正義論お勉強ノート

 

2007/01/21(日) 15:42:21 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-312.html

http://d.hatena.ne.jp/Sillitoe/20070112/p1を読んで、少し考えているうちに、過去に積み残しておいた問題について考え始めたら、もう少し積んでおこうかなと思っていた本も読まねばということになって、今日まで書かずにいた。最初の方だけ当該エントリに関係する部分であり、後は個人的な課題との関係で勝手に考え進めた部分である。

 

さて、ここでは、構築主義・相対主義と平等主義との両立可能性あるいは整合可能性が問題になっているが、構築主義や相対主義に理解を示しつつ平等主義を貫こうとすること自体は、不可能ではないだろう。

 

盛山和夫は、「社会経済的な不平等を、個人に責任が帰せられるものとそうでないものとに分けて、個人に責任がないものについては何らかの平等化や保障の措置をとることが社会の責任であり、正義にかなったことだとする責任‐平等主義」(169頁)を批判して、こう述べている。

 

 結論的に言えば、社会的世界を責任の有無やその帰属のしかたで「客観的」に区分けすることは、原理的に不可能なことである。「責任」とは、(中略)社会の中で人々の何らかの(しばしば暗黙の)合意によって組み立てられていくものである。それをどう組み立てていくかは、社会にとっての重要な課題ではあるが、あらかじめ客観的に所与として存在しているわけではない。したがって、平等主義の根拠を責任ないし責任のないことに求めることは不可能である。(174‐175頁)

 

だが、「責任」が構成的概念であることを認めたとしても、平等主義の根拠を責任の有無ないし帰属に求めることが不可能であるとまで言うことには無理がある。盛山が結論において主張するように、規範的原理を常に修正され得る「仮説」(339頁)と考える場合においても、「仮説」としての責任概念に平等主義の根拠を求めることは、それとして可能であろう。責任は確かに社会的合意によってその形態や範囲などを変えていくものかもしれないが、その時々の社会的合意に基づく「責任の有無やその帰属のしかた」に平等主義的施策の基準を求めることはできそうなものである。

 

例えば下地真樹は、私たちが生きるために充足しなくてはならない「基底的潜在能力」について、「何が「基底的」であるのか。それはまったく定かではない。私たちが作るリストがどのようなものであれ、そこには常に別のリストが提出される可能性を否定できない」と述べている(下地真樹「批判的合理主義の正義論」『情況』2006年5・6月号、211頁)。こうした認識自体は基本的に盛山の「仮説」と共通であるが、だからといって下地は潜在能力という客観的・絶対的尺度を手放すわけではなく、可謬主義に基づいて修正可能性を確保した上で、あるリストを当面の正義に措定するわけである。

 

したがって、「仮説」的考え方と何らかの正義構想が両立しないわけでは全然なく、構築主義や相対主義に一定の妥当性を認めながら平等主義を追求することは不可能ではない。この点についての盛山自身の認識はこの際どうでもいいことに属するとして、なお残る問題について考えよう。

 

それは一つには、「責任‐平等主義」が自身の主張を一つの「仮説」と認めるかどうか、ということであるが、この点もさして重大な論点ではない。認めないならば「基礎づけ主義」として批判され続けるだけである。私自身は、基礎づけ主義から脱した上で「仮説」を訴えることにより、社会的合意や政治的決定に影響を及ぼす人々の道徳感覚や政治的立場を地道に動かしていく方が賢明だと思うが、そう考えない人もいるだろう。この点に拘泥することは生産的ではない。

 

より尖鋭な論点は、ひとまず基礎づけ主義批判を受け入れて、各人の主張を「仮説」と考えるとしても、我々が従うべき規範の選択をその時々の社会的合意や政治的決定に完全に委ねてよいのか、という問いとして現れてくる。絶対的な正義を否定した上で、我々が従うべき規範=正義を無限に修正可能なものとして扱うべき、という一見似た結論を出しているように思える盛山と下地の立場の違いも、ここに至って鮮明になる。

 

盛山は、「仮説」としての正義を修正する契機を「集合的な決定を作り出すプロセス」(340頁)としての政治に求めており、それゆえ我々が従うべき規範の在り方は基本的に政治プロセス以外には委ねられるべきでないと考えるであろうから、その意味で「社会のあり方を決定する手続きによって正義を考えよう」とする「手続的正義」の立場を採っていると言える(下地212頁)。

 

これに対して下地は、「帰結主義的正義」の立場を採り、正義の修正の根拠を何らかの帰結(下地の提案によれば、「社会のメンバー全員に対して、十全に生きられる状況を実現している」か否か)に根拠付けようとする(212頁)。帰結の正当性は手続的正統性とは独立に判断されるものなので、ここでの正義は現実の政治的決定とは切り離された次元で想定されることになる。それゆえ、下地によれば、正義が実現するべき帰結が実現されていないとの異議申し立てに反証できない正義=法は、現実の政治的決定および手続的正統性にかかわらず、正義としての信頼を失うのである(219‐220頁)。

 

ところで、私はこうした下地の立場をデリダなどの議論と併せて「否定神学的正義論」として「神と正義について」で批判を加えたのであるが*1、同様の立場に対するより高度かつ洗練された批判が、大屋雄裕『法解釈の言語哲学』(勁草書房、2006年)において既になされていた。

 

大屋によれば、デリダや井上達夫は、「ロゴスの外部にある普遍性に比較して自らの議論の不十分さを自覚し、それを少しでも普遍性に近づけるために対話を通じた正当化を継続するべきだ」と考えるのであるが(120頁)、それは、こうした「規制理念としての普遍的原理が存在しないと考えるとき、何が正しいかをめぐる議論は無意味化するだろう」との認識を有するゆえである(126頁)。だが、こうした態度は「すべての基礎付け関係の究極の根拠を想定し、だがこの世界に現前しないことを根拠としてそれが成立する」とする「不可視の基礎付け主義」に他ならない(122頁)、と大屋は断ずる。

 

確認しておけば、正義(法)が「よりよい」ものになるためには、その正しさを測る基準として実際には現前し得ないような究極的に「普遍」である参照点が必要である、というデリダ=井上の立場は、下地の立場と完全に重ならないまでも共通する部分が大きい。下地は「帰結主義的な正義、非帰結主義的な正義のどちらを選ぶかについて、絶対的に正しい答えはない」(219頁)と述べている以上、その立場を不可視の基礎づけ主義と言うことは(実は)難しいかもしれないが、彼自身は既に述べたように、正義は「在る法」とは別に想定されるべきであるとの立場を明確にしており、何かしら正しさを測る基準が法の外に存在するべきとの認識をデリダや井上と共有している。

 

だが、正しさの基準が確定していなければ規範的議論は不可能であるというデリダ=井上=下地の立場は、言語規則の意味が確定していなければ議論が成り立つことは有り得ないという立場と同様、誤りであると大屋は言う。規則の意味は不確定であるとする「根元的規約主義」の立場を採る大屋によれば、具体的文脈において法規則の意味についての意見の一致が得られない場合にのみ法解釈を行い、そうした個別的判断から法規則の意味を遡及的に確定させていくことによって、正義を創造していくことは可能である。この立場においては、正義は基準として(法の外に)まず措定されるものではなく、議論と実践の積み重ねによって(法それ自体として)構築されていくものとされることになる。それゆえ、規範の選択を政治プロセスに委ねる盛山の立場に近づく。

 

私の立場も、基本的に大屋=盛山の立場に近いものである。私の立場の特殊性は正義論において誰もが退ける相対主義とエゴイズムを積極的に肯定する点にあるが、このレベルの議論においては大屋=盛山とあまり変わるところが無かろうと思う。つまり、規範的議論の根元に不可視の基礎づけ主義や帰結主義を据えることを拒絶するという意味で。したがって、便宜的とはいえ手続的正義の側に立つことになるだろう。

 

下地は手続的正義に対して、「手続きそれ自体を究極的な正当化根拠として取り扱う」(218頁)との批判を向けているが、それは言い過ぎだろう。そういう結果となる危険性があることは否定しないが、手続きを重視することは、むしろ現実の無際限なパワーゲームを一定の枠内に押し留めようとする制度的工夫である。正統とされている手続きの外に正義を想定することを認めるならば、それぞれの主観的正義に基づく暴力を正当化しようとする人々で溢れるだろう。そういった暴力の正当化理由を潰して、正統な手続きの下に正統な暴力を一元化しておくことには、それなりの意義がある。帰結主義的発想から「法を信頼しない」と言ってみたところで状況が改善されるわけではないし、正統でない暴力に訴えて成功する可能性は高くない(成功するならそれはそれでいい)。それならば、一般的には、正統な手続きの範囲内で自らの望む結果が導かれるように、また手続きそのものがより改善されるように、ひたすら尽力する方が賢明である。

 

それにしても、大屋にせよ、盛山にせよ、一方で基礎づけ主義を明確に退けながら、何故あくまでも相対主義を拒否しようとするのか、私には理解しにくい。基礎づけ主義を否定したからといって必ずしも相対主義に陥るわけではないとか、倫理学的・哲学的に込み入った議論について私は詳しくないが、「重要なのは我々が(私が)私の責任において、私の意志において、何を正当なものと看做すかという実存的決断である」(203頁)という大屋の宣言は、そもそも相対主義者が最も言いたいことだったのではなかろうか。別に相対主義の立場を採ったからといって建設的な議論ができなくなるわけではないと私などは思うのだが、アカデミズムに足を突っ込んだまっとうな人は口を揃えて、相対主義はいけない、と言うのである。そこまで相対主義を怖れなくてはならない理由は何なのだろうか。井上=大屋の相対主義批判(「相対主義は自己論駁的である」)への反論はいつかきちんとした形で行う機会を持ちたい。ともあれ、この問題については、ケルゼンの率直な態度表明こそ尊敬に値すると私は思う。

 

なお、今回のエントリを書くにあたって、かつてのおおや‐mojimoji論争をざっと見返して、だいぶ参考になった。長文になりすぎて引用を控えたが、両者の著書および論文と併せて参照することを強くお勧めする。

 

リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

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法解釈の言語哲学―クリプキから根元的規約主義へ

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コメント

 

初めまして。

いつも興味深く拝見しております。私のエントリを参照して下さり、ありがとうございました(少し前のエントリへのコメントになってしまい、申し訳ありません)。私がやや感情的に書いてしまった論点を、きはむさんがより深く考察してくれて、なかなか考えさせられました。私自身は構築主義、相対主義の有効性はケースバイケースで、扱う問題によっては(エントリでも書きましたが経済的不平等の問題とか)、構築主義と相対主義を強調することは、そこまで有用ではないんじゃないかな~と思っています。この問題も含め今後もきはむさんの考察を楽しみにしております。

2007/01/26(金) 11:58:07 | URL | Sillitoe #- [ 編集]

 

Sillitoeさん、はじめまして。こちらこそ拝見させていただいております。

 

不平等や貧困の問題を考えようとすると、確かに何らかの客観的・絶対的な尺度が必要になってくるでしょう。要はその「客観性」や「絶対性」を何に基礎付けるか(基礎付けないか)だと思います。

 

私の物事の考え方は学問的というよりは思想的なので、色々違和感を覚えることもあると思います。今後とも時々ご意見などお聞かせいただけると幸いです。

2007/01/26(金) 12:36:39 | URL | きはむ #- [ 編集]

 

大屋さんの議論について

大変興味深く拝見させていただきました。

 

ただ、大屋さんの議論は(『国家学会雑誌』版でしか読んでませんが)、デリダ解釈として妥当かどうかはとりあえず措いても、最後の方に「他人に危害を加えてはならない」という「危害原則」を、他者の「世界解釈を否定してはならない」という点から「規範的に正当化」する、言っていますが、しかし、それは逆だろう、と普通に思います。下地さんの議論の対象も多分そういうところにあるのではないか、と思います。

物理的暴力が禁止される理由は、単に「他者の世界解釈の尊重」等々のヌルい枠組みではない、と思うからです。

また、「すべてがその都度、その場で無根拠に立てられる(したがってそれが拘束力を有するか否かは発話の受け手に委ねられた)規約である」、といった議論には、

だからこそ、「では、あなたは《具体的》に、何を他者(たち)に説得したいのか?」と自問せざるを得ず、そのコミット抜きでは空虚なものにしかならないのではないか、と思いました。

2007/03/14(水) 23:59:58 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]

 

hotta yoshitaroさん、はじめまして。私は本になってから初見で、雑誌版は読んでいないのですが、第一にご指摘の部分に該当するのは、『法解釈の言語哲学』「おわりに」にある以下の部分でしょうか(201頁)。

 

「ここで根元的規約主義の下では、寛容論の文脈自体が問い直されることに注意しよう。客観的な・必然的なある規範の解釈が存在しないとしたとき、我々は何を根拠として他者の規範解釈を批判することができるのだろうか。言い換えれば、我々はなぜ不寛容になることが許されるのか。

もし我々の個々が意識し解釈する主体であるという世界像を受け入れるならば(それを否定することは少なくとも理論的には十分可能であろうことを留保しておくのだが)、我々の個々が自ら解釈を行うことを認め、またそれに対して(例えば)客観的な解釈や意味といったものを根拠にして干渉することはできないのだということを承認する必要があるように思われる。そのとき、他者の解釈への干渉は我々の意思によるものであり、我々の主体性を引き受け、我々の責任において為されるものという性質を負うだろう。また、個々の解釈を尊重しなくてはならないという根拠が前提とされる世界像にある以上、その世界像に抵触する解釈、すなわち他者の存在を否定するような解釈は禁止されることになるのではないか。ここに他者危害原則の規範的正当化への可能性がある。」

 

ご指摘の部分とは異なるかもしれませんし、雑誌版とは記述が異なっているかもしれませんが、この部分を読む限り、大屋さんが危害原則の規範的正当化の根拠になり得ると考えているのは、他者の世界解釈を否定することの禁止ではなく、「他者の存在を否定するような解釈」の禁止だと思われます。他者の解釈への批判は(客観的・必然的とされる根拠によるのではなく)個々人の主体的な意思と責任においてなされるものであり、それゆえにこそ、そうした個別的解釈を支える基盤(危害原則)が維持されなくてはならない、ということでしょうか。このように読むならばそれなりに筋は通っているように思えるのですが、いかがでしょう。他者の「世界解釈を否定してはならない」と言っているとなると確かに論旨が混乱するように思えますので、雑誌版に当たって確認する必要があるかもしれません(あるいは別の箇所でしょうか)。

 

上記の私の読みを前提にして言いますと、確かに下地さんの枠組みでは「他者の存在を否定するような解釈」の禁止が先に立つように思えます(但し、ここでの「他者」は当該社会のメンバーに限定されますが)。とはいえ、下地さんも規範的論争が「神々の争い」であること(=個々の解釈を尊重しなくてはならないということ)を議論の出発点に据えていますから、その限りでは大屋さんとの差異はあまり無いとも言えます。メンバー選択の恣意性=原初的暴力の消去不可能性を受け入れていることといい、両者が理論的に対立する部分は割りと限定的なんですよね。その限定的差異が決定的なのだとも言えるかもしれませんが。

 

ご指摘の二点目については、もっともであると思います。ただ、そうしたコミットはあくまで個々の主体的な意思と責任においてなされるしかない、というのが著者の立場なのでしょう。「むしろ何も我々に本質的に課せられたものがないならば、重要なのは我々が(私が)私の責任において、私の意志において、何を正当なものと看做すかという実存的決断である。そして仮に理論的な基礎付けや科学的様式を正しいもの、望ましいものと考えるならば(私自身はそのように信じているが)、必要なのはそれが正しいという信念に可能な限り多くの人々の同意を得ること、真理へと人々を誘惑することなのであ」る(203頁)、と述べられていることですし(引用文中、傍点を全て省略しました)。

 

2007/03/15(木) 15:01:04 | URL | きはむ #- [ 編集]

 

ありがとうございます。

詳細に応答を頂きありがとうございました。

 

コメントさせていただいたのは引用していただいている部分です。当該箇所には雑誌版と引用されておられる版との異同はありませんでした。

 

たしかにご指摘の通り、私の読み方は正確ではありませんでした。他者危害原則が「他者の存在を否定するような解釈の禁止」によって根拠づけられる可能性がある、ということでしたら、仰るとおり、それなりに筋が通っているように思えます。

 

ただ、「他者の存在を否定するような解釈」が禁止される理由には、「個々の解釈を尊重しなくてはならないという根拠が前提とされる世界像にある以上」という条件がつけられています。「根拠が前提とされる世界像にある」という部分の文法的つながりは読み取りにくいですが、この文法的つながりをどう読んでも、「他者の解釈を尊重しなければならない」という世界像が、「他者の存在を否定し(危害を加え)てはならない」という原則を根拠づける可能性がある、という関係は変わらないと思います。

私の疑問は単純で、大屋さんの議論では、他者の「解釈」を尊重しなくてはならないという点が、他者の「存在」を否定の禁止を根拠づけるような形になっているけれども(あるいは両者は曖昧だが)、それはいかにも奇妙な話ではないか、という点にあります。きはむさんも留保されておられるとおり、危害原則が「その人の解釈は唾棄すべきだが、その存在を否定してはならない」と言えないような原則ならば(個々の「解釈の尊重」の上位(あるいはその根拠)に「存在の否定の禁止」を置かないならば)、「他者の存在を否定する解釈」を批判することはできなくなるからです。

 

二つ目については応答いただいたとおりだと思います。

2007/03/15(木) 18:48:54 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]

 

