ポスト政治の政治理論

あと2週間ほどで、拙著『ポスト政治の政治理論――ステークホルダー・デモクラシーを編む』(法政大学出版局)が刊行されます。

ポスト政治の政治理論: ステークホルダー・デモクラシーを編む

博士論文に加筆修正を施したもので、いくつかの査読論文や紀要論文、学会発表ペーパー、院生雑誌に載せた論文などの内容を活かしていますが、未発表の部分も多くあります。博士論文に対しては、日本公共政策学会から2018年度の奨励賞を頂きました。出版に際しては、法政大学出版局から第5回学術図書刊行助成を得ることができました。

狭義の現代政治理論・デモクラシー理論にとどまらず、さまざまな論点に触れましたので、色々な方を怒らせたり呆れさせたりするかもしれませんが、私なりに政治とデモクラシーについてのヴィジョンを打ち出した本なので、お手に取って頂けると嬉しいです。

ご参考のため、以下に版元掲載のものより詳細な目次を掲げておきます。少しでも興味を惹かれた方は、ぜひ書店にてお買い求め頂くか、お近くの図書館への購入依頼をお願いいたします。8月下旬刊行予定です。

 

  • 序文 なぜデモクラシーか
  • 第1章 なぜステークホルダー・デモクラシーか
    • 第1節 背景――ポスト政治の時代
      • (1)断片化する政治――諸仮説の検討
      • (2)ポスト政治の諸相――政治から統治へ?
      • (3)民主的統治の隘路
    • 第2節 問い――いかなるデモクラシーを、何のために
      • (1)デモクラシー理論の分岐と収斂――熟議的転回以後
      • (2)なぜステークホルダーか――ポスト政治の政治主体像
      • (3)ステークホルダー・デモクラシーの構想
    • 第3節 方法――ポスト政治の政治理論を求めて
      • (1)政治理論の存在証明
      • (2)方法としてのモデル構築――その意義と課題
      • (3)モデル構築の方法――規準・機構・条件
  • 第2章 ステークホルダー分析――民主的統治主体の定位
    • 第1節 ステークホルダーとは何か――主体像の導出
      • (1)主体の境界
      • (2)主体の輪郭
      • (3)主体の外部?
    • 第2節 ステークホルダーとは誰か――分析の方法
      • (1)既存手法の批判的検討
      • (2)利害関係概念の再構成――政治の賭け金
      • (3)新手法の開発――PICフレームワークと限定化モデル
    • 第3節 分析政治のデザイン
      • (1)分析の制度化――政策立案段階における政策影響評価
      • (2)分析の競合モデル
      • (3)公共圏とミニ・パブリックス
  • 第3章 ステークホールディング――主体化へ向けた基本権保障
    • 第1節 主体化のための基本権秩序
      • (1)シティズンシップの境界
      • (2)ステークホールディングの理念
      • (3)境界を越えた主体化
    • 第2節 福祉ガバナンスの価値原理
      • (1)ポスト福祉国家におけるシティズンシップの再定義
      • (2)財産所有デモクラシーの構想史
      • (3)普遍主義的資産ベース福祉の体系
    • 第3節 主体性実現のための制度的条件
      • (1)複合的制度による福祉ガバナンス
      • (2)親密圏における公的自律
      • (3)主体化へ向けた教育
  • 第4章 マルチステークホルダー・プロセス――民主的統治への多回路化
    • 第1節 民主的正統性の多回路化
      • (1)国境を越えるデモクラシー
      • (2)グローバル・ステークホルダー・デモクラシーの規範的擁護
      • (3)公共権力の民主的統御
    • 第2節 企業経営における政治的なもの
      • (1)企業権力の再定義――政治・経営・統治
      • (2)資本主義を民主化する
      • (3)企業を統治するのは誰か――ステークホルダー理論と企業体制論
    • 第3節 企業権力の民主的統御
      • (1)法的回路による民主化――組織内のステークホルダー対話
      • (2)社会的回路による民主化――社会内のステークホルダー対話
      • (3)経済的回路による民主化――市場内のステークホルダー対話
  • 第5章 ステークホルダーによる民主的統治
    • 第1節 決定に先立つ政治
      • (1)代表の機能と形態
      • (2)機能的デモスの代表
      • (3)法的デモスの代表
    • 第2節 決定へ至る政治
      • (1)政策決定過程における熟議
      • (2)政策決定過程における投票
      • (3)紛争解決過程における参加と熟議
    • 第3節 決定に続く政治
      • (1)応答性実現の多回路――法的・社会的・経済的問責
      • (2)マルチレベル・ガバナンスにおけるデモイの競合と調停
  • 結語 織り成されるヴィジョン
  • あとがき
  • 参考文献/索引

