現代日本社会研究のための覚え書き――結論と展望

 

さて、ようやく一応の結論まで辿り着きました。本連載は、ひとまずこれで一区切りにします。「科学/生命」は書いていませんし、まだまだ不足なところを挙げたらきりがないですが、かろうじて大筋の見通しは付けられたと思います。元々1~2年かけて地道にやろうとしていたことを諸般の都合により短期間に圧縮して作業したので、かなりの粗が見えますが、まぁそれは仕方が無い。時間との兼ね合いです。個人的にはこれを書くことで、自分の問題関心と現代性との接続が見えやすくなったので、この先色々やりやすくなりそうです。元々それを意図してやったわけですが、他にも様々な文脈と結び付いているので、それらを繋ぐ回路を見せていると言うか、ほんとに後で自分が読み返すのに役立ちそうな気がします。

反響としては、一番ブックマーク数を伸ばしたのが「教育」だったという事実が結構興味深かったです。ブックマーク数は更新のタイミングやエントリの長さなども影響しているでしょうから単純な比較は分かりませんが、このテーマが関心高いということなのか類する文章が少ないということなのかその両方なのか、などと考えました。いずれにしてもあのテーマは久冨先生の議論に負っている部分が滅茶苦茶大なので、別に私の功績ではありませんが。

改めて「目次」にリンクしておきます。できれば最新版を読んで下さい。一つ一つのエントリ含めて長々とした本連載にお付き合い頂き、ありがとうございました。今後は不定期の「かかわりあい」と書評に、ちょこちょことした理論/思想史のエントリを挟んでいければいいなと考えています。

ポストモダン化の実際

 

これまで、序論で整理した近代化の意味と、宮台真司と東浩紀の議論を介して提起したポストモダニティの認識を踏まえ、近代化とポストモダン化の過程を、様々な領域から多面的に検討してきた。

まず、「科学/生命」「テクノロジー/メディア」「経済/労働」「家族」「教育」「共同体/市民社会」の6つのテーマを扱った第1部では、近代化の諸相として脱呪術化、脱空間化と非同期性の上昇、産業化、家族への内閉、大衆教育社会の成立、伝統的村落共同体の解体などを論じ、ポストモダン化の実像として再呪術化、脱大衆化と可塑性の拡大、脱工業化・高度消費社会化と雇用の流動化、家族の多様化と個人化、教育の脱大衆化と市場化、地域の流動化と社会の島宇宙化などを描き出した。

それを受けた第2部では、「親密圏/人権」「セキュリティ/リスク」「政治/イデオロギー」「スピリチュアル/アイデンティティ」「ネーション/国家」の5つの主題を採り上げ、特に90年代以降の現象に着目して、ポストモダンへと移行する環境の中で社会や人々がどのような変容ないし対応を見せているのかを論じた。

以上の作業を経ることで、近代化とポストモダン化についての認識をかなり明確化することができたと思う。また、各分野における変化に応じた時期区分は相互に概ね対応しており、下の表のように整理することができる。

 

時期区分 第1期 第2期 第3期 第4期 第5期 第6期
年代 19C末~20C初(1868-1905/14) 20C初~1945(1905/14-45) 1945~50’s末(1945-55/60) 1950’s末~70’s半ば(1955/60-68/73/75) 70’s半ば~90’s初(1968/73/75-89/91/93/95) 90’s初~(1989/91/93/95-)
性格 近代化の開始(前近代) 部分的近代化(近代萌芽期) 近代化の続進(近代初期) 全面的近代化(近代確立期) 近代化の深化=ポストモダン化の開始(近代成熟期;ポストモダン萌芽期) ポストモダンへの移行(ポストモダン初期)
メディア 郵便制度の整備 交通機関発達/通信手段発達 ラジオ・映画 自家用車の普及/TVの普及 メディアの個人化/操作性・可塑性の上昇/自己相対化 情報通信技術の発達/インターネットの普及/リスク情報の氾濫
経済 産業化の開始 重化学工業化の開始/消費文化の発生 戦後復興 高度成長/農業の衰退/日本的雇用慣行の成立/消費の拡大 安定成長/脱工業化の開始/雇用慣行の維持/高度消費社会の成立 長期停滞/脱工業化の進行/グローバル化/雇用の流動化/総消費社会
家族 イエ制度/拡大家族 近代家族の萌芽 両性の平等/都市移住による核家族化 家族への内閉/性別役割分業/近代家族の成立 少子化・未婚化/個人化の開始/近代家族の成熟 家族と子どもへの固執/男女共同参画/個人化の昂進/近代家族の解体
教育 学制の開始/国民教育に着手 義務教育就学率100%へ/国民教育体制成立 新学制の開始/教育の民主化 進学率の急上昇/大衆教育社会の成立 競争教育激化/学校化 学歴神話崩壊/競争局所化/子どもの自律主体化(新しい学力観)/教育の市場化/国民教育の変質
社会 伝統的村落共同体の残存 都市化の開始 都市への人口流出/村落共同体の崩壊 郊外化・団地化/地域社会の結合性低下/企業社会統合 単身世帯の増加/労組組織率の低下/新宗教の興隆 職場の結合性低下/体感治安悪化と治安共同体化/スピリチュアルと自分探し/市民社会の公共化
政治・思想 立憲君主制の成立/自由民権運動 大正デモクラシー/男子普通選挙/政党政治 敗戦/男女普通選挙/民主化 55年体制の成立と安定/左右対立と安保闘争/小国主義の定着と所得倍増計画 社会党の長期低落/サブ政治化の進行/無党派層の拡大と政治的有効性感覚の低下/カラスの勝手主義 左派凋落と保守二大政党化/無党派層の拡大進行/ポピュリズム/統治権力の再編
参考区分 理想の時代 夢の時代 虚構の時代 不可能性の時代/動物の時代

 

表の最下段に示したのは、見田宗介と大澤真幸による戦後日本の時期区分である。見田によれば、1945~60年は、「アメリカン・デモクラシーの理想と、ソヴィエト・コミュニズムの理想」という二つの大文字の理想に支配された「理想」の時代であり、理想がやがて現実となることに疑いを持たず、「未だないもの」を求めたが、安保闘争の挫折で終わりを迎えた。続く60~73年は、求めた理想が現実にならなかった代わりに物質的な充足を得て、幸福感に包まれた「夢」の時代であるが、高度成長の停止とともに終焉した。その後の73年以降は、物質的な充足の果てに、人々の関係が「演技されるもの」=虚構として感覚される「虚構」の時代へと突入したとされる(見田〔2006〕、70-95頁)。

大澤は、見田の認識を引き継ぎつつ、「夢の時代」を前後の時代に解消し、「理想の時代」を45~70年、「虚構の時代」を70~95年とする。その上で、虚構のような現実の極限としての地下鉄サリン事件を転機として、95年以降に「不可能性の時代」への移行が起こったと考える。これは、リアリティの喪失の果てに、「現実以上に現実的なもの」=直接には経験できない「不可能なもの」を求める傾向が強まった時代であるとされている(大澤〔2008〕、2-5、166-167頁)。なお、見田=大澤の認識に拠る東は、「虚構の時代」の後の89/95年以降には、人々が即時的な快楽へと没入する「動物の時代」が到来していると論じている(東〔2001〕)。

したがって、見田=大澤=東の時期区分は、本連載が結論する時期区分と表の様に対応する。ただし、これらの認識はあくまでも参考になればよい程度の曖昧な議論であり、その内容を支持するかどうかはここでは問題にしない。表の時期区分が既存の議論と多大な対応関係を持っていることを示し、思考の展開可能性を開いておけば十分である。

 

本連載がこれまで積み重ねてきた作業から総合的に判断して、少なくとも70年代半ばからポストモダン化が進行し、90年代半ばまでには全面的なポストモダンに突入したと考えることには間違いが無いと思われる。結論部たる役割を果たすため、ここで「ポストモダン化」が意味するところを改めて簡潔にまとめておこう。

序論で引いたように、東はポストモダン化を「近代国家をまとめ上げる象徴的な統合性(大きな物語)の力が失われ、国民ひとりひとりの考え方がバラバラになっていく変化」と捉えているが、これは社会の島宇宙化にのみ焦点を当てた不十分な把握である。ポストモダン化とはまず、社会の多面的領域における流動化によって、従来は自明と思われてきた伝統や共同性が選択の対象になり(再帰性)、様々な拘束を解き放たれた個人が自らの選択によって島宇宙(小さな価値=趣味共同体)へと分断された結果、社会の一体性が信じられにくくなった(「大きな物語」の崩壊=象徴的統合の失効)ことを指す。流動性と再帰性の上昇は個人の自由が拡大することを意味する。同時に、法制度および社会慣習上も、個人の権利を尊重し、個人の選択を支援し、個人を単位とした社会構成を志向する傾向が強まるため、一連の変化は包括して「個人化」と呼ばれる。

個人化は個人の権利主体性を強く意識させるようになり、中間集団の弱体化以後に個人の権利を保護・救済する唯一の機関としての国家の役割への期待を高める。高度消費社会の成立を背景にして、個人の選択は市場的契約と、個人の権利は消費者の権利と等置されるようになり、社会のあらゆる領域で、コストを負担する者へ徹底的に応答することが絶対の倫理となった(消費者化)。しかし、権利主体化=消費者化は、同時に責任主体化=リスク化をもたらす。自由を獲得した個人にはそれに見合う責任が求められるようになり、様々な不遇は選択の結果として個人的問題に還元されるようになった(自己責任)。選択の結果がどう現れるかについての不確実性はリスクとして意識されるようになり、人々の不安を喚起するようになった。

ポストモダンでは、個人は三重の不安にさらされる。一つは、流動性の上昇ゆえに安定的な帰属先が失われ、「自分が誰か分からなくなる」不安である(自我の危機)。二つ目に、島宇宙化の進行ゆえに物理的な近接性が信頼性を保証しなくなり、「隣人が誰か分からなくなった」不安がある(信頼の危機)。そして最後に、多面的領域で膨大なリスクが感知されるようになった上に、何か起こったら自分で責任を取らなければならなくなったので、常に未来への心配が付きまとう「この先どうなるか分からない」不安である(未来の危機)。私たちが今、このような不安にさいなまれているとすれば、それはポストモダンという時代の条件に規定されているのであり、特定のアクター――個人・親・子ども・若者・高齢者・男性・女性・上層・下層・左翼・右翼・政治家・官僚・財界・マスコミ・米国・北朝鮮・イスラーム――の行動によってのみ引き起こされているのではない。

 

規範的な主張を含むポストモダニズムのみならず、相対的に価値中立的なポストモダン論までもが強い反発を受けがちな理由の一つは、「脱‐近代」「後‐近代」という響きのゆえに、世界に革命的な変化が起きていると大仰にあおり立てているように聞こえてしまうことがある。だが、これまでの議論から明らかなように、ポストモダンとは別に近代とは全く異なる原理に貫かれる時代ではない。むしろ、「個人化」の一語で要約されるように、一連のポストモダン化は近代化の昂進によって引き起こされている事態であり、近代が終わったとすれば、それは近代原理の徹底ゆえに近代が自己破壊を行った帰結なのである(東〔2003-05=2007〕、731頁)。

それでも「近代」の枠組みは極めて強固であるから、そう簡単には解体されない、と考える立場は根強い。だが、既に述べてきたように、近代化は幾つかの分野での変化の複合によって引き起こされた歴史的な変化であり、「近代」の枠組みは自然なものでも不変なものでもない。各分野で更なる変化が生じれば、その複合によって新たな変化が引き起こされ、歴史は次の時代へと移行する。それが「ポストモダン」と呼ばれているのであって、それだけのことである。事ここに至っても「近代」は未だ強健であるとの主張を保持することは、私には「近代」への――肯定的にせよ否定的にせよ――過剰な思い入れにしか思えない。

