ポストモダンを超えるポストモダン

 

2006/03/31(金) 17:59:40 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-205.html

というわけで、大澤真幸『思想のケミストリー』に収録されている「<ポストモダニスト>吉本隆明」を読んでみたところ、非常に勉強になった。まずは純粋に吉本思想について学ばせてもらったわけであるが、それに留まらず、モダンとポストモダンの関係について多くを得た。手元に現物が無いために引用できないのが残念なのだが、お薦めしておく。白状すると私は大澤の著作をほとんど読んでいないため、同テーマ(モダンとポストモダン)についてより詳細に論じたものがあるかもしれないが(最近の『世界』論文などは参考になるかな)。

 

大澤によれば、普遍的であると思われているものが実はローカルなものであることを次々に暴露していくポストモダニストの態度は、近代精神の突き詰められた形に過ぎない。ひとたび伝統の自明性にヒビが入り、近代的な相対主義が現れてくると、あらゆるものが相対化されてしまうポストモダンへの突入はもとより時間の問題であった。近代とポストモダンは地続きであり、そこに断絶は無い。近代=ポストモダン(「再帰的近代」)において、「絶対普遍」なるものは存在し得ない。しかしながら、不在である「絶対普遍」なるものへの態度においてモダニストとポストモダニストは異なる。前者は不在ながらもそれが「ある」ことを強調し、後者はあくまで「不在」を強調する(いわばポストモダニストは「空席」を強調し、モダニストはそれにもかかわらず「席」があることを強調する?)。しかし、「不在」を強調しながらも、その「到来」を実は待望している点ではポストモダニストもモダニストと変わることがなく、両者は表裏の関係にあると大澤は言う(以上、記憶に頼っているため正確性を欠いている恐れあり)。

 

当の大澤論文からは引用できないが、そこから私が想起した二つの部分を引用しておこう。以下は、宮台真司・北田暁大『限界の思考』における宮台の発言部分である。

 

 僕はもともと主知主義が嫌いで、最初からアホくさいと思いました。すると、ルーマンが「ハーバーマス的な合意モデルは間違いだ」といってくれている。合意するには合意のルールへの合意が必要だけど、合意のルールに合意するのにも合意が必要だ、という無限背進の論理を使ってね。こうした対立が論争になっているのだと、当初の僕は思っていました。

ところが、じっくり読むと違う。ハーバーマスが理想的発話状況という場合、とりわけアドルノを踏まえていて、「理想的」という言葉に「不可能」の概念が含まれることがわかってくる。するとハーバーマスは、「話せばわかる」が厳密にはウソでも、「話せばわかる」という前提で進まないと処理できないことがある、と述べていることになります。

確かにルーマンと論争する前のハーバーマスは素朴だったかもしれないけど、だとしても、論争のなかでのハーバーマスは、ルーマンの無限背進論法による批判を承知のうえ、あえて合意モデルにコミットしています。そしてルーマンもそのことをわかったうえ、無限背進論法による批判の先、つまりウソだとしても「話せばわかる」という前提が必要か否かを論じています。

 

(宮台真司・北田暁大『限界の思考』、双風舎、2005年、58‐59頁)

 

理想が不可能であることを知りつつ、あえてそれを高らかに掲げることは、明らかにモダニストの振舞いであろう。だからこそハーバーマスにとって近代は「未完のプロジェクト」であり、丸山真男にとって民主主義は「永久革命」なのである。そして、それは「来たるべき民主主義」について語るデリダにとっても同じなのかもしれない。実際のところ、今の私にはとても判断がつかないが、少なくともデリダがこう言っていることは確かだ。

 

 (3)結論。脱構築が起こるのは、正義の脱構築不可能性と法/権利の脱構築可能性とを分かつ両者の間隙においてである。脱構築は、不可能なものの経験として可能である。すなわち、正義は現実存在していないけれども、また現前している/現にそこにある(present)わけでもない――いまだに現前していない、またはこれまで一度も現前したことがない――けれども、それでもやはり正義は存在する(il y a)という場合において、脱構築は可能である。

 

ジャック・デリダ『法の力』、法政大学出版局、1999年、35頁、傍点は省略、強調は引用者)

 

デリダがモダニストであったかどうかは知らない。稲葉振一郎『モダンのクールダウン』で東浩紀を介して論じられているように、デリダにも色々あるのかもしれない。たぶん本当はそんなに単純じゃないが、ザックリと分ければ、同書で扱われている「否定神学」への態度の違いが大澤の言うモダニストとポストモダニストの違いに対応しそうだ。不可能な「正義」や「絶対普遍」なるものについて、その不在において語り考えることを積極的に捉えるかどうか。そこが一つの分かれ目である。

 

しかしながら、その分かれ目は根本的ではない。よりラディカルな分かれ目は、先述のようにモダニストとポストモダニストが共有する前提から距離を置く立場との間に現れる。そして、大澤が吉本を読み解くことで探りを入れているのは、こうした「真のポストモダン」、つまり近代との連続性がより小さいポストモダン思想の可能性である。そして、私が関心があるのもまたその方面である。

 

最後にもう一つ、吉本とシュティルナーの思想位置の近さについて改めて認識させてもらった。やはり吉本思想をしっかりと押さえることは自分にとって不可欠だという思いを確かにした。時間はかかるだろうが、吉本=シュティルナーの可能性の臨界を探ることができれば、と思う。それが、もう一つのポストモダンの可能性にも繋がると思うから。

 

思想のケミストリー

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限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

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法の力 (叢書・ウニベルシタス)

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モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

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TB

 

正義の臨界を超えて(1) http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070123/p1

大衆の原像、その後

 