雑誌版との異同についての確認を取ることが出来てよかったです。こういう意図で書いていらっしゃるのかな、という感触は何となくあったのですが、何しろ文章(+内容)がややこしいので正確を期したいという思いがあったものですから。改めて補足説明していただいた分、一層わかりやすくなりました。ありがとうございます。

 

さて、hottaさんの問題提起を端的にまとめると、「他者の解釈の尊重」と「他者存在の否定の禁止」の間では、どちらが論理的に先行するのか、ということだと思います。そしてhottaさんは、後者が予め受け入れられていなければ、「他者の存在を否定するような解釈」も尊重されなければならなくなってしまうので、前者から後者を導く大屋式議論は妥当ではない、という立場を採られる。

 

しかし、私が理解する限りでは、「個々の解釈を尊重しなくてはならない」から「他者の存在を否定するような解釈は禁止されることになるのではないか」という記述は、多分に曖昧であるために解りにくいですが、おそらく「個々の解釈を尊重するためには他者の存在を否定するような解釈は禁止される必要がある」とでも変換して読むべきであると思います。この場合、他者の解釈の尊重が他者存在の否定の禁止を「根拠づける」という形には必ずしもなっておらず、どちらかの原理が先行するというよりも同時的に要請されることになり、hottaさんの疑問は実質的に解消されるのではないでしょうか。

 

思うに、ここでの大屋式議論は、自由主義/リベラリズムのスタンダードな流れに位置する人々が割合広く共有している認識とかなり重なるもののように思われます。例えば長谷部恭男などは、それこそ多様な人々が有する個々の解釈(価値)を尊重するための枠組みがリベラル・デモクラシーであり、その枠組みを破壊する者に対して不寛容が貫かれるのは当然である、と明示的に述べています。長谷部と大屋さんでは理論的に対立する芽も沢山ありそうですが、少なくともこの点に関しては、大屋さんの立場は比較的一般的なものなのではないでしょうか。

 

もちろん一般的であるから正しいなどと言うつもりはありません。ただ、長谷部の議論などを見ても、個々の解釈の尊重と他者存在の否定の禁止は、いわばセットとして同時に成立すべきものと考えられており、それゆえ先のように大屋さんの記述を変換することは意図の歪曲にはならないと思います。思えば危害原則とは、単に他者へ危害を加えることを禁じる原則ではなく、他者に危害を加えない限り基本的に何をしてもよい(何を考えてもよい)、という原則でしたから、その中では最初からセットなんですよね。

2007/03/16(金) 16:58:54 | URL | きはむ #- [ 編集]

 

>何しろ文章(+内容)がややこしいので

 

大屋さんの文章のことです。念の為。

2007/03/16(金) 17:01:05 | URL | きはむ #- [ 編集]

 

ありがとうございました。

 

仰るとおり、大屋さんの議論はとくにこの部分は「多分に曖昧」だと思います。そしてご指摘の、他者の解釈(価値観)の尊重と存在の否定の禁止が「セット」で要請されているという点、了解いたしました。たしかにそのように理解すれば、大屋さんの議論を、解釈尊重原理が存在否定禁止原理を根拠づけるあるいは基礎づける、という形式で理解した限りでの私の疑義は、解消されると言えると思います。

 

ただ、それでもやはり申し上げたいのは、「他者の解釈を尊重するためにはその存在を否定するような解釈は禁止される」ということと、「他者に危害を加えない限り基本的に何をしてもよい(何を考えてもよい)」という危害原則では違いがある、ということです。

 

危害原則は、まとめていただいている通り、「他者に危害を加えない限り、何をして(考えて)もよい」ということです。これは、「何をして(考えて)もよい」という自由が、「他者に危害を加えない限りで」という原則に制約されている、あるいは条件づけられている、ということです。「他者の解釈を尊重すべし」という原則は、「他者の存在を否定すべからず(害すべからず)」という原則が遵守されている範囲内でのみ妥当する、と言ってもよいでしょう。危害原則は、解釈尊重原則と危害禁止原則とのあいだに、優先順位を設けています。だから、たとえ解釈尊重原則が守られていなくても危害禁止原則は守られるべきである、ということになります(全くその「世界解釈」を尊重できない相手に対しても、その者が他者に危害を加えていない限り、その者を拘束したり危害を加えてはならない、と言えます)。

 

それに対して、解釈尊重規範と存在否定禁止規範が「セット」であるとすると、この条件づけ関係あるいは両者の優先順位は解消してしまうと思います。

 

もちろん、「存在の否定」とは何かとか「危害」とは何か、に関しては具体的には様々な問題があると思います。しかしいずれにしても、この箇所に限って言えば、私は大屋さんの議論は成功していない(というよりもむしろ失敗している)と言わざるを得ないと思います。

2007/03/16(金) 18:23:51 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]

 

解釈(価値)の否定と存在の否定

hottaです。少しだけ補足させていただきたいと思います。

 

はきむさんによる的確なコメントとまとめによって、私自身も、大屋さんの議論のどこが問題だったのか、をクリアに理解できるようになったと思います。横からのコメントに真摯に応答していただき、ありがとうございました。

 

問題はやはり、その人の「解釈を否定する」ことと「存在を否定する」こととの関係にあるでしょう。あるいは「解釈」や「危害」という語の意味に関わっていると言えるでしょう。

 

両者の関係は、一方の肯定と他方の否定の連言を考えてみることで、ある程度理解できるでしょう。「解釈の否定」がすなわち「存在の否定(危害)」である、とは言えませんが、「存在の否定(危害)」はほとんど定義的に、その相手の世界「解釈の余地を否定」します。「解釈の否定」がすなわち「存在の否定(危害)」であるとは言えないならば、解釈を否定・却下しつつも、しかし危害を加えない、という事態が成立しうることになります。実際、私はしばしば、ある事態に対する特定の人の解釈(や考え方や価値観)を否定しますが、それがその相手に「危害を加えている」ことになる、などとは思いませんし、思えません。そして、ある解釈を否定することは、それを「否定する解釈」が事態に即して正しく、そして同時に「危害を加えて」いないならば、一般的に許容されます。しかし、その逆、つまり、「危害を加え」つつ「解釈を否定しない」ような事態が成立しうる、とは普通は思えません。

 

以上から、「解釈(価値)の尊重」と「存在の肯定」とが「セット」であるという、はきむさんによる大屋さんの議論の(いわば最善の)解釈も、両者の関係の的確な理解ではない、ということになると思います。

2007/03/17(土) 00:20:56 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]

 

私のコメントが的確であったかどうか、あまり自信は無いですが、わずかなりともお役に立つことが出来たのなら嬉しいです。

 

今回ご指摘の内容は、解釈尊重原則と危害禁止原則をセットとして理解すると、危害禁止原則が解釈尊重原則の制約条件になっている危害原則における論理的関係とのズレが生じる、というものかと思います。この点、私もそうかなと思うところが全く無いわけではないです。また、他者の解釈を否定すること(尊重しないこと)はその存在を否定することを意味しないということは当然仰るとおりであると思います。

 

ただ、私は大屋さんが言う解釈の「尊重」とは、かなり弱い意味で使われているのではないかという気がしているんですね。これも曖昧な書き方に発する問題ですが、つまりここでの「尊重」とは、前段にあるように個々の主体は独自に解釈を行うものであり、それに対して何らかの客観的(絶対的)根拠を持ち出して干渉することは出来ず、批判その他の干渉は個々の主体的責任で行われるものでしかないことを認めなくてはならないこと(つまり根元的規約主義)を意味するにすぎないのではないか。したがって、ここでの解釈尊重原則は、他者の解釈の中身を尊重しなければならないということではなく、他者が解釈する存在であることを認め、その解釈行為それ自体を尊重しなければならないということになる。

 

そうだとすれば、他者の解釈行為を尊重することが要請するのは解釈行為を妨げる危害行為を禁止することぐらいになりますから、「他者の解釈を尊重するためにはその存在を否定するような解釈は禁止される」ということと、「他者に危害を加えない限り基本的に何をしてもよい(何を考えてもよい)」という危害原則との間には、ほとんどズレがないことになるでしょう。もっとも、このように考えると解釈尊重原則と危害禁止原則はセットと言うより一体的なもののように思われてきますが。

2007/03/17(土) 14:03:20 | URL | きはむ #- [ 編集]

 

応答ありがとうございます。

 

先のコメントできはむさんを「はきむ」さんと呼び間違えていました。大変失礼いたしました。

 

解釈内容と解釈行為(解釈する存在)は異なるとは思いますが、こういうことでしょうか。「独自の解釈に対して客観的根拠を持ち出して干渉できない/すべきでない」ということは、「何が危害であるか」について当人の「解釈」を超えて客観的に規定/限定してしまうことを禁止することである。そして、「何が危害であるか」について、当人の解釈を超えて、何らかの客観的根拠に基づいて干渉すること自体、ある種の「危害」である、と。

もしそういう含意だとすれば、たしかに、「何が危害か、は当人の解釈次第である」ということについてオープンエンドにできるという点でメリットはあると思います。ただ、諸刃の刃ではあるかと。そもそもそれが「メリット」になる、と言えるとすれば、その前提には、「通常は危害とされないものでも、当人の解釈では危害になるのかもしれない」という認識があるからです。そこでは、誰が見ても「危害とされるもの」が前提になっています。

 

逆にもし「何が危害か、は当人の解釈次第である」ということを、客観的な「危害」の定義を拡張する方向性ではなく認めてしまうと、本人が危害と解釈しないものは、いかに「危害」に見えるものでも干渉できない、ということになってしまいます。その立場からは、たとえば「適応的選好形成」等はまったく「問題」にできません。

もし、当人が「危害」と思っていないものでも危害ではないか、と言えるのだとすれば、それは「当人の解釈」を超える何らかの危害がある、と言えるからではないでしょうか。

2007/03/19(月) 00:34:23 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]

 

いえ、何が危害であるかの問題に踏み込みたかったわけではありません。何が危害であるかもまた、多様な解釈の対象になり得るでしょうが、一般的な危害の定義については個々の主体的解釈の集積から政治的に決定されていくと思います。個別的解釈の多様性にもかかわらず政治的決定を行うことは暴力ですが、このことを大屋さんは認めており、ここでは問題になりません。

 

ここで問題になっているのは、危害原則という個別的暴力を封じる装置を(暴力的に)強制することの規範的正当化でした。大屋さんは、個別的解釈が多様に行われる基盤(解釈尊重原則)を保障するためには、その基盤を破壊する個別的暴力の禁止(危害禁止原則)が最低限必要なものとして正当化することができると考えたのでしょう。最低限と言うのは、私の解釈によれば、大屋さんがここで前提としている「世界像」は他者の解釈内容の尊重ではなく、解釈行為の尊重を求めるものにすぎず、解釈行為の尊重のためには危害禁止原則で十分だからです。「他者に危害を加えない限り基本的に何をしてもよい(何を考えてもよい)」という危害原則の下では、危害禁止原則が守られる限り、他者の解釈内容を肯定したり支持したりする必要はありません。そこでは、危害禁止原則が守られている限り、解釈(行為)尊重原則も守られていると言ってよいでしょう。

 

このように理解すると、既に書いた通り、「「他者の解釈を尊重するためにはその存在を否定するような解釈は禁止される」ということと、「他者に危害を加えない限り基本的に何をしてもよい(何を考えてもよい)」という危害原則との間には、ほとんどズレがない」と言うことができるように思うのですが、いかがでしょう。

 

いささか繰り返し気味の記述になり、もしかすると退屈なされたかもしれません。私が問題点を的確に理解していないと感じられたなら、どうぞご遠慮なくご指摘下さい。それから、呼び間違いについては全然気にしていませんので、ご心配なく。

2007/03/20(火) 13:53:01 | URL | きはむ #- [ 編集]

 

話をズレさせてしまいすみません。

どうしても私も「繰り返し」になってしまいますので、このあたりでやめておいた方がよいのかも知れませんね。

 

ご指摘の点、つまり、他者が「解釈する存在」であることおよびその「解釈行為」を尊重するための「必要条件」として危害原則がある、というのはもちろんその通りです。しかし逆に、他者が「解釈する存在であるということの尊重」は、「危害を加えるべからず」という原則が成立するための必要条件ではないし、十分条件でもありません。

 

もし、相手が「解釈する存在である」ということを前提にしない限り、危害を加えてはならない、と言えないならば、相手が「解釈する存在」ではない場合、危害を加えてもよいということになってしまいます。しかしそうは言えないでしょう。「感覚する存在である」ということと「解釈する存在である」ということが同義である、というならば話は別ですが、感覚と解釈は異なります。与えられた感覚に対する「解釈」がある程度可能だとしても、「感覚が与えられた」こと自体について、それも「解釈」次第である、と言うことはできません。

 

きはむさんの議論では、「解釈する存在であること/解釈行為の尊重」が「危害を加えるべからず」という命題の成立にとって必要か否か、という問いには「必要である」ということになってしまうのに対して、私は(繰り返しで恐縮ですが)、前者は後者にとって必要ではない、と言えるし、言うべきではないかと思います(後者が前者にとって必要条件であるのは当然として)。つまり、両者には明確に「条件づける/づけられる」という優先順序があると思います。

2007/03/23(金) 10:04:35 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]

 

すみません。間違いがありました。「解釈する存在であることの尊重」は、危害原則の必要条件でも、《十分条件でもない》と書きましたが、十分条件ではあります。解釈する存在であることを尊重しつつ危害を加えることはできないので。それに対して、危害原則は、「解釈する存在であることの尊重」にとって必要条件だが、十分条件ではない、という関係にあります。上の基本的な主旨には変更はありません。

2007/03/23(金) 10:14:27 | URL | hotta yoshitaro #- [ 編集]

 

私の回答が至らないために、何度もコメントさせてしまって申し訳ありません。ご指摘の内容は概ねもっともであると思うのですが、大屋さんの当該文章への批判としては当たらないのではないでしょうか。

 

大屋さんの論理の筋は、解釈尊重のためには危害禁止が必要であるから、前者を認めるのであれば後者も正当化できるだろう、というものです。Aを実現するためにはBの遂行が必要であるから、Aを求めるならBを正当化可能である、ということですね。すると、この論理展開の限りでは、Bの遂行のためにAの実現が必要であるかどうかは関係ないことになるはずです。

 

例えば、道路を右側通行にするか左側通行にするかといった調整問題の解決がAだとして、交通ルールがBだとします。調整問題の解決には交通ルールが必要です(ということにしておきます)ので、調整問題の解決を求める人に対して交通ルールを正当化することが可能です。この時、交通ルールの成立のために調整問題の存在が必要であるか否かは無関係ですし、実際調整問題が存在しなくともルールを作ることはできるわけです(調整問題を解決しないルールも有り得ます)。

 

同じように、ここの文脈では他者への危害を禁止するために解釈行為の尊重(存在)が必要であるか否かは無関係なのではないでしょうか。実際、ご指摘の通り、解釈を行い得ない存在に対しても危害を禁止すべきだとの主張は、極めて一般的であるわけですよね(この点は確かに大屋さんの主張の死角であるかもしれません。この場合に危害禁止をいかなる根拠によって禁止するのかはそれとして一つの大きな問題でしょう)。

 

結論的に言えば、大屋さんの論理の筋(を私が解釈したもの)からは、「解釈する存在であること/解釈行為の尊重」が「危害を加えるべからず」という命題の成立にとって「必要である」ということになってしまう、ということは無いと思います。回答として十分かどうかは分かりませんが、私が言えるのはこの程度でしょうか。

2007/03/23(金) 18:40:30 | URL | きはむ #- [ 編集]

禁欲と冒険の間

 

2007/01/19(金) 17:56:18 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-315.html

鈴木直『輸入学問の功罪』(筑摩書房:ちくま新書、2007年)

 

なかなか面白かった。論の筋はシンプルであり、翻訳者・出版社・大学のもたれ合いのために市場メカニズムを介した淘汰機能が働かず、読者の目を意識しない逐語訳主義が思想・哲学分野の翻訳書に根強く残り続けている現状を批判している。批判を補強するべく、日本の近代化の過程と特徴を整理し、そのために日本に影響を与えたドイツにおける近代化まで遡り、さらにカント哲学やヘーゲル哲学の簡単な解説まで行っているところが本書の特色だろう。

 

著者は、その筋では一流である学者達が日本語として意味不明な訳文を確信犯的に生産し続ける構造の由来を、「上からの近代化」によって現実の民衆生活と切り離された日本的アカデミズムの権威主義に求める。目下刊行中の岩波新書近現代史シリーズが提示する観点からすれば*1、本書が行う日本の近代化についての図式的整理に対して細部で異論を唱えることもできそうではある。ただ、「上からの近代化」によって、それまでの日本社会が有していた異なる可能性の芽が摘まれてしまったとの認識そのものは、岩波シリーズの観点と共鳴するように思える。

 

逐語訳主義を受験外国語と結び付けて、権威主義・エリート主義に対する批判から競争社会・学歴社会に対する批判へと向かう本書の主張は、一見ステレオタイプにも思える。割合素直に読むことができたのは、冒険的な意訳でよかろうと一方で思いつつ、実際には無難な逐語訳に傾きがちな自らの身を省みたせいだろうか。

 

ともあれ、本書が最後に示す、原著者が「潜在的可能性として手にしていた表現の束全体を翻訳対象」と捉え、原文において選ばれている表現を「いったんもとの束に戻し、あらためてそこから、日本語への翻訳にもっともふさわしい」表現を選び直すことこそ翻訳がなすべきことである、との基本姿勢には賛同できる。結局のところ、(形式や用語の選択も含む)原著者の表現意思を尊重するための禁欲と、読み手の理解を助けるための冒険と、二つの必要の間でいかにバランスをとるかという点に、翻訳の役割と妙味は尽きるのである。もちろん、それが実際には容易ではないから困っているわけだが。