無論、現代的な問題系を「近代」と「ポストモダン」のどちらの名の下に論じるかは、実のところ大して重要な問題ではない。必要なことは、何が起きているのかを認識し、何が問題なのかを分析し、何をなすべきかを提言することである。ポストモダン論に同調できない人々も、各項で検討してきた多面的な変化とその特徴を丸ごと否定することは不可能なはずである。少なくとも主要な変化についての認識を共有することができ、何が問題であるのかについて多様な立場の人々が議論することを可能にする一定の共通前提を提示することができているのなら、私の最大の目的は既に達成されている。本連載に残された課題は、現状に対する私自身の評価と提言を明確に示しておくことだけであろう。

 

ポストモダニティへの評価と対応

 

各項で再三強調してきたように、ポストモダン化は常に両価的である。ポストモダン化は、近代原理の徹底ゆえの近代の自己破壊であるから、まず肯定すべき変化が基本にあって、その副作用として問題が生じている。メディアの発達は個人をエンパワーメントしたし、地域と雇用の流動化や家族の個人化は個人の自由度を増した。公権力が親密圏を聖域と見做さなくなったことによって弱い立場の人の権利が保護・救済される可能性が高まった。政治への無関心は、それでも社会がそれなりに回るという事情の裏返しである。「大きな物語」の崩壊は、価値の多元性を承認するリベラルな認識の浸透と結び付いている。ポストモダンでは自由と多様性が肯定されており、過去の時代と比べれば、個人にとってずっと生きやすい時代だと言えよう。

だから、あるべき社会の方向性は、両価的な事態の中で可能な限り良質な部分を拾い集めて繋げて行くやり方でしか示され得ない。全否定も全肯定も有り得ない。基本的方向性と実績を肯定した上で、よりよりコントロールを可能にする方法を探ることが必要とされている。過去への回帰――生活世界の復興やネーションの再興――は不可能であるし、望ましくもない。変化による副作用への必要な対応は、個人化を織り込んだものでなければならない。こうした基本認識に立脚した上で、(1)島宇宙化とサブ政治化によるポピュリズムへの対応、(2)ネーションの解体と国家の私的サービス主体化による社会的なものの危機への対応、(3)流動性上昇と島宇宙化によって喚起される不安への対応の三点について、以下で順次検討する。

 

(1)stakeholder democracyへ

 

まず、ポピュリズムへの対応を論じる。ポピュリズムの支配によって具体的政策の質が犠牲とされる事態を避けるためには、多様な利害関心の所在が的確に把握され、多元的な敵対性が適切に組織・代表される必要がある。バラバラに所在している多様な利益ないし価値に公的政治過程への伝達回路を確保することができれば、実質的な利害関心から超然とした「空虚なシニフィアン」=ポピュリストが台頭する条件は失われるからである。民主化の極北としてのポピュリズムの肯定的側面に着目するなら、プープル主権と直接制へ近づこうとする傾向はそのままに、利害の伝達/実現回路を新たに構築し直すことを通じて、政治過程への攻撃を強める「人民」のエネルギーをポジティブな方向に流し換えることができるだろう。ポピュリズムが政治の不安定化をもたらさないためには、フォーマルな政治過程の参加可能性/応答可能性を高めなければならない。そのためには例えば、総選挙の1~2週間前に「熟議の日」と呼ばれる祝日を設け、地域の小集団で討論を行うことを可能にすることで、政策論議を活発化させる――利害関心の布置を明確にする――などの「熟議民主政deliberative democracy」的な制度を導入することも一案であろう*1。ただし、利害伝達回路の再整備との主旨に根差すなら、熟議民主政の構築は全体性を前提とした何らかの「公共善」の達成を目的にすべきではなく、あくまでも個々の政治主体の利害実現を促進する手段――個人化社会のインフラ――の提供をこそ目指すべきである。

フォーマルな政治過程の外で多くのことが決定されてしまうリスク社会では、社会に流出した諸決定権限に民主的正統性を括り付けて回る作業も必要になる。正統的な政治過程から切り離された決定過程に一般市民が割り込んでいくことを正当化するためには、「利害関係stake」を持ち出すしかない。「治者と被治者の同一性」や「自己決定」を重んじる民主政においては、本来的に利害関係の保持が決定参与の根拠であるはずだが、流動性が高いポストモダン社会では、浮遊する利害関係を「権利」として制度化する作業が決定とその影響の波及の速度に間に合わないことが多い。それゆえ、制度化以前の多様な利害関係に着目することによって、利害関係が存在する領域への参加可能性を拡大していくことが課題として浮上する*2。企業経営、労使交渉、紛争解決、犯罪者処遇、医療行為など、多面的な分野でstakeholderの決定への参与可能性を高めることが、政治全体の有効性感覚を回復し、ポピュリズムの不安定性を防圧することに役立つだろう。

決定作成へのstakeholderの参加を促進する以上、決定の内容はstakeholder間の交渉に委ねなければならない。国家的機関が担う役割は、市民社会内部における多様な決定作成(合意形成)と決定実践の法的/経済的枠組みを整備することに限定されるべきである。評価国家化、すなわち国家が(固有の行政サービス以外の領域では)民間主体の多様な活動を支援・調整・評価する「メタガバナンス」の役割に特化していく変化の方向性は肯定される。権限と財源は可能な限り下位レベルに下ろし、自治の範囲を拡大する(補完性原理)。国家が国民の生命と福祉を保障する安全国家としての性格を強めていくことも基本的には肯定されるが、国家による市民社会への介入は最小限に留めなければならない。私的領域や親密圏での人権侵害において介入や救済が必要とされる場面でも、公権力が直接かかわる必要を認めるべき範囲と程度は限られる。もとより、公権力の介入によって保護や救済が得られても、その後の中長期的なケアや当事者間の関係再構築にまで国が関与し切れるわけではない。ならば必要なのは、公権力の適切な介入を要請することである以上に、社会の側に新たな問題解決能力/機構を整備することであろう。その試みの例がADRであり、修復的司法である*3。今や、「公共性」を市民社会の側でも担っていくことが求められているのである。

 

利害関係を根拠にした参加は、「私のことは私が決める」という自己決定原理や、「金払ってんだから言わせろ」という消費者主権の考え方と密接に結び付いている。それゆえ、自己決定や消費者主権を肯定するなら、stakeholderの参加に理論的な反駁をすることは困難なはずである。利害関係概念に基づく社会の再編成――stakeholder society――は、消費者主権=自己決定原理の浸透をテコにした社会構成原理の転換を目指しており、個人化するポストモダンにおける「公共性」の未来にかかわる構想である。

ポストモダンにおいては、「誰が、何を」という具体的な利害関心の所在と対立を公の下に顕在化させていく必要がますます大きくなっている。それは、しばしば目指されるような差異や対立の自己目的化であってはならず、政治を目的‐手段カテゴリに意識的に還元することの追求でなくてはならない。利害関係原理を通じて再編成される社会は、個人を単位としているが、市場ベースの社会構成を必然化しない。利害関係に応じた非市場的な連帯が有り得るからである。新たな社会構成原理は、目的を同じくする個人の自発的合意に基づく市民的結社や、目的を別にする個人がプロセスや手段の一致によって結び付くアドホックな「連合」など、利害関係に応じた目的手段的な活動を支援するドライなアソシエーショニズムを内包する。多様な諸結社が社会内の利害を組織化して政治に連絡を持ち、公的領域と私的領域を橋渡しすることができれば、市民と政治との間のギャップは埋められていくはずである(早川〔2001〕)。

市場的契約関係に還元されない多様な結社の活性化は、諸結社と統治機構との間で抑制的均衡関係が保たれる分権的システムを構築することによって、統治権力の現代的再編成――評価国家化――を一定の枠組みに拘束すると同時に、統治機構では対応しきれないような多様な政治課題への取り組みを可能にする。市民社会組織への支援の一環として、市民が納めた所得税や住民税の数%を市民自ら指定したNPOなどの市民社会組織に移譲する「パーセントメカニズム」制度の導入が考えられてよい *4。この制度を通じて公的資金が結社に流れ込むようになれば、結社が公共化され、統治機関と結社とが相互に監視し合う体制が構築されると同時に、相互の情報交換や協働的取り組みを行う回路が開通することになる。その帰結として、政治の応答性と信頼性の上昇を期待することができるだろう。

 

(2)「社会的な分配」から「政治的な分配」へ

 

次に、社会的なものの基盤の確保の困難について述べる。田村哲樹は、国民が国家を信頼し、ひいては国家が行う社会政策のための負担を引き受けるためには、「何らかの意味での集合的な「我々意識」」=「(社会的)連帯」が必要であるとする(田村〔2008〕)。具体的には、A.労働による連帯、B.ナショナリティによる連帯、C.普遍主義的福祉制度(ex.ベーシックインカム)をテコにしたa.自律による/b.無条件性による連帯が選択肢として在り得るとした上で、何らかの意味での「排除」を避けるために、AとBを退けてCを採る。しかし、濱口桂一郎が指摘しているように(濱口〔2008〕)、普遍主義的な福祉制度が成立するためには、その前提として「普遍」の範囲を画定せねばならず、現実的にはその範囲はナショナリティから全く自由では在り得ない。したがって、社会的な連帯を確保するにあたってナショナリティを抜きにすることは困難である。

現に近年、60年代末以降の批判的アカデミズムが非‐国民を排除する「ヨコの暴力」を問題視するあまり、社会的な連帯の地盤沈下への対応力を持ち得なかったとの批判ないし反省に基づき、「ヨコの暴力」=「他者論」重視から「タテの暴力」=「階級論」への回帰を主張する立場が目立つようになった。社会的なるものの復権を訴えて「タテの暴力」を問題化するということは、「ヨコの暴力」を引き受けることと同義である。社会的なるものが実効的たり得るためには、「社会」の範囲が画定されなければならず、無限では在り得ないその範囲の外には誰かが放逐されねばならないからだ。私たちにとって現時点で最も実効的な「社会」たり得るのは「国民」集団であるから、何らかの形でナショナルな連帯に期待する人々が現れるのは自然である。自然であるがしかし、ネーションが解体しつつある状況では、ナショナリティに拠ることでソーシャルなものの復権を目指すのは的外れと言わざるを得ない。

 

治安コストが私化されつつある現状では、社会秩序の安定のために再分配が必要であるとの理由も有効性を失いつつある。現下の状況では、むしろ社会的なものを放棄して、違った回路で資源再分配を確保する方法を考えるべきなのではないだろうか。違った回路とは、端的に言って政治的勝利である。素直に考えてみるなら、国家が対価に応じて私的サービスを提供するアクターに転化していくことは、それ自体として悪いことではない。問題は一定規模の再分配を確保することができるかどうかなのであるが、国家の私的サービス主体化以降に可能な再分配は、政治的なものだけであろう。もとより再分配は政治的決定に基づく暴力行使だが、従来はその暴力行使が社会的連帯原理によって正当化されていた。その連帯原理の説得性が失われた今、なおも再分配を求めるのであれば、その暴力を正当化できない剥き出しの暴力として認めるべきではないか。同質的なネーションとしての共感によって暴力性を粉飾することが不可能になった以上、再分配を道徳的に正当化しようとすることも止めた方が良い。