2006/03/26(日) 00:05:01 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-194.html

私の世代で吉本隆明を読む人がどれくらいいるか知らないし、私も理論書は『共同幻想論』ぐらいしか読んでいない。それでも、私にとっては丸山真男などよりよっぽど重要な思想家に思えるわけである。隙を見て勉強せねば。

 

 わたしたちが、情況について語るときには、社会的に語ろうとも政治的に語ろうとも、情況にかかわることが、現にわたしたちが存在することにとって不可欠なものであるという前提の下にたっている。たとえ社会の情況がどうあろうとも、政治的な情況がどうであろうとも、さしあたって「わたし」が現に生活し、明日も生活するということだけが重要なので、情況が直接にあるいは間接に「わたし」の生活に影響をおよぼしていようといまいと、それをかんがえる必要もないし、かんがえたとてどうなるものでもないという前提にたてば、情況について語ること自体が意味がないのである。これが、かんがえられるかぎり大衆が存在しているあるがままの原像である。

この大衆のあるがままの存在の原像は、わたしたちが多少でも知的な存在であろうとするとき思想が離陸してゆくべき最初の対象となる。そして離陸にさいしては、反動として砂塵をまきあげざるをえないように、大衆は政治的に啓蒙さるべき存在にみえ、知識を注ぎこまねばならない無智な存在にみえ、自己の生活にしがみつき、自己利益を追求するだけの亡者にみえてくる。これが現在、知識人とその政治的な集団である前衛の発想のカテゴリーにある知的なあるいは政治的な啓蒙思想のたどる必然的な経路である。しかし、大衆の存在する本質的な様式はなんであろうか?

大衆は社会の構成を生活の水準によってしかとらえず、決してそこを離陸しようとしないという理由で、きわめて強固な巨大な基盤のうえにたっている。それとともに、情況に着目しようとしないために、現況に対してはきわめて現象的な存在である。最も強固な巨大な生活基盤と、最も微小な幻想のなかに存在するという矛盾が大衆のもっている本質的な存在様式である。

 

(吉本隆明「情況とは何か Ⅰ」『自立の思想的拠点』徳間書店、1966年、102頁)

 

このあたり、首肯するところ多なのであるが、それではどうしましょう、となると物足りない気もする。

 

 一般にわたしたちが、どんな憲法のもとにあっても、どんな「制度」や「体制」のもとでも、また「制度」によって規制され、それが与える機会を享受して生活しながらも、それを否認し、その「外」にあるとかんがえ、それから「疎外」されているとみなし、それに「反抗」する自由と権利をもつのは、おおよそ「憲法」や「制度」が、「共同的幻想」を本質としているからである。また、大衆がそれを「意識」しないでも結構それを「享受」しうるのも、「制度」や「憲法」が「共同的幻想」であり、少しも具体的な物質ではないからである。いいかえれば、「憲法」や「制度」は、げんこつや飴玉のように直接に痛かったり甘かったりするものとして人間にとって存在しないからである。

「僕は少くも政治的判断の世界においては高度のプラグマティストでありたい。」と願うのは丸山真男の自由(恣意)に属している。しかし、これを勝手に拡張して政治過程そのものの本質を「プラクチカルなプロセス」と判断することは、政治理論上の錯誤にしかすぎない。政治過程そのものは「幻想的なプロセス」であり、幻想的な手直しであり、幻想的な革命である。政治過程の処理のために議事堂という建物が実在し、議員と称する男女が実在し、政府という少数の支配者の集団がおり、多数の警察官によって守られ、自衛隊という軍隊によって予備暴力を擁していようとも、政治過程が幻想過程であるという本質の理解をさまたげるものではない。

 

(吉本隆明「情況とはなにか Ⅱ」『自立の思想的拠点』、114‐115頁、傍点を省略)

 

これなども、重要であり共感するが、「作為」としての「フィクション」に主体的に参与していくことを求めた丸山に対して、参与の対象が「幻想」に過ぎないという批判がどこまで有効であったかは分からない。

 

 このような見解は、いうまでもなく、個人は市民としてのみ現実的であり、家族の一員としては非現実的で無力な幻想であるとするヘーゲルの<家>理念から当然、帰結される見解である。

しかし、事実はまさに逆である。人間は<家>において対となった共同性を獲得し、それが人間にとって自然関係であるがゆえに、ただ家において現実的であり、人間的であるにすぎない。市民としての人間という理念は、<最高>の共同性としての国家という理念なくしては成りたたない概念であり、国家の本質をうたがえば、人間の基盤はただ<家>においてだけ実体的なものであるにすぎなくなる。だから、私達は、ただ大衆の原像においてだけ現実的な思想をもちうるにすぎない。

 

(吉本隆明「情況とはなにか Ⅵ」『自立の思想的拠点』、157‐158頁)

 

これもそうだよな。幻想であること、実体的でないこと、現実的でないことを告発しただけでは十分じゃあない。これはシュティルナーにも繋がる課題だが、それでは「幻想」「精神」を介さずにして、どのような実体的・現実的な思想と政治が可能になるのですか、と。そこを詰めないと、フィクションであり幻想だけど必要だからしょうがないじゃん、で終わってしまう。いや、私は吉本思想の全部をつかんでいるわけじゃないから、これでもって吉本評価に足れりとすることは、もちろんできないけどね。

 

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

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闘争・想像力・事実性

 

2006/03/22(水) 18:12:13 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-195.html

少々昔の議論を蒸し返すようで申し訳ないが、以下の引用部に触発されて考えたことについてまとめておきたい。

 

