祭りの後、逸脱の果て

 

2005/07/31(日) 16:28:33 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-108.html

私は過去、araikenさんの内田樹氏批判について断続的に横槍を入れてきた。そしてaraikenさんのアプローチに漠然とした疑問を呈しながらも、一旦槍を収めた。あの時のぼんやりとした疑問や違和感が多少なりとも形を成してきたので、改めてaraikenさん的な言説になぜ私が同調できなかったのか、まとめてみたいと思う。

 

ただし、「araikenさん的」としたように、今回私が目指しているのは、単にaraikenさん個人の言説・論理立て・アプローチを批判することにあるのではなくて、そこに典型的に表れているような、ある一群の思想傾向をまとめて問題視することにある。その一群は多分宮台真司氏が「馬鹿左翼」の蔑称で指示しているよりも広範囲であり、彼らのことをここでは仮に「祝祭・逸脱派」と呼んでみたいと思う。他方、無目的な祝祭や逸脱に警鐘を鳴らしている(と思われる)内田氏・宮台氏を含む一群を「再帰・統合派」と名付けておく。これらの分類・レッテル貼りが適当なものかどうか、読者諸氏の検討と批判を期待したい。

 

*このエントリは過去のエントリで蓄積された議論に負うところが大きいので、事情が分からない方は、恐れながら、画面右のサイト内検索で「araiken」を検索して、議論の前提を把握する労を取って頂けるとありがたい。

 

**ここで言う「再帰」には社会学用語としての意味(それがどういうものか私はよく理解できていないが)は込められていない。

 

さて、私は一連の議論のまとめでこう述べたのだった*1

 

それでも、特に上記三本のエントリを読んでその印象が固まったのだが、araikenさんが、宮台真司言うところの「馬鹿左翼」(リチャード・ローティ言うところの「文化左翼」)とほぼその姿を重ねることは、どうやら確かだ。そして私は、それではダメだと思うのだ。ダメというのは、少なくとも私はその道を採れない、ということに過ぎないが、その次元にとどまる限り、内田氏や宮台氏はこれをまともに相手にすることなく、無視や嘲笑を適度に与えるだけでよしとするだろう。そこに「建設的対話」は無い。

 

なぜ私はaraikenさんの語り方を「それではダメだ」と思ったのだろうか。それは、内田氏のエントリに対してaraikenさんが内田氏が語っている次元と別の次元で応えていたからであり、それでは建設的対話は生まれにくいだろうと判断したからである。

 

詳しく繰り返すことはしないが、宮台氏の唱えるリベラリズムとは、自己決定や共同体、その他の近代的諸概念の限界や恣意性を十分自覚しながらも、その必要性の確かさゆえ、恒常的な問い直しを伴わせる限りにおいて近代的概念・立場を堅持する、というものだった。彼のスローガン(?)は「近代を徹底もできずに近代を超えるなど片腹痛いわ」であり、彼の立場は敢えて近代(=「内部」、既存社会)を選び直す、そこに再帰する、というものである。

この立場は、学びから降りる子供や社会から離脱しようとする若者を、中間共同体の復興などを呼びかけることによって、社会に再統合しよう、離脱を防ごう、と呼びかけている内田氏の立場と重なる。ゆえに私は、彼らの立場を総称して再帰・統合派と呼ぶ。

 

他方、再帰・統合派に反発してaraikenさんは叫ぶ。

理想とすべきなのは無目的で祝祭的な社会であり、必要なのは祝祭的なコミュニケーションである。問題があるとすれば業績主義的・生産主義的な資本主義的価値観の方なのに、内田氏は逆に多様な価値観を追い求める若者の方を問責する。氏は同時に生き方の多様性も唱えているので、これはまるっきり矛盾であり看過できない。この矛盾を説明してくれない限り、氏の戦略や議論背景などを問題とするところまで進むことはできない。

資本主義の暴走を問題視するならば、資本主義の目的性、すなわち生産主義を支配的価値の座から降ろし、異質なものを排除しない祝祭や無目的な浪費こそを価値化すべきであろう。araikenさんが目指すのは、共産主義革命のような直接的な資本主義否定ではなく、資本主義エンジンを解体するような、資本主義の土台を崩すような、資本主義を骨抜きにするような方向での変革である。

 

***araikenさんの複数のエントリ他、「祭りの戦士とは何か?」も参考にさせて頂いた。自分はこんなことは言っていない、自分の意図と異なる、という点があればご指摘いただきたい。

 

ここで、私がaraikenさんの背後に祝祭・逸脱派なるものを見る所以をわかりやすくするために、いくつかの引用をしよう。

まず、『アナキズム』というアングラな雑誌の第六号に寄稿された、DJ WATERR(TAKASHI IKEDA)名義の「逸脱の自由」という論文から。

 

 逸脱の自由は、「状況を除去」せず「強い自己」を求めない。自分の意志とは関係なく降ってきた不-利益は、自分が埋め込まれている「状況」に依存するという単純な認識をそのまま受け入れ、「状況のせいにするな、自分次第で何とかせねば」と「強く」あろうとするのではなく、ただ、自分に負担を強いる「権力」の空間から逸脱しようとする。それと関わりあうことを拒否する。自らも「権力」を所有しようと望み、自らをエンパワーメントして、権力と「闘う」のではない。むしろ、「権力」を「無化」するのだ。

 

(中略)

 

逸脱を繰り返す、無限に繰り返す、権力を脱し続ける、無限に権力を無化する。逸脱の自由は何かを達成することを目指さない。何かに向かって集団で団結しない。ただ、自分自身が権力の担い手になることも含めて、ひたすら脱権力する。これだけが、「脱権力のムーブメント」だけが、強いて言えば「逸脱の自由」の目的であり、「逸脱の自由」が「やっていること」だ。

あるいはむしろ、「何もしない」と言ったほうが良いのかもしれない。脱権力のムーブメントとは最終的にはただ「共に生きる」ことを意味するだけなのだ。逸脱者の群れは、何も目指さず、何も達成しない。ただ、生きることだけのためだけに共に生きる。これを追求することは、まさに脱権力の極みの追及であり、おそらく非常に困難なことだ。なぜなら、そのような群れは言葉の最も重要な意味において「反社会的」であり、「無法」だからだ。

(35~36頁)

 

どうだろう。araikenさんの主張と多くの類似点を見出せないだろうか。もしかしたらaraikenさん本人は、これは自分とは違う、と言うかもしれない。だが、私自身は、この「逸脱の自由」とaraikenさんの「無目的な祝祭」とはかなりの親和性を有していると思う。ついでに言うと、実は、こうした主張は私自身の考え方ともかなりの部分共通している。何せ「政治的不参加の自由」や「社会的孤立の自由」を積極的に唱道しようとしていたぐらいで(今も基本的には変わっていないが)、逸脱の自由なんて言われると激しく賛同したくなる。ただ、それだけではダメだと考えているのも事実で、だから祝祭・逸脱派とまとめて批判しようとしている。

細かいが重要な点なので指摘しておけば、著者が「反社会的」と述べているところは、「脱社会的」とした方が適当だろう。「反」は権力「奪取」や権力への積極的な「抵抗」を志向する人々に適合的な表現であり、権力へのコミットや積極的抵抗から逃れようとする著者の意図からして「脱」がふさわしい。

 

もう一つ引用しよう。多分araikenさんがより賛同しやすいのはこちらの方ではなかろうか。

引用元は講義レジュメなのだが、篠原洋治氏担当の社会思想史各論、「ジル・ドゥルーズ、欲望と権力」というレジュメから。

 

 たとえば資本主義機械は、欲望を一見多様な形で実現するかに見えて、貨幣によってこの欲望を一元化する。「分裂病的」な多様な欲望の流れは、貨幣への「パラノイア的」な欲望へと還元されてしまう。欲望は本来は生産的で多様なものである。しかし資本主義機械においては、欲望の対象は貨幣の獲得に画一化され、そのため労働によって、人々はいつでも欲望の実現を延期させられており、負債=返済の無限循環に巻き込まれている。

 

上記「祭りの戦士とは何か?」というページには、類似の記述が見られる。「負債=返済の無限循環」についてはこちらの方が解り易いと思う。

 

 貪欲に「生き延び」のみを追い求めた報いなのだろうか………近代資本主義社会のもとで人間は利潤の追求という至上の目的のために生産の道具と化してしまった。私たちは働くために生まれ、死んでゆくのだ………。肥大化した生産力が生み出した文明の恩恵を受け、快適な暮らしを享受しているかに見えるが、私たちは道具としての隷属的な生の虚しさを味わい続けているのもまた事実なのだ。生産工場と化した地球の家畜のように管理された労働者の群れ………、それが私たちの自画像である。坦々とした生産のリズムを覆い隠すかのようにスペクタキュリーな商品が日常にあふれ、私たちがその書割りのような見せ物に夢中になっているうちに、大空に輝いていた太陽は厚い灰色の雲の向こうへ消えてしまった。

 

これら二つの引用は、araikenさんをポストモダン系左翼に位置づける意味と祝祭・逸脱派を一群として明示化する意味が大きく、本筋からはあまり重要でなかったかもしれない。重要なのは、こういった認識から彼らがどこへ向かうかということである。そこで、同じレジュメに引用してあるガタリの言葉を孫引きする。