再分配を維持・強化したいのならば、再分配を必要とする勢力が、再分配に抵抗する勢力に対して、政治的な勝利を収めればよいのだ。貧しい者が団結して暴力を行使することによって、豊かな者から富を収奪する。道徳的な正当化を望まず、政治的な闘争を経て、端的に暴力として奪うこと。それだけが可能性である。お望みなら、民主的過程を貫徹させることによって正統化することはできる。しかし、内容の正当化はできない。政治は恣意的な営為であり、私的利害にしか基づかない。重要なのは、目的を達成するために勝利することだけである。科学は勝ち負けではないが、政治は勝ち負けである。何はともあれ、勝てばよい。目的が達成できればよい。目的の達成のためにはどのような手段が採られようとも構わない。手段の理非を問う一連の作業も、広く捉えれば、政治=世界を左右する内部ゲームの一環に過ぎない。再分配の暴力性を粉飾する機能が弱体しつつある現代において、なおも分配を望むなら、「社会的な分配」から、「政治的な分配」へと、発想を切り換える必要があるだろう。

 

また、再分配の範囲も政治的決定によって左右される。政治過程には利害関係に応じた様々な要求が提出されるので、分配の範囲がナショナリティの範囲と一致する必然性は無い*5。再分配の受益者たり得るシティズンシップが付与される範囲はどこかで閉ざされなければならないが、利害関係を前提とした政治的決定に基づく限り、境界線は再審可能性に開かれており、流動し得る。

分配の手段は、ベーシックインカムを中心に考えるべきだろう*6。あらゆる属性の違いを一切問わず、無条件に一定の所得を給付するベーシックインカムは、個人化する社会に対応した社会政策である(武川〔2004〕、338頁)。所得の一律の分配は、個人化社会における活動の「掛け金stake」の保障と考えることができる。

 

(3)非流動性の創出

 

最後に、人々が抱く不安への対応について考える。流動性の上昇に対しては、何らかの共同体ないし共同性を構築することによって非流動性を確保し、自我の安定を提供するべきであるとの処方箋が示されることが多くなっている(鈴木〔2008〕など)。共同体は、所属によって「無条件に認めてくれる居場所」を与えるものとして観念される(雨宮・萱野〔2008〕、87-88頁)。萱野稔人は家族を例に挙げて「親は子供を、ただ自分の子供だからということで、無条件で受け入れる」と述べているが(雨宮・萱野〔2008〕、164頁)、それは幻想である。実際には親は単に自分の子供であるという理由だけで子どもを愛するわけではないし*7、愛すべき条件を満たしていなければ自分の子どもとは見做さないことも有り得る。同様に、共同体もそもそも所属の条件が存在するし、その内部において必ずしも対等な処遇が待っているわけではない。共同体が無条件の承認の場であると言うのは、錯覚である。

「承認の共同性」を確保するにあたって、鈴木謙介はナショナリティや地縁的共同体とは区別される不定形の「ジモト」的紐帯に期待を寄せている(鈴木〔2008〕211-220頁)。だが、そのように自己を受け入れてくれる人間関係こそ、自分自身で作り上げるしかないものである。そのような関係の構築自体について能力差が現れ、複数の「ジモト」を獲得できる人間と、どの「ジモト」にも居場所を得ることのできない人間とが分かれることになる。後者は、絶望的な孤独に留め置かれることだろう。この事態は避けられないし、そこに社会的な支援を与えることも難しい。ここには「承認」をめぐる議論が袋小路に入り込んでいる姿が示されている。

そもそも、事態の行く先に対して漠然とした期待を表明することしかできない時点で、それは処方箋ではない。心の問題をどうにかしようとして、何らかの非流動的な共同体ないし共同性を持ち上げる論法は、無力であり、無意味である*8。人々が「承認の共同性」を形成することは自由かつ活発に行われてよいが、外部からそれを積極的に推奨する必要はないし、直接に公的な支援が振り向けられるべきでもない。必要な支援はただ、個人が多様な関係を自由に取り結び得るための物質的条件を確保し、自発的に形成された結社ないし集団が公共的に有意味な活動に関与することを促進する枠組みを整備するといった、制度的な支援に限られる。承認の問題、尊厳の問題は、社会的に解決を模索すべき問題ではないと言える。

どの道、絶えず様々な情報が得られ、多様な他者と触れる機会に溢れ、自己と社会が相対化の波にさらされる社会では、「壊れる」人が多くなっていくことは避けられない。それをパターナリスティックに手当てしようとする必要はない。壊れてしまいそうな人に対処しようとして無理に社会をいじくり回すなら、むしろ弊害の方が大きくなるだろう。壊れた人に対しては隔離など一定の処置を必要とするが、近代的「人間」の崩壊を防ごうとして社会に物語性を注入し、生の意味付けを提供しようとするのは止めるべきだ。個体にしてみれば、自らの利害に従って選択可能な部分が大きいことから、参入離脱が自由な流動性の高い社会の方が望ましい。それゆえ、一般的に言って、流動性はどんどん高めて構わない。国家は生命や生活水準だけを保障すればよく、特定の契約や社会制度、社会の在り方を保守する必要などない。あとは放置しておけばよい。自殺してもいいし、ひきこもってもいい*9。壊れそうな人はどんどん「動物化」してくれて構わないし、アルコール・ドラッグ・セックスなどで適当に気を散らしてくれればいい。

 

宮台は、恣意的な共通性/共同性を事実的に積み重ねることによって、他者(外部)との差異を作り出し、代替不可能性を作為する(元々は他でもあり得たが、今やこれ/彼でしかあり得ない)ことに希望を見出しているが(宮台〔2005〕)、事実的な積み重ねによる共同性は、事実の更新によって容易に解体される。宮台が期待する「変形家族」とは(宮台〔2004〕)、自発的・目的手段的に形成される関係であり、伝統的な家族関係と比べれば流動しやすい集団であるから、個人に恒常的な安心を提供する非流動的な場となることはあり得ない。

とはいえ、そもそも伝統的な家族が恒常的な非流動性を保ち得ていたと考えるのが錯覚なのであって、人間が形成する関係や集団はすべからく流動的なのである。「無条件に受け入れてくれる居場所」など、誰にとっても存在しない。恋人があなたに優しいのはあなたのどこか特定の要素(ないしその組み合わせ)が好きだからであり、友人があなたを慰めてくれるのはあなたの何か決まった性質を気に入っているからである。その要素や性質が失われれば、恋人や友人はあなたから離れていく。この点では家族も同様である。血縁など、絶対的な拘束ではない。したがって、無条件の承認の場など、どこにも存在しない。私たちが構築し得る共同体は、相対的な非流動性を提供する一時的なテーマパークでしか在り得ない。これはポストモダンだからそうだと言うわけではなく、太古の昔からそうなのである。あらゆるものの自明性が剥奪されたポストモダンが、本来的な現実を露出させただけのことだ。

非流動性が保障された関係など最初から存在しない。非流動性が在り得るとすれば、それは自らの意志と努力によって創り出し、暫定的に維持していくものである。例えば自分にとって大切な人から、「なぜ私と一緒に居るのか」と尋ねられたとしよう。その問いに対しては、「私が一緒に居たいと思うから」と答えれば十分である。まかり間違っても、運命などという外在的な理由を持ち出してはならない。誰かとトゥギャザーする理由は、決して外からは生まれない。いつも・最初から、自分自身の中に在る。また、「本当のあなた」や「あなたらしさ」などという本質主義的な前提を持ち込むべきでもない。「あなたがどんなに変わってもあなたを好きでいる」ことなど、不可能かつ無意味である*10。永遠を約束された愛など無い。愛の不朽性は、残された結果を以て事実的に示されるものであり、最初から現れ出るものではない。年を重ねれば、「僕のやさしさもだんだん齢をとる」。愛はそれを持続させるために努力を要求するのである。本質主義への依拠は、その努力を回避させるか評価不能にしてしまう。

永遠の愛は無い。生まれつきの家族も無い。私と誰か/何かの関係に、自明なものなどただ一つも無い。関係は作り出される。産み落とされる。しばらくは生き、いつかは衰え、死ぬ。だから、どんな関係であれ、それを生き長らえさせるためには、栄養が必要であり、休息が必要であり、ケアが必要なのである。そんな当たり前のことが気付かれなかったり無視されたり隠蔽されたりしてきたのが、ポストモダン以前の歴史であった*11。繰り返そう。永遠に続く関係など無い。在り得るのはただ、たゆまぬ配慮によって作り出された、事実上恒久的に見える関係だけである。

友人にせよ、恋人にせよ、家族にせよ、共同体にせよ、相対的な非流動性の創出に動機付けられた関係とは、「ありそうもない共通前提を共同作業で維持する演技空間」である(宮台〔2005〕)。その関係が形成され、継続することに、必然的な根拠など何ら存在しない。だから、私たちがその関係を維持しようと思えば、絶えず演技=作為し続けなければならない。何もせずとも安心が得られると考えるのは単なる錯覚である。

私たちは、流動性を防圧し、心の拠り所になってくれる場を築くためにこそ、精一杯の努力を必要とする。だから、私たちには本来的に休息する暇など無いのだ。信頼する「共同体」に胡坐をかいている間に、その足場は内外の流動性に浸食されていく。「安心」は提供されるものではなく、自分で作り上げるものである。ゆえに、私たちは絶えず走り回っていなくてはならず、永久に「安心」できない*12。しかし、それで何の問題があろう。少なくとも私にとっては、本来的な現実に目を瞑って「承認の共同性」を自明視することで境界線内外の差異を本質化し、内部における均質化圧力と外部に対する暴力的な排除を正当化する欺瞞を受け容れるよりは、自らの居場所を自らで確保する営為に汲々としている方がずっとマシに思える。そして、個人化する社会が目指すべき方向性も、そうした営為を前提にしたものであるべきである。

愛にせよ、生にせよ、「無条件の肯定」なる言葉は誰にとっても魅力的に響く。しかし、それは不可能なだけでなく望ましくもない*13。無条件に誰か/何かを肯定するということは、無条件にそれ以外を否定するということを意味する*14。肯定される側には絶対的な承認が確保される一方で、一旦肯定から洩れた者は、絶対的な排除に取り残されることになる。無条件性への固執は、境界線を本質化しやすい危険な思考である*15。絶対的な排除を避け、世界に豊穣な可能性を確保しておくためには、私たちはむしろ、あらゆる関係が「条件付きであること」に対してより意識的になり、関係へのたゆまぬ配慮に注力していくべきなのである。

 

いつしか全てが 歌のように終わるなら

それでも構わない それでも僕は今

 

君との始まりを歌おう

 

LOST IN TIME「はじまり」

 

展望――エゴイズムの観点から

 

宇野常寛は、90年代後半以降、ポストモダンの流動性と価値相対化圧力による不安を手当てする目的で、特定の「小さな物語」へのコミットを明らかにする態度が左右問わず蔓延しているとして、そうした姿勢を「決断主義」と呼んでいる(宇野〔2008〕)*16。彼らは、自らがコミットする価値が有り得る一つの物語に過ぎないことは知りつつ、自我の、あるいは社会の安定を図るために、敢えてその価値の必然性を偽装する。再帰的選択を本質化することで、非流動性を獲得しようとするのだ。その選択に伴う暴力は、巧妙な形で正当化される。

ポストモダン思想をくぐった現代の政治思想・社会思想・倫理学は価値の多様性を前提にしており、特定の価値の選択に伴う暴力の不可避性を認めるが、それでも普遍的な正義の可能性だけは放棄しない態度が支配的である。現時点では未だ存在しておらずとも、いつか到来する(発見される)普遍的な正義によって絶対的な規準を獲得し得るのであり、そうした「来るべき正義」の可能性を前提することによって選択=決断の「より良さ」を判断することが可能になると言うわけである*17。こうした否定神学的論法による決断の正当化は、自身の恣意的な選択を「決断主義」以上のものに見せようとする偽装工作でしかない*18。彼らは、自らの政治的立場が有り得る様々な立場の一つであることを一旦認めながらも、それが「来るべき正義」によって基礎付けられることを諦めていない。決断が必要なことは認めても、その決断をいつか・どこかから評価してくれる誰か/何かへの依存心を捨ててはいない。彼らは神を必要としているのだ。