 ある人の生存を無条件に認めないならば、誰の生存も無条件に認められたものではありえない。Aがなければ生きられない人α氏がいる。Aを行うかどうかが「財政的に可能かどうか」という条件が付される場合、α氏の生は条件を付されたのである。生きていてよいかどうか、誰かが勝手に決めてもよい存在とされたのである。

 

このことが意味することは、次のどちらかである。(1)このような社会に住む誰がα氏のように扱われても構わないことを認めている。あるいは、(2)このような社会が標榜する「正義」は、普遍化可能性を満たしていない。(2)はあまりに馬鹿げている。とすれば(1)である。このような社会においては、誰であれ、α氏の位置に代入される可能性がある。生きているという最低限のことさえ、当然の権利ではないのだから、誰が誰から何を奪うとしても、それを禁止するはずの正義はそこにはない。それは、生きるための(あるいはそれとは関係のない)暴力を社会に呼び込むのと同じである。

 

留保のない生を肯定するか、さもなければ@モジモジ君の日記。みたいな。

 

 財政云々をまず第一の論点にすることは、「何はともあれ先立つもの」に目を向ける現実主義を装うことが多いが、実のところ、中身は単なる不誠実である。本当に財源が足りないのであれば、「障害者福祉は切り捨てる。そうしなければ我々は生き残れないからだ」と堂々と主張すればいい。そして、その上で、「障害者がどんな暴力を振るおうとも、我々は全力で迎え撃つ」とだけ言えばいいのだ。この障害者のところに、何を代入してもよい。とにかく、その生を保障することなく放逐するのであれば、互いの生存をかけた根源的な対立状況にあることを、率直に認めればいい。

 

いつかどこかで見たような手口@モジモジ君の日記。みたいな。

 

現実はそれ程単純には割り切れず、人はそれ程正直にはなってくれない。人は、自らの命が脅かされかねないような極限的対立状況でなくとも他人を見捨てるだろう。例えば、稀有な正直者はこう言うかもしれない。別に「彼」を乗せても船は沈まないけど、狭くなるから乗せたくない、と。人は、「彼」は切り捨てないと生き残れないような極限的対立状況になくても、往々にして「彼」を切り捨ててしまう。それはもちろん、自分達の(生存ではなく)生活や快のために。

 

ここでは、それこそ「道徳的には<何でもあり>」の闘争状態にある。「私」は自らの生活のために、「彼」の生存を脅かすからだ。生存レベルの対立状況などには位置していないのだから、対立状況下にあることの論証など無理だ。しかし、ここでの「私」は、「彼」が生きる価値や権利を持たないとは必ずしも思っていないだろう。助けられるものなら助けてやりたいと思うだろう(実際助けられる――自らの生活への多少の影響を許容できさえすれば)。「私」は自分と「彼」が観念的・抽象的には何ら異なる立場にないことを知っている。自分がいつかどこかで今の「彼」と同じ立場になるかもしれないことも知っている。しかし同時に、現実的・具体的には両者が決定的に違うことも知っている。ここに横たわっているのは、私達がどこまでも事実性に立脚して生きているがゆえに築かれる障壁である。

 

ここで言う事実性とは、「私」と「彼」が今現在異なる立場に立っている異なる存在であるという端的な事実を指す。確かに論理的には「私」と「彼」は入れ替え可能であるが、事実は違う。現実を生きる人々はあくまで事実性の上に立って物事を判断するので、自らの生活のためには非対立状況下での暴力行使をも排除しない。「私」の生活のために「彼」の生存を脅かす。人々は倫理的である前に政治的である。この議論が示す本質は、非対立状況下での暴力行使が「生き残るための「万人の万人に対する闘争」の扉を開いた」どころの問題ではない。重要なのは、私達が常に「より快適に生きるための「万人の万人に対する闘争」」を行っている、という認識である。

 

それ自体政治的に動かされている国家や法の存在が闘争状態を無くすわけがない。様々な法や正義は闘争状態を見えにくく、複雑に、あるいはマイルドに、小規模にすることはできても、無にすることはできない。なぜなら私達は「われわれの共同体」にどこかで境界線を引く(という暴力を行使する)のだから。法や正義自体が闘争の担い手であり、拳を振り上げているのだから。今回の議論に限らず、私達は闘争状態の外には出られない、という前提が広く共有される必要がある。その上で、各自が闘争状態をお好みの枠組みと形状に管理・抑制する努力を行えばよいだろう。各自が信じる「正義」(という恣意)を実現に近づけるために、各自の「闘争」に尽力すればよいだろう。

 

ついでながら、稲葉さんが提出する処方箋に対して、それが、立場可換性の想定(「このような社会においては、誰であれ、α氏の位置に代入される可能性がある」)を事実性が阻害してしまうというアポリアに行き着きうる危険性を提起しておきたい。「道徳的には<何でもあり>」であるような「極限状況をできるだけ予防し回避」するよう努めるべし、という稲葉的指針はさしあたって支持可能なものである。ただ、ぶつけておきたいのは、そのような「プラクティカル」な戦略の遂行こそが「幸福」という事実性の土台を広範に構築するがゆえに、結果的に立場可換への想像力を働かせるのが困難な環境を生んでしまうのではないか、という疑問である。安易な例を出すと、経済成長によってそれなりの生活水準を維持可能な層が分厚くなってくると、一貫して存在する(そしていつ自分もそうなるか分からない)低所得層には盲目になりやすくなりそうだ。一般に、「幸福」という事実は「不幸」への反実仮想を困難にするものであろうから。 それとも、この疑問そのものが安易な思い付きだろうか。

 