 

このような権力のファシズムに、僕たちは活発で積極的な逃走線を対置する。逃走線は、欲望とか、欲望の諸機械につながり、欲望の社会的領野を編成する。それは自分から逃げ出したり、「個人」の逃走を実践することではなくて、水道管を破ったり腫れ物をつぶすのと同じように逃走の水漏れをひきおこすということである。流れを一定方向に誘導し、せきとめようとする社会的コードがあったなら、それをくぐりぬけるような流れをつくること。抑圧に対抗して欲望の措定をおこなえば、その措定がいくら地域的に限定され、微細なものであったとしても、やがては資本主義システム全体を巻き込み、システム自体が逃走の水漏れを起こすようにしむけることができるはずだ。

(『記号と事件』36、と書いてある)

 

むぅ。何度読んでもよくわからない。私はドゥルーズもガタリもその他のポストモダン思想も詳しくないし読んでもいないので、全体像を理解していないし深く突っ込まれてもわからない。だが、とりあえずこの引用に関しては、「水漏れ」とか、一定方向の流れをくぐりぬけるとか、微細な抵抗が積み重なってシステム自体が崩壊に向かうとか、そういったイメージだけを受け取れば十分だと思う。

 

つまり、araikenさんと引用の限りにおけるドゥルーズ=ガタリをまとめた祝祭・逸脱派は、一元的な価値に抵抗し、支配的なコードの逸脱を推奨し、多様な価値と欲望を解放すると同時に、あるいはそうすることによって、「水漏れ」やら「骨抜き」やらの、ゲリラ的運動であったり内部からの切り崩しであったりする非正面突破的対抗策を志向する、という点において共通する。

祝祭せよ、歓待せよ、欲望せよ、浪費せよ、逸脱せよ、離脱せよ。彼らはこう語る。異質なものを排除せず、多様な欲望を解放し、支配的社会コードから逸脱する。それが権力や資本主義への対抗策として有効であり、そこに自由と幸福がある。

 

では、彼らの何が問題なのだろうか。

彼ら、祝祭・逸脱派の主張が持つ有効性を限界付ける、明白かつ主要な欠陥は、祝祭後・逸脱後の具体的なビジョンを準備できていないことにある。

祭りを叫ぶのはいい。逃走・逸脱を勧めるのもいい。しかし、祭りはいつか終わる。祭りの後に、ただ空虚感だけが残されない為の、一体何が準備されているというのか。逃走の果てには足場が用意されていなければ、ただ谷底へ落ちるだけである。逸脱しても生きていけるだけの環境がスペースがどこに用意されているというのか。

 

具体的ビジョンがないということは、どういうことであり、どういう結果を招くのか。それがわかりやすいのはやはりaraikenさんの内田氏批判の仕方である。基本的にaraikenさんは、多様な価値を追求していれば、オンリーワンであればいいじゃないか、と繰り返すのみで、内田氏が問題視する「夢見る若者」の搾取構造をどうしたらいいのかについては、結局具体的には何も答えてくれない。むしろ、学びや競争から降りたっていい、「負け」も違う尺度から見れば「勝ち」だ、と語ることでそもそも問題自体の存在を否定する。

その主張自体は別にいいとしよう。しかし、その主張が何を招くのか。多様な価値を追求した結果として搾取されようが、困窮しようが、それは自分で選んだ価値なのだから問題にはならない、と言う。それはそうかもしれない。しかし、これがもう少し進むと、抑圧されようが、排除されようが、差別されようが、それがあなたが選んだ価値なんだから文句はないはずですよ、とはならないか。逸脱は結構、いくらでも祝祭しましょう、しかし、その結果は保障しませんからね、とはならないか。

 

現にaraikenさんは資本主義社会においては搾取も収奪も必然であるとして、「夢見る若者」を特別に問題とする意味を否定する。これは間違ってはいないかもしれない。だが、こうして部分問題の存在を否定して全て全体問題に還元し、さらにその全体(資本主義社会)への具体的代替案も示されない場合に何がもたらされるか。現状肯定である。全否定による現状肯定。全てが問題なのだから部分を変えても意味がない、ということで変革は先送りにされる。

araikenさんは業績主義的価値観を相対化する社会を目指すと言うが、その結果がどうなるかと言えば、多様な価値の内の一つの価値である業績主義的価値を選択した人は富み栄え、別の(今現在マイナーな)価値を選択した人は貧窮を味わうことになる可能性が高い。階級格差はますます進むだろうが、夢を追求し自らの価値を信じている彼らは幸せなはずだ、ということで経済的・社会的格差は温存される。多様な価値は承認される。これまでの支配的価値から離脱した彼らは祝祭される。しかし彼らの生活や生存が保障されることはない。だって彼らは幸せなはずだから。祭りを楽しんでいるはずだから。そして、祭りが終わって、彼らは途方に暮れる。

 

ここに至れば、araikenさんや祝祭・逸脱派の元々の意図とは裏腹に、彼らの主張はただ現状肯定を意味し、あるいは状況の悪化、体制の強化をさえ助ける危険が高いことは明らかである。多様な価値が承認されながら、むしろ承認されることによって、厳しい搾取と過酷な競争にあえぐ。社会や政治からの逸脱の自由を手にしながら、むしろ手にしたことによって、貧窮と弾圧がのしかかる。

これが、具体的代替案なき祝祭・逸脱派が招き入れるものである。これを危惧するがゆえに、再帰・統合派は祝祭・逸脱派のナイーブな主張を容れない。思えば、内田氏の主張には、最初からこうした問題意識が埋め込まれていた。

 

ここまで書いてくると、内田氏は味方面したバックパサーであり保守主義者であるというaraikenさんの揶揄にもかかわらず、実はaraikenさんこそバックパサーであり新自由主義の刺客であったのではないか、とさえ思ってしまう。まぁ、実際そんなことはないだろうが、少なくとも自らの主張が何をもたらしかねないのか、ということにはより自覚的になるべきだろう。現実に新自由主義ポリシーに親和的なのは、明らかに内田氏よりもaraikenさんの主張の方なのであるから。

 

再帰・統合派と祝祭・逸脱派の議論がなぜかみ合わないのか。あるいは、前者が後者に無視か嘲笑しか与えないのはなぜか。それは、再帰・統合派が以上に示したような祝祭・逸脱派の欠陥を十分認識しているからであり、それを踏まえた立論をしているからである。

祝祭・逸脱派の主張は、無自覚な近代主義者や旧来のマルクス主義者などを批判する為にはかなり有効であったろう。近代的なシステムの前提を疑い、ひっくり返そうとする祝祭・逸脱派のやり方は、その前提を盲目的に信奉している人々には衝撃であったであろうから。

だが、同様の批判を盲目的でも無自覚的でもない再帰・統合派に浴びせかけても効果はない。つまり、再帰・統合派は、無自覚な近代主義とそれに対する祝祭・逸脱派の批判および欠陥を踏まえた上での議論、二次的な議論をしているのであって、ここに祝祭・逸脱派の一次的な議論をぶつけても実りないことは当然である。

 

それにもかかわらず一次的な批判を繰り返すのであれば、それは議論の後退をしか意味しない。祝祭・逸脱派は、祭り後・逸脱後の具体的な代替ビジョンを持たない事をむしろ積極的な価値と見なしているふうでもある。しかし、何らかの変革を望むのであれば、具体的ビジョンなくしては話にならない。少なくともそれを模索しなくてはならない。祭りの後も見据えたビジョンを。その模索さえ無いのであれば、再帰・統合派への一次的レベルでの批判は自足以上のものをもたらさない。おまけに現実状況も好転しない。愚痴や八つ当たりをぶちまけあってストレス解消を図る目的なら、まぁご自由にと言うほかないが、それが自足に留まるだけの議論であることは自覚されていいし、読者もそう思って読んだ方がいい。

araikenさんも、内田氏の主張に対して別の次元で応える、ということをよしとしている風である。しかし、そのやり方が結局(自足者同士の連帯感強化以外に)何も生まない以上、オルタナティブの有効性は現実戦略の文脈で語る必要は無い、という言葉、あるいは、「人を変え、社会を変えることは目的ではない」という言葉は、私には負け惜しみ混じりの敗北宣言にしか聞こえない。

 

再帰・統合派の主張・もの言いに違和感を覚えるとしても、今私達がすべきことは、従来からある一次的な批判を彼らにぶつけて、一方的に勝利を宣言することではない。もちろん、具体的代替案を模索することもないまま、ただ一方的にエスタブリッシュメントを批判して自足しているような人間であることを選択するのであれば、これ以上私から言うことはない。ただ、もしそうでないのであれば、私達に必要なのは一次的な祝祭・逸脱派の言説を繰り返し続けることではなく、再帰・統合派に実効性ある批判をなし得るだけの二次的な論理立てを構成するべく模索することである。

araikenさんは内田氏の「矛盾」に終始こだわったが、私は終始それに興味が無かった。その矛盾とやらにこだわっても何も出てはこない。内田氏にとっても痛くも痒くもないだろう。araikenさんは内田氏の二次的な議論につきあうことなく、その一次的なレベルだけを問題とした。問題意識は理解できるにしても、そのやり方は結局あげ足取り以上のものにならないのではないか。議論の過程にいちいちこだわるよりも、議論を進めることで相手の主張の欠陥を明らかにする方法もあるだろう。