 

 

非国家主体の代表性と企業権力の民主的正統性

昨日(2018年8月10日)、早稲田大学にて研究報告を行いました。タイトルは「国境横断的なガバナンスにおける非国家主体の代表性と企業権力の民主的正統性」です。

報告の前半は、ガバナンスに関与する非国家主体(NGOや企業など)は選挙に基づく代表者ではないが、非選挙的な代表性を持ちうると主張する類の議論を、いくつかのバージョンに分けて整理・検討しました。包括的な整理ではありませんが、最近のデモクラシー理論におけるトレンドの一端を知って頂けると思います。

後半は、企業が国家に似た公共的役割を果たす場合がある点に注目する「政治的CSR」論と、それに伴う企業の民主的正統化の可能性について、経営学・ビジネス倫理学での研究動向を紹介しました。このテーマについては、政治学の方面から関心を持っている人が極めて少ないでしょうし、日本語で扱っている文献もほとんどないかもしれません。

報告資料はAcademia.eduにアップロードしました。ご関心の向きには、是非ご笑覧頂ければ幸いです。

原発事故避難者と二重の住民登録

政治思想学会の学会誌『政治思想研究』第18号に投稿した公募論文が公刊されました。昨年度の日本公共政策学会における報告に加筆修正したものです。掲載誌全体の目次は政治学資料室をご覧ください。拙論の構成は以下の通りです。

  • 松尾隆佑 [2018] 「原発事故避難者と二重の住民登録――ステークホルダー・シティズンシップに基づく擁護」『政治思想研究』18: 140-168.
    • 一 はじめに [140]
    • 二 「住民」でありつづけることの困難 [141]
    • 三 現行政策の何が問題か――シティズンシップ保障の不全 [142]
      • 1 「二重の住民登録」の提言 [142]
      • 2 原発避難者特例法とその評価 [143]
      • 3 自治の主体たる地位の保障 [146]
    • 四 多重的シティズンシップの擁護 [148]
      • 1 集合的自己決定としてのデモクラシー [148]
      • 2 ステークホルダー・シティズンシップの原理 [150]
      • 3 原発事故避難者への適用 [153]
    • 五 おわりに [155]

数年経てばウェブからも読むことができるようになりますが、今現在ある課題・政策を直接の対象にしていることもあり、お近くの書店や図書館で手に取って頂ければ幸いです。

stakeholder democracyへの道半ば

 

最近はインプットが僅少なので、まとまったエントリは書けずにいる。近頃考えることについて、ごく散漫な話をしてお茶を濁そう。

先頃書いた東浩紀的な「民主主義2.0」の解説としては、「「一般意思2.0」の勘所、あるいは「データベース民主主義」の理論的位置」の方が核心に迫っていると思うのだが、ブックマーク数を見る限りでは、先に書いた「ポストモダンが要請する新たな政治パラダイム」の方が10倍多くの人々に読まれたようで、二つ併せて読まれたいと思う筆者としては少し残念である。ただ、「パラダイム」は元々書こうとしていたことに丁度良い枕ができたと思って「朝生」の話を使わせてもらっただけで、エントリの力点はstakeholder democracy論の正当化にあったから、あれを普段からすると桁違い(?)の人々の目に入れてもらったと思うと、望外に得をしたと言うべきかもしれない。

グーグルアラートが拾って来てくれるものを眺める限り、「ステークホルダー/ステイクホルダー」という言葉自体はだいぶ浸透してきたな、という感を素直に抱く。私が大学3年生の頃にstakeholder論に注目したのが2004年のたぶん夏で、「利害関係者討議」による決定を説いた卒論を提出したのが2006年の初頭、「利害関係者民主政」を構想してみせた補論を含む修論の提出が2008年の同じく初頭で、それから2年が経とうとしているわけだから、この間、状況もそれなりに変わってはくるだろう。まぁ、ひとまず時宜にかなった研究テーマを選ぶことができていたかな、とは思う(研究方法はさておき)。

とは言っても、政治的決定におけるstakeholderの議論は、濱口さんが仰る通り未だ「生煮え」と言わざるを得ない状況で、浸透しているなどとはとても言えない。濱口さんのブログでのステークホルダー民主主義絡みのエントリに寄せられる反応(コメントなど)の大きさを他の話題と比較しても、関心は今一つなのだろうと思われる。だからこそ先の記事が広く読まれたことは喜ぶべきだと言えるし、stakeholder democracyを唱える数少ない一人として、私こそが関連の話題を細かく拾って注目を喚起していくべきなのだろう。

 

と言うわけで、濱口さんのブログから私のエントリへのリプライを含むステークホルダー民主主義絡みの記事を3つ、今更ながら貼っておきたい。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-59fa.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-dbb3.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-d6bd.html

