私は私の文章から疎外されている

 

2005/12/15(木) 13:27:49 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-182.html

私が書いた文章は、私から疎外している。文章は私から疎外されているし、私は文章から疎外されている。両者はそれぞれ独立して相対する。

 

私が書いた文章は、私から生まれたものだ。

 

私は、文章を書くにあたって、頭の中に浮かんでいるいくつかのアイディアや言い回しを整理しながら、序列づけ、結びつけて、文章に編み込む。使えるだろうと意識的/無意識的に想定していたアイディアや言い回しは、決定稿からはしばしば除外されている。使われなかったアイディアや言い回しは、未発の可能性に留まる。

 

できあがった決定稿は、私のその時点での考えの結晶として姿を現す。決定稿が一度立ち上がると、次第に私は、その姿を通して自分自身の考えをたどり、思い返し、整理するようになる。決定稿の中には、同じ時点に存在したはずの未発の可能性としてのアイディアなどは、含まれていない。もちろん、私は執筆当時の自分の考えを思い返すことができるが、現前する文章とその背後にあったはずのアイディアとでは、私に訴えかける力の差があまりに大きい。

 

さまざまな未発の可能性にもかかわらず、決定稿は私の考えを規定するようになるだろう。それは、私から生まれたものであり、私が考えていたはずのこと、私が考えているはずのことであるから。多かれ少なかれ、私は私から生まれた文章によって、自らの考えを狭められ、色づけられることがある。

 

私が書いた文章は、私から生まれたものだ。それにもかかわらず、文章は私を規定するようになる。文章は、私とは異なる独立した存在だ。

 

私が書いた文章に対して、最も大きい利害関係を負っているのは、ほとんどの場合私だ。したがって、私の文章に対する責任は私が負うだろう、と私以外の人が期待することは、非合理な振舞いではない。非合理な振舞いではないがしかし、その期待は必ず叶えられるべき期待ではない。私と私の文章とは異なる存在であり、私もまた私の文章に脅かされるのであるから。

 

もちろん、私は私の文章に対して全く無力であるわけではない。私は文章を訂正することができるし、放棄することもできる。したがって、私と私の文章との関係を、あまりニヒリスティックに捉える必要もない。ただし、私が私の文章に対して無力ではないからといって、私が私の文章に規定されるという事実がなくなるわけでもない。楽観にも悲観にも陥らない、注意深い思慮が不可欠なのである。

 

以上、私と私が書いた文章との関係について述べてきた。私は、上記の見解を、民主政における有権者と政府との関係に応用することができる。民主政の場合は、文章の場合と比べて、より単純な側面もより複雑な側面も発見できることだろう。例えば、文章の場合と異なり、私と政府の関係は一対一の関係ではない。この事実は、より複雑な側面を意味していると言える。

 

さて、有権者と政府との関係を、楽観にも悲観にも陥らない注意深い思慮を以て考察すると、いかなる結論が得られるのであろうか。非常に興味深いテーマである。

自由主義と非人格的権力

 

2005/12/12(月) 17:57:57 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-178.html

シェルドン・S.ウォーリンによれば、自由主義者達は、その思想の帰結として、非人格的権力の支配を承認する。自由主義が個人を擁護してきたのは、何らかの人格的権力からであって、非人格的・匿名的な社会集団による統制は否定されない。なぜなら、その集団の代表は、自分達の代表であって、その行為は自分達の行為に等しいからである。個々の意思と集団の意思とが符合するとされれば、集団の非人格的な権力行使は、正当化される。

 

ハンス・ケルゼンは、非人格的権力の肯定を、自由主義ではなくデモクラシーから導き出している。彼によれば、自由概念が転化することで、民主主義が自由主義的理想から解放された結果として、国家権力が肥大化する。ケルゼンの自由主義の捉え方は、ウォーリンのそれとは差異があるかもしれないが、非人格的権力が承認されてくる過程の描き方は、大筋として違わない。

 