 

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

正義の臨界を超えて(3)

 

この記事は「神と正義について・7」「神と正義について・8」「神と正義について・9」を素材として加筆・修正を施したものです。

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みんなのほんとうのさいわいと察知の気体

 

われわれは相対主義についての検討を出発点としていた。その上で相対主義を乗り越え、普遍的正義の実現に近づくための有力なアプローチとして、下地や丸山、デリダの否定神学的正義論を取り扱ってきた。そして既に、否定神学的正義論は相対主義を乗り越えていないと結論付けるに至った。それでは別なる道があるのか。今やわれわれは、これまでとはやや異なった視角から切り込んでみる必要がある。われわれに新たな導きの糸を与えてくれるのは、戦後思想界の巨人、吉本隆明である。吉本は、その著述活動の初期から、「思想の相対性」について極めて尖鋭な考察を加えていた。われわれは彼の議論をやや詳しく検討することによって、否定神学的正義論とは別の道について有意義な模索をなすことができるであろう。そのためにはまず、吉本の思索について検討した大澤真幸による論考*1を手がかりに、吉本の可能性の中心に触れるための前提を押さえておかなくてはならない。

 

大澤は、いわゆる「ポストモダニズム」に特徴的とされる「普遍的な妥当性を要求する価値や規範の虚妄を暴きだし、理性の普遍性を懐疑する」ような態度は、モダニズムに由来するものであり、その変種にすぎないと述べる。モダニズムは、「伝統的な価値や規範が、それぞれのローカルな共同体に根ざす特殊性にほかならないことを認識し」、それらを相対化する。このような立場からは「実質的な規範を与えることを断念」せざるを得ないため(正義をポジティブに根拠付けることができないため)、「主として、普遍的に妥当する規範(正義)を構成するための形式的な手続きを定式化することに力を注ぐ」ことになる。大澤は、モダニズムのこうした形式的規範的態度を、吉本が言う「世界視線」、すなわち「内在的で経験的な世界の内のあらゆる局所に対して等しい距離をとり、それらを一挙に観望する」視線に仮託し、世界視線の帰属点が現前し得ないのと同様に、経験の超越的準拠点が現れ得ないことがモダンの特質だと結論付ける。大澤によれば、モダニズムとポストモダニズムの差異とは、この前提の下に、超越的な準拠点が否定的にせよ「存在している」という面と、とにかく現前し得ないという面、いずれをより強調するかという違いにすぎない。

 

大澤の整理に従えば、正義の否定的「存在」を主張するデリダはモダニストに分類されそうであるが、われわれがたどって来た文脈からすれば、そうした分類はミスリーディングである。デリダが主張する正義とは、いずれの立場からも等距離を取る形式的な「無立場」のことではなかった。そうした「無立場」はむしろケルゼン的相対主義に近い。むしろ形式性や一般性を超えて、個別のケースに対応してその度毎に法を創設するような正義こそがデリダ的正義である。したがって、われわれの文脈に合わせて大澤の整理をやや恣意的に修正して用いることにしよう。

 

すなわち、モダニストとは超越的な価値(神、正義)の実在を否定した上で、ローカル=相対的な諸価値・諸立場に対して等しく距離を取る中立的手続きの普遍的妥当性を主張する者たちであった。これに対して、モダニストが中立的かつ普遍的だと称する社会の枠組みや手続きそのものが、レイシズム、男性中心主義、西洋中心主義、人間中心主義など様々な面において極めて恣意的=政治的な性格を帯びていたことを暴露したのがポストモダニストたちである。ポストモダニズムによる一連の作業は、公には超越的な地位が空席であると述べ立てておきながら実際にはその席にローカルな価値を密かに座らせていたモダニズムのダブルスタンダードを暴き、完全なる空席を求めるものだったと言える。こうした一般的ポストモダニズムの作業を踏まえて有力になってくるのがデリダに代表される否定神学的正義論である。否定神学的正義論は、超越的準拠=神=全き正義の完全なる空席、すなわち現前不可能性を強調しながらも、敢えてその「存在」を重視する点で、いわば再帰的なモダニズムの一種と捉えることができる。しかしながら、後述するように、大澤は否定神学的正義論に近しく見えるものを吉本の議論に見出し、それを「真の<ポストモダン>」なるものに対応させてしまう。この点においても、大澤の整理はミスリーディングと言わざるを得ない。

 

少し解りにくくなってきたかもしれない。ここで大澤が吉本に見出す可能性を見ていく必要がある。それは、端的に言えば、「不在において存在する」ような超越的他者ではなく、「具体的な生々しさにおいて現れる」他者への「感応」による普遍的妥当性への接続、という可能性である。吉本の議論にそのように読める部分があることは確かであり、その検討は後述することにするが、ここで大澤が吉本に見出す「真の<ポストモダン>」とはデリダの、あるいはエマニュエル・レヴィナスの正義論や責任論と基本的に同質のものである。一般的・形式的な手続きによって各個人を均質的に扱うのではなく、個別的・具体的な事情に合わせて応答(≒感応)していかなければならない、という立場こそデリダ(=レヴィナス)的正義であることをわれわれは既に見てきた。(ナイーブな)モダニズムにおける「不在において存在する」正義とは、普遍的であると僭称されたローカルな価値にすぎない。手続きは形式的であり空虚ではあるが、不在であるわけではない。デリダが言う「不在において存在する」正義とは、「不可能なもの」にほかならない。それは形式的であることを意味せず、むしろ具体的であることを要求する。したがって、多少ややこしいけれども、大澤が吉本に見出す可能性とはとどのつまり否定神学的正義論とほとんど一致すると見てよい。

 

さて、前振りが長びき過ぎた。ひとまず押さえておきたい点は、吉本の議論には確かに否定神学的正義論的に読める面があるということである。それは、大澤が繰り返し参照している吉本の宮沢賢治論からまずは明らかになる。自然、それは宮沢賢治のストーリーそのものに一定の否定神学性が認められるということでもある。「銀河鉄道の夜」の主人公ジョバンニは、同乗者たちのローカルな「神さま」を否定し「たったひとりのほんとうのほんとうの神さま」の存在を信じて疑わないが、それはどんな神さまかと問われれば「ぼくほんとうはよく知りません」と答えざるを得ない。さらに、「きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く」「みんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない」と普遍的絶対的正義への渇望がジョバンニによって繰り返し述べられるにもかかわらず、「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」という問いに対しては、やはり「僕わからない」との答えしか与えられない。そこでは、殉じられるべき絶対的正義の内容が知られていない(予測不可能である)わけだ。

 

同じ否定神学性は「グスコーブドリの伝記」にも見られる。主人公ブドリは、やはりみんなの幸せのために自らの命を犠牲にして自爆する道を選ぶ。そこでの幸せとは凶作の予防であるから決して予測不可能ではないが、自己犠牲によって共同体全体を救う行為は紛れもなく自らのなし得る以上のことであり、不可能なものの経験、決定不可能なことを決定する狂気=正義にほかならない。このブドリの最後について吉本が加えている考察こそ、大澤が注目した部分であり、われわれも無視することができない部分である。吉本は、物語の最後においてブドリの身体はイーハトーヴという人工都市と同化したと見做し、これを、「善い行いはその極限で、人間の身体を粉末にし、いわば<察知の気体>に化することができ、この気体は瞬時に時間や空間の制約を超えて他者の<察知>に感応できる」という宮沢のユートピア理念の表れと解する*2。それ自体では難解なこの箇所を、デリダの議論を経てきたわれわれは比較的容易に理解することができるはずである。極限的善とは正義であり、「察知」とは言わば他者への「応答」である。身体が気化するという表現は、なし得ないことをなす、正義の性質を伝えるための隠喩にほかならない。

 

吉本はここで宮沢の理念について述べているにすぎない。それにもかかわらず、大澤が吉本に否定神学的正義論に近しい理論的可能性を見出そうとする作業に説得力があるのは、吉本がその最初期の「マチウ書試論」において「思想の相対性」に「関係の絶対性」を対置したことが前提にあるからである。大澤は、「関係」を「現前する他者との関係」(「対幻想」)と解することによって、吉本をいわば(結果的に)デリダ=レヴィナス的に解釈したのである。それは一つの、有力な解釈ではある。しかし、吉本の真価は否定神学的正義論に還元可能な部分にあるのではない。確かにそのようにも読めるが、そのように読んでしまっては、ある意味で吉本の仕事は台無しになってしまうのである。私は、大澤とは別様に吉本を読んでみたい。その場合のポイントもまた、「関係の絶対性」である。

 

思想の相対性と関係の絶対性

 

「マチウ書試論」を読もう。一般的には、この作品は「思想の相対性」を超える普遍的妥当性を「関係の絶対性」に求めたものとされる。その論理の核心は以下に集約される。

 

 だが、人間と人間との関係が強いる絶対的な情況のなかにあってマチウの作者は、「それなのに諸君は予言者である私を迫害しているではないか。」と主張しているのである。これは、意志による人間の自由な撰択というものを、絶対的なものであるかのように誤認している律法学者やパリサイ派には通じない。関係を意識しない思想など幻にすぎないのである。それゆえ、パリサイ派は、「きみは予言者ではない。暴徒であり、破壊者だ。」とこたえればこたえられたのであり、この答えは、人間と人間との関係の絶対性という要素を含まないいかなる立場からも正しいと言うよりほかはないのだ。秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。*3

 

吉本によれば、秩序に加担する思想はその内容に関わらず、関係性によって常に秩序からの疎外者への迫害に加担することになる。それは人間の自由意志によらず、関係の絶対性によって決まってしまうものである。これに対して、秩序への反逆は、現に秩序から疎外され、秩序に加担していないという関係の絶対性によって「倫理」に結び付くのである。ここでの「倫理」とは、思想の相対性を超える普遍的妥当性と考えられるのが一般的であろう。大澤もそのように読む。

 

しかしながら、吉本の主張をそのように読むとすれば、当然にこのような疑問が抱かれはしないだろうか。秩序からの疎外者による秩序への反逆が「倫理」に結び付くというのは、それ自体既に何らかの(相対的な)思想に基づいた考えではないのか、と。秩序の外部に追いやられた「他者」に対して何らかの応答をなさねばならない、彼らの反逆は絶対的に倫理に結び付く、といった主張はデリダ(=レヴィナス)的に読むことが可能だが、ここで秩序から迫害を受けていることを問題視する視点自体が既に相対的でしかない。吉本は相対性に相対性を対置するようなトートロジーを犯したのだろうか。もしそうであるならば、「マチウ書試論」を読む価値など無に等しい。われわれはここで「マチウ書試論」の別の読み方に気付くべきである。そもそもこの作品で言われる「思想の相対性」とは一般的な意味でのそれに還元しきれるものではないのだ。

 

マチウ書において、律法学者とパリサイ派は「大きな護符をみにつけ、衣服に長いふさをつけ、宴会では第一席を、教会では第一座を愛する」として攻撃される。これに対して吉本は「抑圧された思想や人間には、いつもこのように秩序が受感される」と述べ、「構成された秩序を支点として展開される、思想と思想との対立の型は、どれほど幼稚に見えようとも、これ以外の型をとることはない」とする。「キリスト教と言えども、秩序と和解したとき、やはり衣服に長いふさをつけ、宴会では第一席を、教会では第一座をあいした」のである。われわれは、それ程注意せずとも、ここで問題にされている「相対性」が、一般的に言われるような、究極的な正当化根拠を持たないという意味ではないことを理解する。吉本が「ここで提出しているほんとうの問題は、現実の秩序のなかで、人間の存在が、どのような相対性のまえにさらされねばならないかという点にある」。吉本が抉り出そうとしている「思想の相対性」とは、思想の思想に対する相対性や思想それ自体としての相対性(だけ)ではなく、思想の現実に対する相対性なのである。この点を掘り下げるべく、次にわれわれは「丸山真男論」に取り組もう。

 

「丸山真男論」の中で吉本は、「思想によって知識人であった」丸山を「生活によって大衆であったもの」に対置することで批判している。結論を先取りして言えば、この「生活」こそ「関係」と同義に読まれなければならないのである。吉本は終戦時、「怒るかわりに、すべてはおためごかしではないか、という皮肉と支配者拒否の様式をかいまみせた」大衆に「絶望的なイメージ」を見た。だが、丸山のような「進歩派」や「コミュニスト」たちはそれを見たはずであるのに、それについて述べることはない。丸山たちが理解しなかったのは、「大衆はそれ自体として生きている」ということである。「天皇制によってでもなく、理念によってでもなく、それ自体として生きている」大衆のイメージを理解せず、「虚構の極限」からしか大衆を捉え得ない丸山は、「支配ヒエラルキーが思想的に天皇制から、ブルジョワ民主主義に変った(あるいは変りつつある)から、大衆的な課題は、民主主義の擁護または確立にあるといった仮構のイメージで捉えることになる」。思想が右から左へ動けば、大衆も右から左へ(あるいは左から右へ)動くものだ/べきだという態度を採ること。それは、思想や理念以前にそれ自体として生きている、生活を営んでいる大衆の原像を見失うことを意味している。

 

「中和的なもの、あいまいなもの、論理により整序できないもの、感覚的なもの、本能的なもの」への「丸山の嫌悪」を遡ると「それ自体の生活者である大衆にたいする嫌悪」へと行き着く。それは虚構の極限からのみ現実を照射する丸山にとって必然に思える。丸山や、丸山と否定神学性を共有する左翼・進歩派にとっては、常に思想や正義がまず先にある。だが、その思想=正義は現実=生活に臨んで相対的でしかない、そう吉本は言っているのだ。

 

再び「マチウ書試論」の言葉を借りれば、「現実の秩序のなかで生きねばならない人間」にとって、「思想などは、決して人間の生の意味づけを保証しやしない」のである。われわれは思想に生きる前にまず生活に生きる。思想を必要としない者はいくらでも居るが、生活を必要としない者は居ない。それゆえ思想は相対的なのであり、生活=関係は絶対的なのである。吉本の「大衆の原像」論は、一般的に受容されているように、エリートや知識人に大衆を対置するものとして読まれるべきではない。それは思想によって生きると錯覚する者に対して、生活によって生きざるを得ない人間の原像を突きつけるものである。知識人もまた生活を避け得ないのであるから、「原像」を否定することは自らの足場を切り崩すことにほかならない。また、エリートや知識人に属さないような者であっても思想に殉ずることは可能であるから、思想に生活を対置することとエリート・知識人に大衆を対置することは同じではない(さらに言えば、「生活」に密着することを旨とする「思想」もある)。

 

ここで「関係の絶対性」の意味を捉え直そう。「構成された秩序を支点」とする秩序の加担者と疎外者との対立は、現実的=生活的な関係にほかならない。そこでは思想の内容は問題ではなく、ただ「衣服に長いふさをつけ」られるか否かだけが全てであるような関係がある。思想の対立がそのような卑俗な対立に「堕する」のは、人が思想の前に生活=関係を生きるからである。とすれば、ここで秩序に対する反逆が結び付き得る「倫理」とは何であるのか。論理構成上、それは思想ではありえない。それは思想に裏付けされた規範や正義という意味での「倫理」とは別種の、もっと他の何か、より生の、要求を根拠付ける、あるいはおそらくより正確に言えば、要求を「理由付ける」何かである。それは、自らがこれこれの関係=生活にあるという事実それ自体を根拠/理由として何らかの要求を実現すべきであるとするような何か、言わば規範と事実のあいだの隙間にあって自らを主張するものである。それを具体的にどう構成するかは大きな課題として残されているが、この論考はそろそろまとめに入らなければならない。

 

エゴイズムの正義論

 

生活は思想に先立つ。この点を既に確認した。それは、計算可能なもの、利用可能なものこそがまずあるということである。このことは生活が出発点であることを意味するだけではなく、同時に終着点であり、目的でもあることを意味する。

 

一般に、人は思想を目的として生きるのではない。人が何らかの思想、あるいは正義を要求するのは、それによって自らの生や生活をより良くするため、保障するためである。正義それ自体から主観的利益を得る人がいないとは言わないが、そうした効用は一般化できるものではない。人は自らの「力」とするべく正義を要求する。人は正義それ自体を目的とはしない。すなわち、正義は手段である。したがって、思想ではなく生活によって生きる者にとって、全き正義などといった計算/予測/想定不可能なものははじめから視野には入らない。ここにおいて、言わば「正義主義者」の主張と現実とのズレが生じてくるのである。例えば、下地は以下のように述べていた。

 

 先に述べたように、人の生を無前提に肯定するという公理を拒否する人もいるだろう。しかし、この公理を拒否することは、その人自身の生きる条件を支える論理的根拠も同時に拒否することになるだろう。その人が生きられる条件が確保されるのは、社会がそのようにすべきだからではなく、単なる偶然であると位置づけなければならない。だから、それを奪われたとしても、それを残念だとか悲しいとかは言えるとしても、それを不正だと言う根拠は存在しない。それを甘受するならば、公理を承認するかどうかはその人の選択である。その意味で、この公理を受け入れるか否かは、正義と呼びうるものが存在するかどうかの臨界点である。*4

 

われわれは論理によって生きているわけではない。われわれは「不正だ」と言いたいがために正義を要求するのではない。建前はともかく、力を得るために正義を要求し利用するのだから、自らに都合のいい不正には目をつむることもあるし、「不正だ」と言うことに現実的な意味がなければ別の手段を考える。われわれの生が奪われようとするその瞬間に、正義は役に立ってはくれない。その意味で正義は相対的であり、力は絶対的である。それは望ましいかどうかとは別のことであり、現実に生きるわれわれにとって避け得ないことだ。