 

2つ目の記事における「神の真理よりもこの世の利害」という部分は、stakeholder democracyを「民主主義2.0」と対比する上でも重要な点で、それは「民主主義2.0」を支える哲学的想像力が、まさに「神の真理」のような世俗的利害を超越する何かへの志向性で成り立っているから。東さんは否定神学を批判したけれども、それは超越性の見出し方を批判したのであって、超越性を捨て去ったわけではない。否定神学では現実に対する規制的位置に超越性を見出すが、デリダ=東的な誤配哲学ではコミュニケーションのズレに超越性が見出される。神をどこに見るかの違いであって、超越性による世界支持の発想は捨てられていない。対して、stakeholder democracyが依拠する政治学的想像力はそうした超越性への依存から手を切り、違うものを、強いて言えば世俗的争いの中で流される血や届かなかった声などを想像する――想像しながら踏み潰していく――べきものであるのだと思う。

なお、同記事に寄せられた労務屋さんとラスカルさんのコメントに在る(本来、労働関連のイシューに限られない)代表性の問題は、私が答えていかなければならないはずのことで、こうした具体的レベルの議論に関しては、重い課題として自分の背に載せておかなければならないだろう。これから使い続けるかどうかも分からない言葉だが、多様な「利害関係者意思」をどうやって見出し*1、どのようにして政治的決定へと結び付けていくのかを、具体的な文脈の中で考えていかねばなるまい。

 

それから、3つ目の記事で引かれている森直人さんのエントリも、同じように利害関係性と代表性を巡るズレと言うかねじれと言うか、そういったものについての話だと思うわけで。現実に考えれば、誰もが何かのイシューに対する利害関係者であるはずで、だから事業仕分けのような場面では総論賛成各論反対になり易いわけだけど、それにしても甘い汁を吸っている一部の既得権益集団と被害者国民という二項対立図式はいい加減どうにかならないものかと、心底思う。しかし残念なことに「利害関係者」という言葉への一般のアレルギーは本当に強くて、だからこそ私はこの言葉を挑発的に使い続けてきた面もあるわけだけど、現実を動かそうとするならばやっぱりそういう無駄な抵抗は止めて、そこでこそstakeholderというまだ日本では手垢があまりついていない言葉を押し出していくべきなのかもしれない。

少なくとも私の理解によれば、こうしたポピュリズム的二項対立図式は社会統合を脅かすポストモダンが必然的に引き起こす困難なわけだが、「パラダイム」で書いたことを繰り返すと、「「民意」や「世論」は代表統治に対応するものですから、現在ではガバメントの限界に伴い、その機能的意義は低下して」おり、「「民意」なるものに踊らされる必然性はどんどん掘り崩されていっているはずなの」にもかかわらず、「民意」への過剰な配慮や忖度がますます問題とされるようになってい」るというねじれが、ここには在る。いや、ねじれと言うより逆説と言った方が正確か。統合がほころび、もはや一体的な「民意」など望めないはずなのに、むしろだからこそ疑似的な「民意」が創出され、政治がそれに踊らされるという。まさに鵜飼さんが指摘した本来的意味でのポピュリズムの発動だ。

 

まぁ、新たなインプットが無い以上、この辺りのことをいくら書いても繰り返しになってしまう。どうせ繰り返すのなら、引用してしまった方が早いだろう。「パラダイム」でも書いたが、stakeholder democracyを構想する上で重要なのは、利害関係者性や代表性を、従来の政治過程に限らず、多様な「サブ政治」の中で考えることである。

 

また、人々が政治的有効性感覚を低下させているのは、一面では政治への失望の現れであるが、他面では政治へ期待するところの少なさを示すものでもある。それは、「中央の政治や政党の役割と、現実の市民社会が持つ課題との間に大きなズレ」が生じているからである(篠原〔2004〕、55頁)。現代においては、社会を左右する決定権限の多くが、公式の政治過程における民主的統治原理による統制を受けずに漂流している。積極的な市場取引や利潤の追求、科学技術上の課題の探求などの諸活動が、「正当性の理由づけもされないまま」、社会生活上の変化を次々に引き起こす(ベック〔1998〕、378-379頁)。社会の輪郭は、「もはや議会での話し合いや行政府の決定によって決められるのではな」く、民主的な正統化を経ていない非政治的システムが、優越的な政治的形成力を有するようになる。社会を変える決定は、「どこかわからないところから無言で匿名で下される」ようになったのだ。決定権が政治過程から社会の側に移行しているのならば、政治過程に参加することの意味や必要性が乏しいと感じられるのも当然である。つまり、政治に対する不快感や不全感は、「公権力を委ねられた政治と、社会の広範囲にわたる変化との間に不均衡が生じていることから生じたもの」である(ベック〔1998〕、380-383頁)。