 自由要求の出発点を形成する各個人の意思と、個人に対し他人の意思として対立する国家秩序との間の、避けることのできない相違に直面して、この相違が近似的には最小限度に低減せられたデモクラシーにおいてすら、政治的自由の観念においてはさらに一段の転化が行われる。本質的には不可能な個人の自由は次第に背後に立ち去り、社会的集団の自由が前景にあらわれてくる。自分と同輩のものの支配に対する抗議は、政治的意識において――デモクラシーでも不可避な――支配の主体を推し出してくる。すなわち、匿名の国家人格を構成する。外からみえる人間からではなく、この匿名の人格から、最高権を発せしめる。秘密に満ちた全体意思と、全く神秘的な全体人格とが、各個人の意思と人格から解放せられる。(中略)民主政治においては、国家そのものが支配の主体としてあらわれる。ここに国家人格というベールが、人が人を支配するという民主主義的感情にとってたえがたい事実を隠蔽する。(中略)

自分と同輩のものが支配する、という観念が一たん除かれると、個人は国家秩序に服従しなければならぬ間は自由ではない、という認識にもはや閉じこもる必要はない。支配の主体の推移とともにまさしく自由の主体も推移する。個人が他の個人と有機的に結合して国家秩序を創造する限りは、まさにこの結合の中において、そしてこの中においてのみ「自由」であるということをますます力強く主張するようになる。

『デモクラシーの本質と価値』、41~42頁、傍点は省略)

 

ケルゼンによれば、自由思想は次第にその意義を転化させていく。その転化過程は、アイザイア・バーリンが言うところの「消極的自由」から「積極的自由」への発展過程に等しい。そして、引用部に続く部分で、この転化過程の最終段階においては、「国民はその総括である国家においてのみ自由であるから、必ずしも個々の国民ではなく、国家の人格が自由であるということを要求する」ことになると述べられる。ここに至っては、もはや個人の自由は問題とはされない。まさしくバーリンが懸念した積極的自由の危険性を示してはいないだろうか。ケルゼンによれば、「デモクラシーに関して最も才能ある著述家」は、国家が個人に「自由であることを強制する」ことに、少しも尻込みしなかったのである。この著述家とは、疑いもなくJ.J.ルソーのことである。

 

さて、自由主義がその発展の帰結として個人の自由を放棄する地点まで到達することは、それ自体興味深い事実だが、今回注目したい点は別にある。重要なのは、人格的権力の支配を嫌う人々も、非人格的権力の支配にはそれ程抵抗を覚えないことである。もちろん、上述の場合には、非人格的権力の権源が自らに由来しているという認識が鍵になっている。また、その権力の支配が、多大な便益をもたらしてくれるかどうかも重要なポイントであろう。しかし、こうした条件を満たしていなくとも、私達は非人格的権力に抵抗を覚えることが少ない。

 

私達は、人の支配には抵抗したくなるが、人ならぬ者の支配には素直に従う。何故だろうか。「そういうものだ」と思うからだろう。環境管理型権力とは、「そういうものだ」と思わせて統制をかけるものだ。今では有名になったが、マクドナルドの椅子が固いことも、予備知識が無ければ「そういうものだ」と思っていただろう。あるいは、自然の制約や災害も非人格的権力には違いない。自然による暴力に、人間による暴力と同様の反感を覚える人は、あまりいない。

 

人格的権力に抵抗感を覚えるのは、そこに他人の恣意や悪意、利己心が透けて見えるからである。国家その他の集団の支配は非人格的権力であると言われても抵抗感が拭いきれないのは、一見は非人格的な存在にも、至る所に人格的意思が見え隠れしているからであろう。何も知らなければ「そういうものだ」と思っていた環境管理型権力も、一旦露見して人の作為が感じられれば、何だかいい気持ちはしなくなってくることが多い。非人格的だと感じられたものが、人格的権力であることが分かった時点で、抵抗感の芽が生じてくる。

 

非人格的権力が「そういうものだ」とすれば、国家その他の集団の権力とは、厳密に言えば非人格的権力ではないことになる。それは、あくまでも集合人格的とでも呼ぶべき権力であり、非人格的・匿名的とするのは擬制であろう。

 

それにもかかわらず、民主的プロセスに基礎を持つか多大な便益をもたらす限り、集団人格的権力の支配は承認される。ビッグブラザーの支配は承認可能である。ビッグブラザーの支配に本気で抵抗したければ、自由主義やデモクラシーとは別の原理が必要にならざるを得ないように思える。もちろん、そもそも抵抗する必要があるかどうかが、第一の問題になるが。

 

まとまらず支離滅裂だが、これ以上書けなさそうなので、ここで終わっておく。

 

デモクラシーの本質と価値 (岩波文庫)

デモクラシーの本質と価値 (岩波文庫)

刑法についての試論

 