 

正義は手段として、生のままの力を補うことで初めて意義を持つ。正義=規範をただそれだけで振りかざしていても、力=事実による裏付けがなければ、宙に浮いているだけで意味をなさない。したがって、われわれは規範を裏付けている事実の配置と推移に敏感でいなくてはならない。他方、事実を生のままで受け入れてしまっては、所与の力関係を動かすことができず、自らの力を増して生活をより良くすることはできない。ゆえにわれわれは規範を手段として必要とする。必要な規範を事実に基づき成立させ、事実=力によって支えるのである。そしてこうした規範によっては十分ではない地平において、われわれは新たな「倫理」を必要とするだろう。「関係の絶対性」に基づいた「倫理」を。

 

かつて私は正義を必要としないことで「降りている」(つまり上記の公理を拒否している)と見做されたことがあるが、今や抵抗すべきであるのはこの二元論である。すなわち、正義に臨んで、人はそれを要求する=引き受けるか、放棄する=降りるか、いずれかであるという一見尖鋭な二者択一には問題の核心は無いのだ。相対主義を否定することは不可能であると私は考える。それゆえ規範は常に不安定である。究極的に正当な根拠を持たないという意味と、あくまで手段的であるという意味の二重において。いかなる時も、われわれはこの前提の上で規範を利用しなければならない。この目的‐手段関係を手放せば、我々はすぐさま狂気や幽霊にとりつかれて得体の知れない何者かに自己を譲り渡すことになってしまうだろう。そして、従来の規範を超えて、更なる力を手にするためには、規範と事実のあいだ、その隙間に潜む可能性を追求する必要がある。

 

(完)

 

思想のケミストリー

思想のケミストリー

 

ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

 

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

 

柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

*1:大澤真幸[2005]「<ポストモダニスト>吉本隆明」『思想のケミストリー』紀伊国屋書店。

*2:吉本隆明[2003]「人工都市論」『ハイ・イメージ論Ⅰ』ちくま学芸文庫、195頁。強調は原文。

*3:吉本隆明[1972]「マチウ書試論」『現代の文学25 吉本隆明』講談社、336頁。傍点強調を太字に改変。

*4:下地[2006]221頁。

正義の臨界を超えて(2)

 

この記事は「神と正義について・4」「神と正義について・5」「神と正義について・6」を素材として加筆・修正を施したものです。

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政治的なるものの消去不可能性

丸山は、一面では現行秩序の擁護者であった。それは、丸山が誰であれ秩序の破壊者に対しては政治的に振舞ったということでもある。ここで言う「政治的」とは、「友・敵関係」としての対立としての性格を帯びることを意味する*1。いかなる民主主義者も、リベラリストも、自らが支持するところの自由で開かれた社会を破壊する者に対しては、政治的に振舞わざるを得ない。

 

例えば、憲法学者の長谷部恭男は、価値多元主義に基づくリベラルな立憲民主制においては、公私の分離などを要求することで国家はそれぞれの価値に対して中立的に振舞うことが可能であり、比較不能な諸価値を共存させることができると主張する。しかし、同時に長谷部は、自身が支持するリベラリズムは、こうした多元的価値の共存が可能となるような社会の破壊者を断固として排除するものであるとの意思を明確にする。

 

 これに反して、さまざまな文化、さまざまな善の観念が共存し、競合する社会のあり方自体を否定しようとする思想に対してリベラリズムが中立的でありえないのは当然のことである。多様な善の観念の間になお社会的協働の余地を確保しようとする限り、ロールズのいう「政治的」領域を保障する必要性は、社会の中に生きるいかなる個別の思想に対しても優越する。リベラルな民主社会を破壊しようとする思想に対してリベラリズムが差別的な態度をとるのは、この政治的領域を確保する公共的必要に由来するのであって、何らかの特定の善の観念を執行するためではない。リベラリズムは、そのような思想の唱道に対しても、それが明白で差し迫った危険をもたらさない限りは寛容であろうとするであろうが、ある思想に対する寛容とその積極的是認との間には、明白な違いがある。*2

 

以上は、多様性を尊重する者は多様性を否定する者も尊重するか、という問いへの簡潔な回答となっている*3。長谷部が言う「政治的」とは「善」に対する「正」、すなわち「公共的」を意味する。だが、その価値を共有しない外部者が存在する限り、それは真の意味での「公共的」ではなく、「私的」あるいは「共同体的」にすぎない。すなわち、リベラルな民主社会を生きる「友」たちにとっては、そうした社会の破壊者たちは「敵」、徹底的に叩き潰すべき「敵」となる。諸価値に対して中立的に振舞おうとするリベラル・デモクラシーの擁護者もまた、一群の「敵」に対しては政治的に振舞わざるを得ない。その「敵」がしばしば指摘されるようにイスラームなのか、そうでないのかはここでは問題ではない。そうした「敵」はいつでも想定し得る。想定し得る限り、いかに自由で開かれた民主社会においても政治的なるものは消去できないのである。

 

政治的なるものは、メンバー選択においても現れる。既に見た論文で下地が述べるように、「メンバー選択の問題は究極的には恣意的でしかありえない」。国境から自宅の扉に至るまで、我々はそれを他者に対して無限に開いておくことはできない。そうである以上、われわれは共に「われわれ」たり得る共同体のメンバーを選ぶのである。それは潜在的に、あるいは直接的に、友と敵を分かつ政治的行為以外の何ものでもない。しかし、それは正義だろうか。友と敵を分かつことは正義だろうか。究極的に正当な根拠もなく、誰かをメンバーから排除することは正義だろうか。また、たとえ秩序の破壊者とはいえ、暴力を以て彼を鎮圧し断罪することは正義だろうか。もちろん、それは正義ではない。少なくとも否定神学的正義論が志向する彼岸的正義ではない。正義は暴力を拒む。政治とは暴力を以て敵から友の利益を守る営為にほかならない。政治は正義ではない。彼岸的正義は政治的なるものが消去された果てに現れる。それゆえ、永遠に現れない。

 

否定神学的正義論は、その構造上、政治的なるものの消去を究極目標に据えなければならないはずである。究極的な正義の名に値するのは、無際限かつ無血の正義のみであるから、正義は個別の共同体や暴力を決して伴わない。したがって、こうした正義に向かって漸進する否定神学的正義論は、メンバー選択の恣意性についての修正可能性に開かれていなくてはならない。しかし、振り返ってみると、先に検討した下地による批判的合理主義の正義論は、この要件を満たしていないようにも見える。下地は、メンバー選択についても異議申し立てによって無限の修正可能性を確保できるかのように述べているが、実はそこには修正不可能な枠が存在している。それは、まさにその合理主義、論理的反証の重視によって生み出される。

 

下地によれば、現行の正義への異議申し立ては無批判に受け入れられるべきものではなく、論理的な妥当性の争いを経て承認される。だが、そうした論理的整合性をめぐる争いそのものが、非政治的ではいられないであろう。たとえ論理的整合性自体は非政治的であり得る(客観的に判断可能である)と仮定するとしても、実際に整合性を判断し争いに決着をつけるのが、様々な政治的思惑を有するとともに必ずしも論理だけに動かされるわけではない現実の人間(メンバー)達である以上、異議申し立てが承認されるかどうかは政治的性格を帯びざるを得ない。専門家の判断においてはもちろん、民主的手続きにおいては尚更である。特にメンバー選択のような尖鋭な問題ならば、決して政治性は拭えない。新たなメンバーの異議申し立てに応えるかどうかを決めるのは、既存のメンバーの特権なのだ。こうした修正プロセス自体が持つ政治性を看過することはできまい。

 

また、以上の点は現実適用上の問題であって理論上の問題ではないと反論されるのであれば(私はそう思わないが)、もう一点付け加えておこう。批判的合理主義は論理的であることを重視するあまり、論理的反証をなし得ない者のメンバー参入を絶対的に拒んでいるのではないか?そもそも論理=言語を用いることができない者、あるいは言語は用いることができても論理的であり得ない者、そしてその上代弁をしてもらうことも不可能な者たちの異議申し立ての可能性を理論的に排除しているのではないか?これは無限の修正可能性を標榜する否定神学的正義論においては致命的な、修正不可能な枠の設置を意味しているように思える。もちろん、そもそも批判的合理主義の正義論は否定神学的正義論などではない、と言われればそれまでであるが。

 

やはり我々はデリダの議論を詳しく見る必要がある。そこではより洗練された否定神学的正義論が展開されており、批判的合理主義が押し流してしまっているように見える者たちのことも視野に入れられているからだ。デリダは徹底して政治的なるものが消去された地点を指し示す(もちろんそれは実現し得ないので指し示すだけであるが)。どうやら、そろそろ彼を訪れるべき段階までたどり着いたようである。

 

来たるべき民主主義

 

デリダは、主に講演やインタビューにおいて、自身の否定神学的正義論を丁寧に展開してくれている(デリダ自身が自らの主張は否定神学には還元されないと言っていることはこの際無視してよい)。まず、再三確認している否定神学的正義論の特徴の①現行秩序の暫定的・限定的承認について、デリダは以下のように明言している。

 

あの名指しようのない暴力の暴発のなかで、ふたつの陣営のどちらかに味方しなければならず、二元的な状況で選択をしなければならないのだとしたら、仕方ありません、そうしましょう。(中略)ですが、それにもかかわらず、改善可能性へ開かれたパースペクティヴを、「政治的」なもの、デモクラシー、国際法、国際機関、等々の名において、原理的に法の権限で残しておく陣営の側に私は立つでしょう。*4

 

ここで、デリダは丸山同様、一面では秩序の擁護者として振舞うことを宣言している。それは現実的には、ケルゼンや長谷部とともにリベラル・デモクラシーに対する攻撃者を粉砕する側に参与するという表明でもある。しかしその後に続く②と③、正義の不可能性の確認と不可能な正義への漸進についての議論こそ、デリダの本領である。丸山において永久革命の対象とされた民主主義は、デリダにおいては「来たるべき民主主義」と呼ばれる。それは、「いつの日か「現前的=現在的」となるような未来の」民主主義のことではなく、「現在〔現前的なもの〕のなかには絶対に現実存在しない」ような「不可能事」である*5。そして、「この不可能の可能性を信じる」ことこそデリダの主張の核心なのである*6

 

「来たるべき民主主義」が不可能であるのは、無条件の歓待や無限の責任、純粋な贈与が不可能であるのと同様である。歓待において、我々は条件付きの歓待しかなし得ない。予想もせず、招待もしていない、全き他者の無制限の訪問を我々は歓待することができない。我々は身の危険を覚え、恐怖を感じ、扉を閉ざさざるを得ない。「実際には、無条件な歓待を生きることは不可能」なのである*7。我々は歓待し得る者だけを歓待するのだ。これは責任や贈与においても同じである。我々は可能な範囲で責任を負うのであり、与え得るものを与えるのである。可能なことのみをなし得る我々の歓待は常に条件付きであり、責任は有限であり、贈与は交換の性格を帯びる。しかし、それにもかかわらず、無条件の歓待や無限の責任、純粋な贈与といった観念を捨てることはできないとデリダは言う。

 

なぜか。まず、無条件の、無限の、純粋なそれとしての観念なしには、条件付きの、有限の、純粋でないそれという観念は持ち得ないからである。これが一つの「パラドクス」、「アポリア」である。我々はこうした不可能事を不可能であるにもかかわらず捨て去ることができない。そして、デリダによれば、真の決定とはアポリアの経験なしではありえない。すなわち、正義とはアポリアの、「不可能なものの経験」なのである*8。換言すれば、なし得ないことをなすこと、それが正義である。

 

もう少し詳しく見よう。決定において、既に存在する「ある規則を適用すること」、それは単に「計算」にすぎず、そこでは決定は行われていない*9。合法的な決定とはすべからくこうした行為にほかならないが、既にある一般的規則をただ自動的に個別のケースへ適用するとき、「裁判官は計算する機械である」にすぎない*10。個別の事例が固有性を伴って扱われなければ、そこに正義は存在していないのだ。したがって、決定が決定であり、正義に適うためには、裁判官は一般的規則に従いつつ、個別事例に応じた再設定的な現実的解釈行為によって、規則を新たに発明するかのように決定しなければならない。固有のケースは固有のものとして扱われなければならない。それが正義である。

 

したがって、正義に適う決定は予測不可能かつ計算不可能なものである。もし予測可能であったり、計算可能であったりするとすれば、それは決定ではない。「私が行い決定していることがたんに私の決定できるものや私の可能性に属しているものだとすれば、これが私のなかにあるとすれば、それは決定ではない」*11。歓待し得る者を歓待することが歓待でないように、与え得るものを与えることが贈与でないように、決定し得ることを決定することは決定ではない。「来たるべきもの」は「予期されざる来客」なのであり、前もって知ること、見ること、予測すること、勘定に入れることはできないのである*12

 

ここまでで既にデリダの正義論の骨格は記述し得たと思う。確認しておけば、正義とは現在なし得ることの外にあるものであり、決定とは自らが決定し得ることの外にあるもの(他者の決定)である。同じことを、自己の可能態の外にある何か/何者か、すなわち他者(あるいは、「幽霊」)への応答こそが正義なのである、と言うこともできよう。冒頭で確認したように、デリダは現にある法や民主主義をひとまず肯定する。それは十分ではないが、「何もないよりはまし」である*13。その上で、「正しくありたいならば、法を改善しなければならない」*14。民主主義とは、「異議申し立てされる可能性、自分自身に異議を申し立てる可能性、自分自身を批判し無際限に改良する可能性を歓迎する唯一の概念」なのであり、その修正可能性こそが正義への道なき道を開く*15。脱構築とは法の改良であり、「脱構築しえない」正義とは、その完成にほかならない*16。そして、我々は「この完成可能性への欲望」を持っているとされるのである*17

 

正義の完成とは、政治的なるものの消去を意味する。政治的なるものの消去に向けた現行秩序の修正可能性についてのパースペクティブにおいて、デリダは下地よりも徹底的である。少なくとも理論的レベルにおいては、彼は「非‐人間的な存在者」にも目配りを欠かしていないように見える*18。このように周到に展開されているデリダの正義論を前にして、われわれは大いに説得力を感じることを率直に認めざるを得ない。しかしながら、その主張を繰り返し吟味するならば、幾つかの疑問が抱かれてくる。そこで以下では、デリダの正義論に対する疑問点を挙げながら議論を進め、そこから否定神学的正義論そのものの妥当性を検討していくことにしよう。

 

正義=神=幽霊のとりつき

 

まずデリダが述べるアポリアの経験、すなわち無条件の歓待を想定することなしには条件付きの歓待を知ることはできない、という論理は詭弁にすぎないのではなかろうか。我々にとって歓待ははじめから条件付きであり、責任は有限であり、贈与は何らかの交換である。こうした可能なものがまずあったのであり、これらの「本来形」としての不可能なものは後から考えられた観念やイメージにすぎない。我々は完全なるものから不完全なるものを演繹したのではないから、完全なるものを想定することなしに不完全なるものを考えることは十分に可能である。そうであれば、全き正義の想定と現行の正義や秩序との結び付きは必然的ではないことになる。

 

このように、われわれにとっては可能なものが全てであると言ってよいのだが、デリダは自己の可能態=現実態の外にある何か(不可能なもの=他者)に近づき、ある意味で同化することが必要だとする。こうして自己の可能性を超える正体不明の他者に身を委ねる行いを、19世紀ドイツの哲学者マックス・シュティルナー流に言い換えれば、「精神」(Geist)にとりつかれることにほかならない。シュティルナーによれば「精神」とは神や人間や国家など、個体を超える普遍性を持つとされる観念たちである。シュティルナーは「精神」の神聖視を批判するが、それを非聖化して自己のために利用可能にすることを積極的に認めている。しかしながら、デリダ的な正義とは計算不可能=予測不可能=利用不可能なものであるから、それは利用することができない「聖なる精神」=幽霊であることになる。幽霊にとりつかれる時、シュティルナーの言う「自己性」(利己的目的意識)は失われ、決定は狂気に委ねられることになる。それゆえ、正義とは幽霊であると同時に、(「自己性」の維持を許さないという意味で)非エゴイスト的である。比喩的意味ではなく、ここにおいて明白に、正義は神の、唯一神の別の名である。

 

この帰結は否定神学があくまでも神学である限り当然と言えば当然だが、明確に神の「存在」を主張する一派を前にして我々はやはり問わねばならない。あなた達が信奉する神は普遍的なたった一人の本当の神などではなく、ローカルな神にすぎないのではないか、と。デリダの正義=神は無際限かつ無血においてのみ現れる普遍的正義であり、定義上そのような完全なものとしてしか想定してはならない。したがって、この正義は誰にとっても何者にとっても、いつどこでも、どんな場合でも妥当する正義であることになる。しかしながら、そのような正義を想定し得るだろうか。それは不可能ではないか。ここで不可能と言うのは、それが現実的に不可能であり現前不可能であるというだけでなく、原理的に、それを想定することも不可能な、いかなる意味でも「在り」得ない、という意味である。無際限であること自体を望まない者もいる。無血であること自体を望まない者もいる。誰にとっても、何者にとっても、いつどこでも、どんな場合でも妥当する正義とは一体如何なるものであるのか、私には全く分からないし、予想がつかない。

 

もちろん、このような予測不可能性こそ全き正義の特徴であった。だが、素朴に思う。想定し得ないものを想定しておくことに果たしてどれほどの積極的意味があるのだろう。むしろその隙間、想定不可能性という一種の隙間は、無用の神秘性やローカルかつ政治的なイデオロギーなどを呼び込んでしまう弊害を生むだけではないのか。この点について東浩紀は、デリダ派の理論と実践、いわば全き正義と現行の正義との間にある「理論的に支えられないその飛躍の「穴」を埋めるためにこそ、素朴なイデオロギー、主体や共同体の経験主義的な肯定が再来しうる」と述べる*19。こうした可能性は、正体不明であるがゆえに結局どのようにも解釈し得る全き正義の名の下に、ローカルな正義が正当化される事態の頻出を危惧させる。振り返ってみれば、下地による批判的合理主義の正義論では、全き正義へと向かう現行正義の修正可能性が何よりも重視されるが、その修正過程自体が極めて政治的であった。そうである以上、結果的には正義の政治性や相対性の問題は何ら解決を見ていないと言えよう。

 

結局のところ、否定神学的正義論は相対主義を乗り越えられていないようだ。それにもかかわらず全き正義なるものを想定すること自体が、新たな暴力、あるいはその隠蔽を生むかもしれない。全き正義は現前し得ないが、もしそれが現前するならば、それは「神的暴力」の姿をとる。デリダによって唯一「正義にかなう」暴力であるとされた神的暴力は、法を破壊し、罪を取り去りながら、血の匂いをさせない*20。神的暴力に血の匂いがないのは、血が「生命のシンボル」だからである*21。生命なき幽霊=正義=神には血はそぐわない。私は、全き正義の名の下にローカルな正義が正当化される事態において、こうした神的暴力(まがい)が横行することになるのではないかと恐れる。そもそも神的暴力が血の匂いをさせないのは、正義=神の下に人々がみな狂気と盲目に冒されているからではないのか?そして狂人ならざる者(エゴイスト)はみな隠蔽/処理されるからではないのか?