さておき、ここからは元の文脈から少し離れて、さらに事実性について考察を深めてみたい。大澤真幸は、個人の偶有性と単独性が相補的関係にあると指摘している。私は私でしかない。しかし、同時に私は誰のようでも有り得た。それにもかかわらず私は私である。私は偶然である、が、事実である。代替可能で必然性を持たない、存在の偶有性こそが、それにもかかわらず事実である自己の単独性を強く意識させる。他面、唯一単独である自己の存在が偶然的なものでしかないという認識は、私と交換可能な他者への想像力を醸成する(東浩紀・大澤真幸『自由を考える』、NHKブックス、2003年、75-77頁)。

 

私は、卒業論文で、上野千鶴子らの「当事者主権」論を批判した(中西正司・上野千鶴子『当事者主権』、岩波書店、2003年)。その批判は、「当事者」という語が「部外者」という語を意識させるために二元論をもたらしやすく、「主権」という語が強い排他的性格を持つがゆえに、「部外者」とされた人々が決定的に排除されてしまいかねない、というものだった。

 

「当事者主権」という発想の基礎にあるのは、近代的な自己決定論であり、それを支える権利概念である。「当事者」には権利(主権)があり、「部外者」には権利がない。権利という概念は、権力という実在する事実性ではなく、規範的な妥当性を指し示す観念である。事実的な権力を持たない者にも分与されるべきであると考えられる、間接的な権力である。分与される「べき」妥当性である以上、それは事実性に屈してはならない。ある権利を認められた存在すべてに、この間接的権力の分与が必要な時に行き渡らなければならない。規範的妥当性である権利の意義は、立場可換性と強く結びついている。なぜなら権利は、事実的状況にかかわらず、認められた条件において常に期待し要請することができる権力であり、偶有的な現実に対応してくれるからである。私は今現在事実として「幸福」だが、いつ「不幸」になるともしれない。事実としての権力は状況が変わって失われれば終わりである。しかし、規範としての権利は残る。たとえ「不幸」になったとしても権利は助けてくれる。ゆえに安心して生活を送ることができる。ここにはすでに想像力が働いている。「幸福」な私と「不幸」な私とはいつでも交換可能だが、その際「不幸」でも最低限の生活はできるようにしたい。このような想像的な立場可換を用いて規範的妥当性である権利を認めさせようとするのが、J.ロールズ『正義論』のモチーフであった。ロールズに限らず、権利の概念が依拠しているのは立場可換性であり、想像力である。当事者主権に戻れば、当事者に主権を要求することによって、いつ当事者になっても安心できるようにしたい、と考えられている。当事者主権論の説得力は、私も当事者であったかもしれない、当事者になるかもしれない、という想像力に依存している。

 

ところが、前半で指摘したように、人々はすぐに想像力を減衰させる。それを失いはしないまでも、大きくせり出した事実性の方へもたれかかりやすい。事実性がかなり強く認識されていると想像力はうまく働かないし、しばしば事実性への居直りが偶有性を乗り越えてしまう。ここで「大きな物語」の喪失(に加えて「虚構としての大きな物語」の喪失)を想起してもよい。理想としても虚構としても「大きな物語」が失われたあとでは、リアリスティックな、あるいはニヒリスティックな、あるいはシニカルな事実認識が主流を成す。社会契約説的な国家擁護や普遍的人権というロジックは、あくまで虚構に過ぎないと看破されてはいるものの、さしあたっての必要性からその存続と正統性僭称を許されている。しかし前述の「闘争状態」が現実である以上、権利という虚構の地位もきわめて不安定である。ここに至って、すなわち偶有性の認識が事実性の肥大に脅かされ、立場可換性への想像力が減衰していく状況で、私達は如何なる方針を打ち出すべきなのだろうか。

 

想像力がうまく働かない状況で当事者主権を叫んでも、あまり意義はない。私も当事者であったかもしれない、当事者になるかもしれない、という立場可換を想定できないからだ。それは、当事者としての自己認識がある人々の動員と結束には役立つかもしれないが、対外的には二項対立状況を尖鋭化させるだけだろう(それが狙いかもしれないが)。このことは権利概念一般についてあてはまる。「大きな物語」を想像できない人々は、普遍的な人権を想像できない。あるのは事実的な生か死か、快適な生活か悲惨な生活か、それだけだ。このような状況下にあっても、権利というフィクションが全く無益なものになると言うつもりはない。それは、十分ではないにせよ、依然として広範かつ強力な効力を持って機能するだろう。しかし、状況に対応するためには、従来の権利概念を再強調するだけでは不十分である。想像力が働かない状況で保持される権利は、もはや単なる不当な既得権益としか見なされなくなる。権利は、その外に位置する人々、「当事者」の外に位置する「部外者」たちにとって、実態以上に暴力的なものとして見えてくるのである。

 

想像力の減衰という危機状況は、「島宇宙化」によって社会の共通前提が失われ、「動物化」によって一般認識への志向性や人間的反省能力が失われた、と叫ばれる分析に対応している。人々は細分化され、即自的になり、社会一般や普遍性への想像力を放棄して、事実性の上に胡坐をかいて居直るようになった。元来、豊かな想像力が保持されているということ自体が、単なる事実でしかなかった。想像力が保持されている事実があれば理想的である。しかし、残念ながら、現在は事実性が全面化しつつあり、想像力は減殺されていくばかりだ。

 