2005/12/11(日) 21:39:28 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-179.html

刑法について書いてみたいと思う。法学部でもなく、刑法の入門書すら読んだこともなく、刑法の学部講義ですら受講したこともない私には、全く以て無謀な試みと言うほかないが、物は試し。

 

とりあえず、このエントリの素材になったのは、主に以下の文献である。この程度の付け焼刃だとご理解された上で読んで欲しい。

 

『刑法三十九条は削除せよ! 是か非か』呉智英・佐藤幹夫[共編著]

「刑罰から損害賠償へ」橋本祐子(『同志社法学』第52巻第6号、2001年3月、370~392頁)

「リバタリアニズムの刑罰理論」森村進(『人間の尊厳と現代法理論』三島淑臣ほか編、435~453頁)

「リバタリアニズムと犯罪被害者救済」森村進(『一橋法学』第1巻第2号、2002年6月、207~221頁)

 

まずは刑法が想定している人間像の話から入ろう。刑法が想定している人間像とは、自由意思を持ち、合理的判断ができる人間である。刑法は、理性や自由意思が無ければ、責任能力が無いと考える。したがって、「心神喪失者」や「心身耗弱者」は、第三十九条によって、その刑が免ぜられるか減軽される。

 

ところで、合理的人間像を想定しているのは刑法の専売特許ではない。経済学もまた、この合理的人間モデルを基礎においている。完全市場における利己的経済人は、自らの効用を最大化するべく、全ての行動を合理的判断に基づいて行う。これは仮定だが、そのまま現実に適用してもよいと考えだすと、新自由主義などと呼ばれる考え方に近くなる。あらゆる情報と条件を勘案して、自己利益を最大化する行動を合理的に選択しているのであるから、その結果については各個人にのみ責任が帰せられる。こうして新自由主義においては、自由放任経済における自己責任が、現実に適用されるべき方針として肯定的に捉えられる。しかし、現実の市場は不完全であり、現実の人間が不合理かつ誤り得る存在であることを知っている人々は、新自由主義に反対して、何らかのセーフティネットの設置を主張する。

 

経済における合理的人間像を参考にして考えると、刑法が合理的人間像を想定しているということは、合理的判断によって犯罪行為を選択した人間は、結果として刑罰を受けることが自己責任であるとされることになる。犯罪行為の責任として刑罰を受けることは、至極当然であるように思われるし、実際ほとんどの人が賛成するだろう。しかし、「合理的判断によって」とか「自己責任」という言葉に抵抗を覚えた人もいるはずだ。市場における合理的人間像に批判的な人々は、果たして法学分野では合理的人間像を肯定できるのだろうか。

 

当然ながら、現実の人間は常に合理的ではないので、犯罪行為者も、合理的判断に基づいて犯罪行為をするとは限らない。また、知的障害者や精神病者、認知症患者、低年齢者その他は想定の外に出てしまう(ゆえに刑法三十九条などがある)。さらに、自己責任論との絡みで言えば、犯罪行為者になる可能性は、かなりの部分を所得水準や教育程度などの社会的格差や偶発的条件によって、左右されると考えられる。こうしたことを考え合わせると、法に触れたから即刑罰を受けるべきだという考え方には問題が無いと言えるだろうか。市場における敗者がそうであるように、犯罪行為者にも「セーフティネット」が必要となるのではないか。

 

刑法が合理的人間像を想定していることを批判することは、三十九条を削除して精神病者にも刑罰を与えようと結論づけるよりもむしろ、精神病者など以外にも犯罪行為者を対象とした「セーフティネット」を広げることを要請する。もちろん、精神病者や知的障害者に対する現在の「セーフティネット」も、十分整備されているわけではないだろう。その整備と併せて、貧困や教育程度の低さから犯罪行為者となった人々にも、ある種の「セーフティネット」が構築されるべきである。受け入れやすい言葉を使えば、罪を犯してもやり直せる社会をつくろう、ということでもある。

 

こうした犯罪行為者を対象とする「セーフティネット」は、具体的には、教育や職業訓練などを施して、社会に復帰させていくことを目指すことになるだろう。刑務所と同形の施設には収容されるかもしれないが、そこで犯罪行為者に課されるのは、刑罰とは言い難くなる。従来の刑罰観からすると、受刑者の更生を刑の本質とする教育刑観を徹底させた形と言えるかもしれない。そこには、罪の報いを与えるのが刑の本質だと考える応報刑観の色合いは失われる。