 

民主主義というイシューに即して考えてみよう。先に、相対的民主主義においては自己決定権ができるだけ多く実現されることが良いことだと述べた。否定神学的正義論が目指す民主主義は、こうした量的な基準を乗り越えようとする。究極的には、自己決定権は一挙に、全てそのまま実現されるべきであるとされるだろう。だが、自己決定権が一挙に実現される事態とは、全ての人の選好と意志が一致する事態であって、その時、一切の個別性や差異は姿を消す。その時、それが一種の全体主義ではないと言い切ることはできない(強制・抑圧・洗脳・隠蔽などが無かったと言い切ることはできない)。当然それが全体主義であると露見した時点で、それは「真の民主主義」ではなかったことになる、とは言い得る。しかし、完全な一致を意味する「真の民主主義」が常に全体主義と紙一重であることは認めななければならない。それは全くもって不気味なもの、あまりに完全で、血の匂いもせず、汚れもないような存在であるがゆえに、とてつもなく不気味なものである。「真の民主主義」=来たるべき民主主義が実現する全き正義とは、こうした得体の知れない幽霊現象を意味している。

 

デリダ自身が述べているように、我々は「完成可能性への欲望」を持っている。全き正義なるものを想定しておくことによって、それがローカルな正義の隠れ蓑になり、「完成」を目指して醜悪な暴力が暴走することにはならないだろうか。私は幽霊を恐れる。より正確に言えば、得体の知れない幽霊の「存在」を強調することが生むかもしれない事態を恐れる。もちろん、否定神学的正義論が必然的に全体主義化を呼び込むかのような危惧はいささか過剰であるとしても、否定神学的正義論が結果的にローカルな正義による普遍性の僭称を許すことに少なからず寄与し得ることは確かである。そしてそれは、不完全な正義に対して全き正義を、神話的暴力に対して神的暴力を対置するような発想が必然的にはらむ危険なのである。正しい思想に従えば、正しい結果が得られる。そうしたイデオロギーへのナイーブな信頼が凶暴かつ醜悪な帰結を生んでしまう。我々は歴史にその実例を見ることができる。では、そうした帰結を避けるためには如何様な道が残されているのか。以降、われわれは否定神学的正義論と袂を分かち、別なる道を模索することにしよう。

 

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政治的なものの概念

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比較不能な価値の迷路―リベラル・デモクラシーの憲法理論

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テロルの時代と哲学の使命

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法の力 (叢書・ウニベルシタス)

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デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録

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存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

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暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

*1:カール・シュミット[1970]『政治的なものの概念』未来社。

*2:長谷部恭男[2000]『比較不能な価値の迷路』東京大学出版会、61‐62頁。

*3:同様の趣旨について、ハンス・ケルゼン[1975]46‐47頁を参照。

*4:ジョヴァンナ・ボッラドリ/ジャック・デリダ[2004]「自己免疫:現実的自殺と象徴的自殺」『テロルの時代と哲学の使命』岩波書店、174頁。

*5:同、184‐185頁。

*6:同、176頁。

*7:同、199頁。

*8:ジャック・デリダ[1999]『法の力』法政大学出版局、38頁。

*9:同、55頁。

*10:同、57頁。

*11:ジャック・デリダ[2005]『デリダ,脱構築を語る』岩波書店、71頁。

*12:同、77頁。なお、これが「メシア的なもの」と「メシア二ズム」の分岐点でもある。

*13:同、104頁。

*14:同。

*15:ボッラドリ/デリダ[2004]186頁。

*16:デリダ[1999]34頁。

*17:デリダ[2005]123頁。

*18:同、137頁以下。

*19:東浩紀[1998]『存在論的、郵便的』新潮社、104頁。

*20:ヴァルター・ベンヤミン[1969]「暴力批判論」『暴力批判論』晶文社、32頁。

*21:同、33頁。

正義の臨界を超えて(1)

 

この記事は「神と正義について・1」「神と正義について・2」「神と正義について・3」を素材として加筆・修正を施したものです。

相対主義的民主主義

 

思想はすべからく相対的であるゆえに、「神々の争い」は延々と続いて止む気配がない。しかしながら、このような世界でも神や正義について未だに真剣に考えている人々がいる。果たして思想の相対性を超える可能性は存在するのだろうか。ここでは、少し彼らの背中を追ってみたいと思う。

 

さしあたり、われわれが今立っている場所である相対主義を出発点としよう。例えば、代表的な価値相対主義者であるハンス・ケルゼンは、次のように述べている。

 

人知の歴史が、われわれに、何物かを教えることができるとすれば、それは、合理的な方法で、絶対的に有効な、正しい行動の規範、つまり、反対の行動も正しいものとする可能性をなくしてしまうような規範を発見しようという努力が空しいものである、ということである。もし、われわれが、過去の知的経験から、何物かを学ぶことができるとすれば、それは、人間の理性が、相対的な価値しかとらえることができないということ、つまり、何物かを正しいとする判断は、決して、それと反対の価値判断の可能性を排除する資格がない、ということである。*1

 

絶対的真理、絶対的価値の認識可能性を否定するケルゼンは、相対主義の立場から民主主義を帰結し、それを自らが支持する価値理念として選び採る。

 

 絶対的真理と絶対的価値とが、人間の認識にとって閉されているとみなす者は、自己の意見だけでなく、他人の反対の意見をも少なくとも可能であるとみなさければならない。この故に相対主義は民主主義思想が前提とする世界観である。デモクラシーは、あらゆる人の政治的意思を平等に尊重する。どんな政治的信念でも、どんな政治的意見でも、その表現が政治的意思でありさえすれば、同じように尊敬する。*2

 

あらゆる政治的意思を平等に尊重すると称する民主主義そのものが有する政治性(それはケルゼンが明確に認識し示唆しているところでもある)については後に検討するとして、ここで確認しておきたいことは次の点である。すなわち、以上のように相対主義から帰結され選び採られた民主主義は、必然的に多数決原理を良い=正しいと考える価値理念としての性格を帯びる。民主主義者は人々が自己決定によって自由を実現することを願う。だが、政治的共同体のメンバー全ての意見が平等に扱われねばならず、かつ全ての意見が一致することはおよそ想定し難い以上、民主主義者は「できるだけ多数の人間が自由である」ような仕方で満足しなければならない*3

 

ケルゼン的民主主義の立場―そしてそれは私も含めて現在多くの人々が共有する支配的な民主主義観でもある―を敷衍しよう。対等なメンバー間による討論と投票によって「人々の意見が対立する問題、しかも社会全体として統一した決定が要求される問題について、結論を出す」政治体制が民主政であり、そこでの決定方式としては平等な個人の自己決定権をできるだけ多く実現する多数決方式がしばしば用いられる*4。両者は形式上相互に独立のものだが、民主政が政治的権利の平等を基礎にしている以上、多数決原理との結びつきは必然的と言える。そして、全てのメンバーの参加可能性を確保した上で多様な政治的意見を平等に扱うために民主政を良いと考え、各個人の自己決定権をできるだけ多く実現するために多数決原理を良いと考える価値理念こそが民主主義にほかならない。したがって、民主主義にとっての正しさは主に、質的ではなく量的な基準(「できるだけ多く」)によって測られる。

 

ここまで明確に意識するかどうかは別にして、読者の多くも民主主義を概ねこのように捉え、これを支持するだろう*5。だが、同じように民主主義者を名乗りながらも、このような相対主義的民主主義観を共有しない人々が少なからず存在する。そのような人々にとっての民主主義は、相対主義的民主主義以上の何かであり、民主主義の正しさは量的ではなく質的なものに求められるだろう。おそらく彼らの民主主義観は、ケルゼン的な価値相対主義を拒むところから発している。それは、われわれにとって避けがたいものに思える相対主義を乗り越えて、何らかの正義の可能性を切り開こうとする立場である。

 

批判的合理主義の正義論

 

そうした試みの一例として、ここでは、下地真樹が提示している「批判的合理主義の正義論」を取り上げよう*6。下地は、世界にケルゼン的相対主義が蔓延していることをまずは認める。この世界においては、「私たちの主張はどこかで、究極的には正当化されえないドグマティックな主張に行き当たらざるをえない」ために、「論争は神々の争い」なのである。ケルゼン的相対主義において唯一成り立つ正義は、手続的正義と呼ばれるものであるが、この正義の下では「多くの人々が生命を奪われるようなどんな社会的決定も、それが適正な手続きにのっとって行われている限り、それを不正義という根拠はない」ことになる。下地はこうした手続的正義を「社会を批判する足場そのものを失」わせるものだとして退け、何らかの帰結主義的正義を欠くべからざることを主張する。

 

下地が提示する正義は、「社会のメンバー全員に対して、十全に生きられる状況を実現」することである。だが、下地によれば、これは正当化される必要がないものだという。この正義の正しさも、この正義が実現しているかどうかも、確証することはできない。我々には正しさを基礎づける究極の根拠は持ち得ないからである。それゆえ下地は、可謬主義に基づき、この正義を誤り得る仮説的なものとして捉える。それは誤りであるかもしれない、けれども、現に反証されるまでは暫定的に受け入れることができるものである。現行の正義の対象と内容、すなわち社会のメンバーリストと基底的潜在能力のリストに対して異議申し立てがなされ、その異議が合理的で妥当であるならば、従来の正義は修正される。現存する正義は誤り得るが、それが無限の修正可能性に開かれているゆえに、暫定的な正しさとして受け入れることができる。「社会は正しくあることはできないが、正しくあろうとすることはできる」。これが下地の主張する批判的合理主義からの正義論である。

 

以上の議論の構造を確認しよう。現行社会はひとまず受け入れられる、いや、引き受けられる。今ある法や制度は投げ出されることなく、だがあくまで暫定的なものとして承認される。ここにひとまず「正義」が成立する。不完全で、妥協的で、現実的かつ世俗的な「正義」が。しかしここから同時に、完全かつ無際限、理想的かつ彼岸的な正義への歩みが始まることとなる。「社会は正しくあることはできない」という言明に明確な通り、究極的な正義の実現は既に断念されている。だが、その究極的な正義、決して現前し得ない正義は、決して放棄されない。そうした彼岸的正義は、現行社会の絶えざる修正と改善によって近づいていくところの準拠点にあって永遠に光を放ち続けるのである。それこそ、究極的な意味での「社会を批判する足場」でもある。

 

このような構造を持つ正義論を、私は以後「否定神学的正義論」と呼びたい。否定神学とは、現前しない(不在の)神の存在を否定的言明(「神は~でない」)によって浮かび上がらせ、指し示す営為を意味する。批判的合理主義の正義論もまた、同様の構造を持つと言える。正義=神の現前可能性は否定されるが、それが「ある」ことは放棄されず、絶えざる反証=否定(「正義は~でない」「これは正義でない」)によって正義=神への近づきを得ようとする。もう一度確認しておけば、現行社会の暫定的承認と、無限の修正および改善可能性による彼岸的正義への漸進こそが、否定神学的正義論の特徴である。

 

私が、あるいはあまり厳密ではないかもしれないやり方で否定神学と非相対主義的な正義論とを結び付けるのは、これを拙速に批判するためではない。かといって、これを支持するためでもない。むしろこの立場に対してどのような態度を採るべきか、その吟味を行うことが第一の目的である。実際、この立場を安易に批判することはできない。実現が難しい理想を捨てることはせずに、現在地から少しずつそれに向かって歩んでいく、という姿勢は日常的に広く共有されているところであるからだ。後に述べるように、フランスの哲学者ジャック・デリダがこの立場を思想的に洗練化しているために、ますます反駁は難しくなっている。

 

さて、下地の議論についての違和感などは後に改めて述べることにして、ここでは、ひとまず否定神学的正義論の構造を押さえることで満足しておこう。否定神学的正義についてより深く知るためにはデリダの議論を参照する必要があるが、その前にやや寄り道をしておく。

 

民主主義の永久革命

 

まず立ち寄っておきたいのは、日本政治思想史家の丸山眞男の議論である。ここで丸山眞男の、それ自体としては正義論とは言い難い議論を取り扱うのは、下地の議論を通して見たような否定神学的正義論の構造が広い範囲で共有されていることを確認するためである。我々は、ただその構造を発見するだけのために西洋の難解な哲学者の書を紐解く必要はない。それは、日本の戦後政治学の中心において一貫して唱えられていたからだ。

 

いくつかの引用によって証明しよう。まず、1958年の講演をもとにした小論において、丸山はこう述べる*7

 

 民主主義というものは、人民が本来、制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。

 

これは丸山の一貫した主張であり、その後も繰り返し表明される。曰く、「民主主義の理念は、本来、政治の現実と反するパラドックスを含んでいるのであり」、「未来に向って不断に民主化への努力をつづけてゆくことにおいてのみ、辛うじて民主主義は新鮮な生命を保ってゆける」のである*8。そして、こうした認識を象徴的に表現するのが、有名な「永久革命」論である。

 

 もし主義について永久革命というものがあるとすれば、民主主義だけが永久革命の名に値する。なぜかというと、民主主義、つまり人民の支配ということは、これは永遠のパラドックスなんです。ルソーの言いぐさじゃないけれど、どんな時代になっても「支配」は少数の多数にたいする関係であって、「人民の支配」ということは、それ自体が逆説的なものだ。だからこそ、それはプロセスとして、運動としてだけ存在する。*9

 

 さきほどもいいましたように、民主主義というのは理念と運動と制度との三位一体で、制度はそのうちの一つにすぎない。理念と運動としての民主主義は、(中略)「永久革命」なんですね。*10

 

不断の民主化、永久革命としての民主主義、それは不可能な理想への漸進にほかならない。丸山は完全なものとしての民主主義は制度化されない、と言っているのだ。丸山にとって、制度化された民主主義――それはケルゼン的な相対主義的民主主義に基本的に等しい――は常に不完全であり、批判されるべきものである。しかし、周知のことながら丸山は秩序のやみくもな破壊を喜ばない。彼は「政治的プラグマティスト」として、秩序の破壊者に臨んでは常に既定の秩序や制度を擁護する側に回る。現行秩序をひとまず承認しながらも、その固定化を警戒し、不断の修正可能性に賭ける丸山は、紛れもなく否定神学的正義論の立場に姿を重ねる。丸山において、パラドックスとしての民主主義が完全に実現されるユートピアは否定されている、が、目指されている。そして、丸山は現前し得ないそうしたユートピアから逆に現実を捉え返し、批判的言論の根拠とするのである。

 

丸山のそうした方法的な面での否定神学性を早くから鋭く見抜いていたのは、丸山を誰よりも激烈に批判した吉本隆明であった。丸山はしばしば、近代西欧を理想化した上でそこから日本の未成熟性を批判する「欠如論」者であるとして批判を受けた。これに対して近年の丸山研究においては、丸山は現実の近代西欧を理想としたのではなく、その理念型やエートスとしての、しばしば現実の西欧諸国においても達成されていないような「近代」を批判の準拠点としたのだという指摘がなされることがある。そして、そのような丸山的「近代」の虚構性を吉本は1963年の「丸山真男論」において既に指摘していた。

 

 丸山「政治学」において重要なのは、対象の頂点に、虚構の極限(おそらくヘーゲル以後のドイツ観念論の方法でみられた幻想の「西欧」である)を設定し、その虚構の極限からくり出される規定によって、対象の構造を分析するという「方法」それ自体である。丸山のこの方法は、もしすべての「立場」というものを、対象と主体との現実的な交叉点にもとめるならば無「立場」とみえざるをえない。が、本質的には、虚構の極限に「立場」があるために、「方法」それ自体が「立場」と化しているものとかんがえることができる。丸山のある極限のイメージに、丸山の主体が交叉し、その虚構の地点に「立場」が描かれている。*11

 