私は、率直に言って、事実性が偶有性を乗り越えがちな時流を押し戻すことは難しいと考える。そして、時計の針を無理に戻そうとするやり方は、望ましくないと感じている。現下の状況において、安易な想像力回復論者たちが繰り返す「動物」たちへの強迫的言説に対して、私は批判的である。彼らは「想像せよ」と言う。しかし、その諭しは無駄で有害だ。「動物」と呼ばれる人々も、実は想像ぐらいできる。その程度には未だ彼らは「人間」的だ。だけれども、彼らは問い返す。「想像して、それでどうなるの」、「それ、私達に何かメリットあるの」。こうして開き直れる人々はまだいい。反問できるほど開き直れない「動物」たちは、自らの現実とあまりに乖離した規範的命令の前に、ただ押し黙り、苦悩し、追い詰められていくのである。それゆえに私は、想像力回復論者たちの言説が「強迫的」であり「有害だ」と言うのである。漠然とした危機感の下に若者や大衆の非「人間」性などを指弾したり啓蒙したりしようとすることは、何ら生産的ではなく、指弾者・啓蒙者側のマスターベーションでしかない。

 

ただ「想像せよ」と語るだけではだめだ。想像した結果、現実にどのようなフィードバックがあり、どのようなメリットが得られるのか。それを、実感的に語らなければならない。直近の事実性に呑み込まれないぐらいの実感を持たせられるよう、想像へのインセンティブを提供しなくてはならない。そして、想像へのインセンティブとは、それ自体まさに事実性であり、事実性の約束なのである。想像力に期待するにも、事実性に基づくか事実性に結び付けなければ、有効でない。では、事実性とは結局何のことなのか。露骨に言えば、先に出てきたように、それはメリットであり、実利である。美しく言葉を彩りたければ、幸せと言ってもよい。私達は、他者への想像を働かせることも、利害を、それも見えやすく遠すぎない利害を経由しなければできないのである。この事実を無視したお説教は無益な暴力でしかなく、控えられることが望まれる。

 

以上のような、事実から想像、想像から事実への経路を魅力的にプレゼンする(あるいは、騙し、なだめすかす?)方法は、私としては少し穏健すぎる選択肢かもしれない。そもそも、近代的な権利言説や社会契約説は利己的な個人が社会秩序を形成するための仕組みであって、そこで必要とされる想像力は当然最初から個人の利害という事実性と結びついている。つまり、上で私が言っていることは当然のことを繰り返しているだけであり、ただ想像力と事実性の距離をより近くして語れと言っているだけだ。それはそれとして必要だと思うから主張したのではあるが、あんまり根本的解決にはなっていないかもしれない(「根本的」解決を望むのが間違いだという反論は有り得るし、同意するが、ここでは言葉のあや)。そこで、もっとラディカルに、事実性のみで行こう、という方針に従うのが利害関係理論なのであるが、それはまた別の話。

 

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

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当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

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コメント

 

勉強になりました。「現在は事実性が全面化しつつあり、想像力は減殺されていくばかりだ」という時代診断がどれほど妥当かは慎重な経験的検証が必要だと私は思いますが、思想の営みとして事実性のみでいこう、というのは面白いかも。

 

だけど、事実性のみでいかなる規範的な言明(権利とか当事者主権とか)を生み出すことができるのでしょうか?それともそういうものは望んではいけないのでしょうか?また事実性のみでは自分の望む規範的な言明が導き出せない場合には、どうしたらいいのでしょうか?最小限の想像力と最大限の事実性でガンバルべきなのでしょうか?

 

うーん。そうだ、卒論送って下さい!ここでいいんで>mahalakshmi@hotmail.co.jp

2006/03/22(水) 19:31:07 | URL | dojin #- [ 編集]

 

>「現在は事実性が全面化しつつあり、想像力は減殺されていくばかりだ」という時代診断がどれほど妥当かは慎重な経験的検証が必要だ

 

dojinさん、これはまさしくその通りで、書いている段階でも多少迷った点です。「想像力は減殺されていくばかり」と断定してしまうことで、安易な若者バッシングとか大衆批判みたいな言説を力づける結果を生む危険性も無視できないでしょう。ただ、私としては当面こういった大雑把な状況認識に基づいて考えていきたいと思っています。こういった認識を適宜補完・修正してくれるような、地道な実証研究などが多く現れることを期待しつつ。

 

事実性についての疑問に対して、現時点で満足に答えられる自信はありませんが、とりあえず卒論はお送りします。「事実性のみ」とは言っても、想像力ゼロで可能か、というところはまだ微妙なんですよね。権利とも対立するよりは共存を考えていますし。ま、ま、課題は山積です。

2006/03/23(木) 17:14:09 | URL | きはむ #- [ 編集]

 

や、5月まで卒論の公開を待つ方々(いるのか?)に対してこれで終わっては不親切でしょうから、少し補足的にお答えしておきましょう。

 

まず、事実性というのは、幸福や経済的充足だけでなく、不幸や貧困も含みますよね。貧しいのも事実、食べ物が足りないのも事実です。

 

そして、規範は力です。ここで力と言うのは、規範的言明が人の「良心」や「理性」に訴えかける影響力という意味と、規範を具現化するために必要な強制力という意味、いずれも含みます。力、権力というのは、疑いもなく事実ですよね。つまり、規範もまた事実性である、と言い得るわけです。

 

そうであれば、<事実>金をたくさん持っている人と、<事実>飢えに苦しんでいる人がそれぞれいて、間にいる<事実>強制力を持っている人(機関)が前者から金を奪って後者に与えることは単なる事実であって、そのやり方が支持を得るかどうかもまた事実の推移に過ぎません(「事実」ばっかでご免なさい)。上でも言っているように、権利とはつまるところ権力=事実性なのです。

 