あらゆる選択=決定が暴力的でしか在り得ず、私たちが常に誰か/何かを排除しながら生きていかなければならないことを自覚しつつも、「よりよい決定」へ、より妥当で開かれた決定へと近付こうとする態度を「穏当な決断主義」と呼ぶとすれば、この立場はそれなりに評価できるものかもしれない。だが、この立場は暴力的でしか在り得ない決定の根拠を、手続きによる正統化のみならず、未来の正当化可能性にも委ねている。これは欺瞞にほかならない。彼らは自身の恣意的な選択が暴力的な排除を含むことを認めるが、それが形式的な反省の域を出ているかは疑わしい。宇野の言葉を借りれば、「穏当な決断主義」が見せる自身の決断に対する痛みの感覚とは、一度痛がって見せれば事が済むような「安全に痛い」感覚でしかないように思われる*19

普遍的な正義が「未だ」存在しないことを認めつつも、規制理念としての正義の必要性を主張する「穏当な決断主義」者――デリダ的シュミット主義者――は、結局のところ自らがコミットするローカルな正義を以て普遍性を僭称する振る舞いに堕す。「来るべき正義」は現時点では内容が不明であるため、現状を批判する準拠点としてのそれと現状との間の空隙を埋めるために、論者が考える正義の内容が密輸入されることになる。「来るべき正義」による審判を仰ぐ否定神学的正義論者は、「空虚なシニフィアン」を奉じることを通じて自らの恣意的な主張を実質的に正当化する点において、一群のポピュリストと振る舞いを同じくする。ひいては、政治的に打ち負かしたい対立勢力が「来るべき正義」とは相容れない「敵」として名指され、「来るべき正義」の内容を同定するための道具(構成的外部)に用いられさえする――「ネオリベ」。自らの決断は規範的には正当化できないと一方で述べつつ、他方で実質的な正当化――「来るべき正義」との飛躍的接続――を試みる所業は、単なる「決断主義」――ネオコン的ニヒリズム――より却ってタチが悪い。

 

明快に言えば、「穏当な決断主義」者の――とりわけ良質な人々にこそ見られる――「穏当さ」なるものは、留保無しで「決断主義」に踏み切ることの怯えの現れである。怯えることそのものは問題にされるべきではない。だが、怯えを規範的に正当化しようとするのは馬鹿げている。「決断主義」が一貫した立場であるためには、正当性を主張するべきではない。「正義」を掲げる限り、必ず「悪」が名指される*20。それは排除を正当化する。本当に排除を問題視するならば、「悪」や「敵」を名指すべきではない(杉田〔2005〕、第4章)。普遍的な正義を想定することによってある種の暴力が免罪されるとしたら、むしろ「正義」を放棄して政治的合意にのみ基づいた社会運営を目指した方がいい。正当性を放棄するのである。すなわち、欺瞞的な「穏当な決断主義」ではなく、何の留保も無いエゴイスティックな決断主義をこそ引き受けるべきなのだ

決断=選択=決定の必要性は疑うべくもない。もとより、参入離脱が自由な「開かれた共同体」などは幻想である。多かれ少なかれ、共同体は常に外に対して閉じ、内に対して均質化圧力をかける存在であり、排除と抑圧は避けられない。しかし、完全に開くことができないからといって、扉を閉ざす振る舞いを正当化するのは間違いである。暴力は決して正当化できない。閉じるなら、閉じる理由を正当化してはならない。手続きによる正統化はしても、内外の差異を本質化し、境界線の自明視に陥ることは避けなければならない。境界線は常に政治的=恣意的に引かれるものである。エゴイスティックな決断主義は、この恣意性を引き受けなければならない。選ばれた境界線を本質化せず、政治的闘争を経た再審可能性を常に開いておくべきなのである。選択された価値や決定された境界線は、いわば恒久的に宙吊りにされる。政治的な勝利に正当性の主張を伴わせることはできない。勝った者が正義なのではない。彼はただ勝っただけである。逆に、政治的な敗北を正当性の主張で糊塗することも許されない。負けた者が外在的な正当性を持ち出して勝者を叩くのは、唾棄すべきルサンチマンである。

確かに、手続的正義は正統化された選択を本質化=正当化するとの批判には、一理ある(下地〔2006〕)。しかし、百理無い。もとよりconvention――相互利益への斟酌に基づいて形成された慣習――を通じて制度化された予期が次第に規範的予期に転化していく――「AならBだろう」が繰り返しによって「AならBであるべきだ」に変わっていく――ことは社会学的必然である*21。本質化された決定を護る/覆すのも政治なるゲームの一環である。勝てばよい。ただ勝てばよいではないか。狭い世界での道徳的アピールを放棄せよとは言わない。それはそれとして重要でないわけではない。だが、そこに大きな達成を見込むべきではない。政治的な勝利は、素朴なゲヴァルトの下にあるからだ。

 

ポストモダンは、過去の環境が覆い隠してきた様々な現実を露出させた。私はそれを喜ばしいことだと思う。欺瞞が欺瞞として明白に意識されるようになるからである。露出した現実に対しては、新たな覆いを準備することなく、正面から向き合うべきである。現実に直面する自分自身の現実を意識し、露出させていくのだ。エゴイズムの引き受けは、その一つの現れである。常に自らの利害に即して世界を眺めるエゴイストの視座は、様々な事象をクリアに把握することを可能にする。ここに示した展望は、その一例であると思ってもらえればよい。今、一人のエゴイストとして素朴に思う。明日をいい日にしよう。

 

  • 参考文献
    • 東浩紀〔2001〕『動物化するポストモダン』講談社(講談社現代新書)
    • 東浩紀〔2003-05=2007〕「crypto-survival noteZ」『文学環境論集 東浩紀コレクションL journals』講談社(講談社BOX)、所収
    • 東浩紀ほか〔2003=2007〕「シニシズムと動物化を超えて」『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』講談社(講談社BOX)、所収
    • 宇野常寛〔2008〕『ゼロ年代の想像力』早川書房
    • 大江一平〔2005〕「二元的民主政理論と「熟議の日」」『法学ジャーナル』第77号、2005年3月
    • 大澤真幸〔2008〕『不可能性の時代』岩波書店(岩波新書)
    • 樺嶋秀吉〔2005〕「市川市『一%条例』は“地域づくり”を変えるか」『世界』2005年8月号
    • 下地真樹〔2006〕「批判的合理主義の正義論」『情況』2006年5・6月号
    • 杉田敦〔2005〕『境界線の政治学』岩波書店
    • 田村哲樹〔2004〕「民主主義の新しい可能性」畑山敏夫・丸山仁編『現代政治のパースペクティブ』法律文化社
    • 田村哲樹〔2008〕「国家への信頼、社会における連帯」『世界』2008年4月号(通号777号)
    • 中田瑞穂〔2007〕「東中欧における市民社会組織の発展と熟議=参加デモクラシー」小川有美編『ポスト代表制の比較政治』早稲田大学出版部
    • 濱口桂一郎〔2008〕「ナショナリティにも労働にも立脚しない普遍的な福祉なんてあるのか」@EU労働法政策雑記帳
    • 早川誠〔2001〕「代表制を補完する――P.ハーストの結社民主主義論――」『社会科学研究』第52巻第3号
    • 見田宗介〔2006〕『社会学入門』岩波書店(岩波新書)
    • 宮台真司〔2004〕「戦後家族の空洞化への処方箋」@MIYADAI.com Blog
    • 宮台真司〔2005〕「二つ下に掲載したネオコン論の「毒」を中和する文章を緊急アップします」 @MIYADAI.com Blog
    • 宮台真司〔2006〕「全体性の消失――IT化に最も脆弱な日本社会――【後半】」 @MIYADAI.com Blog
    • 宮台真司〔2007〕「文庫増補版へのあとがき」、宮台真司・石原英樹・大塚明子『増補 サブカルチャー神話解体――少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』筑摩書房(ちくま文庫)、所収
    • 柳瀬昇〔2003〕「熟慮と討議の民主主義理論」『法学政治学論究』第58号、2003年秋

*1:「熟議の日」には停止不可能な職種以外について勤労が禁止され、討論参加者には日当が支払われる(大江〔2005〕、柳瀬〔2003〕、田村〔2004〕)。

*2:利害関係への着目は、利害関係を持つ者の参加を正当化すると同時に、利害関係を持たない者の参加抑制を求める。例えば2009年からの導入が予定されている裁判員制度は、利害関係が希薄な領域への過剰参加である(「民主主義は裁判員制度を支持しない」を参照)。

*3:「司法論ノート――利害関係者司法へ」を参照。

*4:パーセントメカニズムはヨーロッパ各国で導入されており(中田〔2007〕)、日本でも2005年から市川市が導入している(樺嶋〔2005〕)。

*5:もっと言えば、ナショナリティの範囲も多様な利害関係を前提とした政治的闘争を経て決定されるものである。

*6:同時に相続税率の引き上げや累進税率の引き上げが行われてよいと思う。

*7:たとえその理由だけでも、自分の遺伝子を受け継いでいるからとか、自分が育てたからといった理由が付く時点で、既に無条件ではない。

*8:鈴木と同様にアドホックな共同性からの「入れ替え不能性」の獲得が可能であると論じる宇野もまた、処方箋のレベルでは「考え方や捉え方を変えればそれなりに楽しんで生きていけるよ」と教える人生論の域を出ていない――それが「批評」や「文学」の役割なのかもしれない(宇野〔2008〕)。しかも、そもそも流動的な人間関係の中でアドホックに形成され、短期間で解消されていく共同性が提供し得る感覚が「入れ替え不能性」とまで言えるものなのかは甚だ疑問である(同、173-176頁)。

*9:それを回避しようとする人への社会的支援の必要性までを否定しているわけではない。

*10:愛は対象が保有する特定の性質に着目して他者から差別化された特権的な感情を注ぐことによって愛なのである。対象の性質が完全に別のものに変わっても愛するということは、最初から相手は誰でもよかったということである(アガペー)。

*11:家族の結び付きが自明かつ不変のものであると無根拠に信じられていたために、恒常的に非流動的な関係として観念された家族像に基づき、多様な「変形家族」が異常視されることになった。

*12:すなわち「自我の危機」と「未来の危機」は、克服されるべきものと言うより何とか付き合っていくべきものである。残る「信頼の危機」には何らかの対応が必要であるが、利害関係概念を通じたポピュリズムの統制――多元的な敵対性と連帯可能性の明確化――によって、体感治安の悪化はある程度まで沈静化することができると思われる。

*13:不可能性については「生命学とエゴイズム」および「「生の無条件の肯定」の不可能性」を参照。

*14:そもそも「無条件に」=「全てを」肯定するのであれば、はじめから「肯定する」などと言う必要は無い。肯定という意思表明は、肯定できないものとの差異を前提として可能になっている。したがって、肯定なる所作は常に条件付きでしか在り得ない。「無条件の肯定」とは矛盾である。

*15:それはおそらく、潜在的な本質主義への未練に基づいている。

*16:『戦争論』以降の小林よしのりや「新しい歴史教科書をつくる会」、高橋哲哉を筆頭とする「左旋回するポストモダニスト」、大塚英志の「戦後民主主義」論や宮台の亜細亜主義ないし天皇論などがその代表であり、不安への「手当て」として超越的価値を呼び出すその振る舞いは「シニシズム」と呼ばれる(東ほか〔2003=2007〕)。