「丸山が描いているようなイメージとしての「西欧」近代の文物などは、どこにも「実在」していない」*12。吉本のこの分析はおそらく当たっているだろう。丸山のこうした方法について、吉本は両義的である。「丸山真男論」においては、その方法としての鋭さが高く評価されつつ、それが不可避的に現実から遠ざかっていく点が問題にされていく。そこでの吉本の態度は、我々の正義についての探究に対して、後に大きな示唆を与えてくれるだろう。しかしながら、今は丸山眞男における否定神学性を確認しておくだけで次へ進むことにしよう。丸山を通して再度確認された否定神学的正義論の特徴は、①現行秩序の暫定的・限定的肯定、②全き正義実現の不可能性の確認、③現行秩序の恒久的是正義務の主張(全き正義の否定的保持)、として整理し得る。繰り返すように、このような構造を持つ議論の最も洗練された唱道者はデリダであるが、彼を訪れる前にもう一箇所だけ寄り道をすることを許して欲しい。

 

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デモクラシーの本質と価値 (岩波文庫)

デモクラシーの本質と価値 (岩波文庫)

 

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

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日本の思想 (岩波新書)

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丸山眞男集〈第8巻〉一九五九-一九六〇

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丸山眞男集〈第16巻〉雑纂

丸山眞男集〈第16巻〉雑纂

 

柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

*1:ハンス・ケルゼン[1975]「正義とは何か」『ケルゼン選集 第3巻』木鐸社、45頁。

*2:ケルゼン[1966]『デモクラシーの本質と価値』岩波文庫、131頁。傍点を省略。

*3:同、39頁。

*4:長谷部恭男[2004]『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、39頁。

*5:私自身の立場については、「利害関係者による討議と決定」第3章第2節を参照。

*6:下地真樹「批判的合理主義の正義論」『情況』2006年5・6月号。

*7:丸山眞男[1961]「「である」ことと「する」こと」『日本の思想』岩波新書、156‐157頁。傍点を省略。

*8:丸山眞男[1996]「民主主義の歴史的背景」『丸山眞男集 第8巻』岩波書店、89頁、95頁。

*9:丸山眞男[1996]「五・一九と知識人の「軌跡」」『丸山眞男集 第16巻』岩波書店、34頁。

*10:丸山眞男[1996]「戦後民主主義の原点」『丸山眞男集 第15巻』岩波書店、69頁。

*11:吉本隆明[1972]「丸山真男論」『現代の文学25 吉本隆明』講談社、375‐376頁。

*12:同、370頁。

責任論ノート―責任など引き受けなくてよい

 

道徳的責任の性質

人の道徳的責任を問う、という行為は、本来的に不安定性を伴う。道徳的責任がどのような場合に発生し、どのような場合に果たされたことになるのかについての判断は、社会ごと、個人ごとに異なる。これに対して、法的責任の場合は、その発生は法が確定するものであり、法的行為によってそれを果たしたことになるので、比較的明瞭である。そのため、規範的議論においてその所在、内容、範囲などについて問題となるのは、主に道徳的責任の方である。

一般的に、道徳的責任の所在、内容、範囲は、当該社会内における支配的な道徳的感覚に基づいて定まる。通常、AがBに対して、Bが事象Cについての責任を負っていることを認めさせるためには、論理や感情に訴えて、Bを説得する必要がある。だが、ここでBがその責任を負うことを拒んだとしても、当該社会のメンバーの多数がBに責任が帰せられるべきであると考えるならば、一般的には、BはCについての責任を負っていると見なされる。ここでBはこの責任を負うことをあくまで拒むことはできる。だが、それによって当該社会内におけるBの評価や地位は低下することになるだろう。社会一般によって認められた責任を負うことを拒むことは、現実にBを不利にするのであるから、責任拒否がもたらすコストがBにとって許容しうる範囲を超えるのであれば、Bは自らの責任を認めた方が賢明である。

ここから明らかになるのは、道徳的責任の追及を支えているのは、社会的権力によるサンクションであるということである。ある人がある責任を引き受けることを拒んだ際に、そのことを責め、その人の不利益に働き得る何らかの力による裏付けがなければ、責任が責任として機能することはない。その力は相手の道徳的感覚(良心)に訴えるような規範であってもいいし、評判や評価といったものでもいい。ともかく、そのような現実の力による裏付けがあってはじめて、道徳的責任の追及が可能になるのである。

当該社会において支配的である道徳が要請する責任を拒むことは、その社会内部で生活し続ける限り、非常に大きなコストを背負うことになるため、通常は責任を引き受けることが賢明である。それは、その責任を自らが負うことが正当であるか否かについての規範的判断とは区別される、合理的判断である。だが、ここで道徳的責任にまつわる規範的議論と切り離される形でこうした合理的判断が行われているのではない。合理的判断の前提となる社会的権力は、社会内における支配的な道徳的感覚に基づいているのであるから、そうした道徳的感覚を形成したり変化させたりすることができる規範的議論は、社会的権力と強く結び付いている。規範は権力の裏付けを必要とすると同時に、権力の矛先を定める基盤でもあるのである。

このように考えてくると、ある責任を引き受けるということがどういう意味を持っているのかも解ってくる。責任を引き受けるということは、賢明な処置としての処世術であり、通過されるべき儀式なのである。ある一定の条件下に置かれた人は、自らの責任を認め、その意思を何らかの行動によって示す。すると、その意思表示によって責任は消化されたと見なされ、社会的に一応の完結が図られる。この儀式が行われないままであると、批判や非難が寄せられることとなる。また、責任の規模が非常に大きいと見なされている場合には、こうした定型的な儀式を終えただけでは責任は消化されないと考えられる場合もある。逆に、儀式が終了し、一応の完結が見られた後で、さらに批判や非難が寄せられるならば、そうした声は過度の責任の追及として、不当であると見なされる。儀式を軽んじてはならないのである。

 

無限責任と無責任

規範的議論においては、当該社会における支配的な道徳的感覚が要求する以上に、道徳的責任が追及されるべき範囲を広く考えようとする立場がある。それは、「強い責任理論」とか「無限責任論」などと呼ばれる立場である。そうした立場によれば、私たちはあらゆる他者に対して「応答責任」を有していると考えられるが、こうした考え方は結果として「責任のインフレ」を引き起こすとして、しばしば批判される*1。この立場を極端にすれば、私たちはあらゆる存在に対して逃れられない責任を有しているのだから、特定の責任を殊更強調する必然性はないことになる。すると、他者に対する無限の責任を求めるということは、最終的には誰に対しても責任を負わないということと同じになる。無限責任論と無責任論とは、コインの表と裏なのである。

私は無限責任論よりもむしろ、その果てにある無責任論の方に魅力を感じる。道徳的責任の内容と範囲は、私たちが生きる社会内の人々の道徳的感覚と社会的権力作用の産物でしかないから、最終的には恣意的なものである。理論的には、それはどこまでも広がり得るし、どこまでも狭められる。ならば私は、ただ私の行為/不行為の帰結は全て私に降りかかって来るであろうという事実的な認識だけを有して、規範的には、あらゆる道徳的責任を引き受けることを拒絶したいと思う。

だが、そう言ってみたところで、現実を生きる私たちには、社会的権力としての道徳的責任の追及が常につきまとうのである。道徳的責任は、規範的にはそれを受け入れない者にも容赦なく適用される。道徳的責任は「規約」であり、それを受け入れる者には適用され、それを受け入れない者には適用されないものだ、というのは嘘である。正義や道徳はあくまで一つの権力として機能するので、「規約」の体を取りつつ、それを受け入れない者にも適用されていく。したがって、私は無責任論者として道徳的責任に規範的正当性を認めるわけではないが、賢明な処世術として、それらに従いながら生きていくほかないだろう。

*1:北田暁大[2004]『責任と正義』勁草書房。

 

責任論ノート―責任など引き受けなくてよい

 

この記事は「「愚民」でいいから幸せが欲しいニャア」「「規約」をめぐる二元論とその相対化」「責任って何かね」「責任と自由―3.他者と無関心」を素材として加筆・修正を施したものです。

道徳的責任の性質

 

人の道徳的責任を問う、という行為は、本来的に不安定性を伴う。道徳的責任がどのような場合に発生し、どのような場合に果たされたことになるのかについての判断は、社会ごと、個人ごとに異なる。これに対して、法的責任の場合は、その発生は法が確定するものであり、法的行為によってそれを果たしたことになるので、比較的明瞭である。そのため、規範的議論においてその所在、内容、範囲などについて問題となるのは、主に道徳的責任の方である。

 

一般的に、道徳的責任の所在、内容、範囲は、当該社会内における支配的な道徳的感覚に基づいて定まる。通常、AがBに対して、Bが事象Cについての責任を負っていることを認めさせるためには、論理や感情に訴えて、Bを説得する必要がある。だが、ここでBがその責任を負うことを拒んだとしても、当該社会のメンバーの多数がBに責任が帰せられるべきであると考えるならば、一般的には、BはCについての責任を負っていると見なされる。ここでBはこの責任を負うことをあくまで拒むことはできる。だが、それによって当該社会内におけるBの評価や地位は低下することになるだろう。社会一般によって認められた責任を負うことを拒むことは、現実にBを不利にするのであるから、責任拒否がもたらすコストがBにとって許容しうる範囲を超えるのであれば、Bは自らの責任を認めた方が賢明である。

 

ここから明らかになるのは、道徳的責任の追及を支えているのは、社会的権力によるサンクションであるということである。ある人がある責任を引き受けることを拒んだ際に、そのことを責め、その人の不利益に働き得る何らかの力による裏付けがなければ、責任が責任として機能することはない。その力は相手の道徳的感覚(良心)に訴えるような規範であってもいいし、評判や評価といったものでもいい。ともかく、そのような現実の力による裏付けがあってはじめて、道徳的責任の追及が可能になるのである。

 

当該社会において支配的である道徳が要請する責任を拒むことは、その社会内部で生活し続ける限り、非常に大きなコストを背負うことになるため、通常は責任を引き受けることが賢明である。それは、その責任を自らが負うことが正当であるか否かについての規範的判断とは区別される、合理的判断である。だが、ここで道徳的責任にまつわる規範的議論と切り離される形でこうした合理的判断が行われているのではない。合理的判断の前提となる社会的権力は、社会内における支配的な道徳的感覚に基づいているのであるから、そうした道徳的感覚を形成したり変化させたりすることができる規範的議論は、社会的権力と強く結び付いている。規範は権力の裏付けを必要とすると同時に、権力の矛先を定める基盤でもあるのである。

 

このように考えてくると、ある責任を引き受けるということがどういう意味を持っているのかも解ってくる。責任を引き受けるということは、賢明な処置としての処世術であり、通過されるべき儀式なのである。ある一定の条件下に置かれた人は、自らの責任を認め、その意思を何らかの行動によって示す。すると、その意思表示によって責任は消化されたと見なされ、社会的に一応の完結が図られる。この儀式が行われないままであると、批判や非難が寄せられることとなる。また、責任の規模が非常に大きいと見なされている場合には、こうした定型的な儀式を終えただけでは責任は消化されないと考えられる場合もある。逆に、儀式が終了し、一応の完結が見られた後で、さらに批判や非難が寄せられるならば、そうした声は過度の責任の追及として、不当であると見なされる。儀式を軽んじてはならないのである。

 

無限責任と無責任

 

規範的議論においては、当該社会における支配的な道徳的感覚が要求する以上に、道徳的責任が追及されるべき範囲を広く考えようとする立場がある。それは、「強い責任理論」とか「無限責任論」などと呼ばれる立場である。そうした立場によれば、私たちはあらゆる他者に対して「応答責任」を有していると考えられるが、こうした考え方は結果として「責任のインフレ」を引き起こすとして、しばしば批判される*1。この立場を極端にすれば、私たちはあらゆる存在に対して逃れられない責任を有しているのだから、特定の責任を殊更強調する必然性はないことになる。すると、他者に対する無限の責任を求めるということは、最終的には誰に対しても責任を負わないということと同じになる。無限責任論と無責任論とは、コインの表と裏なのである。

 

私は無限責任論よりもむしろ、その果てにある無責任論の方に魅力を感じる。道徳的責任の内容と範囲は、私たちが生きる社会内の人々の道徳的感覚と社会的権力作用の産物でしかないから、最終的には恣意的なものである。理論的には、それはどこまでも広がり得るし、どこまでも狭められる。ならば私は、ただ私の行為/不行為の帰結は全て私に降りかかって来るであろうという事実的な認識だけを有して、規範的には、あらゆる道徳的責任を引き受けることを拒絶したいと思う。

 

だが、そう言ってみたところで、現実を生きる私たちには、社会的権力としての道徳的責任の追及が常につきまとうのである。道徳的責任は、規範的にはそれを受け入れない者にも容赦なく適用される。道徳的責任は「規約」であり、それを受け入れる者には適用され、それを受け入れない者には適用されないものだ、というのは嘘である。正義や道徳はあくまで一つの権力として機能するので、「規約」の体を取りつつ、それを受け入れない者にも適用されていく。したがって、私は無責任論者として道徳的責任に規範的正当性を認めるわけではないが、賢明な処世術として、それらに従いながら生きていくほかないだろう。

 

「責任」ってなに? (講談社現代新書)

「責任」ってなに? (講談社現代新書)

 

戦後責任論 (講談社学術文庫)

戦後責任論 (講談社学術文庫)

 

責任と正義―リベラリズムの居場所

責任と正義―リベラリズムの居場所

*1:北田暁大[2004]『責任と正義』勁草書房。

祭りのあと―世界に外部は存在しない

 

この記事は「araikenさんの内田氏批判再考」「「外部」を志向することの困難」「祭りの後、逸脱の果て」「新自由主義的言説の二重構造」を素材として加筆・修正を施したものです。

近代の外部と居直り

 

宮台真司は、自己決定、人権、国家、共同体といった近代的諸概念の虚構性を十分自覚しながらも、その必要性ゆえに、敢えて近代を選び直すという立場を採る*1。宮台によれば、いわゆる「カルスタ・ポスコロ」と呼ばれる「文化左翼」は、近代世界が虚構の概念によって成り立っていることを暴露しただけで悦に入ってしまい、虚構の必要性を十分に認識せずに「近代の外部」を夢想しがちである。宮台は、こうした反近代的・外部礼賛主義的態度は、「すべてが虚構であるのならばなんでもありだ」という「ネオコン的ニヒリズム」に容易に接続しやすく、自らが掲げる恣意的な正義を正当化する態度を招きかねないとして警戒している。

 

そうした「居直り」は例えば、「国家の境界線はどうせ恣意的に決められたものでしかないのだから、改めてどこに引き直しても構わない」とか、「人間であるだけで不可侵の自然権を持つなんてことは単なる決まりであって嘘なんだから、黒人に人権を認めないように決まりをつくりかえてもいいだろう」などといった立場になって現れる。

 

近代の虚構性に対するこうした「居直り」を防ぐためには、近代を支えている諸概念が虚構であることを認めつつ、虚構であるからといって全てを同列において「なんでもあり」だと考えてはいけない、と「ネオコン的ニヒリズム」から一線を引く必要がある。つまり、宮台が主張するように、「五十歩百歩」の中でも「五十歩」と「百歩」の違いに注目し、近代的虚構の中でも、必要な虚構と必要でない虚構を丁寧に選り分けていかなければならない。虚構としての近代的諸概念の必要性を絶えず問い直しながら、必要である限りにおいて、それを用いざるを得ず、安易に放棄してしまうわけにはいかない。このことは、国境や人権という虚構を今すぐに放棄してしまうことが引き起こすであろう、グロテスクな暴力の連鎖を想起するだけで、直ちに明らかとなる。

 

多様な価値と居直り

 

同様のことは、より卑近な問題についても言うことができる。

 

例えば佐藤俊樹は、現在の日本社会では「不平等があたりまえ」という認識が広く共有されてきていると指摘する*2。佐藤によれば、そうした認識に基づいて「不平等はしかたがない」とか「今の格差は当然」といった、不平等への「居直り」が横行しているという。

 

ここでの「居直り」の一形態を試みに記述してみれば、「社会の構造そのものが不平等にできているのならば、努力したって仕方が無いよ。無駄な努力なんて止めて、おれはもっと違った生き方をしよう。世の中には色んな価値があるんだから、ナンバーワンよりオンリーワンを目指そうじゃないか!」といったところだろう。内田樹のように、こうした態度を「学びから降りた者の自己肯定」と呼ぶ者もいる。

 

近代の虚構性に対するネオコン的な居直りが、文化左翼による近代の虚構性の暴露を介してもたらされたように、「学びから降りた者の自己肯定」としての居直りをもたらしたものがある。それは、「多様な価値」の称揚であり、ナイーブな形での価値相対主義である。ネオコン的居直りが「すべてが虚構であるのならばなんでもありだ」というものだったとすれば、多様な価値の称揚に基づく居直りとは、「どうせオンリーワンならばなんでもありだ」というものである。そこでは、基本的にあらゆる価値が等価とされ、いずれを選択するのも個人の自由と考えられる。

 

例えば、内田樹による「学びから降りた者の自己肯定」についての一連の議論に噛み付いたaraikenは、社会が「業績主義的・生産主義的な資本主義的価値観」という一元的な価値に支配されているとした上で、そうした価値観を「支配的価値の座から降ろし、異質なものを排除しない祝祭や無目的な浪費こそを価値化すべき」であると主張する。araikenによれば、資本主義社会を前提とした「社会システムの改良や修正」においては、「基本的に現行システム以外の選択肢や可能性は考慮されていない」のであって、そこには「「外部」への視線がない」。

 