 

そろそろこの冗長なエントリを終えたいが、私が祝祭・逸脱派の主張の有効性を限界づけていると考える欠陥は、実はもう一つある。それは現状認識の甘さである。これについては、ここでまとまった議論をする余裕も準備も無いのであるが、とりあえず以前私はこう述べた*2

 

新自由主義と個的社会の性格を兼ね備えたメタ・ユートピアは、民間活力の重視や個人の多様な権利・価値の承認によって、表面上は著しく自由で快適な世界をもたらすであろう。

しかし、その「自由」は、それこそオーウェル=フーコー的権力によって、監視・管理を受け、丁寧に整備・配慮された果実である。ここで過去の福祉国家時代と異なるのは、その管理権力は表面上の自由の背後に隠れたそれこそ「メタ」の存在として不可視化されてしまう。まさしくパノプティコンである。ここではメタ・ユートピアの基盤をなす価値、基底的価値に賛同しない者はそもそも排除されてしまうであろうことも重要である(こうしたメタ・ユートピア的なネオ・パノプティコンを考える上で、実体的には東浩紀などの議論、より抽象的・感覚的には森岡正博の『無痛文明論』が参考になる)。

 

表面上の自由と多様性にもかかわらず、実態は誰かに制限された自由の範囲があり、誰かに規定された欲望を持ち、見えないところで許可を与えられた多様性だけが表を歩く。大体こうした認識がいまや普通の権力観ではないか。こうした中でただ祝祭や逸脱を訴えていても上滑りするだけだろう。他者を排除せず祝祭しているつもりでも、自由に逸脱・逃走しているつもりでも、その実は気付かれないうちに型をはめられているだけなのであるから。この点については、再帰・統合派が十分な認識を有しているかは必ずしも自明ではない。であるから、これについて認識を深めることが、祝祭・逸脱派を洗練させる為にも重要となってくるだろう。

 

さて、散々批判を撒き散らしておいて何だが、以前から繰り返しているように私が感情的に親和しやすいのは内田・宮台両氏よりもaraikenさんの方である。しかし、論理的にはaraikenさんは完敗していると見る。と言うより議論が成立していない。だから、「それではダメだ」と思うのだ。

必要とされているのは、祝祭・逸脱派の二次的レベルへの洗練である。だからこそ私は、一次的レベルに留まり続けることに疑問を抱かない祝祭・逸脱派との馴れ合いを拒みたい。

冗舌に過ぎた上に、自らのことを棚に上げているようで心苦しいが、ここら辺で切り上げたいと思う。

私が書き散らしたこの文章が、araikenさんが内田氏批判によって果たせなかったような建設的対話に資するものであることを願ってやまない。

 

コメント

 

きはむさん、こんにちは。araikenさんのブログに時々コメントしているGilと申します。上のきはむさんの荒井さん批判に対するコメントを〈祭りの戦士〉のコメント蘭に欠き込みましたので、ご参照いただければ幸いです。

2005/08/09(火) 10:30:16 | URL | Gil #cmbYiIsE [ 編集]

 

具体的代替案がないことが、「祝祭・逸脱派」への批判になるでしょうか。きはむさんが引用した文章にあるように逸脱者は「何かを達成するのをめざさない」のです。内田氏や宮台氏にも、そして、きむはさんにも感じるのですが、言論によって、何かが達成できる、達成したいという、幻想や願望があるように思えます。

 

思想、言論は確かに人々の行動を大きく左右します。しかし、それは思想や言論を語る人の思惑を必ずといっていいほどうらぎります。そのこととうらはらに、宮台氏や内田氏の議論の動機に設計どおりに世の中がうごかしたいという欲望を感じます。

 

しかし、設計されたとおりの世の中にならなくても、なんの設計図がなくても、我々は生きていけるのです。悪い設計や計画ならないほうがよいのです。なくても生きていけるのですから。

 

私がaraikenさんの文章から感じるのは「てめーの書いた絵じゃ、みんな、つらいんだよ!」ということです。そして、とりあえず、今、その絵を捨てることを内田氏にいっているのだと思います。araikenさんも、もっといい設計図を書こうとは思っていないはずです。それどころか、もう設計図をかかないと決意しているのかもしれません。そういう人に設計図が無いことをいってもそれこそ「何もうまない」と思います。くだない思想が具体的代替案さえない無思想におとることを内田さんがさとらないかぎり、たしかに、araikenさんと内田さんは生産的な対話ができないかもしれません。

2005/08/12(金) 10:42:20 | URL | osakaeco #- [ 編集]

 

osakaecoさん、はじめまして。

おっしゃっていること、感情的にはわかりますが、どうでしょうかね。設計図どころか見通しすら持たない人々と現実を共にできるか、というとなかなか厳しいと思いますが。

 

それから、araikenさんもミクロの闘争と言ってますし、あるいは権力の無化なんて言っている人も含めて、何の達成も目指さないと言うのは虚言だと私は思います。

2005/08/12(金) 18:48:28 | URL | きはむ #- [ 編集]

 

我々の社会ができあがっているのは設計図なり、達成しようとしている目的があるからではありません。つまり、設計図がなく、無目的であっても我々は他人と「現実を共にでき」ているわけです。

 

それでもわれわれはすでに達成された社会に違和感なり、不満をもち、それが我々を設計図を書いたり、何らかの目的をつくりあげることに向かわせるのです。しかし、それが我々の違和感や不満を生み出したものをなくすことができるかどうかは別の問題です。その設計図が作り出された目的自体が、不満や違和感を作り出したシステムの一部であることさえあります。

 

われわれは自分がいまいるところに違和感なり、不満をもち、今のままではいやだというところからはじまるわけですから、その意味では、ある達成を目指しているわけです。

 

にもかかわらず、「達成を目指すものではない」という理由の一つは、われわれがいったんつくった目的を追求するあまり、そもそもの違和感や不満に無自覚になることです。だから、設計図や目標をどうするかということ以前に、自分のいる状況、それから湧く感情を憶えつづけることのほうがおそらく実践的には重要なのだろうと思います。そのことを助けるのはかならずしも社会理論ではないのでしょう。

2005/08/13(土) 18:45:48 | URL | osakaeco #- [ 編集]

 

ということは、設計図など捨てちまえという言説に固執しすぎて「そもそもの違和感や不満に無自覚になる」ことも許されないわけですね。

 

私は別に理論にこだわるわけではないですし、おっしゃっていること全体として必ずしも誤っておられないと思いますが、もうそのレベルの議論はいいんじゃないか、と思うのも正直なところです。

で、結局、現状肯定や悪化はどうしますか、というところは誰も答えてくれていないわけで。

 

生産的対話にしても、内田氏の足を引っ張って一次的な平面に引きずりおろしたフィールドで「対話」を行おうとするか、内田氏の「一次的な問題」も憶えてはおきながらも自分達を磨いて二次的なフィールドでより実りある対話を行うか、という選択。

究極的には趣味と志の問題でしょうか。

2005/08/14(日) 15:08:12 | URL | きはむ #- [ 編集]

 

TB

 

終わりなき祭り、果てなき逸脱 http://araiken.exblog.jp/2147674

 

祭り・逸脱・資本主義 http://d.hatena.ne.jp/sivad/20050809

 

祭りのあと―世界に外部は存在しない http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070121/p1

生命学とエゴイズム

 

2005/07/30(土) 00:28:56 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-110.html

『生命学をひらく』森岡正博を読了。

 

確かに、著者のこれまでの仕事をわかりやすく要約するような内容で、手頃だと思う。これなら中高生にも薦められる。

 

だけれども、森岡が使う「条件付きの愛/条件付きでない愛」という区別はあまり厳密ではないよな、と改めて思う。

現実には、条件付きでない愛なんか存在しないと言ってよい。森岡が「条件付き」と言っているのは、何らかの属性ゆえの愛、というものを指しているに過ぎないのであって、それがその人の個別固有性ゆえでないから問題が生じる、ということである。つまり焦点は条件付きか否かではなく、条件が属性か固有性かということにある。

愛を求める人は他でもない私を愛して欲しいのであって、他人との差別化を求めている。無差別・無条件の愛などではなく、絶対的な条件付きの愛を求めている。それゆえに他人との代替可能性が留保される「属性ゆえの愛」に違和と不安、反発を感じ、「あるがままの自分」への愛=「固有性ゆえの愛」を欲するのである。

 

ところで、久し振りにこっち系の書物に触れて、生命倫理に関する諸問題のほとんどへの回答を、利害関係度によってすっきりと整理することができるであろうことを再確認した。

シュティルナーのエゴイズムにおける主な基本概念は、「唯一者」「力」「エゴイストの連合」あたりであるが、私のエゴイズムではこれに利害関係度が加わり、決定的な役割を果たすことになるだろう。

 

生命学をひらく 自分と向きあう「いのち」の思想

生命学をひらく 自分と向きあう「いのち」の思想

「市民社会」という彼岸/悲願

 