*17:「正義の臨界を超えて」を参照。

*18:その所作は、好意的に見ても、自身の政治的決断の評価を「後代の歴史家が決めること」と未来に先送りすることによって批判をかわす政治家の答弁と同等の水準にある。

*19:「安全に痛い」自己反省は、「自分は一度反省したのだから倫理的である」との免罪符を獲得し、自らの選択が持つ暴力性への批判を――「周回遅れ」として――封じ込める(無効化する)機能を果たしている(宇野〔2008〕、274-275頁)。さらには自身の行動の暴力性に無自覚な人々に対する優越的な地位の確保にも結び付くだろう。

*20:「正義の味方と悪の大魔王―『20世紀少年』についての小論」を参照。

*21:「esperantoとconvention」を参照。

現代日本社会研究のための覚え書き――ネーション/国家

 

今回は力作…では別にないですが、少なくともここ1~2年の間に書き溜めたり書き散らしたりしていたことがまとめてあるので、まぁそれなりに参考にはなるのではないでしょうか。宮台や東の議論との距離を明示したということもありますが、国家については左翼周りで言われているようなことは大体盛り込まれている/織り込まれているはずで、頑張って小難しくて分厚い本などを読まずとも、先端的な議論は押さえられるはずです。このことはシリーズ全体に言えることですが、このテーマでは特にそうです。このシリーズは大学のレポートに流用するのに便利な素材を提供していると思いますが、それはむしろ本望なことです。どのテーマでも専門的な文献はほとんど使っていなくて、教科書や新書を中心とした二次的・三次的な文献(+講義資料)や一般向けの書籍の議論を整理したものにネット上の情報を加えて構成された部分が主なのですが、それはこの程度の材料を使ってもここまでは行けるということを示すことになっていると思います。ほとんどの人にとっては、それ以上の細かい部分を扱っている専門的な議論は意味のないものでしょう。それでいいと思いますよ、私は。

近代国家の成立とナショナリズムの誕生

 

近代国家は、特定領域において相対的に強大な封建的武装勢力が、他の封建的武装勢力から諸権限を回収し、正統的な暴力行使の権限を独占することで成立する。特定領域における統治権力の統一は、単一不可分の「主権」の誕生を意味する。主権が樹立されると、遅かれ早かれ、統治権力者は法による自己制約(立憲主義)に服するようになる。これは、権力行使にかかわる被治者側の予期可能性を高めることを通じて、統治の正統性を確保し、統治の安定化を図ろうとするためである。法による支配は統治権力の奪人称化を促し、国家は一人または少数の利害と切り離されることになる*1

近代国家の成立に伴い、同じ統治権力を戴く特定領域の被治者集団が「ネーション/国民nation」として統合されていく*2。ネーションの形成、ないし国民統合は、封建的身分秩序の解体を伴う事業であり、国家の作為――言語の統一・公教育の実施・皆兵制など――として意図されると同時に、それを受け止める被治者集団の意思によっても担われる。やがて相互行為的な力学を通じて抽象的かつ総体的観念としての「国民」がイメージされるようになると、平等な「国民」としての連帯意識の創出を通じて経済的再分配の条件が整うとともに、統治権力は「国民」のために用いられるべきだとの意識が人々の間で強まってくる*3。強い結合を得た被治者集団としての国民が統治権力への影響力と応答力を拡大していくに従って、統治権力は民衆を統制し、搾取する権力から、民衆に配慮し、奉仕する権力へと変質していく。こうした国家権力の国民化=民主化の開始によって、「国民の(ための)国家」=「国民国家nation state」が形成されることになる*4

 

そして、これがナショナリズムの出発点である。ナショナリズムは、国家が上から押し付けてくる力を何らかの形で被治者側のものに造り替えようとする運動としての性格を持っており、その誕生時期は国民国家の形成時期と重なっている*5。近代になってナショナリズムが生起してくる要因としては、出版資本主義の勃興による共同体意識の醸成や産業社会に適合的な国民教育の普及などを指摘する立場が有力である。無論、ナショナリズムの前提となるネーションは何もないところにいきなり作り出せるものではないから、過去のエスニックな共同体(エトニ)との連続性がネーションの基礎として持ち出されるという歴史主義的な見解は正しい。しかし、その見解の妥当性を認めたところで、ナショナリズムが近代の産物である事実は変わらない。ナショナリズムの条件であるネーションは、近代にならないと――主権が誕生しないと――出現しないからである。

ネーションとは、第一に言語・宗教・文化・エスニシティなど、何らかの属性を共有する同質的な人間の群れである。そして第二に、ある国家によって統治される集団の全体および当該国家を統治する主体である。国民国家は一つ目の意味と二つ目の意味の集団の範囲が一致する場合に成立すると考えられ、両集団の範囲を一致させようとする運動がナショナリズムである(杉田〔2006〕、168-169頁)。萱野稔人がA.ゲルナーを援用しつつ行っている定義によれば、「ナショナリズムとは、暴力の集団的な実践を民族的な原理に基づかせようとする政治的主張」を意味する(萱野〔2006〕、194頁)。

しかし、「民族」とは、前国家的なエスニック・グループと後国家的なネーションの双方にまたがる意味重複的な概念であり、意味範囲を確定させることが困難であるために、あまり厳密な議論には適さない。それゆえ、この定義は「暴力の集団的な実践を国民的な原理に基づかせようとする政治的主張」と言い換えた方がよい。ここで言う「国民」とは、具体的行為主体の集合としての「人民people」に対置される抽象的総体としての「国民」であり、一体的な「ネーション」である。つまりナショナリズムとは、統治権力を特定のネーション=「われわれ」のために使わなければならないという国家に対する要請であり、統治権力が配慮すべき限られた集団として特定範囲の結合を再解釈≒再強化する行為実践なのである。

 

ナショナリズムnationalism」は、理論的・歴史的に幾つかの類型に分けることができると考えられており、既存の類型論を整理することによって得られる主要な類型は、3種の訳語への対応によって表現できる。

まず、(1)理念や価値の共有を中心とする政治的結合に基づき、能動的な行為主体としての市民が統治機構としての政府を統制するシビック・ナショナリズム=「国民主義」(下からのナショナリズム)。ネーションに包含されるための条件は政治的意思に基づくシティズンシップの獲得であり、ネーションの境界が外に対して開かれ得ることから「健全なナショナリズム」と見做されることが多い。実例としては英米仏のナショナリズムが想定されることが多く、「日々の住民投票」(E.ルナン)や「憲法パトリオティズム」(Y.ハーバーマス)などの議論との重なりが大きい*6

次に、(2)象徴や教育を介した統治主体からの作為的な統合圧力を通じて、特定領域に居住する被治者集団が受動的に糾合され、国家に奉じる意識を持つようになる権威的ナショナリズム=「国家主義」(上からのナショナリズム)。主として近代化過程で現れる社会内部の矛盾を覆い、被治者集団の統合を図るために動員されるイデオロギーであり、実例としては日独露の後発近代化国家が想定されることが多い。統治領域の居住者を統合する必要性から生まれているため、本来的に政治性(恣意性)が高く、人種やエスニシティなどの前国家的な属性と結び付くことで地理的限定を突破し、帝国主義へと膨張する蓋然性を持つ。

最後に、(3)国家の統治対象及び統治主体たるネーションの統合を、土地、人種、血統、言語、宗教、文化など、自然的・前国家的な根拠に基づく結合意識と同一視し、両者を合致させようとするエスニック・ナショナリズム=「民族主義」。結合範囲の地理的限定が強いために非国家的なパトリオティズム(愛郷主義)に近い一方で、人種や血統などの先天的な属性を重視するために、レイシズムに傾きやすく、ネーションの境界は自明なものとして固定化されやすい。ゆえに、排外主義をもたらす「危険なナショナリズム」として警戒視されるのが常である。

 

これら三つの側面はどのナショナリズムにも併せ持たれている性質であり、現実のナショナリズムの相違は各要素の濃淡の違いによってもたらされている。ネーションは国家的まとまりを前提とした共同体意識(に基づく結合)にほかならなず、ナショナリズムが国家の想定に先立つことはない。エスニック・ナショナリズムとは、本来的に国家とは独立の文化的結合を持つ共同体であるエスニック・グループが国家的統合を意識するか、国家の成立の後で人々が遡及的にエスニシティによる統合を志向することによって生じるイデオロギーである*7

戦前の日本を覆った天皇制ナショナリズムは、エスニック・ナショナリズムであると同時に、国家主義的な権威的ナショナリズムでもあった*8。急速な国民国家形成においては、合理主義に根差した国家的論理が、各地の土俗信仰や慣習などの地縁的共同体の論理や家共同体の論理と衝突する*9。そこで、近代化に伴って破壊されていく伝統的な共同体への代替的な統合措置として、天皇制イデオロギーがその機能を果たしたのである(渡辺〔2004-05〕)。こうした統合機能はナショナリズムに共通のものであり、東浩紀が言う「大きな物語」による「象徴的統合」とはこの機能を指しているし*10、同じ事態を別の視点で捉えれば、固定的な身分制秩序の流動化によって新たにアイデンティティの安定的な供給元を探す必要に迫られた個人が、「国民」へと糾合されていく過程として描くこともできる*11

 

戦後日本のナショナリズム不全と90年代以降の「ナショナリズムの勃興」

 

日本では、天皇制ナショナリズムの帰結への反省から、長い間ナショナリズムは低調だった。復古主義的色彩を濃く帯びた岸政権の退陣後に代わって登板した池田政権が保守イシューを封印し、経済成長重視路線に踏み切って以降*12、保守派の主流的立場(「保守本流」)においては、ナショナリズムの復興が明示的に目指されることはなかった。ナショナリズムを唱える傍流の論者が大手メディアで発言の機会を得ることは少なく、ナショナリズム思想が一般の支持を得ることはなかった。

高度経済成長期には、終身雇用や年功賃金、企業別労働組合や手厚い企業福祉などの日本的雇用慣行が成立したことにより、会社共同体に基づく企業社会統合が実現された*13。生活の安定とアイデンティティの保持により、日本への自信と愛着は深まり、少なくとも70年代以後には、9割の人が「日本に生まれてよかった」と考えるようになった(NHK放送文化研究所編〔2004〕、120-121頁)。とはいえ、こうした生活保守主義的な国家への肯定意識は、国家そのものであるよりも所属する企業への忠誠心に基づいていたため、戦前的な価値観とは無縁であり、日本的経営が礼賛された80年代においても、正面切ったナショナリズムは忌避される傾向にあった。

 

ところが、90年代に入って事態は一変する。かつては憚られた戦前日本への肯定的な言及が一般の目に触れる範囲にまで進出し、ナショナルな象徴や一体性を強調する言説が広い支持されるようになり、「日本人」としてのアイデンティティを強調した表現活動が目立ち始め、「ナショナリズムの復興」が頻繁に語られるようになったのである。

96年12月、従来の歴史教育を「自虐的」と批判し、近代日本の歩みを極めて肯定的に捉える「新しい歴史教科書をつくる会」が発足する*14。98年にはアジア・太平洋戦争における日本の行動を肯定する立場から描かれた小林よしのり『戦争論』がベストセラーとなり、99年には国旗・国歌法が制定された。同年にはアジア系外国人への敵対的な発言を繰り返す石原慎太郎が都知事に就任している(03年再選、07年三選)。06年12月には、憲法改正と並んで長らく保守派の悲願だった教育基本法の改正が実現し、愛国心の育成が盛り込まれた。