一元的な価値への抵抗と支配的なコードからの逸脱を推奨し、多様な価値と欲望を解放しようとする彼の言説は、「外部」への志向性からも明らかなように、文化左翼的言説と共通するところが多い。彼のような立場からは、「学びから降りた者の自己肯定」は否定的に捉えられるべきものではなく、むしろ資本主義的価値観からの逸脱として奨励されるべきものとなる。だが、近代の虚構性を暴いたからといって近代に代わり得る「外部」が姿を現すわけではないのと同様に、非資本主義的な多様な価値を無邪気に称揚したところで、資本主義社会の「外部」が姿を現すわけではない。その点を確認しておこう。

 

多様な価値と現状肯定

 

支配的な価値からの逸脱を推奨する言説が、逸脱後の具体的なビジョンを準備できていることは少ない。だが、逸脱の果てに足場が用意されていなければ、ただ谷底へ落ちるだけである。この世界、この社会から逸脱していっても生きていけるだけの環境をどこに用意することができるというのか。この世界に外部は無い。多様な価値の追求の果てに資本主義的価値観の外部に到達したつもりでいる人々は、実はどこかで内部化されているのである。オンリーワンの価値を求める若者は、非資本主義的価値を称揚する資本主義的産業の顧客や労働力として利用されている。彼らは外部に旅立ったつもりで、内部で踊らされている。

 

多様な価値を追求することは、それ自体として否定すべきことではない。だが、多様な価値を追求している人々とて、この世界で生きる限り、資本主義的価値観から完全に逃れるわけにはいかない。業績主義的価値観や生産主義的価値観における「負け」も別の価値観から見れば「勝ち」だと語ることは、意識の持ちようによって現実にある貧困や窮状を不可視化しようとする、一種の精神論/根性論である。多様な価値を推奨しながら、その追求を支える経済的・社会的基盤を重視しないのであれば、多様な価値を追求した結果として搾取されようが、困窮しようが、それは自分で選んだ道であるから問題にすべきではない、という自己責任論に帰着してしまう。資本主義的価値からの逸脱は推奨されるが、逸脱した者の生存や生活を保障する必要性は否定されてしまうのである。結果として、多様な価値の称揚(オンリーワン主義)が、「自らが信じる価値に基づいて夢を追い求めている彼らは幸せなはずだ」という名目で経済的・社会的格差を温存するだろう。

 

これは、資本主義的価値観をまるごと否定してその外部を求める言説が行き着く必然的な帰結である。資本主義的価値観による支配を問題視するからといって、「社会システムの改良や修正」を軽視してシステムそのものの転換ばかりを求めることは、現実には現状肯定しかもたらさない。つまり、全否定による現状肯定である。「根本が問題なのだから部分を変えても意味がない」という理由で、真に喫緊の課題であるはずの改良や修正は先送りにされてしまうのである。こうした危険を避けるために、われわれの世界に外部などは存在しないということを認識しておかなければならない。この世界から脱することはできない。ならば、この世界の中でわれわれは何をすることができるのか。われわれの出発点はここでしかない。

 

参考リンク

 

希望格差社会@内田樹の研究室

階層化=大衆化社会の到来@内田樹の研究室

サンヘドリンの法理@内田樹の研究室

ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」@内田樹の研究室

何かが違う!@祭りの戦士

自己肯定の自画像@祭りの戦士

希望格差社会@祭りの戦士

誤読ではないともう一度考える@祭りの戦士

センセーそれはあんまりじゃございませんか………その1@祭りの戦士

現代日本―ポスト福祉国家@on the ground

センセーそれはあんまりじゃございませんか………その2@祭りの戦士

センセーそれはあんまりじゃございませんか………その3@祭りの戦士

センセーそれはあんまりじゃございませんか………その4@祭りの戦士

センセー、やっぱり違うと思います! その1@祭りの戦士

センセー、やっぱり違うと思います! その2@祭りの戦士

センセー、やっぱり違うと思います! その3@祭りの戦士

araikenさんの内田氏批判再考@on the ground

「外部」を志向することの困難@on the ground

なぜ私は内田批判をするのか その1@祭りの戦士

なぜ私は内田批判をするのか その2@祭りの戦士

「居直り」という問題 その1@祭りの戦士

「居直り」という問題 その2@祭りの戦士

内田批判のまとめ@祭りの戦士

「内田氏批判」観覧のあとがき@on the ground

祭りの後、逸脱の果て@on the ground

終わりなき祭り、果てなき逸脱@祭りの戦士

補足@祭りの戦士

祭りにまつわるエトセトラ@on the ground

免罪符は要らない@on the ground

スキゾ・キッズ@祭りの戦士

思考停止ではなくて@祭りの戦士

敵に似るというブービートラップ@on the ground

恋と革命@祭りの戦士

誘惑@祭りの戦士

隠れ布教者の誘惑に抗して@on the ground

信者なき布教者@祭りの戦士

イデオロギッシュにニートを撃て@on the ground

飯を食わねばならぬみじめさ@on the ground

 

日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

 

知に働けば蔵が建つ

知に働けば蔵が建つ

 

ポスト・モダンの左旋回

ポスト・モダンの左旋回

*1:宮台真司・仲正昌樹[2004]『日常・共同体・アイロニー』双風舎。

*2:佐藤俊樹「「勝ち負け」の欲望に取り憑かれた日本」『論座』2005年6月号

九条燃ゆ前に(2)

 

(1)へ

 

現実主義的理想主義的護憲論

現代の護憲派を理論的側面でリードしている渡辺治は、大塚のような理想主義的な護憲論と、内田や長谷部のようにある程度現実を容認するような護憲論との、あいだを行く。渡辺は、9条は解釈改憲によってボロボロになっており、自衛隊を認めた上で野放図な海外派兵などを防ぐために新たに歯止めをかける必要があるとする「解釈改憲最悪論」に反論し、もし9条が何の役にも立たなくなっているのであればわざわざ改正する必要はないはずであると言う。改正しようとする動きがあるということは、9条に未だ力があるということを意味する、と。その上で渡辺は、憲法は現実と全く一致するということがないものだと主張する。憲法は現実と緊張関係を持っているからこそ、その実現に向けて努力すべき規範として意味を持つ。それは男女平等を定めた14条や生存権を定めた25条と同様である、と。

渡辺によれば、現代の改憲論の主要な目的は、多国籍企業のグローバル展開に伴い、アメリカとともにグローバル市場秩序の安定を確保するために、軍事大国化と自衛隊の武力行使目的の海外派兵を可能にすることにある。こうした「支配層」の思惑を長い間阻んできたのは9条とそれに基づく平和運動にほかならず、明白な憲法違反である自衛隊の拡大は9条が歯止めとなって抑えてきた部分が大きい。解釈改憲も強力な運動に対する余儀ない対応として採られてきた苦肉の策であり、例えば集団的自衛権の行使を認めるような解釈変更なども、心配されているように官僚の判断でいくらでもできるような性質のものではない。したがって、明文改憲を許さないことは今でも極めて大きな意義を持っており、「解釈改憲状態の方が、明文改憲よりずっといいに決まっているのである」*1

最近、改憲論への包括的な反論を行っている愛敬浩二も、渡辺の議論に負うところが多い*2。特に、改憲に関わる「支配層」の思惑についてはほぼ渡辺の分析を丸呑みしている。もっとも、こうした分析は渡辺や愛敬だけでなく共産党や社民党も多くの部分を共有しており、精緻さを別にすれば比較的一般化しているとも言える*3。愛敬は渡辺と同じように自衛隊を違憲であると考えているが、それを制約するような「新しい九条」を制定したとしても、それが改めて解釈改憲にさらされない保証がどこにあるのかとして、「解釈改憲最悪論」に抵抗している。また、長谷部の9条=「原理」論に対しては一定の理解を示しつつも、9条が「準則」と了解されているからこそ実際は「原理」として働くのであるとして、その実践的問題点を指摘している。こうした「現実主義」的立場、現実政治的視点は愛敬の強調するところであり、こうした立場からすれば、「戸締り論」のように一般的・抽象的議論からいきなり軍備の是非に関する選択を迫る議論は、政治論として馬鹿げている上に改憲派(「支配層」)の思惑を隠蔽するものだとして、厳しい批判を受けることになる。

以上のような渡辺=愛敬の護憲論を一言でまとめるとすれば、「手段的絶対平和主義的護憲論」とでも言えよう。渡辺も愛敬も、自衛隊は違憲であると考えており、そうした現実の方を9条の理念に近づけていくことを主張しているので、その意味では絶対平和主義の立場に立っている(愛敬はそう明言している)。しかし、愛敬が一般的・抽象的議論としての軍備の是非論を扱うことを拒んでいることからもわかるように、現実問題として非武装が実現できるし実現すべきだと彼らが信じているようにはあまり見えない。むしろ彼らが強調するのは政治的な歯止めとしての9条の効力である。これは愛敬についてより顕著であるが、彼らは9条を厳格に(つまり絶対平和主義的に)解することによってこそ歯止めとしての効力が強まると考えており、その意味で彼らの絶対平和主義的立場は手段的に選択されていると言える。おそらく彼らも自衛力の必要を認めており、その点、内田や長谷部と大きく考えを異にするものではないが、9条と自衛隊を整合的に捉えるような一種の「譲歩」は政治戦略上望ましくないと判断しているものと思われる。

こうした理解の上で、彼らの議論の問題点をいくつか指摘したい。まず渡辺について。渡辺は14条や25条を引き合いに出しながら憲法と現実は常に緊張関係にあるものだと言うが、9条の現実との乖離を問題にする人々は単に「乖離」だけを問題にしているのではなく、9条の実現が「不可能」であることを問題にしているのではないか。14条も25条も完全な実現は不可能に近いが、その実現要求を個別のケースに応じて争うことができる。これに対して9条は個別的に争うことができず、(「準則」として解釈する限り)端的に実現していないとわかる。したがって、9条と性質を大きく異にする14条や25条を引き合いに出す論法は説得力に欠けるように思われる。渡辺自身も自衛隊を違憲だと言っており、その即時および近時の廃止を目指していない以上、9条は実現不可能ゆえに常に違憲状態を発生させる条文であることになり、この点を問題視する意見が根強いのは無理もないように思われる。

また、渡辺が分析する改憲派の思惑については大きく外れているとも思わないが、後に高橋哲哉の議論について改めて述べるように、「支配層」の思惑に問題の全てを還元するような議論は受け入れ難い。「支配層」と呼ばれるような人々でなくとも「国際貢献」やその他の海外派兵、軍事大国化などを支持する人々はそれなりに存在していると思われる。そして彼らは「支配層」に「だまされている」わけではない。この点を無視するならば、「支配層」ではない人々に広くアピールするような護憲論の展開は到底かなわないであろう。

愛敬については一点だけ述べておく。9条改正については抽象論ではなく現実を踏まえた議論をするべきであるという主張には確かに理があるが、それが一般的・抽象的議論を封じるような意味合いで述べられていることは批判されるべきである。愛敬自身が述べるように、立憲主義が多数決では覆しがたいようなルールを予め定めることによって通常政治の逸脱・暴走を防ぐ目的を持つとすれば、憲法に関する議論はかなりの程度一般的・抽象的性格を持たざるを得ないはずであり、持つべきでもあるはずである。通常の政治過程における現実的・政治的な判断に大まかな枠をはめるルールである憲法の規定については、想定されるあらゆる事態に応じた一般的議論を尽くすことが求められる。もちろん特殊日本的な歴史的文脈や政治的・社会的事情は有り得るとしても、(例えば「戸締り論」のような)一般的・抽象的設定から議論を始めることは、特段批判されるべきではない。むしろ「戸締り論」のような軍備の一般的是非を問うような議論を回避して「支配層」の思惑に焦点を絞り込もうとする愛敬の振る舞いこそが、それ自体として強い政治性を有するものであることは指摘しないわけにはいかない。

 

啓蒙主義的護憲論

高橋哲哉もまた、渡辺や愛敬と同様に「支配層」の思惑を過大視する。高橋は、国家の戦争とは、「国家の権力者たち、そして彼らと利益を共有する者たちが自分たちの権力や利益を確保し、あるいは拡大するために国民を犠牲にして行う」ものであると述べる*4。その証に、高橋によれば、彼ら国家の支配者たちは決して戦争の際に最前線に身を置くことはないのである。さらに高橋は、軍隊=自衛隊は決して国民を守るものではないと言う。軍隊=自衛隊の第一次的な任務は国家=国体を守ることにあるのであり、それはつまり「国家の支配層、権力者やそれにつながる人々」を守るために末端の国民を犠牲にしていくということを意味するのだ*5

ここで高橋は迷いなく国家=国体=支配層と結んでしまっている。しかしながら、「国体」を一般化して「国家体制」と考えるのならば、それは政治体制や憲法秩序を意味するはずであり、特に根拠も示さずに直接に「支配層」と同一視するのは不自然である。例えば長谷部は、「憲法自身が一貫して守るよう要求できる「国」とは現在の憲法の基本秩序であり、日本国憲法の場合でいえば、リベラル・デモクラシーと平和主義である」と述べている*6。このような考え方を採るとすれば、自衛隊が守るべき国家=国体=憲法秩序とは(平和主義はともかく)リベラル・デモクラシーであることになり、より具体的に言えば「人権」や「自由」や「民主主義」であることになる(長谷部の考えに反対するのであれば、国体と「支配層」をイコールで結ぶ根拠をきちんと示さなければならない。最前線に赴かないことがその根拠として十分でないことは、近代戦の常識や議会制民主主義の原則に照らして明らかである)。つまり、軍隊が国民ではなく国家を守るものだとしても、民主主義国家における国家とはその民主主義的秩序そのものであることになるから、軍隊は(少なくとも理論上は)必ずしも「支配層」を守るものではない。むしろ、民主主義国家においては、軍隊は国家=リベラル・デモクラシー=人権・自由・民主主義を守るためにこそ、国民を犠牲にするのである。

高橋のように、また渡辺や愛敬のように、戦争の責任を全て「支配層」の権益に帰してしまうタイプの主張は、リベラル・デモクラシーや各々の国民を免責するイデオロギーとして働くと同時に、高橋たち自身の思想の「正しさ」を最終的に保証する装置としても働いてしまっている。高橋は「支配層=悪の元凶」論を採用することによって、国家のために国民が犠牲にされる醜悪な側面がリベラル・デモクラシーにも備わっていることに目を瞑り、民主主義下において国民が自覚的に戦争を選択する可能性を除外し、戦争一般を「支配層」が自らの利益のために国民を犠牲にする形に一元化してしまう。このような構図においては、たとえ国民が一見自覚的に戦争を選択したように見えても、それは何らかの形で「だまされた」結果であるとされてしまう*7。そして、「だます支配層」と「だまされる国民」というこの構図の中で、高橋のように「だまされてはいけない」と叫ぶ者たちは「支配層」の思惑を暴く啓蒙者(より露骨に言えば「正義の味方」)として確固たる地位を占めることになる。この地位が都合が良いのは、たとえ自分たちが少数派であってもそれは多くの国民が「だまされている」からであることになり、実際に戦争に突入するなどの最悪の事態においても、その責任を「だます支配層」と「だまされる国民」の両者に帰してしまうことができるからである。

高橋らが用いるこうした構図は、左翼や「進歩派」が伝統的に継承してきた構図である。そこでは、「だます支配層」、つまり国家権力者や大企業のトップなどがいつでも悪の元凶であり敵視される一方で、「だまされる国民」、つまり啓蒙されるべき大衆も軽蔑されている。高橋のような啓蒙主義者たちにとって、「正義の味方」である自分たちの「正しさ」を理解せず、「支配層」の思惑を見抜けずに「だまされる」蒙昧な大衆は、いつでも最大の障害なのである。こうした態度を私は左翼と進歩派の慢性的な病であると考えているが、この病についての議論は本筋から外れるものだろう。ただ、「現実におもねる」ことなく「思想」を持ち、「支配層」に「だまされない」ように歴史を学んで批判的思考を養わねばならない、と呼びかける彼らの姿勢は、多くの国民には「われわれのいる位置まで上がってきなさい」と偉そうに説教するうっとうしい存在にしか映らないだろうことは確かだ。

 

「新しい歯止め」論と護憲の方法

理論的に考えても、実践的に考えても、護憲派が最もアピールするべき相手は、平和のためにこそ9条改正が必要であると考える人々である。彼らは別に「支配層」に「だまされている」わけではなく、おそらく自分なりに平和実現の方法を考えた結果として9条を改正すべきであるとの結論に至ったのであろう(もちろん日本の「国益」や自分の身の安全を考えて9条改正を支持するに至った人々も別に「だまされている」わけではない、と私は思う)。こうした人々は解釈改憲最悪論をとっていることが多い。彼らは国際情勢や政治状況の変化に応じて、従来の歯止めとしての9条に代わる「新しい歯止め」が必要であると考えている。護憲を主張するのであれば、こうした主張に対して説得的に答えていかなければならない。

これまで私が批判してきた渡辺や愛敬、内田の議論は、実際のところ、それなりに説得力を有していないわけではない。だが、それが恒常的な違憲状態を維持する点で、難がある。あるいは、法的には解釈によって違憲は回避されているから問題はないと考える場合でも、解釈改憲最悪論の不安を十分に払拭しきれない点で、なお困難は残る。私自身は、解釈改憲最悪論に対して渡辺や愛敬が主張する「明文改憲最悪論」や、改憲すればそこから新たに解釈改憲の危険があるという主張には、一定の説得力があると考えている。この点については伊勢崎賢治も、軍隊の保持を禁止している現行憲法下でさえ軍事的な海外派兵が実現しているのであるから、「たとえ平和利用に限定するものであっても海外派兵を憲法が認めてしまったら、違憲行為にさらに拍車がかかるのではないか」として明文改憲に反対している*8

