- 文献:野口旭 [2007]: 『グローバル経済を学ぶ』筑摩書房(ちくま新書 657).
- 次回予定:アルバート・ハーシュマン [2011]: 『国力と外国貿易の構造』飯田敬輔 (監訳), 勁草書房, 1章.
以下は,取り寄せ.
- はじめに
- 1. 政治理論への疑い――棟梁失脚後の政治学の中で
- 2. 政治的なものの所在――政治の社会化と社会の政治化
- 3. 政治の理論化――ヴィジョンとしての政治理論
- おわりに
政治学はしばしば,独立したディシプリンとして固有のアプローチを持たないと評されてきた.本来であればディシプリンの存在証明を果たす原論的地位を占めるべき「政治理論」は,専門分化が進む政治学の中で,規範的な「政治哲学」と互換可能なサブ・ディシプリンとしての役割に落ち着いている(「現代」政治理論).
政治学が自己完結性を欠くことは,社会の象徴的統合・正統性具備を担う「政治(的なるもの)」が持つ「作為」としての性格に由来するものであり,政治(学)が社会に対する一種「棟梁的な」仕方は,この宿命的な性格と引き換えに認められてきた.だが,川崎修がクリアに示したように,そうした政治(学)像はミクロからマクロまでの政治を貫く単一の原理・構造が存在するとの幻想に基づくものであり,その陰にあって様々な生活の局面で生起する小さな〈政治〉が政治学の外に置き去りにされてきた事実は,先の性格規定を毀損するに十分である.
社会の中に横溢する政治(的なるもの)を社会学その他が扱うに任せてきた現代の政治学は,専門分化の昂進により,社会のサブシステムとしての政治システム(マクロな政治)に特化して自己完結性を強める方向への歩みを速めているように見える.それは大嶽秀夫が危惧したところの「トピック主義」の追認であるが,これに際して政治学に反省を迫るべき政治理論は存在が疑われている.
すなわち,「政治的なるもの」について語る一般理論など,そもそも存在しうるのか.本報告では「ビジョン構想」(松下圭一)としての政治理論観を手掛かりにしながら,棟梁的に社会の全体性を見渡す仕方ではない政治理論の可能性を問う.
来たる4月21日(土)の17:00から、市ヶ谷の法政大学大学院棟で研究会を行います。報告者は私1人で、報告題目は本記事タイトル通りです。私が所属する政治学研究科政治学専攻が発行する専攻誌、『政治をめぐって』に掲載予定の内容となります。
- 目次
- はじめに
- 1. 政治理論への疑い――棟梁失脚後の政治学の中で
- 2. 政治的なものの所在――政治の社会化と社会の政治化
- 3. 政治の理論化――ヴィジョンとしての政治理論
- おわりに
基本的には大嶽秀夫・川崎修の両先生が提示してきた問題意識を踏襲しながら、固有のアプローチに欠けると言われる政治学のアイデンティティ問題や、全体性の見通しが困難な状況下における政治理論の役割などについてお話します。浅学の身に大仰なテーマではありますが、生来が不遜な人間なので、思うところを率直に述べるつもりです。
内容的に政治とは何か、理論とは何かということはもちろん、政治学と社会学の関係(いわゆる「政治的なもの」と「社会的なもの」含む)についてや、科学を「方法」によって定義することの妥当性や、学問を本質論的に問うこと(「~とは何か?」)の意義なども扱っておりますので、政治、理論、政治学、政治理論それぞれに関心をお持ちの方の幅広い参加を歓迎しております。
参加希望の方にはファイルをお送りしますので、kihamu[at]gmail.comまでご連絡下さい。twitterでお知らせ頂いても構いません。宜しくお願い致します。