01年に小泉政権が誕生してからは、中国と韓国を中心とするアジア諸国との摩擦が官民通じて度々引き起こされた。小泉首相は就任当初から靖國神社への参拝方針を明らかにし、国内外からの激しい反発にもかかわらず、繰り返し参拝を強行した*15。国内では中韓との外交関係を毀損するとして小泉外交の失点を批判する立場が多数だったが、むしろ中韓の反発に対して反発を見せる向きも少なくなかった。韓国とは02年にサッカーのワールドカップを共催して友好関係が強調されたが、05年には竹島/独島の領有権を巡る対立が表面化し*16、韓国を戯画的に嘲笑する山野車輪『嫌韓流』がベストセラーとなった。中国に対しては04-05年に相次いで巻き起こった反日暴動を中心とする中国国民の反日的言動に対して国民レベルで反中感情が高まり、尖閣諸島/釣魚島の領有権を巡る対立や東シナ海のガス田にかかわる権益争いで強硬な姿勢を貫くべしとの立場が広く支持されるようになった。

内閣府の世論調査では、「国を愛する気持ちの程度」が「強い」と答える人はバブル期に一旦ピークを迎え、バブル崩壊後の長期不況期は一貫した減少傾向にあったが、2000年を底として、それ以降は急激な上昇を見せており、08年には過去最高の57%の人が「強い」と答えている(内閣府〔2008〕、図2)。また、「国を愛する気持ちを育てる必要性」があると考える人も、同時期から微増した(同、図4)。こうした変化の背景としては、98年のミサイル発射、02年の日朝首脳会談における拉致事件の公然化、05年の核保有表明と翌年の核実験を通じて、その脅威が強く意識されるようになった北朝鮮の存在と、02年頃からの景気回復の影響がうかがえる。

 

90年代以降のナショナリズムは、戦前日本の肯定や日本的象徴の強調、明示的な排外意識などを含む点で、企業社会的統合に支えられた生活保守主義的な国家への愛着心とは性質を異にしている*17。90年代になって「復興」したナショナリズムは、戦後を通じて伏流していたそれよりも、明確にナショナルなものへのコミットを顕示している。ここで、現代日本のナショナリズムが持つ特徴と、このイデオロギーが置かれている文脈を押さえておくことが必要だろう。

世界的には、ナショナリズムは左右ともに反グローバリズム的傾向を帯びるのが常だが、日本では国際競争主義と結託して、グローバル大国化路線とナショナリズムが結び付けられている(渡辺〔2007a〕)。欧米におけるナショナリズムは、産業を保護することで国民経済を守ろうとし、移民を排斥することで雇用を守ろうとする。ところが、日本におけるナショナリズムの主流は、石原や安倍晋三に見られるように、グローバリズムや国際競争主義に親和的で、むしろ規制緩和や雇用流動化を推進しようとする立場を採る傾向にある。この違いは何によるものなのだろうか。しかも、そうした親グローバリズム的なナショナリズム(国際競争主義的ナショナリズム)は、上層ホワイトカラーに留まらず、未組織労働者・非正規労働者を中心とする少なくない無党派都市民からの支持を獲得しているようである。果たして、これはいかなる事情に基づくのか。

元々、戦後の日本における「保守派」の内実は、反共主義とその帰結としての親米主義という一点によって糾合された緩やかな連合体であった。彼らの中核を担ったのは伝統主義者であるよりもむしろ進歩主義者であり、戦後保守政治の基調は進歩と競争――アメリカニズム――にあった。自民党が推進した開発主義政治は、伝統を保守するよりも断絶することに役立ち、地域社会を大きく変貌させた。親米以外の選択肢を持たない日本の保守派は、米国が――ダブル・スタンダードに基づいて――推進するグローバリズムを拒否することができない*18。親米保守の立場から可能なのは、国際競争主義の内部に反中感情を組み込んだり、アジア系外国人を犯罪者視したりすることで、限定的に排外性を押し出す程度のことだけである。

80年代半ば以降、経済界からは国際競争の強調を通じた行財政改革の訴えが盛んになされるようになった。中国経済の台頭は国際競争激化の認識を浸透させ、規制によって保護されていた既得権層の解体への支持取り付けや、単純労働の賃金低下圧力を止むを得ないものとして容認させるテコとなった。90年代に入ると、長期停滞に耐えかねて会社共同体が崩壊し、非正規雇用が拡大することで、社会の断片化が進んだ*19。既存の団体動員型政治は失効し、ポピュリズムが優勢になる(宮台〔2005〕)。流動化によって不安を惹起された人々は、従来の会社共同体に代わる拠り所を求めて、「つくる会」的ナショナリズムへと吸引されていく(宮台〔2006b〕、16&19頁)。経済状況の悪化や雇用の流動化の「割りを食った」人々は、安定的な地位を保っている既得権層や自分たちの利害に応答しない政治への不満を強め、ネオリベラルな改革の推進による一層の流動化を希求するようになる*20。経済的なアンダークラスは、所与の条件として突き付けられるグローバル化や国際競争を理由として自身の境遇を受け容れるように迫られる一方、日常的に触れ合う機会の多い低賃金の外国人労働者を「ライバル」として敵視しがちになり、ナショナリズムに接近していく(雨宮・萱野〔2008〕、59-61頁)。「社会の外に放り出された貧困労働層」であっても、ナショナリティやエスニシティを通じたアイデンティティ規定によって、「人としての尊厳を回復することができる」と考えられるのである(赤木〔2007〕、219頁)*21

以上から、現代のナショナリズムは――当然ながら――戦後日本の歩みに強く規定されていることが解る。日本には保守すべきものは無い。高度成長と開発政治によって全て破壊され尽くしたからである。したがって、有り得るナショナリズムは戦後的な価値ないし体制を前提とするしかなく、戦前回帰的なエスニック・ナショナリズムや天皇制ナショナリズムは支持を獲得し得ない。例えば、少なくない日本人が剥き出しにする中国や北朝鮮に対する敵愾心は、自由民主主義体制への自信と誇りに支えられており、相手方の権威主義体制への優越感を含んでいる。韓国の大衆的な反日行動に対して向けられる、ファナティックないしエモーショナルなナショナリズムには付き合えないという嘲笑的な姿勢も、同種の優越感を伴っている。そこには世界第二位の経済大国として世界に占める地位に見合う理性的な自画像の抱懐が見えるが、同時に長期停滞と中国を筆頭とする新興国の台頭による衰退への危機感と焦燥が混入してもいる。いずれにしても、安定的な自由民主主義体制と世界に冠たる経済大国の地位は、ともに「戦後レジーム」にほかならない。かくのごとく、現代のナショナリズムの前提には常に戦後的なものへの肯定が在るのであって、単純な「復興」や戦前回帰――「いつか来た道」――ではありえない。

それは、天皇への関心が如実に失われていることからも明らかである。1959年以降に生まれた「戦無世代」では、2003年時点で57%が天皇への「無感情」を示しており、現代のナショナリズムが「天皇抜きのナショナリズム」でしか在り得ないことを知らせている。

 

f:id:kihamu:20081025220809j:image (NHK放送文化研究所編〔2004〕、131頁)

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f:id:kihamu:20081027222726j:image (同、133頁)

 

ポストモダンにおけるナショナリズムの不可能性とポピュリズム

 

ポストモダンのナショナリズムは、高い再帰性を特徴とする*22。流動化・島宇宙化する社会で孤立する個人は社会的な支援を期待できず(不幸の個別化)、行動の結果を自らの責任で処理しなければならないため、大変な心理的抑圧と不安に直面する。ポストモダン社会では、人々はそれぞれの閉鎖的な価値コミュニティ(「小さな物語」)に没入する一方で、抑圧と不安にさらされる自我の拡散を防ぎ、何らかの「意味」に係留する――「繋がる」――ため、超越的な存在(「大きな物語」)への同一化欲求を強めていく。「大きな物語」の相対性を自覚しながらも、非流動的な「寄る辺」を得るために「敢えて」超越的存在に接近していくのである*23

したがって、「勃興」するナショナリズムや新保守主義を「失われた共同体の再建を目指すイデオロギー」と見做すよりは(渡辺〔2007a〕)、流動性への不安が超越的存在への接近を促したと考える方が自然である。流動性ゆえに、安心できる帰属先がなく、承認が供給されない。流動性による承認不足が、内に向かうとスピリチュアル――自己責任倫理の内面化による自己改造欲求――を、外に向かうとナショナリズム――自分の存在意義を保証してくれる超越的な存在への接近欲求――を帰結する(雨宮・萱野〔2008〕、96頁)*24。自己の位置付けが欲しい。無条件の承認が欲しい。承認を確保してアイデンティティを安定させるための手段としてナショナリズムに接近する再帰的選択が蓋然性を持つようになり、いっそ戦争で「お国のため」に死ぬことによって「国民」としての栄誉を得ることに希望を見出す人間が現れる(赤木〔2007〕、210頁)。

アンダークラスのナショナリズムは、連帯意識であるよりも、外在的な暴力主体としての国家を介した分捕りの要請を正当化する方便としての性格が色濃い。彼らの間ではネーションの連帯感など信じられていないが、国家は国民の生活を保障するべきだとの意識だけは強まっている。国家的象徴などには興味がないが、金は寄こせと言うのである(ex.赤木智弘)。これは「パラサイト・ナショナリズム」の呼び名に当てはまるだろう(篠原〔2004〕、146頁)。国家への愛着や誇りはあるが、命を張ってまで国家を防衛しようとは思わない。国家は国民の暮らしを保障するべきだと考えるが、自分が国家のために何かしようとは思わない。こうした意識は、生活保守主義を経て醸成されたものであり、サービス主体としての国家観を定着させている。04年に起きたイラクでの邦人人質事件の際に巻き起こった自己責任論では、国家が国民を助ける費用を国民に求める措置が正当化されたが、それは国家の国民への奉仕が対価に応じたサービスと見做されるようになった――行政の公共性が喪失された――ことを示唆していた(総消費社会)。

 

確かに、現代の日本は国旗・国歌法が通過する環境になり、靖国参拝を強行できる環境になり、教育基本法が改正される環境になった。戦後日本の歴史を知る者からすれば、これらの事実はそれなりに衝撃的である。この事態はしかし、両義的なものだ。つまりそれは、(ある種の人びとにとって)わざわざ国旗と国歌を定める法を作らなければならないと感じられる時代になったということでもある。また、激しい反発に抗してまでも靖國に参拝する必要が見出される情勢になったということでもある。そして、何とか愛国心を教え込まなければならないと考えられる状況になったということでもある*25。これが再帰性である。ナショナルなものは再帰的に選択させ、強制しなければならなくなった。その理由は何か。ネーションの一体性が動揺しているからである。

民主化の昂進としての個人化が進むと、ネーションの一体性は信じにくくなる。産業構造の転換や都市化・郊外化に伴う地域・家族・職場などの流動化に高度の情報化が加わって、社会が島宇宙化し、共通のアイデンティティを持つことが難しくなる*26。人権思想の浸透と高度消費社会を経て肥大化した権利意識・消費者意識が全面化した総消費社会では、金を払った者に発言権があるとの消費者主権原理が支配的になり、資源を拠出する上層は再分配への不満を募らせていく*27。国家は対価に応じたサービスを提供する市場的アクターのアナロジーで捉えられるようになり、社会的な連帯意識は希薄化する。社会に亀裂が走り、ネーションは解体へと向かう。

ネーションの解体は、ナショナリズムの不可能性を意味する。それゆえ、近年見られるナショナリズムの「復興」は、実はナショナリズムに似て非なるものである。あるいは、少なくとも、従来とは異なる性質を帯びたナショナリズムである。それは、ポピュリズム的なナショナリズムであり、端的にポピュリズムと言ってもよい。宮台真司によれば、流動性の高いポストモダン社会では、万人が共通して嫌う不幸の存在をテコにして、「不安のポピュリズム」が生じやすくなる(宮台〔2006a〕、宮台〔2007〕)。現代の日本で起きている事態はこれであり*28、問題はナショナリズムからポピュリズムへと移行しているのである。