2005/07/21(木) 22:59:39 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-103.html

『社会認識の歩み』内田義彦(岩波新書、1971年)

 

こういうところばかりを引用すると、うんざりした声が聞こえてきそうだけれども。

 

 しかし私がここで注意したいのは、「テイク・パート」という言葉が日常の世界で日本語に訳されると、意味内容がすっかり変ってしまうという事実です。

ある特定の人が、ある特定の仕事を責任をもって果たす。そういうことを別にして、仕事一般に込みで参加したということはいえない。「参加」(=分担)というのは、一人一人の決断と行為と責任を背景にもったきびしい言葉です。それは、同じ言葉を使ったパーティシペイションという用語例を見ればわかります。

ところが「参加する」という日本語は別の響きといいますか、倍音構造をもっておりまして、その共鳴版にかかると、このオリンピック用語も、ともかく顔を出しておけばいいんだろう、何しろ参加することが大切だからという、はなはだ無責任な言葉に化けます。

(中略)

実は、これは言葉だけの問題じゃないんです。「参加」という鋭い言葉が正反対の無責任な言葉に化けちゃう、という言葉の世界での現象の背後には、日本の社会の特質、社会への個々人のかかわり方(=分担の仕方)の問題があります。個人が集団に埋もれちゃう、ということですね。集団を丸がかえにしたエライ人になるか、集団に埋もれるか、いずれにしても自覚した個々人が、共同の行為で共通の目的をもった集団を形成することが少ない。

(18~19頁)

 

 Gattungswesen という言葉がよく使われます。類的本質というんですか。マルクスの『経・哲草稿』の言葉です。

(中略)

ちょっとむずかしくなったんで、ポストヴェーゼン(郵便)を例にとって注釈を加えておきましょう。郵便を配達する人だとか、仕分けする人とか、さまざまなものが有機的に組み合わさって総体(ボディ)としての郵便制度を作っている。その郵便制度を前提として始めてハガキに書くということが意味をもってくるんであって、そういうものがなければ、ハガキはただの紙です。ハガキそのものをいくら顕微鏡でみても、ハガキのハガキたるゆえんは解りませんね。紙がハガキになるのはそれが郵便制度の一環――郵便制度というボディの一つの部分――としてある限りです。かりに郵便ストでもつづいて郵便がまひすると、ポストはただの屑かごになりましょう。実際は郵便だって孤立的にあるんじゃない。例えば鉄道がストップすると郵便もストップする。郵便とか鉄道とか新聞とかいったいろいろの Wesen(Body)が分ちがたくからみ合って一つの Wesen(Body)になっている、それが人間の社会であります。ミリガンも大いに使ったと思われるミュレット・ザンデルの独英辞書でみると、Wesen は Body であり、dasgmeine Wesen は the Common wealth, common weal だと書いてあります。いろいろの動物がいますが、こういうボディとしての政治体を作ってそのなかで生きているのは人間だけです。もっとも人々が参加によって意識的にボディとしての政治体を作るという伝統は、日本には少ない。

(30~32頁)

 

かの先生方は、一体何と格闘していたのか、何を求めようとしていたのか。

とりあえず、そこから学ばなければならない。

私が本来取り組もうとしてきた本筋からは多少ずれる危険もあるが、とりあえず「彼ら」をしっかり睨み得る明確な像として結ばなければ、空回りになりかねない。もちろん反対側で喚いたり愚痴ったりしている人々についても同様だろう。両睨み。

 

社会認識の歩み (岩波新書)

社会認識の歩み (岩波新書)

アナーキスト向け

 

2005/07/21(木) 02:26:41 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-104.html

『アナキズム』第六号(特集:個人主義──叛逆の原点)

 

購入。とりあえず、特集記事の主だったところだけ読んだ。

一応以前にも紹介した立場から言うと、まぁ一般の方はわざわざ購入する必要は無いな。定価千円も、雑誌と考えれば安くないし。個人主義特集ということでバックナンバーからすれば比較的価値はあると思うが、ボリューム的にもさほどだしなぁ(特集分は約70ページ)。

いや、別に悪口言うつもりはないのだ。滅多に刊行されないんだから、試しに買ってみてもいいと思うし(オンライン注文可能)、買うならこの号だと思うしね。

それで、とりあえず特集の内、主要な三つにコメント。

 

・巻頭言「個人に優越するものはない――利己主義のすすめ」高橋幸彦

 

ま、とりあえずこれはこれでいいんじゃないか。自己責任や公共についての愚痴に新味は無いけれど、「幸福の島」の話はなかなか考えさせられるものがあるし、結論近くの「そんなことは私の知ったことではない。嫌なものは嫌だ。」で全て簡単にかたがつくと言うのは判り易く、正しい。

ただ、この断言の後に「自分の人格にある利己主義を認めるからこそ、他人の人格を認められるのではありませんか。」とか「他人を理解する・他人を思いやるということは、他人の利己主義を認めなければ不可能なのであります」とかいうエクスキューズじみた主張を並べることが、果たして必要なのかどうか。もちろんこれは、あくまで高橋氏の個人主義・利己主義にすぎないので、それはそれでいいのかもしれない。だけれども、こうしたありふれた但し書きを伴わせるのであれば、別に自由主義や民主主義が基礎においている旧来の個人主義との差異はぼやけてしまい、「え?、で、結局、利己主義って何なわけ?」と絶対言われる。

そのエクスキューズや但し書き自体はわかるんだけど、利己主義や個人主義に利他的な、あるいは人道的な彩りをつけようとするような語り方は果たしてどうなのか。摩擦を恐れず、もっと尖鋭的なエゴイスティックな語り方こそ、むしろ必要かつ有効なのではないだろうか。ま、これは私の意見で、多分高橋氏の意図とは相容れないのかな。

 

・論説「逸脱の自由――脱権力のムーブメント」DJ WATERR(TAKASHI IKEDA)

 

積極的自由ではなく消極的自由を、権力の奪取よりも脱権力、逸脱の自由をこそ求める。それはわかる。でも今更それじゃダメだ。悪いけど、現状認識が甘い。逸脱とか祝祭とかシステムに風穴とか何かそんなんのダメさを、改めて近いうちにまとめときたいなと思うけれど、とりあえず今日は、たぶんその「逸脱の自由」とやらは許されますよ、とだけ言っておく。これからのシステムはそういう逸脱をどんどん許容していく方向に行くだろう。逸脱したい?、ああ、どうぞご自由に。ま、そのかわり逸脱した先に何にも無いですし、逸脱者まとめて圧し潰されるだけですけどねーっ、てなもん。そういう現状認識があるから、逸脱的なものを防いでいこう、社会に包摂させよう、コミットさせよう、という方向の戦略を立てる人がいるのだから。こう批判している私も辛いのです。わかってくれ。

 

・真景三廃人漫談『個人主義はクズでございます』小谷のん/乱乱Z/タナカ

 

目玉の鼎談。内容は個人主義とアナーキズム、個人主義的アナーキズムの接点とか違いとか。

とりあえず、アナーキズムを突き詰めると個人に還るとするタナカ氏より、アナーキズムは結局「体制」だとするのん(きち)氏のほうが妥当でしょう。

もちろん無権力・無支配を目指すアナーキズムを徹底するなら個人に還っていかなければ「いけない」、というのは至極当然だが、現実のアナーキズムはそうでない。だから、もうアナーキズムは「社会的アナーキスト」達に完全に譲り渡して構わないと、私は思う。無理して個人主義的アナーキズムなどという夢想を語ることはないのだ。実在してきたのは、実在しているのは、アナーキズム(=非個人主義的)と個人主義だけであり、個人主義的アナーキズムなどは存在しないし、必要もない。

ゆえに、アナーキズムに親和性を持つ人で、個人主義的な志向性を持つ人に残されている道は三つぐらいではないか。すなわち、①右転回してリバタリアンorアナルコ・キャピタリストになるか、②のんきち氏が自称するような「ニヒリスティック・エゴイスト」になるか、あるいは③ニヒリスティックでないエゴイズムなんていううさんくさいものを模索してみるか。

それはともかく、ゆるい鼎談だが注も充実していて、勉強にはなった。

 

ま、大多数の人にとっちゃ、どうでもいいことかな。

『アダム・スミス』 高島善哉

 

2005/07/14(木) 14:42:40 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-100.html

岩波新書、1968年

 

 まず人間とはそもそもなんであるか。人間は一方からみれば理性の持主であり、精神の所有者である。この見方によれば、理性や精神の自覚の弱い人間は真の人間ではないということになる。(理性や精神を極限にまで高めると神の観念が現われる。)他方からみると、人間は情念や欲望の束のようにもみえる。この見方によると、情念や欲望を不当におさえつけるのは人間的ではない、反対にこれをあるがままに肯定していくほうが人間的だということになる。人間はまた感情の動物だともいわれるのであるが、感情が豊かであるということは、その人間が生きている証拠であるともみられる。この見方によれば、人間の研究は人間の感情の研究でなければならないということになろう。

(中略)