 

もちろん、この刑事司法における「セーフティネット」構想には問題がある。犯罪被害者のことを置き去りにしている点が、その第一にして最大の問題だろう。近代刑法が抱える欠陥は、合理的人間像ともう一つ、犯罪を全て国家に対する犯罪であると捉える点である。この点は、以前にも書いたことがある。

 

つまり、刑法は国家の権力濫用を防止するためにつくられており、犯罪者とその人権の味方である、という事実がある。そこでは裁判・処罰・更生の過程は国家と犯罪者の2者関係であって、被害者はこの構図の中に組み込まれていない。

国家は犯罪者だけでなく、その被害者にも強制力を及ぼしている。すなわち、いわゆる自力救済(復讐その他)など、個人や社会に本来備わっている問題解決能力のかなりの部分を取り上げているのである。

(「犯罪被害者保護に一考」)

*1

 

私も、犯罪被害者を置き去りにするべきではないと思う。国家による刑罰ではない形で、加害者および被害者自身による自主解決的制度が刑事司法の中心に据えられることを望む。現行の刑事司法制度に代わる当事者主体の制度として考えられる案の一つが、R.バーネットが主張する、損害賠償一元化論である。

 

 最近リバタリアニズムの法学者ランディ・バーネットは、刑罰制度を廃止して純粋な損害賠償の制度に一元化すべきことを精力的に説いている。彼の基本的な発想は単純明快である。「[損害賠償の観念は]犯罪を、ある個人が別の個人に対して行った違法な行為として見る。被害者は損害を蒙った。正義は、有責な違法行為者が自らのもたらした損害を償うということにある。……われわれがかつて社会に対する違法行為を見たところで、われわれはいまや被害者個人に対する違法行為を見る。……強盗は社会から奪ったのではない。犠牲者から奪ったのである

そしてバーネットは、有罪を宣告された違法な行為者が損害賠償ができず、そして信用が置けないならば、この人物を雇用プロジェクトに拘束することを提案する。それによると、違法行為者は(家族が望むならば)その施設の中で家族と暮らすこともできる。雇用プロジェクトへの拘束は刑罰ではなくて、損害賠償を取りたてるための手段にすぎないからである。この人物の賃金からは居住費や食費が差し引かれて、残りは被害者と政府のものになる。というのは、この人物は自分の逮捕や裁判の費用も負担しなければならないからである。違法な行為者が解放されるのは、自分のもたらした損害をすべて賠償してからである。損害賠償の額は、現実の損害と費用に厳格に限られる。意図とか道徳的性格とかいった、行為者の内面に関する要素は無関係である。(むろん被害者は現実の損害以下の賠償や金銭賠償以外の賠償方法に同意することもできる。結局損害賠償請求権は被害者に属しているのである。)

(前掲「リバタリアニズムの刑罰理論」、437~438頁、強調は原文、一部括弧内を省略)

 

このバーネットの構想には、様々な問題があるのだが、基本線としては魅力的であると思う。バーネットや森村は多分賛成しないだろうが、私としては、損害賠償と「セーフティネット」を組み合わせることで、対象としての合理的人間像の想定と、構図としての国家対加害者の想定という、刑法の二大欠陥を埋め合わせることができるのではないかと考えている。具体的にどう組み合わせるのか、「セーフティネット」が上述のように教育や職業訓練だけをその内容とするのかなどは、まだ明瞭でない。無責任なことを言えば、他の人が考えて下さると嬉しい。

 

ただし、犯罪被害者の救済と加害者の更生・社会復帰にはこれだけでは十分とは言えない。さらに、修復的司法の助けも必要とするだろう。修復的司法について詳述する余裕も知識も無いが、とりあえず以下を参照して欲しい。

 

 修復的司法は、応報的司法の対抗軸として登場しました。すなわち、応報的司法は、犯罪を、刑罰法規の違反と把握し、刑事司法を、国と加害者との勝ち負けにおいて刑罰を決定するシステムであるのに対して、修復的司法は、犯罪を、人々およびその関係の侵害と把握し、被害者、加害者、地域社会が関与して、それぞれの修復・回復をめざすシステムを探求するものです。(中略)

 