 

鵜飼健史が指摘するように、ポピュリズムは全体性を失いつつある社会に疑似的な連帯感をもたらす機能を有する(鵜飼〔2006〕、鵜飼〔2007〕)*29。ポストモダンの社会では、社会の流動化と島宇宙化によって全てが相対化されてしまう不安ゆえに、全体の代表を求める感情が強まる。全体代表を標榜する人物が実際には部分的な利益を代表するに過ぎないことが暴露されれば、直ちに攻撃の的になる。人々の利害や要求はバラバラであり、相互に対立しさえもするが、とにかく「不満である」ことの一点では意見が一致できる(森〔2008〕、160-161頁)。したがって、人々の異なる不満を外形的に糾合し、それを投げ付ける「敵」を名指すことによって、疑似的な連帯意識を生み出すことができる*30。ポピュリストは「人民people」を代表すると主張するが、その構成は一枚岩ではないため、「サイレント・マジョリティ」への情緒的な訴えを通じた支持の拡大を企図する(篠原〔2004〕、138頁)。この際、ポピュリストは具体的な政策体系を示さずとも、人々の「不満の連帯」を体現する振る舞いを見せることのみによって、全体社会の代表者としての地位を獲得することができる。すなわちポピュリズムは、指示される内実を伴わない「空虚なシニフィアン」の媒介によって――正体不明の「英雄」が正体不明の「敵」を名指すことによって――成立するのである(杉田〔2005〕、第4章)。鵜飼の言葉を借りれば、「人民の名のもとに、政治社会の全体性を回復させようとする意志」によってポピュリズムは起動し、「ポピュリズムに凝集する多様な敵対性は、このような人民の共同性によってとりこまれ、意味づけられる」のである(鵜飼〔2007〕、66頁)。ポストモダンの断片化した個人は、「空虚なシニフィアン」の下へ凝集し、ポピュリズムに回収されることで新たな共同性を疑似的に経験することができるのであるが(同、129頁)、雑多な利害が外形的に糾合されたに過ぎないポピュリスティックな政治過程から相当の果実を得られる可能性は小さいのが現実である。

過去のナショナリズムにおいては、抽象的総体としてのネーションの結合が信じられており、外部に位置する敵との対照が主だった。経済成長による生活水準の向上から階級対立の構図――その対立は固定的だったので対立構図そのものを内包する全体性の存在は信じられていた――が失効してからは、なおのことそうである。しかし、現代のポピュリズムにおいては、ネーションとしての一体感が信じにくいために、敵対性を内部化して、より状況付けられた一体性を創出する。疑似的に創出される連帯性・一体性は、総体的ではなく、より状況付けられているため、一時的でしかないカーニヴァルとして現出する*31

今や存在するのはネーションではなく、多数派「人民」と、その「敵」だけである。敵対性は外よりも内において強調され、「敵」との対照においてのみ「われわれ」の連帯性が感取されるので、連帯性を演出するために、絶えず次の敵が探し求められることになる。ただし、絶えざる流動性のため、誰が多数派になるのかはそれほど自明ではない。ポピュリズムの担い手は多元的な敵対性が節合されたものであるから、主流的なポピュリズムと対抗的なポピュリズムの構成員は相互に重なり合う部分が多く、状況によって流動する部分が大きい。こうしたポピュリズム政治においては、「誰が味方で誰が敵なのか」を巡る情報戦が激しく繰り広げられることになり、そのこと自体が政治的連帯の安定性を毀損し、流動性の上昇を促す。したがって、一見ナショナリズムの「復興」に見える様々な事象は、実際にはより限定的な文脈に縛り付けられた局所的なカーニヴァルでしかないと見るべきである*32

 

現代のナショナリズムをポピュリズムとして再解釈すると、複数の左派論者から提出されている、承認を確保するために戦略的にナショナリズムを動員する姿勢――「方法としてのナショナリズム」――が、既に不可能性に直面していることが解る(東ほか〔2008〕)。それは、ネーションの統合になおも固執する点で、明らかに未来の無い立場である。自我の不安を散らすために暫時のカーニヴァルへ没入する島宇宙の住人を恒常的なネーションへと再組織することは困難であるし、アイデンティティと物質的条件だけを提供してくれれば十分だと考えているパラサイト・ナショナリストにナショナルな公共性創出の主体たることを期待しても、無駄と言うほかない。ナショナリズムはポピュリズムを超えられない。ネーションの解体が所与の条件となりつつある現代において、全体性を前提とする思考には何も変えられないのだ。

また、「大きな物語」の衰退と「カラスの勝手主義」に抗して、普遍性を放棄するべきではないとの立場から内実不明の仮構としての普遍的正義の想定を持ち出す否定神学的正義論者も、ポピュリズムに呑み込まれてしまっている*33。持ち出されるフェイクとしての普遍性=「空虚なシニフィアン」は内実を持たないため、その隙間に本来ローカルなはずの価値観や道徳観が入り込み、恣意的な正義が本質主義的に正当化される危険性が常に伴う。正体不明の「ネオリベ」を批判し、自身の経験主義的な正義を必然的な倫理であるかのように語る「左旋回したポストモダニスト」たちは、その実例である(仲正〔2004〕)。否定神学の陥穽という意味では、小泉的ポピュリズムもデリダ的「来るべき民主主義」も同水準でしかない。内容は未決だが絶対に正しい「正義」とその敵対者としての「悪」を想定する否定神学には、ポピュリズムを克服することはできない。そのことは、「人権」「消費者」「市民感覚」「改革」「環境」などといった普遍性を標榜する内実不明の概念が、誰も反対できない「正論」としてポピュリスティックな破壊力を持つに至っている現状からも明らかである。

 

さて、少し冒険的な議論になるが、萱野によるナショナリズムの定義を踏まえて、ポピュリズムを「暴力の集団的な実践を人民的な原理に基づかせようとする政治的主張」と定義してみることも可能かもしれない。この定義は、ナショナリズムやポピュリズムについての議論に、従来とは異なったチャンネルを開く。ポピュリズムは「大衆迎合主義」などと翻訳されてデモクラシーないし衆愚政治の文脈で語られる/受け取られることが多いため、ポピュリズムをナショナリズムと対比させつつ論じるのは異様に感じられるはずである。こうした論法は、憲法学における「国民nation」/「人民peuple」の対立図式を援用することによって可能になる(「法外なものごとについて」の1を参照)。

この図式に則れば、抽象的な総体として観念される「国民」を前提/帰結するのがナショナリズムであるのに対して、具体的多数派として観念される「人民」を前提/帰結するのがポピュリズムであると考えることができるのではないか。そうであるならば、事態を単純に問題視することはできない。それは民主化の昂進としてポジティブに捉えることも可能だからである。主権の行使にかかわる決定において、抽象的な「国民」はその利害を「代表」されるほかないが、具体的行為主体である「人民」は直接に参与することができる。直接に参与せずとも、「人民」の代表者は、自らの意思で行為するよりも選出母体の「代理」として行為することが求められる。実際、近年の日本では、統治を委任される「国民代表」への信頼が低下し、国民意識レベルで「直接制」への接近が確認される。政治家や官僚の裁量範囲は限定される傾向にあり、市民による政治参加や司法参加が積極的に推進されるようになっている。ポピュリズムは、こうした変化の帰結や一面を表現する概念ではなく、むしろ変化の淵源や全体を包括する概念――ナショナリズムと同水準の概念――として再解釈するべきなのではないか。上に提起した異様な定義には、そのような意味を込めたつもりである。

 

ポストモダンにおける国家――ネーションの解体への対応としての権力の再編成

 

ポピュリズムの進展は、「国民主権」=「ナシオン主権」から「人民主権」=「プープル主権」への移行を伴わせる。それは、曖昧な「国民」の連帯を前提とした国民代表による裁量的統治をできる限り排し、具体的な「人民」の同意=「民意」に基づく機械的行政を実現していこうとする意味で、民主化の徹底である。そこで個々人の自発的同意を統治の基礎に据える(ロック的意味での)社会契約論的立場は、行政サービスを市場的契約関係に基づく私的サービス供給と同一地平で捉える態度と密接に結び付いている*34

行政サービスが契約関係に還元され、市場的サービスと完全に並行的に捉えられるようになると、社会的連帯そのものが失われていくだろう*35。税負担に対価性が求められる傾向が強まり、行政サービスは、税負担者が同意した内容について、負担に見合うだけの程度と範囲で提供されるようになっていく*36。抽象的な「国民」の連帯を前提としていた「ナシオン主権」期には国民代表による強行的資源再分配が正当化されていたが、「プープル主権」が徹底されれば、資源を拠出する層の同意なくして同じことはできない。民主化の歴史は「国民」の形成によって社会的連帯を生み出したが、「国民」を「人民」へと変容させることによって、「社会的なもの」の磨滅をもたらしつつある*37

 

他方、サービス主体としての国家に期待される役割は、肥大化する傾向にある。それは生命と福祉を扱う領域において顕著であり、国民の多面的なセキュリティに配慮する「安全国家」ないし「予防国家」としての性格は強化される一方である*38。ネーションの分断が進み、統合性が消失すると、それでもなお共通した関心事となりうるセキュリティが焦点化され、モラルイシューよりもセキュリティイシューが求心力を持つようになる。断片化する個人がフレームとしての国家への関心を強める事態――「国民なきナショナリズム」――は(東ほか〔2008〕)、人々がもはやセキュリティでしか繋がることができない国家の治安共同体化を示している。

セキュリティが強化される中でも、「小さな政府」への志向性は維持される。公権力が管轄する範囲は拡大されながら、直接に関与する部分は縮小されていくのである。それは、国家権力の限定という自由主義的命題を裏切らずに――建前上維持しつつ――個人化する社会の要請に対応した権力布置の再編成を進める入り組んだ過程である*39。この過程を通じて、市場や市民社会における多様な活動を一段上で支援ないし評価する役割への特化という国家役割の変容が実現される。

例えば軍事および治安領域における市場と共同体への外注は、国家の負担と責任を軽減しながら、何を・誰に・どこまで許すかの権限が持つ意味を大きくし、結果として「小さくて強い政府」を作り上げる(萱野〔2007〕、69-72頁)。このように、直接介入からの選択的撤退を遂行し、福祉、教育、治安、行刑、軍事といった諸領域を民間部門に開放しつつ、競争に参加するアクターの資格や能力を評価するという形での影響力行使に傾いていく現代国家の特徴は、「評価国家」と呼ばれる。(町村〔2006-07〕)。評価国家の像を鮮明にするためには、国家権力の現代的再編成についての齋藤純一の要約が役立つ(齋藤〔2005〕、87-88頁)。

 

統治は、人びとの自発的かつ能動的な自己統治を積極的に促しながら、かつ、その自己統治のパフォーマンスを捕捉し、それを監査・評価するというモードに変わりつつある。言いかえれば、それは、個人や集団(アソシエーションを含む)による多元的な自己統治に広範な活動領域を与え、しかも、その活動に対する評価そのものをも多元化しながら、同時に、自己統治がそうした評価システム(audit system)をつねに参照しつつ行われるように方向づけるのである。

 

このような評価国家への移行が起こるのは、社会の決定権限が政治過程から流出して「サブ政治」の領域が大きくなっている状況への対応でもある*40。サブ政治化を経たフォーマルな政治過程に残されている影響力は、法的な許認可・処罰権限と、経済的な資源に限定される。「大きな物語」の衰退の後では、単一の理念や象徴に基づく統合は不可能であり、国家の影響力はより物理的な次元へと縮減/凝縮されていくのである。