近代市民社会の思想家たちの人間観はどんなものであったかというと、いま述べた理性的精神的な人間観ではなくて、人間を情念や欲望の束と見たり、また人間を感情の動物のようにみたりする人間観であった。こういう人間観は、いかにも唯物論的な人間観だといわれそうな人間観である。そしてこの「唯物論的」という言葉の中に非難や軽蔑の気もちをこめて使う人が現在でも必ずしも少なくないのではないかと思われる。しかしこれはまちがっている。その理由として私は二つの点をあげておきたい。

まず第一に、市民社会の思想家たちが人間を「唯物論的」にみたということは、とりも直さずこれまで人間の上におしつけられてきた不当な抑圧から人間を解放しようとすることを意味した。「自然に帰れ」(ルソー)という呼び声がここから生まれる。だから唯物論的人間観は、十七、八世紀のイギリスやフランスでは立派な人間解放の思想であったといえるのである。

第二に、人間を欲望の束とみたり感情の動物とみたりするのは、実は人間を一つの自然としてみることであって、それは自然科学者が本来の自然を観察するときにとる態度なのである。だから唯物論的な人間観というものは、科学的な人間観の最初の形なのである。自然科学者そのものは研究心と観察力と分析力を持った理性的精神的な人間であることにまちがいはない。それと同様に、唯物論的人間観をもっている人も立派な理性的精神的人間であることに変りはない。フランスの百科全書派の人たちはみなそうであった。彼らはみなアンシァン・レジームから人間を救い出そうとする思想の持主、つまりヒューマニストであった。

以上簡単な説明からでもわかるように、唯物論的な人間観というものは、人間を科学的にみようとするエトス(思想態度)の現われであって、近代の社会科学というものはこのようなエトスから生まれてきたのであった。ホッブズからロックをへてスミスにいたるイギリスの啓蒙思想家の間では、人間性の研究というものが活発に行われた。人間性 human nature というのは、言葉どおりに読むと、人間的自然である。すなわち本来の自然にたいして人間という形をとった自然である。わがアダム・スミスは、こういう意味での人間性のすぐれた研究者であった。それは人間をありのままに、血のかよった、生きた人間として再建しようとするパトスから生まれたものであった。

(66~68頁)

 

 実は、モラルという言葉を道徳という日本語に翻訳するときに誤解が起りやすいのである。スミスは、利己心によって導かれている経済の世界も、正義のセンス(情感)、共同体のセンスによって導かれている他の世界での人間の行為も、すべてモラルの世界だという。ここでモラルといわれる言葉には二つの意味があることを注意したい。一つは人間がその内から発する行為、したがってたんに本能や衝動によって動くのではない人間として責任のとれる行為である。モラルのもう一つの意味は、社会的という意味である。 (中略) ソシァル・サイエンス(社会科学)という言葉が現われたのは十九世紀になってからのことであった。それまではモラル・サイエンスという言葉が用いられていたのである。こうしたこともスミス理解にとって一つの手助けとなるのではなかろうか。

(77頁)

 

 経済の世界というものは、前の二つの世界に比べると、よほどその性格がちがうようにみえる。経済の世界というものは富づくりの世界である。人はこれによって自己の物質的な境遇を改善しようとするものである。それでは経済的行為というものは徳とはなんの関係もないものであろうか。スミスによれば断じてそうではない。経済の世界には慎慮の徳という徳性が存在する。むだ使いは徳ではない。役にも立たない不生産的なことに労力を濫費するのも徳ではない。経済の世界には合理的な計算と、あとさきの配慮と、慎重な見通しが求められる。デフォーの描いたロビンソン・クルーソーはまさにこのような人間の典型であった。これがスミスのいうところの慎慮の徳なのであって、こういう意味で、市民社会においては経済人はもっとも有徳な人間の一人とならなければならないのである

経済人が有徳な人間でなければならないとは? 読者の中にはとんでもないといった顔をする方があるかとも思う。しかし徳 virtue という言葉のもとの意味は力ということである。有徳な人とはもともと力強い人、四囲の状況を正確に判断してそこから的確な結論と有効な処置をひき出しうるような人間のことである。近代的な経済人はこのようなものでなければならないとすれば、スミスが経済の世界を広い意味でのモラルの世界へ入籍させたのは、まことに道理にかなったことであるといわなければならない。スミスのセンスはまさに近代的であったのである。

(81~82頁)

 

強調:引用者

 

アダム・スミス (岩波新書 青版 674)

アダム・スミス (岩波新書 青版 674)

続・共同性の政治学

 

2005/07/10(日) 16:20:18 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-99.html

共同性の政治学*1

 

の続き。

 

前回の関心(主に齋藤純一からの引用部前後)につなげる形で、今回はまずピョートル・クロポトキン『相互扶助論』(大杉栄訳、同時代社、1996年、原著1902年)の引用から始めよう。

 

同業組合は実に人生の奥深く根ざした要求に応じたものであった。後世の国家がその官僚政治と警察とのためにセン有した一切の職分およびさらにそれ以上のものを具体化したものであった。あらゆる情況の下における、またあらゆる生活上の出来事についての、「実行と忠言」とによる相互支持の団体であった。正義を維持する為の組織であった。そしてそれと国家との差異は、国家の干渉の根本的特質として、いつも形式的の要素を持ち込むのに反して、同業組合にはそれらのいっさいの機会に人道的および友愛的の要素を引き入れたことである。

(197頁、強調は引用者、セン=「にんべん」に「替」)

 

ここで述べられているのは、中世ヨーロッパの都市における同業組合内での相互扶助についてであるが、このエントリの関心からすれば、国家と対比する対象を特に同業組合に限る必要は無く、狭い地域共同体のようなものも同様の性質を持つと考えて、両者をまとめてしまって構わない。

つまり、現実に共同性実感が存在するような、「顔の見える」範囲の共同体として同業組合や地域共同体があり、より広範囲の地域・階層にわたるがゆえに共同性実感が希薄でありながらも、非人称の連帯を強制的に媒介するような機械的共同体として国家がある。

両者とも共同体の性質上、個人への「干渉」を行うが、「顔の見える」共同体はそこで「人道的および友愛的の要素」を伴うのに対して、国家は「形式的の要素」を以てする。クロポトキンの言う「形式的の要素」が何であるか今ひとつ明快ではないが、ともかく、その「形式的の要素」的な性格からこそ得られるものがあり、その大きさを指摘したのが、前回の齋藤純一からの引用部であった。

 

ちょっと今回は、ひたすら引用になるかもしれない。自分の考えはまだまとまっていないのだ。と言うか、「共同性の政治学」と銘打ったのはいいが、何が問題であったのかもよくわからなくなりかけている。それを探り直そう。

次は、奥平康弘と宮台真司の対談『憲法対論』(平凡社新書、2002年)から、奥平の発言。

 

 愛国心といわれる問題は、そこに一種の琴線に触れる部分があると思うけど、僕はそういうエモーショナルな意味でのクニというのと別に、特定の具体的な人間たちによって運営されている権力構造として制度的にある国家を愛せとか、その国家を牛耳っている権力者たちのやったことや現にやろうとしていることを愛国心の名において賛成しろ、反対するな、と言われると、猛烈にカチンとくる。

国家を考えるときには、僕は、憲法を中心として憲法を愛するがゆえに、僕が属する共同体に愛着を覚え一体感を感ずる部分があり、それゆえ共同体にコミットするという局面がある。他方、共同体というもののうちに、日本という国土に住む人たち全員により、全員が共存するために、政治的コミュニティがある。これが、憲法により構成された国家というコミュニティであるわけです。このコミュニティは、万人のためにのみ設けられたものであり、基本的自由が保障され、基本的な財が平等に配分されるためのいろいろな仕組みがなければならない。これらを定めたのが憲法である。「これでいきましょう」と定めたルールあるいは約束が憲法だと考えるわけです。国家は運営されるためにあり、運営を促し監視するのが憲法なわけです。憲法はただ文字として在るのではない。動かすためにある。誰が動かすのか。我々であり、我々以外にないわけです。憲法を活かし働かせるなかで、憲法にアイデンティティを感じるようになり、憲法パトリオティズムが生まれる。こう考えるのです。

(247~248頁)

 

「パトリオティズム」とはいわゆる「愛国心」と訳されるものであるが、原義は「愛郷心」である。そこで宮台は、奥平の発言の後で、「故郷喪失者」の集まりであるアメリカでは、マイノリティも含めて必然的に「憲法パトリオティズム」になる、と指摘する。つまり、自然的な共同性が存在しない為に、人工的・機械的な国家システムとそのシステムを動かす信念体系(およびその表象としての憲法)に対して忠誠心の対象、共同性の根拠を見出すわけである。

「エモーショナルな意味でのクニ」が必ずしも「顔の見える」範囲の共同体ではなかったとしても、そこにはそれなりに確からしい共同性実感があるわけだ。そして、それとは別に、あるいはそれの上に、政治的コミュニティ・国家システムが存在する。

単に自然的な共同体を基礎にした政治的システムとしての国家共同体であるのなら話はまだわかりやすいかもしれないが、ここに憲法どうこうといった信念体系が絡んでくると、ややこしさが増す。信念体系の共有を共同性の根拠とするのなら、自然的共同体内での理念対立が先鋭化する一方で、共同体内外の結びつきが強まるので、共同体の境界はぼやけ、流動性を増してしまう。