修復的司法は、被害者・加害者・地域社会の3者によって犯罪を解決するのが純粋型といえますが、「犯罪によって生じた害を修復することによって司法の実現を目指す一切の活動である」と広く解することができると思います。したがって、被害者の支援、加害者の援助、地域社会の再生なども、修復的司法の考え方に基づくものです。

http://www.asahi.com/ad/clients/waseda/opinion/opinion116.html

 

最後に刑罰観について触れておこう。バーネットは、損害賠償一元化論を唱えることで、応報刑と抑止刑を退けた。応報刑観については、私は積極的にこれを採用する動機が得られない。単純に非生産的であると思う。捜査・訴追・拘禁コストまで犯罪行為者に課す損害賠償一元化論では、指摘されるほど犯罪コストは小さくない気がするので、特に抑止刑を付加しなくてもそれなりに犯罪抑止効果はあると考える。また、「セーフティネット」が有効に機能して、再犯率を低下させることができれば、結果として抑止効果を持ち得るとも思う。

 

そして、残る問題は、この「セーフティネット」構想が持つ教育刑観である。森村は、個人の内心にできるだけ立ち入らないリバタリアニズムは、教育刑と調和しないと言う。「セーフティネット」は確かに、ある程度個人の内面への介入かもしれない。しかし、無理やり人格を矯正するわけではなく、被害者との接触や地域社会との交流を通して再教育を図るものである。教育が規律訓練権力の行使であり、一種の内心介入であることを否定しないが、だからといってそれが要らなくなるわけではない。精神病者や知的障害者などの取り扱いについては、また微妙に別種の問題をはらむが、基本的には、教育刑であることが「セーフティネット」構想を完全に捨てるべき理由にはならないだろう。

 

刑法三九条は削除せよ!是か非か (新書y)

刑法三九条は削除せよ!是か非か (新書y)

 

TB

 

司法論ノート―利害関係者司法に向けて http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070115/p1

イデオロギッシュにニートを撃て

 

2005/12/02(金) 23:48:21 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-175.html

ウェブ上でタダで読める文章をまとめた本を、逡巡しつつも結局買ってしまう私は、やはり旧世代の人間ですか。

 

『知に働けば蔵が建つ』 内田樹

 

内田さんの本は、『寝ながら学べる構造主義』しか読んだことがないが、ブログは一応読んでいて、ケチをつけたこともある。本屋で見かけてパラパラとめくってみると、私が気になっていたようなエントリはほぼ網羅されているのではないかと思えたので、購入した。多少加筆もされているようだ。

 

それで、今回は少し、本の冒頭にある、「資本主義の黄昏」「オーバーアチーブの原理」という二つの文章を軽く検討してみたい。その文章の元になっているブログでのエントリは以下のものだ。

 

資本主義の黄昏

サラリーマンの研究

 

それで、いきなり何だが、これらの文章で主張されている、「オーバーアチーブメント」やら「自己を供物に捧げる」ことやらが、人間の本質である、などという「戯言」はどうでもよい。人間以外の動物も、それらの行為に「義務感」や「達成感」を覚えることは無いとしても、行為そのものとしては大差無い事をしていると思うからである。そもそも、本当に「オーバーアチーブ」なのかどうかも疑う余地があるだろうが、私には判断する材料が乏しいので、その点はよい。ともあれ、これらの主張は、内田さんの本を読んで説教やスピーチのネタにするオジサン達のための主張であって、それ程真剣に検討する対象ではない。

 

検討が必要なのは、「資本主義の黄昏」で、こうした主張の後に展開されるニート論である。著書の方では、このニート論に加筆がなされていて、多少補強されている。内田流ニート論から一部引用をしよう。最初のものは、ブログ上でも読める部分、二番目のものは、加筆部分である。

 

おおかたの人は誤解しているが、NEETは資本主義社会から「脱落」している人々ではない。

資本主義社会を「追い越して」しまった人々なのである。

あらゆる人間関係を商取引の語法で理解し、「金で買えないものはない」という原理主義思考を幼児期から叩き込まれた人々のうちでさらに「私には別に欲しいものがない」というたいへん正直な人たちが資本主義の名において、論理の経済に従って「何かを金で買うための迂回としての学びと労働」を拒絶するに至ったのである。

だから、NEETの諸君にどれほど資本主義的な経済合理性を論拠に学習することや労働することの肝要であることを説いても、得るところはないだろう。

 