現在は権利という想像力を動員するタイプの規範が支配的な事実状況にありますが、その安定が揺らぐか、もしくはそもそも権利では不十分な点が多すぎると考えるのであれば、別の規範が支持を得るような事実が出現してもいいわけです。規範と想像力の結びつきは必然的ではない、とまで言えるかどうか未だわかりませんが。ともあれ、じゃあ(権利だけじゃ不満だから)利害関係という事実性に直接訴えかけることで、極力想像力に頼らないで政治的・経済的な要求や関与に「正当性」(と言ってまずければ「根拠」)を供給することはできないか。私の問題意識はこんな感じです。

 

そうそう、だから、ご質問二点目の「事実性のみでは自分の望む規範的な言明が導き出せない」という状況は、定義上有り得ません。現在の事実性、規範が気に入らなければ、自分の望む規範的な言明に事実としての支持と力がつくように、しこしこ努力すればいいだけです。

 

うーん、喋り過ぎかな…。よし、利害関係のもっと別の可能性については黙っとこう。フフン。

2006/03/23(木) 18:48:11 | URL | きはむ #- [ 編集]

 

TB

 

政治学の根本問題 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070116/p1

平和主義との訣別

 

2006/03/20(月) 21:22:08 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-200.html

私の今の研究課題は、エゴイズムと利害関係理論の構築である。大学に入学した頃は、こんな研究をするとは考えもしなかったし、そもそも大学院にまで進むと予想もしなかった。思えば、ここまで到達するのには、そこそこの変遷があった。

 

学問とは程遠い中高生の頃から、私の関心はずっと平和の問題、暴力と生死の問題に注がれてきたように思う。個人主義的な思考傾向は、一貫してあった。私にとって許し難い暴力の主体は国家、軍隊を持って国内外で暴れる国家であり、内部の多様性に対応しきれない国家であった。私の頭の中にあった図式は常に、国家対個人だった。かつてグローバリゼーションや「ガヴァナンス」論に飛びついたのも、国家を相対化する議論に魅力を感じてのことだと思う。やがて暴力の絶対的な主体としての国家を拒否する思想こそ、すなわちアナーキズムこそ自分に相応しかったのではないか、と考えるようになって多少足を突っ込んではみたが、結局それも違うと気づいた。それは、暴力という問題に対して、より自覚的になった、視野を広げた、ということだったのだろう。基本的に国家だけを問題とする思想ではダメだと、考えるようになった。そのとき私は狭義のアナーキズムを捨てたのである。

 

「狭義のアナーキズム」とは何か。私は、様々な違いはあれ、国家の廃絶を目指す思想がそれだと考えている。これに対して、「広義のアナーキズム」とは、名の原義通り「無・支配主義」=「無・権力主義」であって、権力の廃絶を目指す思想のことであると考える。私は、自分は狭義のアナーキズムは捨てたけれど、広義のそれにはまだコミットしていると考えていたが、ある時期からはそれも違うと思っているので、この際に、そのあたりをはっきり書いておきたい。

 

ところで、アナーキズムと似ているものがある。それは、平和主義である。平和主義はふつう、平和を愛好する思想、といったふうに緩く使われているが、厳密に考えれば違うはずだ。学者などは、それを絶対平和主義と相対平和主義の二つに分ける。前者は、戦争や軍隊の保持をいかなる条件においても許容せず、その廃絶を目指す思想であり、後者は、戦争や軍隊の保持という選択肢を排除しないが、それに制限をかけようとするものである。私が思うに、後者は平和主義の名に値しない。国家の廃絶を目指さないが、それに制限をかけようとする思想を「相対アナーキズム」とは言わないだろう。したがって、絶対平和主義が平和主義に等しいと理解してよい。

 

さらに平和主義の定義について考えてみよう。ふつう言う「平和」とは戦争が無い状態としての「平和」である。したがって、この定義に基づく「平和主義」は、戦争とその手段および原因になり得る軍隊の廃絶を目指す。しかし、ヨハン・ガルトゥングはそうした従来の「平和」概念は「消極的平和」であるとして、戦争に限らない暴力の欠如=「積極的平和」こそが真の目標であると説く。このように暴力の欠如が「平和」であると定義し直すと、「平和主義」の意味自体も変わる。ガルトゥングによれば、平和を妨げているのは戦争などの「直接的暴力」だけでなく、あらゆる不自由や不平等を生み出すような体制、状況を含む「構造的暴力」もまた、平和に対立する暴力の一種である。ガルトゥングの理論には、「平和」の意味範囲を無際限に広げすぎるなどの批判もあるが、とにかくもこうした考え方があることを視野に入れると、平和主義にも二種類あることがわかる。すなわち、戦争および軍隊の廃絶を目指す「狭義の平和主義」と、構造的暴力も含んだ暴力すべての廃絶を目指す「広義の平和主義」である。そして、後者は広義のアナーキズムと重なることがわかるだろう。

 

さて、では私はアナーキズムと平和主義をそれぞれ二種類に分けて、何を言おうとしているのか。それはとても単純なことで、今や私はアナーキストでないように、平和主義者でもない、と言いたいだけだ。そのためにあらかじめ、広義の平和主義=広義のアナーキズム=無・権力主義という等式を置いておきたいと思う。私は既に狭義のアナーキズムの放棄については何度か語っているので、狭義の平和主義と無・権力主義の放棄について語ればいいことになる。そのために、さらに迂回をしよう。次なる論点は、理想を語るか現実を語るか、である。

 

ものを考えるのに、クールでドライな現実認識を基礎にするのは当然であり、最低限の条件の一つだ。しかし、それと理想を語ることは両立する。全き理想を提示し語ることによって、目的意識が明確になるとともに、現実との距離が実感され、その距離をいかにして詰めるかというプロセス論へ駆り立てられる。だから、理想を語ること、理想を掲げることは、現実的にも十分意味がある。そう、私は考えてきた。理想を最初から排除することは、安易な諦観に陥りやすいし、目的意識が希薄になりやすい。だから、理想を語らなければならない、と。