 

続いては、宮台真司・仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー』(双風舎、2004年)から、宮台の発言。

 

 リベラリズムの本義は、立場の入れ替え可能性の確保です。昔ならば平等の確保に当たる。ゆえに、どの範囲が、立場可換であるべきか、平等であるべきかについて、前提の共有を必要とします。要はどの範囲が「我われ」か、です。ただし、どの範囲が「我われ」であるにせよ、いつも「我われ」と「我われでないもの」の区別の線が引かれていることが重要です。

男の女の間に区別の線が引かれています。すると男も女も同じ人間なんだから、同じに扱えとの異議申し立てがあり得ます。今度は、人間と人間でないものとのあいだに区別の線を引く。たとえば人間とクジラの間に区別の線が引かれます。すると人間もクジラも知能が高いのだから、同じに扱えとの異議申し立てがあり得ます。

ことほどさように、どんな区別も問題を孕みえます。知能の低い人間と、知能の高いクジラ。人間性のかけらもない人間と、情に厚い犬。どちらの尊厳が上か。ロールズ的にいえば、どちらの立場の入れ替え可能性を想像しやすいか。遺伝学的な人間よりも、知能を持ったクジラや情に厚い犬のほうが、感情的な立場可換の対象になりやすいかもしれない。

(64頁)

 

 共同体の範囲、つまり我われの範囲を、こうやって拡げていけば、人間だけでなく、動物も植物も、場合によっては様ざまな無生物も入ってくるかもしれません。そんななかで、共存共栄とは何なのか、なぜ共存共栄しなければならないのかを、考えるしかなくなってきているのです。

自分たちの共同体だけ生き残り、ほかの共同体は死滅してもいいだろうという、ネオコンのようなシニカルな考え方があり得ます。どうせ恣意的な線を引くんだったら、どこに引いてもいいだろうというわけです。これに対して、どこに線を引くべきなのかを永久に考え続けることで、共同体の共存共栄を図ろういう考え方があります。

どちらがいいのか。私自身も迷うことがあります。しかし、迷っていいのではないか。「絶対にこれだ」と決めつけないで、迷いながら、機会主義的に、一貫しないかたちで、その都度アクセプタブルな道を探っていく。普遍性や一貫性を求める過剰なラディカルさを戒めながら、モデレートに「ああ、それもあるね」とやっていくしかないのではないか。

(80~81頁)

 

こんなに引用してばかりでいいんだろうか。

しかも、信念体系云々の話からずれてしまった。まぁ、いいか。

ともかく、共同性の条件を立場可換性に求めるのであれば、信念体系の問題に限らずとも、どんどん共同体の境界は曖昧になっていくわけだ。同じ共同体内に生きる彼らよりも、遠い別の共同体内に位置する誰かとの方が強い共同性を感じる場合は、いくらでも有り得る。その時に、私が、この共同体に、彼らと、生きる「正当な理由」は何なのか、見失ってしまう。

 

そもそも、私は共同性実感と立場可換性とは別次元の問題であると考えている。ロールズの「無知のヴェール」とか立場可換性というのは、結局「お前があの立場だったらどうだ」と問う(+「お前もいつあの立場になるかわからないんだぞ」と問う)もので、その後に「だからお前があの立場になっても困らないようにしなさい」と諭す手法なわけだけど、これに対しては、「それとこれとは話が別」という回答が有り得る。

つまり、第一段階の立場可換性については首肯できたとしても、第二段階になると、別に共同性は感じないという場合が有り得る。共同性を感じなければ別に助け合う理由もないし、扱いを平等にする理由もない。

もちろん、感情の問題はそうでも、論理的には立場が可換なんだから平等に取り扱うようにしましょうよ、という枠組み上の問題がメインなのかもしれない。だが、重要なのは、感情の問題なのだ。

 

しっかり反証できていないのはわかっているが、とにかく私は、共同性・共同体に関する問題の要諦は、立場可換性ではないと思う。結局、立場を取り替えるなんてことは、誰に対しても、何に対しても不可能ではない。そんな際限もなく延べ広がっていくものが、「区切り」の根拠になりうるとは思えない。しかし、感情の問題、事実性の問題こそが重要である、という点で、宮台や彼が言及するローティーの考え方は興味深い。ローティーやデリダ、そして両者をつなぐ仲正などが、「法」の問題とも絡んで重要なのだろうと思う今日この頃。今後の大きな課題の一つである。

 

相互扶助論

相互扶助論

憲法対論―転換期を生きぬく力 (平凡社新書)

憲法対論―転換期を生きぬく力 (平凡社新書)

日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

 

TB

 

政治学の根本問題 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070116/p1

失敗、責任、反省、改良

 

2005/07/08(金) 18:31:42 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-98.html

出発点はこれでいいけど、

 

http://tsurutaka.blog6.fc2.com/blog-entry-56.html

 

こうした認識も不可欠。

 

http://taishin.blog5.fc2.com/blog-entry-53.html

 

もちろん、私の暴力は構わないが、彼らの暴力は許さない、という立場にはそれ自体としてはそれなりの整合性がある。

でも、その立場を貫くのも現実には難しいでしょう。力で押さえつけようとしても限界があるし、こういう犯罪を防ぎきることは無理。

交通事故のようなもの、と割り切って生活しろという人もいるかも知れんが、どうでしょうか。クレイジーな犯罪者がこういうことをするのはいつでも有り得る、というのは確かにそうだが、こういう政治的テロは政治的に防げる余地があっただろう。

防げる余地があるのなら、防ごうよ。その方が合理的。

 

アルカイダ系のテロにせよ、チェチェン系のテロにせよ、反日暴動にせよ何にせよ、体制へのカウンター的な暴力というのは、端的に、体制側の政治的失敗を意味している。直接的な暴力を発露させた時点で、明白な失敗の証明である。

明白な政治的失敗である以上、政治的責任が問われて然るべきである。確かに、直接的な責任主体を名指しするのは困難かもしれない。しかし、最近のアメリカ政府や日本政府およびその周辺の無反省ぶりはひどい(技術的な部分の反省はあっても、政治的な部分での反省はない)。国民も積極的に責任を問おうとしない。テロに屈しないことと責任を問うことは別だろう。その点でマドリッドのテロ後の政権交代は筋が通っていた。

 

無反省ということは、同じ過ちを繰り返しやすい、ということだ。

日本で今回のようなテロが起こるかどうかはともかく(その可能性は高いと思うが)、我々がまず認識すべきなのは単純なこと。

政治家は失敗したら責任をとるべきだ、という事。

人間は失敗したら反省した上で同じ過ちを繰り返さないよう努力すべきだ、という事。

努力の内容は人によって考えるところが違うかもしれないが、反省すらないのがむなしい。反省がないということは、失敗と認識していない、ということか。

これだけ継続的に死者を出している現実があるのに失敗の認識がないということは、やはり「この程度の」犠牲者は織り込み済み、勘定に入っている、ということだろうか。

 

多くの人が、どこかで「この程度の」犠牲者は「仕方ない」と思っている。それは政府内の人間だけじゃなくて、国民の間にそうした意識が見えるからこそ政府側もそう動く。

本当に殺人(暴力)を糾弾する気があるのなら、まず、自分がどこかでそれを「仕方ない」と思っていないのか、自問する必要がある。

「仕方ない」という意識が広範に存在する限り、それは失敗とは認識されない。失敗でない限り、その路線は継続され、結果としての犠牲者は生み出され続ける。

 

この構造は、交通事故に関するジレンマと似ている。

我々は、自動車が広く流通するで得るベネフィットとコストを秤にかけるように、既存路線を継続することで得るベネフィットとコストを秤にかけることになる。

自動車が不可避的に一定量の人命を奪うように、既存路線も不可避的に一定量のテロを呼び起こす。我々は、殺人兵器になる可能性が高い自動車から多くの利得を得ているように、特定の人々をテロに導く可能性が高い(ような構造的暴力を含んだ)既存路線から多くの利得を得ている。

さて、秤はどちらに傾くだろうか。それは自明だ。

我々は、自動車がそうであるように、既存路線もまた、完全に捨て去ることは不可能で、多少改良を加えることができるに過ぎない、と思っている。「仕方ない」と思っている。だから、テロリストを非難し、政治家は問責せず、根本的な反省は行わず、改良は技術的なものに留める、というパターン化した反応に収まる。予定調和だ。

 

私は、普遍的な暴力を問題にするような倫理的アプローチよりも、個人の利害意識に働きかけるアプローチの方が有効だと思っている。

だからこそ反省を促したい。本当に既存路線を貫いた方がベネフィットが上回るのか。コストは、犠牲は、「仕方ない」で済ませられる範囲なのか。そもそも既存路線から我々は何を得ているのか。それはそんなに大したものなのか。

私自身は、大したものは得ていないと思うし、コストの方が大きいと思う。

 

最後に、これだけ。

爆風に吹き飛ばされる瞬間に、あんたは「仕方ない」と思えるのか。

それだけ教えて欲しい。

 

コメント

 