 

このように技術や経済など元来は非政治的性格を有していた領域が社会に大きな影響力を持つようになって単に政治的でも非政治的でもない独自の性格を帯びることを、U.ベックは「サブ政治」と呼ぶ。サブ政治が拡大すれば、政治の有効性は減衰する。ただでさえ社会の個人化によって利害伝達回路の弱体化に直面している人々にとって、政治が魅力や意義を失っていくのは必然である。

 

現代日本社会研究のための覚え書き――政治/イデオロギー(第2版)

 

田村哲樹さんによる中山竜一論文の整理を再度見ると、「リスク社会」においては、もはや公共的決定を一部の専門家や行政官に委ねることはできないが、ならばどうすべきかについて、少なくとも以下の3つの選択肢がある。

  • ①熟議民主主義
  • ②リスクの個人化と市場化
  • ③リバタリアン・パターナリズム

 

このうち②は何もしないこととほぼ同義なので、思想的・理論的に意味のある選択肢は①と③のいずれかになろう。大雑把に言えば、安藤馨的功利主義も宮台真司的「幸福論」も、そして東浩紀的な「グーグル的公共性」や「民主主義2.0」も、③の中の小分類と見做してよい。少なくとも、それが現時点での私の理解である。それは、①の中で熟議派と闘技派が争っているようなもので、大きな路線の違いと言うわけではない。こういった大別で行くと、私のstakeholder democracyも①の一種と理解されるべきことになるのだろう。それで構わないと思う。

東さんはかつて、「サブ政治」論の本質は社会内に小さな政治が無数に生まれることよりも、従来の(大文字の)政治そのものが「サブ」化していくことだと指摘したが*2、それならそれでいい。そこで、じゃあたくさんある「サブ」を支える何かでっかいものについて考えよう、と行く道も大事だろうが、そういうものとは別に「サブ」一つ一つに共通するような何らかの原理や原則を考えることも必要なのではないか。それは別に小さな公共性や個々の「運動」が大事なんだという話ではなく――いや大事なんだろうが強調点はそこではなく――、「サブ政治」全体に適用されるような「政治原理」について考えなくてよいのか、という話である(と思う)。

こういう言い方をすると、またぞろ「大きな物語」ですか、という反応をくれる人がいそうなので言い方に困るのだが、要するに、政治が無数の「サブ」なものに拡散していこうが、あらゆる政治が「サブ」化しようが、当該政治内部で決定を正統化するプロセスと、そのプロセスを規範的に下支えする価値原理がいらなくなるわけではないよ、ということ。社会構成原理としてのdemocracyは今こそ必要とされているのであって、いささか回りくどかったが、それが再帰的近代における熟議民主主義の推進を正当化する事由でもあったはずである。

 

ただ、私が熟議民主主義に拒否反応を覚えるのは、何度も繰り返すようにその道徳性の強さ、(必ずしも超越性ではないにせよ)公共性への志向の強さである。私が最初に利害関係者による政治的決定を考え始めた時の問題意識は、自分が関心を持っていないイシューについては、政治的決定から退出する自由をきちんと認めるべきだ、といったものだったので、「市民」を一括りにしてその内部における利害関係の濃淡をさほど重視しない熟議民主主義には、強い批判を抱え続けている。この側面においては、私はむしろ東さんの「グーグル的公共性」に共感する部分が少なくない。

重要なのは自分が関心を持つ決定に対して、影響力を行使できるのか、自分の望む内容を実現できるのかということである。ただし、ここでも微妙な問題が生じる。果たして、自分が望む結果さえ保障されればよいのだろうか、ということが出てくる。システムによって利害を自動調整する「民主主義2.0」においては望むまでもなく自分の「望み」が叶う可能性が出現するが、それでいいのか。よくないのではないか。その場合、結果が先に来て、これがあなたの望んでいたものなんだよ、と欲求ないし選好が後から構成される事態を防ぎ得ないのではないか、そのような事態はシュティルナーの「自己性」に照らして許容すべきでないのではないか。

というようなことを考えて、最近は結果が大事か手続きが大事かという分岐には意味が無いのではないか、と思うようになった。どうも、シュミットやアレントやハーバーマスなど、重厚な書物を読み直さなければ思考がまとまりそうにないのだが、そういった時間はなかなかとれそうにない。なので、道は長いなと思うばかり。

*1:この点に関する基礎的な研究は修論で行ったのだが、未だ十分とは言えないところがある。

*2:どこで言っていたのかは忘れた。isedだったかな。