 

しかし、自らを振り返って考えてみると、ある時期から考えが変わってきているようだ。現在の私は、むしろ安易に理想を語ることに批判的であるようだ。その理由には、理想を語ることのデメリット、ユートピアを指し示すことによって陥りやすくなる陥穽の方が、大きな存在として目に入るようになった、ということがある。端的に言って不可能か、それに限りなく近い理想を語ること自体が、クールな現実認識を曇らせやすい、という典型的な理想主義批判が一つ。次に、理想として掲げられるユートピア自体が、欺瞞を含んだ擬似ユートピアである危険性が高く、仮にそれが実現されても理想の実現とは言い難い、という点。三つ目に、掲げられ語られる「理想」自体が恣意的に設定されることの避けられなさ、という点がある。

 

一つ目の点は説明不要だろう。もっとも、理想を語らずとも現実認識が曇る危険性は常に誰にでも有り得るので、この点はあまり重要でない。二点目については、狭義の平和主義と絡めて述べよう。狭義の平和主義にとって、戦争と軍隊の廃絶された世界が理想でありユートピアである。しかし、実際には軍隊が廃絶されたからといって、真に問題であるはずの暴力が廃絶されるわけではない。軍隊の廃絶された世界でも法が存在し、警察が存在するだろう。軍隊が無い代わりに、超強力な警察と国境警備隊が整備されるとすれば、狭義の平和主義の意味はよくわからない。この点は、国家の廃絶にばかり気を払って、非国家的アクターの暴力を軽視するアナーキズムと共通する問題である。

 

戦争を本当に無くそうと思ったら世界政府をつくる必要があるが、その際、世界警察は非常に強力な暴力を保持しなければならないだろう。それは、狭義の平和を守るために必要とされる暴力だ。別に世界政府でなくとも、国連の集団安全保障体制がこの暴力に対応する。戦争を無くそうとするのが、人死にを、暴力を無くそうという目的に基づいているとすれば、戦争が無くなりさえすればユートピアの実現だと言うのは、他の暴力を無視した欺瞞でしかない。軍隊の廃絶ばかりにこだわるのは、フェティシズムでしかない。狭義の平和主義が目指す理想は、きわめて限定的な暴力撤廃でしかなく、とても真の理想と言えるものではない。このように私は考えて、狭義の平和主義にコミットしないし、理想語りへの懐疑もつのらせる。掲げられているユートピアは、本当に理想的なものだろうか、と。

 

三点目に移ろう。「理想」の恣意的設定の避けられなさとは、それが誰にとっての「理想」であり、どこまでの範囲に及んで、どの程度の水準を目指すものなのか、ということが暗黙の内に、誰かによって恣意的に定められることが避け難い、ということである。例えば、暴力の廃絶を理想に掲げるとしよう(と言うより、真に「理想」に掲げ得る理念は暴力の廃絶以外にないと私は思う)。しかし、暴力廃絶すべし、との規範的命令の範囲はどこまでか。多くの人々は、暗黙の内にそれを人間相互に限定してしまうが、その根拠はよくわからない。なぜ他の動物への、植物への、その他の物質への暴力行使は許されるのか。また、「暴力」とはどこまでを指すのか。物理的暴力だけを指すとすれば、あまりにも狭い。身体だけでなく、その内面にまで干渉・介入してくる行為は、紛れもなく暴力的であろう。しかし、そうすると私達は暴力から逃れられなくなる。教育も暴力的であるし、会話自体も暴力的であるし、現代思想の水準からすると、そもそも私達が必ずその内部に生まれてくる言語そのものが、他者を代替可能な次元に還元してしまうという意味で常に暴力的なのである。

 

こんなことを言ってしまうと身も蓋もないと反発する向きもあるだろうが、間違いなく私達は暴力の内部で生まれ育ち、その外部には出られないのである。ここにおいて「暴力の廃絶」という「理想」が、どういう状況を指しているのか、私は想像もできない。それにもかかわらず、私達が何らかの「理想」として「暴力の廃絶」を設定できるということは、極めて恣意的にその意味範囲と目標程度を限定している、ということを意味する。そして、そうであるとすれば、その限定、「理想」「暴力」「廃絶」の定義という行為こそが、紛れもなく暴力的ではなかろうか。少なくとも、限定された目標範囲から外された存在にとってはそうであろう。残念なことに、「暴力の廃絶」という理想を掲げること自体が、何処かの誰か/何かに対しての暴力行使に違いないのである

 

そうであるとすれば、私にはもはや、最初に「理想」を設定するアプローチはとれない。何らかの遠い目標を置くこと自体を批判しているのではない。「全き理想」というものを設定することが不可能である、と言っているのだ。「全き理想」(とは「暴力の廃絶」以外有り得ないが)のつもりで設定したものでも必ず既に何かの限定=暴力を含んでいる、という事実をひとたび認識した上で仮に何らかの「理想」(目標)を設定しようとすれば、その基礎に暴力行使があることを引き受けざるを得ない。すると、「理想」の前には必ず、かき消せない暴力という現実認識が先行することとなり、理想先行型アプローチはとろうとしてもとれないことになる。したがって、私は安易な理想語りを批判する。「全き理想」=「暴力の廃絶」を語ることが不可能である限り、厳密な意味での「理想」「ユートピア」は想定することもできず、限定的な意味での「理想」しか語ることができない以上、そこには暴力の引き受けという現実認識が先行せざるを得ない。この現実認識を持たない理想語りは、ナイーブであるか欺瞞であるかのどちらかである。理想を語るためには、現実の引き受けが必要不可欠なのだ

