細に描き、60年代後半から国内問題に限定して現実主義的なリベラル批判を展開した第一世代(N.ポドレッツ、A.クリストル、ダニエル・ベル、D.P.モイニハン、ネイサン・グレイザーら)と、そこに70年代後半からポール・ウォルフォウィッツやリチャード・パールなど外交問題のタカ派論客が合流することによって生まれた第二世代、レーガン政権を経てネオコンが保守派の主流と統合された後で登場し、第一世代の屈折を継承しない素朴な第三世代(ケーガン、W.クリストル、J.ポドレッツ、ディヴィッド・ブルックス、マックス・ブートら)の差異を提示する箇所は、本書の最大の読みどころの一つである。

折しも、バラク・オバマが大統領に当選を果たし、民主党が政権に復帰することとなった。イラク戦争の泥沼化によって既にネオコンの影響力は失墜しており、未曽有の金融危機の発生によって「新自由主義の終焉」がささやかれている。ある思想の「終焉」を安易に語ることは控えるべきであるが、30年程度続いたアメリカの思想潮流に重大な転機が訪れていることは確かであろう。ここで紹介した二冊は、過去を把握し、未来を推察する助けになってくれるはずである。

かかわりあいの政治学3――出来事が持つ意味

 

(承前)

 

 個別の出来事が個別の出来事以上のものになることがある。直接には少数の人がかかわっただけの特異な出来事が、その特異性を維持したまま、その出来事が属する〈現在〉の全体を圧縮して代表することがある。日本の戦後史から例をとれば、連合赤軍事件がそのような出来事だったし、オウム真理教事件もそうであった。

大澤真幸「はじめに」大澤真幸編『アキハバラ発 〈00年代〉への問い』(岩波書店、2008年)、ⅴ頁

個別の出来事は、個別の出来事でしかない。それが個別の出来事以上のものに「思えるようになる」のは、出来事の外部からの視線が、出来事に何らかの「代表性」(ないし象徴性)を読み込むからである。「代表性」とは何だろうか。それは構成の代表なのか、利害の代表なのか、意思の代表なのか。「全体を圧縮して代表する」とは何だろうか。圧縮された全体が一個の事件によって代表されると言うことは、何も代表されていないということではなかろうか。その空虚な「代表性」の内部に、何でも好きなものを詰め込んで代表させて見せることができる、ということではなかろうか。「代表させっこゲーム」に興じる人々は、対象となる出来事を巡る言説に利害関心を持っているに過ぎず、出来事そのものに「かかわっている」わけでは、確かにない。

しかしながら、狭い意味では出来事にかかわっていない人間が、その出来事そのものに強い「かかわり」を持つことは、確かにある。TVを通して知る遠い彼方の出来事が、「自分のこと」としか感じられなくなるようなケースは、稀ではない。出来事から大きな衝撃を受け、深い悲しみの穴に落ち込む。あるいは出来事に激しい怒りを覚え、誰か/何かを強く憎む。そのいずれでもないにせよ、出来事に感情を揺り動かされ、出来事の行方に高い関心を寄せる。そうした人々は、その出来事に「かかわり」を持っていると言えるだろう。

もちろん、そこにも各人なりの「読み込み」が無いとは言えない。出来事についての言説に「かかわっている」人間と、出来事そのものに「かかわっている」人間との区別は、そうスッパリと付けられるものではない。それでも、スッパリと言えることはある。「個別の出来事が個別の出来事以上のものになることがある」とすれば――と言うよりも一層正確に言うなら:個別の出来事が「少数の人がかかわっただけの特異な出来事」に留まらず、それ以上の意味を帯びることがあるのは、それが何かを「代表」するからではなく、広い範囲の多数の人々と直接に結び付くからなのだ。

私は過去に、秋葉原無差別殺傷事件のような出来事について語ることは公的に必要なことではなく、「究極的には当事者にしか必要でない」ことだと述べた。そこで言う「当事者」とは、狭義の「かかわり」を持つ「少数の人」に限られるものではなく、それら「少数の人」と何らの接触も持たずして、図らずも出来事に「直接の結び付き」を持つことになった多数の人々を含み得る幅を備えた言葉である。より適切には、「関係者」と言い換えた方がよかろう。

この意味での「かかわり」は種類も程度も多様であり、「関係者」の範囲は無限に広がり得る。しかし、一般に認識される「当事者」が持つ狭義の「かかわり」と、「関係者」が持つ広義の「かかわり」の間に、自明な階梯が存在するわけではない。前者が後者よりも重視されるとすれば、それは何らかの社会的合意に基づくものであり、自然な序列ではない。社会の秩序は、その内外に存在する無数の「かかわり」の内で、何かを採り上げ、何かを打ち棄てることによって成立していく。だから、「かかわり」について掘り下げて考えることは、社会の構成を明らかにすると同時に、その組み換えの可能性に意識を向かわせる作業ともなる。

そのようなことを念頭に置きつつ、次回以降も細やかなことを考えていきたい。

かかわりあいの政治学3――出来事が持つ意味

 

(承前)

 

