共編者の山本圭さんより、下記の論文集をご恵贈頂きました。深く御礼申し上げます。
山本さんは第3章「ポスト・ネイションの政治的紐帯のために」を執筆されています。他に私が面識のある方では、乙部延剛さんが第4章「〈政治的なもの〉から〈社会的なもの〉へ? ――〈政治的なもの〉の政治理論に何が可能か」を、大久保歩さんが第5章「友愛の政治と来るべき民衆――ドゥルーズとデモクラシー」を書かれています。
詳細な目次は、政治学資料室の方に掲載済みですので、そちらからご覧頂けます。
2013年から16年に行われた、政治学・哲学・精神分析の研究者が集った研究会の成果ということで、事情により刊行が遅れていたようです。出版社の宣伝文句に「気鋭の若手研究者たちによる意欲的論集」とあるように、いわゆる(?)「気鋭本」に分類されるものかと思います。
編者による「まえがき」では、「本書の基本的な関心は、思想や言説の次元から原理的・根源的な仕方で社会的紐帯を捉え直すことにむけられている」(10頁)、と述べられています。震災後の日本における「絆」論や政治的・社会的な諸分断の深まりなどが刊行の背景にあるようですが、哲学・思想さらには精神分析という観点から「社会的紐帯」にアプローチしているのは特徴的だと思います。政治学者が精神分析について書いているものとして、たとえば有賀誠「精神分析と政治――フロイト、ラカン、ジジェク」などがありますが、本書は共同研究ということで、政治学や哲学・思想史の観点と精神分析の観点とが、それぞれ交差しながら一冊を織り成しています。
山本論文では、人びとをまとめ上げ包摂する(左派)ポピュリズムの効用が論じられています。議論のなかでは、ネイションに基づく社会的紐帯や権威主義的な右派ポピュリズムは、排除をもたらしやすいものとされています。私がやや気になるのは、左派ポピュリズムという立場が、それが対抗・敵対しようとする集団を含めた「社会」全体のまとまりというものを、どう考えるのだろうかという点です。「包摂的」なポピュリズムがもたらす集団の政治的紐帯が一時的・偶然的なものにとどまるというのは、とりあえずよいとして、それはたとえばJ. -W. ミュラーが批判するポピュリズムの反多元主義的性格という問題を退けられるものなのでしょうか。
乙部論文は、1990年代以降に多様な論者が示した「政治的なもの」への注目が2000年代後半からは退潮し、「社会的なもの」の重視に取って代わられたのではないか、「政治的なもの」に拠っては「社会的なもの」が提起する問題を上手く扱うことができないのではないか、との疑問を検討しています。最終的に示されるのは、ポスト基礎づけ主義的な立場から、非人間の存在物に着目して「現行とは異なる政治秩序」を描く「政治的エコロジー」論の可能性です。非常に新鮮で刺激的ですが、きちんと理解するには時間を要しそうです。
大久保論文はG. ドゥルーズのデモクラシー論を扱っており、門外漢の私には一読しただけでコメントできるようなことは何もないのですが、「マルチチュード」(M. ハート/A. ネグリ)、「不審者」(山本圭)、「死民」(石牟礼道子)などと結び付けながら、「来るべき民衆」について語る結論部は印象的なものでした。
その他の論文も、機会を見て拝読いたします。誠にありがとうございました。