 

さて、狭義の平和主義は既に批判した。同時に、暴力から逃れられないと述べ、全き理想としての暴力の廃絶は想像もできないと述べたことで、無・権力主義への私の立場も既に明らかであるように思う。広義のアナーキズムにせよ、広義の平和主義にせよ、無・権力主義は権力=暴力の廃絶を目指す。しかし、想像もできないものを、どうして目指すことができようか。暴力の廃絶は、端的に不可能である。不可能なものへのコミットを選び取る人もいるだろうが、私はそうではない。私は、可能な現実の中でよりよく生きたいのだ。

 

暴力は無くならない。その現実の中でよりよく生きたい。私は、国家や法、軍隊や警察、戦争や裁判を、それが暴力だという理由で厳しく批判するし、いかなる理由によっても決して正当化しない。しかし、私は自分がよりよく生きるために、これらの暴力を利用する。これらの暴力を自らの「力」として、自らの利益の保護・拡大のために役立てる。したがって、私はこうした暴力を決して正当化しないし、反吐が出るほど汚らしい存在だと思うが、全否定はしない。それが、自分にとって役に立つからだ。

 

もちろん、仮に国家や軍隊が私の役に立たないとしても、現実にこれらの暴力に対抗できるだけの力を持たなければ、それを廃絶することはできない。国家は単なる抽象物ではなく、実力を持った抽象物であるから。しかし、そうであるがゆえに、先人達は国家をできるだけ抑制しコントロールして、自分達の役に立つようにしようと努力してきたのである。そのおかげで、私にとって国家は、ただ自分を抑圧する力ではなく、自分が多少なりとも利用することができる力として現れるようになったのである。暴力が無くならない以上、私達にできることは、それに制約と改善を加え、自らの利益に資するよう再編成することである自分はどうしたいのかどのように暴力を用い、どのように暴力を制限したいのかそうした意志と行動を示すことだけが、私達に可能な全てだ

 

私は平和主義にコミットしない、それを放棄する、と言うことで勘違いする向きもあるかもしれない。念の為に言っておくと、私はいかなる戦争も正当だと思わないし、反対である。日本国憲法第九条を改正する必要は感じないし、個人的には自衛隊が無くなっても構わない。だけれども、だ。繰り返しになるが、戦争だけを特別扱いすることはできない。私が無関心や不作為によって近くの人々、遠くの人々を間接的に殺すことと、戦争による大量殺人は、本質的には何も違わない。数の問題は、全体として見れば重要でないことはないが、殺される本人にしてみれば全く重要でない。それに、生命は奪わない程の暴力が生命を奪う暴力と比べて「きれい」である、ということもない。暴力は暴力だ。私は暴力を振るって生きている。そのことを決して忘れたくないし、ごまかしたくない。だから無・権力や暴力の廃絶という不可能な「理想」を掲げることも目指すことも、できない。平和主義者を名乗る以上は、こうした全き理想を真に目指していなければ何の意味もないと思うから、私は平和主義にはコミットしないと言うのだ。私が掲げるのはエゴイズム以外に要らないし、名乗るのはエゴイストで十分なのである。

 

最後に、平和に関する過去のエントリを挙げておく。今とは考えの違う点もいくつかあるが、基本軸としてはさほど変わっていないようにも思う。

 

核抑止システムの虚構性

森達也とか外交とか

安心担保装置としての九条

それは絶対平和主義だけの問題なのか

軍隊への幻想あるいはリアリズムをめぐって

失敗、責任、反省、改良

 

でも、やはり違うかな。いや、変化を強調するのも一貫性を強調するのも適切でない気がする。3、4年前の私なら、このエントリをどのような思いで読むのだろうか。

 

それから、私はあくまでも手前勝手な定義によって、手前勝手にismを取捨選択しているので、私の定義が不当だと考える人々も多数いるだろう(特に「支配」を「権力」にすり替えたあたり―アナーキズムの原義については、参照>田中ひかる「反グローバル化運動におけるアナーキズム」『現代思想』第32巻第6号、2004年5月)。アナーキズムや平和主義について詳しくない方も、この定義はちょっと違うのではないか、と思ったかもしれない。そういう方は、アナーキズムに関してなら例えば、田中ひかるさんが運営されているページの「参考資料」や、「アナキズムFAQ」などにあたるとよいだろう。私とは違う定義の可能性のヒントになるかもしれない。平和主義の定義はあまり見ないのだが…、まぁ平和学の文献でもあたっていただきたい。

 

 

コメント

 

ちょっと圧倒されちゃいました。

たまたま目を通していた,おおや先生の論考にも通ずるのかなと,なんとなく思ったのでした。

 

大屋雄裕「他者は我々の暴力的な配慮によって存在する:自由・主体・他者 をめぐる問題系」 – 別冊「本」『RATIO 01』講談社

 

今後の展開に期待しとります。

 

p.s.どうやら出身高校同じようで。ガッコで顔合わせてたのかもしれませんね。どうでもいいですが。

2006/03/21(火) 20:00:47 | URL | rory #dXngx1UA [ 編集]

 

roryさん、どうも。大屋さんの論考は私も興味深く読みました。まぁ、大屋さんの取り組んでいる問題系を把握するには私あまりにも勉強不足なのですが、結構通じるとは思います。

 

高校の件、顔合わせはわかりませんが、どっちにせよ私が2、3年下ですよね。rory先輩、一つこれからもよろしくお願いします。

2006/03/22(水) 16:47:39 | URL | きはむ #- [ 編集]

 

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平和論ノート(1)平和を諦める http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070117/p1