 「多くの人が、どこかで「この程度の」犠牲者は「仕方ない」と思っている。それは政府内の人間だけじゃなくて、国民の間にそうした意識が見える」という点、いい加減うんざりしてきますね・・・。立場の交換に対する想像力の欠如。

「個人の利害意識に働きかけるアプローチの方が有効だと思っている」に、全く同感です。まあ、あくまでも自分の場合、倫理的な言説の影響を全く受けないという反映でそう考えるわけですが(苦笑)。

 

そうですよね、「本当に既存路線を貫いた方がベネフィットが上回るのか。コストは、犠牲は、「仕方ない」で済ませられる範囲なのか」という理性的な検討がやはり足りていないと思います。全ての国民が、そんな思考コストを負うのは辛いかもしれないが、せめて政治家ぐらいは、ちゃんとそれを考えてくれよ、と。

2005/07/10(日) 02:08:06 | URL | taro #- [ 編集]

 

トラバ送れなかったですが。

http://d.hatena.ne.jp/dojin/20050708

2005/07/10(日) 10:20:17 | URL | dojin #- [ 編集]

 

>taroさん

コメントありがとうございます。

とりあえず予定調和は脱したいものです。

 

>dojinさん

拝見してました。

論理の乱暴さなど、どしどしご指摘下さい。

 

2005/07/10(日) 14:02:57 | URL | きはむ #- [ 編集]

 

TB

 

平和論ノート(2)平和をたぐり寄せる http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070118/p1

まず個人が存在する

 

2005/07/08(金) 16:12:31 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-97.html

個人情報保護についてはなかなか難しくて考えがまとまっていないが、今後の為にとりあえず内田氏の話を引っ張っておく。

 

個人情報保護とリスク社会@内田樹の研究室

 

全体として首肯できるところもあるが、とりあえず誤りだけ正しておく。

以下の引用部。

 

私たちは個人である前に家族の一員であり、大小さまざまな規模の共生体の一員である。

「個人である前に家族の一員である」というようなことを書くと、「家父長制的イデオロギーだ」というようなこと言い出す人がいるだろうけれど、こんなことは誰が考えても自明のことである。

家族の一員である「前に」個人であるような人間はこの世に存在しない。

私は「私はウチダタツルです」という名乗りをするより先に母子癒着状態の中でちゅうちゅう母乳を吸う口唇の快感に焦点化した存在として出発した。

そもそも「自我」という概念が獲得されるのは鏡像段階以降なのであるから、それ以前の私には「私」という概念が存在するはずがないのである。

起源に自我があるわけではない。まずアモルファスな共生体があり、自我はその共生体内部で果たしている分化的機能(家族内部的地位、性別、年齢、能力、見識などなど)、に応じて、共生体内部の特異点として記号的に析出されてゆくのである。

「個人情報の保護」という発想の根本には、「まず」個人が存在し、それが周囲の共生体と主体的に関係を「取り結んでゆく」という時系列が無反省的に措定されている。

だが、これは事実ではない。

イデオロギーである。

 

この内、「私は「私はウチダタツルです」という……概念が存在するはずがないのである。」の部分は、確かに事実である。

しかし、最初の一文は間違いなくイデオロギーである。それが家父長制的かは措くとしても。

 

人間には自我概念が獲得される以前の時期が存在するとか、我々は独立した個的生命体である以前には父親・母親の一部であったとか、こうしたことは事実である。こうした時系列的あるいは成長段階上の意味で「個人である前に…」と語ることはわかる。こうした認識が個人概念、主体概念の反省に役立つと言うのも正しい。

ただ、ここで内田氏はそれ以上の意味を込めて語っているように思える。それ以上の意味とは、すなわち、個人の存立上の基盤・根拠といったレベルの意味である。この意味においては、個人は特に家族その他の共同体に属しなくても存立しうるし個人でありうるのであって、個人である前に何かでなくてはならないことはない。よって、このレベルで「個人である前に家族の一員である」と語るなら、その主張はイデオロギーであることを自認しなくてはならない。

 

一見したところ、「起源に自我が……析出されていくのである。」の部分は、その直前の二文と同様に完全な事実であるように思える。だが、この部分は、多くの場合そうであるところの、といった限定的な妥当性を持つに過ぎず、例外が有り得る。起源に自我が無くとも、鏡像段階で自我概念を形成し始めて以降は、たとえ孤立していても個人として存立することは可能であろう。自我の認識には他者が必要であるとしても、その他者と共生体を形成する必然性はないし、その他者が人間である必然性もない。多種多様な他者はどこにでもいる/あるのであるから、個人は個人である為に必ずしも共生体を必要としない。

ゆえに、この部分の記述は前二文と比較すると包括性をいささか減じており、部分的な事実であるに留まる。

 

自我概念の成長段階から周囲の共生体が大いに影響を及ぼしているのだから、アプリオリな個人が主体的に関係を取り結んでいくという構図は神話に過ぎない、という主張は妥当である。しかしながら、それは「主体的に」という部分が神話に過ぎないのであって、「まず個人が存在する」という出発点までも否定するのは、私には不適切に思われる。なぜなら、自我概念が未発達な段階であっても、その個人が存在しないわけではないからだ。

赤ん坊が自らの鏡に映った姿を見ることで、統合的な自我の認識を獲得し始めると言う。なるほど、赤ん坊に最初は自我概念は無かった。だが赤ん坊は最初からいた。統合的な自我概念を認識し始めたのは誰なのか。赤ん坊という一人の個人だ。共生体内部で果たしている分化的機能に応じて自我が析出されていくと言う。なるほど彼の自我は最初から社会的に構築されてきた。だが自らの分化的機能とやらを認識し、あるいは無意識下であっても臨機応変に自我を形成・再編してきたのは誰であるか。一人の個人としての彼である。自我概念が存在しようがしまいが赤ん坊は存在する。自我の形成に社会的作用が働こうが働くまいが、それに対応する彼は存在する。

 

主体的な判断でなくとも、判断をする個人は存在する。個人が社会的作用によって影響を受けてきた部分が大きいとはいえ、それが全てではない。個人は自身の社会的要素に従属しているわけではなくて、個人的要素と社会的要素の相互作用と絡み合いを経て、一人の個人が成立している。

したがって、「主体的」という言葉に疑問符を付ける事は忘れずにしながらも、「まず個人が存在する」という事実認識を失うべきではない。

 

どうも最後の方、上手く言えていないのだが、以前に関連するエントリ(テキスト『自己決定権は幻想である』小松美彦)があるので、以下、そこから再掲する。

 

前者、すなわち自己決定の「入り口」論にはあまり説得力がない。なぜなら、たとえ社会的文脈・諸関係が決定に多大な影響を与えたとしても、個人=自己が最終的に判断を下す限りにおいては、それはあくまでも自己決定である。

自己像は確かに多くの部分を他者に拠っているが、決して小松が言うように他者なしで成立しないわけではない。やはり自己の眼差しが第一に存在しており、他者の眼差しはあくまでもそれを補う役割にある。他者の視点、社会の視点が大きな意味を占めたとしても、それは自己の視点の中に組み込まれることで統一されていく。

社会的文脈・諸関係というものは、それ自体個人の個別性・固有性の中に組み込まれたものであって、個人の外部にあるものでもなければ、個別性・固有性の上位にあるものでも並立しているものでもない。

 

それにしても、引用部の内田氏の語り口には違和感が拭えない。引用部最初の一文がイデオロギーではなく事実だと、氏は本当に考えているのだろうか。もしそうならば、上述のようにそれは端的に誤りです、と言うだけで済む。だが、仮に、可能性は大きくないとしても、「個人である前に家族の一員である」という言説はイデオロギーに過ぎないと知りつつ、これを事実に見せかけようとしたのなら、問題である。

私は「まず個人が存在する」というのは事実だと考えているが、もしこれがイデオロギーに過ぎなかったとしても、これを支持し続ける。適切に思えるからだ。イデオロギーであることは問題ではない。イデオロギーであることを隠蔽することが問題なのだ。

こんな仮定の話をしてしまったのは、内田氏のエントリには戦略的なプロパガンダに思えるようなものが時々見られるゆえである。別にそれは構わないが、それをするのなら、イデオロギーならイデオロギーであることを言明した上で、説得の努力にとりかかって頂きたい。明白なイデオロギーをイデオロギーでないと徹底的に否定しようとするのは見苦しい。お金が目当てではないと言いつつ遺産分配に口を出す親族みたいだ(無関係)。そりゃ、イデオロギーであることを自白したらプロパガンダにはならないのかもしれないが、説得力に自信があるのならイデオロギー云々は問題でないじゃないか。いやいや、仮定の話を長々と申し訳ない。邪推であることを祈る。

 

TB

 

個人は社会の前に存在する http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070112/p1

共同性の政治学

 

2005/07/05(火) 00:54:39 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-95.html

「自分」と「他人」

世の中それだけっきゃねえと思うから

あんたのそばにいる正当な理由が欲しいんだよ

 

(「異星人交差点」『異星人交差点』藍川さとる、新書館、1997年

 