 個別の出来事が個別の出来事以上のものになることがある。直接には少数の人がかかわっただけの特異な出来事が、その特異性を維持したまま、その出来事が属する〈現在〉の全体を圧縮して代表することがある。日本の戦後史から例をとれば、連合赤軍事件がそのような出来事だったし、オウム真理教事件もそうであった。

 

大澤真幸「はじめに」大澤真幸編『アキハバラ発 〈00年代〉への問い』(岩波書店、2008年)、ⅴ頁

 

個別の出来事は、個別の出来事でしかない。それが個別の出来事以上のものに「思えるようになる」のは、出来事の外部からの視線が、出来事に何らかの「代表性」(ないし象徴性)を読み込むからである。「代表性」とは何だろうか。それは構成の代表なのか、利害の代表なのか、意思の代表なのか。「全体を圧縮して代表する」とは何だろうか。圧縮された全体が一個の事件によって代表されると言うことは、何も代表されていないということではなかろうか。その空虚な「代表性」の内部に、何でも好きなものを詰め込んで代表させて見せることができる、ということではなかろうか。「代表させっこゲーム」に興じる人々は、対象となる出来事を巡る言説に利害関心を持っているに過ぎず、出来事そのものに「かかわっている」わけでは、確かにない。

 

しかしながら、狭い意味では出来事にかかわっていない人間が、その出来事そのものに強い「かかわり」を持つことは、確かにある。TVを通して知る遠い彼方の出来事が、「自分のこと」としか感じられなくなるようなケースは、稀ではない。出来事から大きな衝撃を受け、深い悲しみの穴に落ち込む。あるいは出来事に激しい怒りを覚え、誰か/何かを強く憎む。そのいずれでもないにせよ、出来事に感情を揺り動かされ、出来事の行方に高い関心を寄せる。そうした人々は、その出来事に「かかわり」を持っていると言えるだろう。

もちろん、そこにも各人なりの「読み込み」が無いとは言えない。出来事についての言説に「かかわっている」人間と、出来事そのものに「かかわっている」人間との区別は、そうスッパリと付けられるものではない。それでも、スッパリと言えることはある。「個別の出来事が個別の出来事以上のものになることがある」とすれば――と言うよりも一層正確に言うなら:個別の出来事が「少数の人がかかわっただけの特異な出来事」に留まらず、それ以上の意味を帯びることがあるのは、それが何かを「代表」するからではなく、広い範囲の多数の人々と直接に結び付くからなのだ。

 

私は過去に、秋葉原無差別殺傷事件のような出来事について語ることは公的に必要なことではなく、「究極的には当事者にしか必要でない」ことだと述べた。そこで言う「当事者」とは、狭義の「かかわり」を持つ「少数の人」に限られるものではなく、それら「少数の人」と何らの接触も持たずして、図らずも出来事に「直接の結び付き」を持つことになった多数の人々を含み得る幅を備えた言葉である。より適切には、「関係者」と言い換えた方がよかろう。

 

この意味での「かかわり」は種類も程度も多様であり、「関係者」の範囲は無限に広がり得る。しかし、一般に認識される「当事者」が持つ狭義の「かかわり」と、「関係者」が持つ広義の「かかわり」の間に、自明な階梯が存在するわけではない。前者が後者よりも重視されるとすれば、それは何らかの社会的合意に基づくものであり、自然な序列ではない。社会の秩序は、その内外に存在する無数の「かかわり」の内で、何かを採り上げ、何かを打ち棄てることによって成立していく。だから、「かかわり」について掘り下げて考えることは、社会の構成を明らかにすると同時に、その組み換えの可能性に意識を向かわせる作業ともなる。

そのようなことを念頭に置きつつ、次回以降も細やかなことを考えていきたい。

 

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

水村典弘『ビジネスと倫理』

 

水村典弘『ビジネスと倫理――ステークホルダー・マネジメントと価値創造――』文眞堂、2008年

 

ビジネスと倫理

ビジネスと倫理

 

ご縁があって、著者よりご恵投頂きました。ありがとうございます。

著者の水村さんはまだ30代前半ですが、米国の経営学/ビジネス倫理学から生まれた“stakeholder theory”についての日本における主要な研究者の一人です。

前著『ステークホルダーと現代企業』(文眞堂、2004年)には私も大いに学ばせて頂きましたし、ブログ上でも「stakeholder/ステークホルダー/ステイクホルダー研究あれこれ」に採り上げました。

前著に引き続き、本書でも落ち着いた筆致で膨大な学説が次々に整理されており、理論の展開とその周辺環境が見渡せる内容になっています。この方面の議論に馴染みが無い方がいきなり読むのには少しとっつきにくいかもしれませんが、文献注も豊富ですので、ご興味の向きには是非にとおススメします。

 

個人的に、前著を読んだ印象ではどちらかと言えば経営学寄りの方かなと思っていたのですが、本書ではタイトル通り、ビジネス倫理学的な視点が目立つような気がします。まぁ、その二つを区別するのは正しくないかもしれませんが、あくまで雑駁な印象ということで。

 

現代企業とステークホルダー

現代企業とステークホルダー