しかしながら、おそらくそうした主張だけでは十分ではない。渡辺にせよ、愛敬にせよ、内田にせよ、伊勢崎にせよ、9条の歴史的・現実的歯止め効果を強調するのであるが、それだけでは「新しい歯止め」論を支持する人々に対する十分なアピールにはならないだろう。従来の歯止めとしての9条ではもはや十分ではないと考えている人々に対しては、従来の歯止めの効力が未だ残っているという(いささか消極的な)訴えかけをするだけではなく、また別種の「新しい歯止め」を積極的に提案していく必要がある。9条を改正することが平和に寄与しないことが確かであるとしても、9条を守っていれば十分であるという消極的な姿勢は説得的でない。9条改正以外の方法によって「新しい歯止め」が形成可能であることを示すことができれば、解釈改憲最悪論を支持する人々の中の一定数にはかなり説得的に訴えかけることができるだろう。もちろん、ここで言う「新しい歯止め」は従来の歯止めとしての9条やその他の積み上げを否定するような性格のものではなく、それらを生かし、それらと結び付きながら「新しい歯止め」として機能し得るものでなくてはならない。

明文改憲最悪論や9条の歴史的・現実的歯止め効果の強調に加えて、9条改正/遵守以外の形で「新しい歯止め」を構想し提案していく。これが私の考える説得的な護憲の方法についての結論である。けれども、実際のところ、私にはこの「新しい歯止め」がどのような内容であるべきなのか、皆目見当がつかない。無責任と言われるかもしれないが、この先は護憲派の読者自身による更なる思索に委ねたい。

(完)

 

*1:渡辺の主張は以下による。渡辺治[2005]『憲法「改正」』旬報社。今井一編[2004]『対論!戦争、軍隊、この国の行方』青木書店。

 

*2:愛敬浩二[2006]『改憲問題』ちくま新書。

 

 

*4:高橋・斎藤[2006]102頁。

 

*5:同、111‐114頁。

 

*6:長谷部[2006]23‐24頁。

 

*7:高橋・斎藤[2006]40‐141頁では、「だまされない」ようにするべきことが強調されている。

 

*8:伊勢崎賢治[2004]『武装解除』講談社現代新書、236頁。

九条燃ゆ前に(2)

 

この記事は「九条の護衛者たち(三)」「九条の護衛者たち(四)」を素材として加筆・修正を施したものです。

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現実主義的理想主義的護憲論

 

現代の護憲派を理論的側面でリードしている渡辺治は、大塚のような理想主義的な護憲論と、内田や長谷部のようにある程度現実を容認するような護憲論との、あいだを行く。渡辺は、9条は解釈改憲によってボロボロになっており、自衛隊を認めた上で野放図な海外派兵などを防ぐために新たに歯止めをかける必要があるとする「解釈改憲最悪論」に反論し、もし9条が何の役にも立たなくなっているのであればわざわざ改正する必要はないはずであると言う。改正しようとする動きがあるということは、9条に未だ力があるということを意味する、と。その上で渡辺は、憲法は現実と全く一致するということがないものだと主張する。憲法は現実と緊張関係を持っているからこそ、その実現に向けて努力すべき規範として意味を持つ。それは男女平等を定めた14条や生存権を定めた25条と同様である、と。

 

渡辺によれば、現代の改憲論の主要な目的は、多国籍企業のグローバル展開に伴い、アメリカとともにグローバル市場秩序の安定を確保するために、軍事大国化と自衛隊の武力行使目的の海外派兵を可能にすることにある。こうした「支配層」の思惑を長い間阻んできたのは9条とそれに基づく平和運動にほかならず、明白な憲法違反である自衛隊の拡大は9条が歯止めとなって抑えてきた部分が大きい。解釈改憲も強力な運動に対する余儀ない対応として採られてきた苦肉の策であり、例えば集団的自衛権の行使を認めるような解釈変更なども、心配されているように官僚の判断でいくらでもできるような性質のものではない。したがって、明文改憲を許さないことは今でも極めて大きな意義を持っており、「解釈改憲状態の方が、明文改憲よりずっといいに決まっているのである」*1

 

最近、改憲論への包括的な反論を行っている愛敬浩二も、渡辺の議論に負うところが多い*2。特に、改憲に関わる「支配層」の思惑についてはほぼ渡辺の分析を丸呑みしている。もっとも、こうした分析は渡辺や愛敬だけでなく共産党や社民党も多くの部分を共有しており、精緻さを別にすれば比較的一般化しているとも言える*3。愛敬は渡辺と同じように自衛隊を違憲であると考えているが、それを制約するような「新しい九条」を制定したとしても、それが改めて解釈改憲にさらされない保証がどこにあるのかとして、「解釈改憲最悪論」に抵抗している。また、長谷部の9条=「原理」論に対しては一定の理解を示しつつも、9条が「準則」と了解されているからこそ実際は「原理」として働くのであるとして、その実践的問題点を指摘している。こうした「現実主義」的立場、現実政治的視点は愛敬の強調するところであり、こうした立場からすれば、「戸締り論」のように一般的・抽象的議論からいきなり軍備の是非に関する選択を迫る議論は、政治論として馬鹿げている上に改憲派(「支配層」)の思惑を隠蔽するものだとして、厳しい批判を受けることになる。

 

以上のような渡辺=愛敬の護憲論を一言でまとめるとすれば、「手段的絶対平和主義的護憲論」とでも言えよう。渡辺も愛敬も、自衛隊は違憲であると考えており、そうした現実の方を9条の理念に近づけていくことを主張しているので、その意味では絶対平和主義の立場に立っている(愛敬はそう明言している)。しかし、愛敬が一般的・抽象的議論としての軍備の是非論を扱うことを拒んでいることからもわかるように、現実問題として非武装が実現できるし実現すべきだと彼らが信じているようにはあまり見えない。むしろ彼らが強調するのは政治的な歯止めとしての9条の効力である。これは愛敬についてより顕著であるが、彼らは9条を厳格に(つまり絶対平和主義的に)解することによってこそ歯止めとしての効力が強まると考えており、その意味で彼らの絶対平和主義的立場は手段的に選択されていると言える。おそらく彼らも自衛力の必要を認めており、その点、内田や長谷部と大きく考えを異にするものではないが、9条と自衛隊を整合的に捉えるような一種の「譲歩」は政治戦略上望ましくないと判断しているものと思われる。

 

こうした理解の上で、彼らの議論の問題点をいくつか指摘したい。まず渡辺について。渡辺は14条や25条を引き合いに出しながら憲法と現実は常に緊張関係にあるものだと言うが、9条の現実との乖離を問題にする人々は単に「乖離」だけを問題にしているのではなく、9条の実現が「不可能」であることを問題にしているのではないか。14条も25条も完全な実現は不可能に近いが、その実現要求を個別のケースに応じて争うことができる。これに対して9条は個別的に争うことができず、(「準則」として解釈する限り)端的に実現していないとわかる。したがって、9条と性質を大きく異にする14条や25条を引き合いに出す論法は説得力に欠けるように思われる。渡辺自身も自衛隊を違憲だと言っており、その即時および近時の廃止を目指していない以上、9条は実現不可能ゆえに常に違憲状態を発生させる条文であることになり、この点を問題視する意見が根強いのは無理もないように思われる。

 

また、渡辺が分析する改憲派の思惑については大きく外れているとも思わないが、後に高橋哲哉の議論について改めて述べるように、「支配層」の思惑に問題の全てを還元するような議論は受け入れ難い。「支配層」と呼ばれるような人々でなくとも「国際貢献」やその他の海外派兵、軍事大国化などを支持する人々はそれなりに存在していると思われる。そして彼らは「支配層」に「だまされている」わけではない。この点を無視するならば、「支配層」ではない人々に広くアピールするような護憲論の展開は到底かなわないであろう。

 

愛敬については一点だけ述べておく。9条改正については抽象論ではなく現実を踏まえた議論をするべきであるという主張には確かに理があるが、それが一般的・抽象的議論を封じるような意味合いで述べられていることは批判されるべきである。愛敬自身が述べるように、立憲主義が多数決では覆しがたいようなルールを予め定めることによって通常政治の逸脱・暴走を防ぐ目的を持つとすれば、憲法に関する議論はかなりの程度一般的・抽象的性格を持たざるを得ないはずであり、持つべきでもあるはずである。通常の政治過程における現実的・政治的な判断に大まかな枠をはめるルールである憲法の規定については、想定されるあらゆる事態に応じた一般的議論を尽くすことが求められる。もちろん特殊日本的な歴史的文脈や政治的・社会的事情は有り得るとしても、(例えば「戸締り論」のような)一般的・抽象的設定から議論を始めることは、特段批判されるべきではない。むしろ「戸締り論」のような軍備の一般的是非を問うような議論を回避して「支配層」の思惑に焦点を絞り込もうとする愛敬の振る舞いこそが、それ自体として強い政治性を有するものであることは指摘しないわけにはいかない。

 

啓蒙主義的護憲論

 

高橋哲哉もまた、渡辺や愛敬と同様に「支配層」の思惑を過大視する。高橋は、国家の戦争とは、「国家の権力者たち、そして彼らと利益を共有する者たちが自分たちの権力や利益を確保し、あるいは拡大するために国民を犠牲にして行う」ものであると述べる*4。その証に、高橋によれば、彼ら国家の支配者たちは決して戦争の際に最前線に身を置くことはないのである。さらに高橋は、軍隊=自衛隊は決して国民を守るものではないと言う。軍隊=自衛隊の第一次的な任務は国家=国体を守ることにあるのであり、それはつまり「国家の支配層、権力者やそれにつながる人々」を守るために末端の国民を犠牲にしていくということを意味するのだ*5

 

ここで高橋は迷いなく国家=国体=支配層と結んでしまっている。しかしながら、「国体」を一般化して「国家体制」と考えるのならば、それは政治体制や憲法秩序を意味するはずであり、特に根拠も示さずに直接に「支配層」と同一視するのは不自然である。例えば長谷部は、「憲法自身が一貫して守るよう要求できる「国」とは現在の憲法の基本秩序であり、日本国憲法の場合でいえば、リベラル・デモクラシーと平和主義である」と述べている*6。このような考え方を採るとすれば、自衛隊が守るべき国家=国体=憲法秩序とは(平和主義はともかく)リベラル・デモクラシーであることになり、より具体的に言えば「人権」や「自由」や「民主主義」であることになる(長谷部の考えに反対するのであれば、国体と「支配層」をイコールで結ぶ根拠をきちんと示さなければならない。最前線に赴かないことがその根拠として十分でないことは、近代戦の常識や議会制民主主義の原則に照らして明らかである)。つまり、軍隊が国民ではなく国家を守るものだとしても、民主主義国家における国家とはその民主主義的秩序そのものであることになるから、軍隊は(少なくとも理論上は)必ずしも「支配層」を守るものではない。むしろ、民主主義国家においては、軍隊は国家=リベラル・デモクラシー=人権・自由・民主主義を守るためにこそ、国民を犠牲にするのである。

 

高橋のように、また渡辺や愛敬のように、戦争の責任を全て「支配層」の権益に帰してしまうタイプの主張は、リベラル・デモクラシーや各々の国民を免責するイデオロギーとして働くと同時に、高橋たち自身の思想の「正しさ」を最終的に保証する装置としても働いてしまっている。高橋は「支配層=悪の元凶」論を採用することによって、国家のために国民が犠牲にされる醜悪な側面がリベラル・デモクラシーにも備わっていることに目を瞑り、民主主義下において国民が自覚的に戦争を選択する可能性を除外し、戦争一般を「支配層」が自らの利益のために国民を犠牲にする形に一元化してしまう。このような構図においては、たとえ国民が一見自覚的に戦争を選択したように見えても、それは何らかの形で「だまされた」結果であるとされてしまう*7。そして、「だます支配層」と「だまされる国民」というこの構図の中で、高橋のように「だまされてはいけない」と叫ぶ者たちは「支配層」の思惑を暴く啓蒙者(より露骨に言えば「正義の味方」)として確固たる地位を占めることになる。この地位が都合が良いのは、たとえ自分たちが少数派であってもそれは多くの国民が「だまされている」からであることになり、実際に戦争に突入するなどの最悪の事態においても、その責任を「だます支配層」と「だまされる国民」の両者に帰してしまうことができるからである。

 

高橋らが用いるこうした構図は、左翼や「進歩派」が伝統的に継承してきた構図である。そこでは、「だます支配層」、つまり国家権力者や大企業のトップなどがいつでも悪の元凶であり敵視される一方で、「だまされる国民」、つまり啓蒙されるべき大衆も軽蔑されている。高橋のような啓蒙主義者たちにとって、「正義の味方」である自分たちの「正しさ」を理解せず、「支配層」の思惑を見抜けずに「だまされる」蒙昧な大衆は、いつでも最大の障害なのである。こうした態度を私は左翼と進歩派の慢性的な病であると考えているが、この病についての議論は本筋から外れるものだろう。ただ、「現実におもねる」ことなく「思想」を持ち、「支配層」に「だまされない」ように歴史を学んで批判的思考を養わねばならない、と呼びかける彼らの姿勢は、多くの国民には「われわれのいる位置まで上がってきなさい」と偉そうに説教するうっとうしい存在にしか映らないだろうことは確かだ。

 

「新しい歯止め」論と護憲の方法

 

理論的に考えても、実践的に考えても、護憲派が最もアピールするべき相手は、平和のためにこそ9条改正が必要であると考える人々である。彼らは別に「支配層」に「だまされている」わけではなく、おそらく自分なりに平和実現の方法を考えた結果として9条を改正すべきであるとの結論に至ったのであろう(もちろん日本の「国益」や自分の身の安全を考えて9条改正を支持するに至った人々も別に「だまされている」わけではない、と私は思う)。こうした人々は解釈改憲最悪論をとっていることが多い。彼らは国際情勢や政治状況の変化に応じて、従来の歯止めとしての9条に代わる「新しい歯止め」が必要であると考えている。護憲を主張するのであれば、こうした主張に対して説得的に答えていかなければならない。

 

これまで私が批判してきた渡辺や愛敬、内田の議論は、実際のところ、それなりに説得力を有していないわけではない。だが、それが恒常的な違憲状態を維持する点で、難がある。あるいは、法的には解釈によって違憲は回避されているから問題はないと考える場合でも、解釈改憲最悪論の不安を十分に払拭しきれない点で、なお困難は残る。私自身は、解釈改憲最悪論に対して渡辺や愛敬が主張する「明文改憲最悪論」や、改憲すればそこから新たに解釈改憲の危険があるという主張には、一定の説得力があると考えている。この点については伊勢崎賢治も、軍隊の保持を禁止している現行憲法下でさえ軍事的な海外派兵が実現しているのであるから、「たとえ平和利用に限定するものであっても海外派兵を憲法が認めてしまったら、違憲行為にさらに拍車がかかるのではないか」として明文改憲に反対している*8

 

しかしながら、おそらくそうした主張だけでは十分ではない。渡辺にせよ、愛敬にせよ、内田にせよ、伊勢崎にせよ、9条の歴史的・現実的歯止め効果を強調するのであるが、それだけでは「新しい歯止め」論を支持する人々に対する十分なアピールにはならないだろう。従来の歯止めとしての9条ではもはや十分ではないと考えている人々に対しては、従来の歯止めの効力が未だ残っているという(いささか消極的な)訴えかけをするだけではなく、また別種の「新しい歯止め」を積極的に提案していく必要がある。9条を改正することが平和に寄与しないことが確かであるとしても、9条を守っていれば十分であるという消極的な姿勢は説得的でない。9条改正以外の方法によって「新しい歯止め」が形成可能であることを示すことができれば、解釈改憲最悪論を支持する人々の中の一定数にはかなり説得的に訴えかけることができるだろう。もちろん、ここで言う「新しい歯止め」は従来の歯止めとしての9条やその他の積み上げを否定するような性格のものではなく、それらを生かし、それらと結び付きながら「新しい歯止め」として機能し得るものでなくてはならない。

 

明文改憲最悪論や9条の歴史的・現実的歯止め効果の強調に加えて、9条改正/遵守以外の形で「新しい歯止め」を構想し提案していく。これが私の考える説得的な護憲の方法についての結論である。けれども、実際のところ、私にはこの「新しい歯止め」がどのような内容であるべきなのか、皆目見当がつかない。無責任と言われるかもしれないが、この先は護憲派の読者自身による更なる思索に委ねたい。

 

(完)

 

憲法「改正」―軍事大国化・構造改革から改憲へ

憲法「改正」―軍事大国化・構造改革から改憲へ

 

 

改憲問題 (ちくま新書)

改憲問題 (ちくま新書)

 

 

憲法とは何か (岩波新書)

憲法とは何か (岩波新書)

 

武装解除  -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)

武装解除 -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)

*1:渡辺の主張は以下による。渡辺治[2005]『憲法「改正」』旬報社。今井一編[2004]『対論!戦争、軍隊、この国の行方』青木書店。

*2:愛敬浩二[2006]『改憲問題』ちくま新書。

*3:以下を参照。「日本共産党第22回大会決議より抜粋」2000年11月24日。「参議院選挙にのぞむ日本共産党の政策」2004年6月2日。「第三回中央委員会総会 志位委員長の幹部会報告」2005年4月9日。社会民主党全国連合常任幹事会「憲法をめぐる議論についての論点整理」2005年3月10日。

*4:高橋・斎藤[2006]102頁。

*5:同、111‐114頁。

*6:長谷部[2006]23‐24頁。

*7:高橋・斎藤[2006]40‐141頁では、「だまされない」ようにするべきことが強調されている。

*8:伊勢崎賢治[2004]『武装解除』講談社現代新書、236頁。