 ニート問題について、「机上の空論はやめろ。現実を語れ」と声を荒立てる人が言うことは、最終的にはいつも「だから、金が要るんだよ」という結論に落ち着く。そして、彼らの政策構想は「では、どうやってその金を工面するか?」というたいへん実際的な方向に進んでゆくことになる。

「金がない」のが人間の不幸の主因で、とりあえず「金さえあれば」問題は解決(ないしは先送りできる)という考え方を多数の人々が自明のこととしている。

だが、むしろ「こういう考え方そのもの」が現在の危機的状況を生み出したのではないか。

(34頁)

 

「こういう考え方そのもの」とは、「金さえあれば」式の功利的な考えで方のことである。内田さんは、そうした語り方とは「違うことばで学びと労働の人間的意味を語ること」こそが、喫緊の課題だと認識する。ついでに言えば、内田さんは、功利的考え方をニートにさせているのは社会であるから、「私はニートたちを責める権利が自分にあるとは思わない」と付け加えている(35頁)。

 

内田さんのニート論への批判は、端的に言えば、「矛盾しています」の一言で済むように思う。それは、内田さんは、「金さえあれば」式の功利的思考法こそが「現在の危機的状況」をもたらしたと言うのであるが、この「現在の危機的状況」の意味を文脈に求めようとすると、どうしてもご自身が言う「金さえあれば万事解決」するようなタイプの問題をしか指していないように思えるからである。つまり、功利的思考法こそが問題を生み出したのだ、と言っている前提の「問題」こそが、功利的思考法に基づいて設定されているということだ。

 

こうした「矛盾」は、内田さん自身、とっくにご承知のことかもしれない。そうした空気を無意識下に感じたこともあって、過去の私はこうした主張を「プロパガンダ」だと考えたのだろう。「矛盾」だと知りつつ、「プロパガンダ」あるいは「イデオロギー」としてこうした主張をするということは、どういうことだろうか。

 

とりあえず現在の社会に生きようとする限り、「金が要る」のは当たり前のことである。そして、そうである限り、決して「金さえあれば」式の考え方から真に脱することはできない。それは、内田さん自身も例外ではない。しかし、そうした功利的思考法に基づいて経済合理的な判断を徹底すると、ニートなる若者層が膨張してきてしまう。若者が親に寄生して働かないと、なんか色々あって日本経済はまずいようだ。そうした「危機的状況」は、功利的に言って、何としてでも避けなければならない。危機を避けるためには若者を働かせねばならず、そのためには彼らを功利的思考法から脱却させる必要がある。すなわち、「オーバーアチーブメント」や「自己を供物として捧げる」ことの「人間的意味」を教えてやらなければならない。

 

だから、内田さんは自己撞着にもかかわらずプロパガンダを打つのであり、この「ニート問題」は、ブログ版にあるように、「教育的課題」なのである。「現在の危機的状況」は、内田さんその他にとっての問題であって、ニートにとっての問題ではない。なぜなら、ニートは親の金によって、「問題を先送りできている」からである。適切には、「先送り」と言うよりも、親の金で生活できている以上、問題は未発生である。ニート自身の問題は、親の金を食いつぶした時に生じるもので、その際には、(内田さんに倣って非常に単純に考えれば)彼らは持ち前の経済合理性を発揮して労働にいそしむだろう。そして、ニート自身が問題に直面したときに働くことができるためには、「金さえあれば」式の考え方でもって、就業可能な環境を整えておかねばなるまい。

 

だから、内田さんがニートたちを責める権利が自分にあると考えないのは、当然である。むしろ本来は、逆に責められることを心配するべきである。「金があれば問題を先送りできる」という「知恵」を彼らに授けたと認めておいて、自らはそうした「知恵」に基づいて「危機的状況」を発見しながら、その「危機的状況」を解決するために、今度は彼らから「知恵」を奪って新たな「人間的意味」を教え込もうと企んでいる。非常に悪質である。内田さんには、こうした自らのイデオロギッシュな立場を隠蔽しようとする癖が見受けられる。宮台真司のようにすべて開陳せよとは言わないが、自らの「ずるさ」みたいなものを多少はほのめかしておく方が、誠実な書き手だとは思う。

 

「悪質」だ「隠蔽」だという批判の仕方をすると、どうもaraikenさんの内田批判に漸近しているようで参るな。以後、書けそうだったら内田さんの格差社会論批判も検討してみます。

 

知に働けば蔵が建つ

知に働けば蔵が建つ

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))