世界には自分と他人しか居ない。

それならば、「私があなたと居る理由」は何なのか。

「私がこの集団の一員である理由」は何なのか。

別に、あなたでなくてもいいのではないか。この集団でなくてもいいのではないか。

私が「他でもないあなた」と行動を共にし、「他でもない彼ら」と助け合い、時にあなたや彼らの為に尽くす、その理由は何か。

この「共同性」に「正当な理由」なんてあるんだろうか。「無い」なんて答え、やりきれないじゃないか。「理由」が欲しい。「正当な理由」が―――。

 

最近、共同体や共同性について考える。他にも色々な課題を抱えたままでどうかと思うが、結局最後にはこの問題に向き合わなければならないのかな、と感じながら、これこそが最大の問題なのかもしれない、とさえ考える。

 

ちょっと前に、どこかの東アジア共同体絡みの話で、仮想敵なんていうネガティブな、否定的な根拠付け・動機付けを図る思考法から脱却しよう、みたいな話があったが、そんな簡単なことじゃないんだと思う(もちろん、スピノザの思想なんてわからんし、ポジティブな根拠付け・動機付けを求める考え方は非常にまっとうだとは思うが)。

だって、共同性の「正当な理由」なんて、そう簡単に見つかるものではないのだ。「私があなたと居る理由」が不明瞭な際、安易ではあるが手っ取り早くそれを提供するのは、「我々」の外側を貶めたり敵視したりすることで、内側の結束を強める方法である。学校や職場など、各所で形成されるよくわからない「グループ」なるものが、その結束の非常に多くの部分を悪口・陰口に頼っていることは、その卑近な証左であろう。自分がそのグループの一員であることを証明したい人ほど、自分がそのグループに加わっていることの「理由」を欲しがる人ほど、悪口のようなネガティブなコミットメントにも積極的となる。

国家同士でも同じことは言える。それ程簡単にポジティブな理由付けができるとも思えない。

加えて、そもそも共同体の性質上、内側での睦み合いと同時に、外側への障壁の設置がなされることは避けられないのであって、いくらポジティブな根拠付け・動機付けに基づいた共同体だと謳われたところで、果たしてどこまで額面どおりに受け取るべきか。悪口や仮想敵ほど攻撃的でなかったとしても、共同体の本質である外部者の排除という点は、何度でも強調するに値する注意点である。

 

共同性の重要性は、例えば所有と分配に関わる問題などがわかりやすいだろうか。お金持ちと貧乏人がいて、後者が困っているから前者のお金を少し貰って後者に分け与えよう、と言うわけだ。両者が何らかの共同性実感を持っていれば、これは全く問題ない。お金持ちが貧乏人のことを助け合うべき仲間だと思う限り、彼は喜んで貧乏人に自らの財産を与えるだろう。しかし、そう思っていなかったら、共同性実感が無かったら、難しくなる。お金持ちにとって貧乏人が、いくら困窮しようが知ったこっちゃない程度の存在であれば、そこまでだ。何で死のうが生きようが興味が無い存在(あるいは、せいぜい目の前で死なれたら夢見が悪い程度の存在)の為に、自分が何らかの行為を求められなければならないのか。こうした感情は、それ自体、もっともだ。

 

しかし、現実には、私たちはこうした行為、すなわち知ったこっちゃない人の為に何かを求められること、を日常的に経験している。

齋藤純一は、M.イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』からの引用の後に、こう述べる。

国家が媒介する非人称の連帯のメリットはまず、人称的な関係(世話する者と世話される者)につきまとう依存・従属の関係が廃棄されるという点にある。「国家の世話になる」人びとは、特定の誰かの世話になっているわけではないがゆえに、(少なくとも権利上は)誰かへの遠慮のゆえに声を呑み込む必要はない。非人称の連帯は、その連帯の果実を享受する人びとをなおも政治的存在者として処遇することができる。さらに、この非人称の連帯は、自発的な連帯ではなく強制的な連帯であるというメリットをもっている。ある人がどれほどの嫌われ者であろうと、また「世間」から見てどれほど「異常」な振舞いをしていようと、その人は生きるための資源を権利として請求することができる。この強制的連帯は、自発的なネットワーキングが排除する人びとをもカヴァーすることができる。社会国家が、非人称の強制的連帯のシステムとして形成されたことの意義は忘れられるべきではないだろう。

『公共性』齋藤純一、岩波書店、2000年、67頁

全く、その通りだ。ここで述べられている非人称の強制的連帯の意義は、確かに忘れられるべきではない。ここら辺が難しいところでもある。

 

このように、国家の場合は、実際には共同性実感が希薄であるような人間同士であっても、システムとしてその両者を強制的に媒介してしまうわけだ。知ったこっちゃないことなんて知ったこっちゃない、だ。

こうした機械的なシステムとしての国家の意義は確かにある。しかし、やっぱり人間同士の物事は機械性だけでは成り立たないわけで、全く共同性を無視した機械的な国家なんていうものは現存しない。幻想であっても、錯覚であっても、どこかしらに共同性を感じさせる素材がなくては、なかなか立ち行かない。だから、ネイションを語ったり、エスニシティを語ったりする。国家といえども共同体という性格を完全に免れることはできなくて、そこには前近代的な、非国家的な共同体とも通じるものは必ずある。

 

結局何を言いたかったのか、いつもわからなくなる。

まぁ、いいや。とにかく共同性・共同体というのは思った以上に重要だし、思った以上に容易でない、ということの確認だ。

 

古典としては、やはり『想像の共同体』B.アンダーソン

最近のでは、各所で評判の『境界線の政治学』杉田敦、か。

 

う~ん、共同体、排除…。この辺り、やっぱりカール・シュミットとかも入ってくるんだろうか、「友」-「敵」関係とやらで。そこからムフ、コノリーか?。微妙に違う気もするような。いや、これはこれでやるけども。

 

公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)

境界線の政治学

境界線の政治学

 

TB

 

政治学の根本問題 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070116/p1

昼間のルソーはちょっと違う

 

2005/07/02(土) 15:26:44 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-94.html

ルソー『社会契約論』を読むと、既存の制度や理論がいかにここから基礎付けられているかを思い知り、何だかしみじみとした気分にさえなる。誰もがいちいちルソーを参照して考えているわけではないだろうが、とにかくその存在感の大きさは再認識できた。古典が古典である理由と言うか、J.J.ルソーが中学生でも知っているルソーである理由がわかる。下手に網羅的な政治学入門書を読ませるよりも、『社会契約論』をじっくり読ませたほうが、よっぽど勉強になるんじゃなかろうか。でも古典の重要意義を思い知るまでにはそれなりの道のりが要るんだよね、やっぱり。とりあえずで読んでみてもつまらない時間つぶしに終わることが多い。本とヒトには、それぞれ適切な出会いの時期があるから、今こそと思うまで待てばいいのさ。

 

 それでは、古い法律に、あのように尊敬が払われるのはなぜか。それは、古いということそれ自体のためである。昔の[人々の]意志がすぐれていたのでなければ、古い法律をそんなに長く保存はできない、と考えなければならない。もし主権者が、それをたえず有益なものであると認めなかったならば、彼はそれを千回も取り消したであろう。よく組織されたすべての国家で、法律が弱まるどころか、たえず新しい力を獲得しつつあるのは、このためである。古いものをいいと思いたがる心が、日に日にそれを一そう尊重すべきものたらしめる。これに反して、法律が古くなるにつれて、力を失うようなところではどこでも、そのこと自体が、そこにはもはや立法権が無く、国家が生命を失っていることを、証明している。

(岩波文庫版、126頁)

 

これは立憲主義、

 

 すべての真の民主政においては、行政官の職は利益ではなくして、重い負担であって、これをある個人にではなく他の個人に課するのは正当なことではありえない。ただ法だけが、クジにあたった人にこの負担を課することができる。なぜなら、この場合には条件はすべての人にとって平等であり、誰が選ばれるかは一切人間の意志と無関係であるから、法を特定の人に適用しても、それは法の普遍性を決してそこなわないからである。

(152頁)

 

 抽籤による選挙は、真の民主政のもとでは、ほとんど不都合を生じないであろう。そこでは、すべて、習俗や才能においても、また格律や財産においても、平等であるから、選挙ということは、ほとんど関心をひかないだろう。しかし、すでにのべたように、真の民主政は、決して存在しないのである。

選挙と抽籤とが混用されているときには、軍務のような特有の才能がいる地位には、前者をもってすべきである。裁判官の職のような、常識、正義、潔白だけで十分な地位には、後者が適している。なぜなら、よく組織された国家においては、このような資質は、市民全部に共通だから。

(153頁)

 

これらは陪審制・裁判員制などを想起させる。

 

なるほどなぁ、と思うよね。いや、それで終わっちゃだめなんだけど。

とにかく、こうした主張を見ていくと、バラバラに現れてくるように見えるものも、かなり一貫した論理によってよく統合された、総合システムの一部なんだなぁ、と改めて思う。

当然一貫しているがゆえの難点は諸々あるけどね。だけど、数百年にもわたるシステムの基盤となるタフな論理を編み上げた功績は、やはり敬愛に値する。伊達にルソーじゃない。

 

社会契約論 (岩波文庫)

社会契約論 (岩波文庫)