以上のような認識に立つと、ポストモダン社会では、「共通の行政、共通のデータベース、共通のネットワークのうえに、異なった価値観を抱えた無数のサブカルチャーが林立するという、一種の二層構造」が採用されざるを得ないとする東浩紀の議論は、説得力を増す。東によれば、象徴的統合が不可能になった現代では、複数の象徴的共同体(「小さな物語」)の層における利害衝突が、その下にある非理念的なシステムの層――「大きな非物語」――で工学的に解決されるという「工学的統合」への移行が生じつつある(東〔2002=2007〕、206-209頁)。多様な価値がそれぞれの島宇宙で自由に追求される価値志向的なコミュニティの層を、誰もが利用可能な必要最低限の共通サービスを提供する価値中立的なインフラの層が支えるという意味で、東はこの事態を「ポストモダン社会の二層構造」と呼ぶ(「ポストモダンの二層構造」@ised@glocom 、東〔2005〕、東〔2003-05=2007〕、770-789頁)。

 

f:id:kihamu:20081025221029j:image (東〔2005〕)

 

「ポストモダンの二層構造」は、リバタリアニズムによるコミュニタリアニズムの包摂――物質主義による脱物質主義の・「モノ・サピエンス的なもの」による「スピリチュアル的なもの」の包摂――であり、各人にとってのユートピアの自由な構築を許す「メタユートピア」の実現である。この社会構造においては、どのような価値を追求しても抑圧されることはない代わりに、多様なコミュニティの共存を支えるアーキテクチャに対するリスクだけは徹底的に排除される*41。しかし、アーキテクチャに敵対し(ていると見做され)さえしなければ、島宇宙での幸福な生活が阻害されることはない。これは、社会の多元化・流動化と、それに伴う不安や防衛意識に応じた、見方によっては理想的な社会構造である。こうした事態に臨んで、私たちが「抵抗」するべきなのか、仮にすべきだとしても、より魅力的な代替案を示すことが可能なのか、強い疑問を抱かざるを得ない*42

 

もっとも、こうした議論はやや未来を先取りしたイメージに基づいており、どこまで現実が伴っているかは定かでないところがある。しかしながら、統治権力の再編成が確実に進行していることは否定できない。その変化についての評価と対応は不可欠であろう。左派的な論者は強い警戒心をにじませているが、一般的に言えば、国家権力による垂直的な統治が行われる領域が狭まり、市民社会内部での自治や、民間主体と公共セクターとの協働による水平的統治の実践が拡大することは、好ましいことである。統治権力が「必要最低限」の範囲の役割に特化することで、その規模を縮小させ、市民社会が活性化することは、否定的に評価すべきことではない。逆に言えば、統治権力は「必要最低限」の仕事を手放すべきではないし、市民社会の活性化や水平的統治の実現によって新たな仕事が生じる場合もあるのだから、権力が単に縮小するのではなくて再編成という形を採ることは、自然な帰結だろう。それを新たな形の脅威や権力の強化と捉えることも可能だが、少なくとも一概に否定的な評価を下すことはできない。

歴史的に見れば、国家の変容をもたらしたのは、人命の尊重や個人の自由、多様性などといった価値の追求である。統治権力を法で縛り、民主的決定に従わせ、特定の価値観から中立的になるように努めさせ、あくまで個人の幸福の追求を援け、支えてくれるような役割だけを担うような形を目指して、再編成に再編成を重ねさせてきたのは、私たちが自由を求めてきたからである――自由主義の勝利。そして私たちの社会では現在、それなりに多様な価値観が認められているし、それなりの自治が多元的に行われている。しかも、これから一層発展していくであろう非常に巧妙な管理システムによって、私たちは自ら自由になろうとするまでもなく望むものを与えられ、幸福感を味わうことができるようになるかもしれない*43。そうしたシステムが実現するとすれば、私たちは自由を志す態度からさえも自由になることができる――自由の完成。それは幸福なのではないだろうか。自らの価値観に従って自らが望む生活を実現することができるのであれば、それが何らかの権力によって管理された結果であるとしても、別に構わないのではないか。幸福をもたらす蓋然性が高い管理を拒否する理由とは、一体何なのだろう。

 

こうした事情から、宮台や東は権力の再編成に警戒心をにじませる他の論者とは一線を画し、変化の方向性を不可逆であると考えた上で、それをどう穏当に統制するかに思考を切り替えている。

まず宮台は、不安ゆえのポピュリズムが排他的攻撃性に向かうのを防ぎ、各人各様の幸せ追求を肯定する社会を実現するために、「泥沼の再帰性」「終わりなき再帰性」(あらゆる価値の相対化)の負担に耐え得るエリートたちによる社会設計を通じて、各人に「生活世界」(相対的に非流動的な空間ないし関係)を確保・提供するという人称的かつパターナリスティックな処方箋を出している(宮台ほか〔2007〕、170頁)。その立場は、個々人の幸福を尊重しつつ、全体社会の調和を実現するために統治権力の介入を積極的に要請するという意味で、功利主義的リベラルと呼べる。

しかし、明白にせよ暗黙にせよ、多様性を強制することで共生させようとする社会設計は、宮台自身が危惧しているように、「テーマパーク」をしか実現し得ないのではなかろうか。それは一時的な満足はもたらしても、恒常的な安心を提供することは難しい。それでよしとする立場も有り得るが、少なくとも宮台が意図する目的を実現することは叶わないと思われる。

他方、東は、エリートによる管理を目指さずとも、市場メカニズムと技術の発展による創発機能によって、各々の島宇宙が幸せに共存するメタユートピアは非人称的・自生的に実現し得るとの期待を表明している(東〔2008〕、東ほか〔2008〕、大塚・東〔2008〕、第三章)。彼は、工学的・数学的なメカニズムによって望ましい資源分配も可能になると想定する。その立場は宮台よりも楽観的であり、かつ統治権力による介入が正当化される可能性をより限定しているという意味で、功利主義的リバタリアンと呼ぶにふさわしい。

東の期待には具体的な裏付けが十分に伴っているとは言えず*44、非人称的なメタユートピアの実現可能性は乏しい*45 。「テーマパーク」としてのメタユートピアには、必ず管理者が存在するし、民主主義的価値観が浸透し切った現代社会では、その管理の民主的正統性が問われざるを得ない*46

 

既に、近代的な国民国家は曲がり角に来ている。もはや一体的なネーションは存立し難いということは、国家を支える主体が不在となり、トータルな国家観を語る条件が失われることを意味する。被治者と統治機関を分離してしまい、後者による操作・設計を必然視する宮台=東的な国家論が出現するのは、そのためである。しかし、彼らの議論には、現に在るポピュリスティックな破壊力を織り込むような政治学的リアリティが欠けている。現代に求められているのはネーションを前提にした国家論ではなく、ピープルを前提にした国家論であるが*47、彼らは端的にピープルを無視している*48。むしろ早急に必要なのは、宮台のように穏当なエリーティズムを夢想したり、東のように既存の民主政を見限ったりすることではなく、サブ領域へと流出した決定権に対して民主的正統性を取り付けさせる回路を整備することである*49。政治学的に見れば、総体的な「国民」としての呪縛を解かれた個別の「人民」が露出するという事態は、単に民主政治が新たな段階に足を踏み出したというだけのことなのだから。

 

  • 参考文献
    • 赤木智弘〔2007〕『若者を見殺しにする国』双風舎
    • 東浩紀〔2000-01=2007〕「誤状況論」、『文学環境論集 東浩紀コレクションL journals』、講談社(講談社BOX)、所収
    • 東浩紀〔2002=2007〕「動物化と情報化」、『文学環境論集 東浩紀コレクションL essays』、講談社(講談社BOX)、所収
    • 東浩紀〔2003-05=2007〕「crypto-survival noteZ」、『文学環境論集 東浩紀コレクションL journals』講談社(講談社BOX)、所収
    • 東浩紀〔2005〕「ポストモダン 情報社会の二層構造」『情報通信ジャーナル』@GLOCOM
    • 東浩紀〔2008〕「シンポに向けてのメモ2」@渦状言論
    • 東浩紀ほか〔2008〕「国家・暴力・ナショナリズム」東浩紀・北田暁大編『思想地図』vol.1、日本放送出版協会(NHK出版)
    • 雨宮処凛・萱野稔人〔2008〕『「生きづらさ」について 貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』光文社(光文社新書)
    • 鵜飼健史〔2006〕「ポピュリズムの両義性」『思想』第990号、2006年10月
    • 鵜飼健史〔2007〕「ポピュラリティと共同性―政治空間の変容の中で―」『一橋社会科学』第1号、2007年1月
    • NHK放送文化研究所編〔2004〕『現代日本人の意識構造』第6版、日本放送出版協会(NHKブックス)
    • 大塚英志・東浩紀〔2008〕『リアルのゆくえ――おたく/オタクはどう生きるか』講談社(講談社現代新書)
    • 萱野稔人〔2006〕『国家とはなにか』以文社
    • 萱野稔人〔2007〕『権力のよみかた――状況と理論』青土社
    • 齋藤純一〔2005〕『思考のフロンティア 自由』岩波書店
    • 齋藤純一〔2008〕『政治と複数性――民主的な公共性に向けて』岩波書店
    • 篠原一〔2004〕『市民の政治学』岩波書店(岩波新書)
    • 杉田敦〔2005〕『境界線の政治学』岩波書店
    • 杉田敦〔2006〕「ネーションとナショナリズム」川崎修・杉田敦編『現代政治理論』有斐閣(有斐閣アルマ)
    • 関曠野〔2001〕『民族とは何か』講談社(講談社現代新書)
    • 関根政美〔2000〕『多文化主義社会の到来』朝日新聞社(朝日選書)
    • 内閣府〔2008〕「社会意識に関する世論調査」
    • 仲正昌樹〔2004〕『ポスト・モダンの左旋回』世界書院
    • デヴィッド・ハーヴェイ〔2007〕『新自由主義』渡辺治監訳、作品社
    • 橋川文三〔2005〕『ナショナリズム――その神話と論理』紀伊國屋書店
    • 町村敬志〔2006-07〕『社会学』2006年度一橋大学大学院社会学研究科講義
    • 宮台真司〔2005〕「選挙結果から未来を構想するための文章を書きました」@MIYADAI.com Blog
    • 宮台真司〔2006a〕「全体性の消失――IT化に最も脆弱な日本社会――【後半】」 @MIYADAI.com Blog
    • 宮台真司〔2006b〕「ねじれた社会の現状と目指すべき第三の道――バックラッシュとどう向き合えばいいのか――」上野千鶴子ほか『バックラッシュ!』双風舎
    • 宮台真司〔2007〕「文庫増補版へのあとがき」、宮台真司・石原英樹・大塚明子『増補 サブカルチャー神話解体――少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』筑摩書房(ちくま文庫)、所収
    • 宮台真司ほか〔2007〕『幸福論–共生〉の不可能と不可避について』日本放送出版協会(NHKブックス)
    • 森政稔〔2008〕『変貌する民主主義』筑摩書房(ちくま新書)
    • 山内昌之〔1996〕『民族問題入門』中央公論新社(中公文庫)
    • 吉田裕〔2002〕『日本の軍隊――兵士たちの近代史』岩波書店(岩波新書)
    • 渡辺治〔2004-05〕『政治思想史』2004年度一橋大学社会学部講義
    • 渡辺治〔2007a〕「日本における新自由主義」デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』渡辺治監訳、作品社、所収
    • 渡辺治〔2007b〕『政治学』2007年度一橋大学大学院社会学研究科講義

*1:これを国家の自由主義段階と呼ぼう。

*2:以下、ネーションとエスニシティについては関根〔2000〕と山内〔1996〕を、ナショナリズムについては関〔2001〕と杉田〔2006〕のほか、橋川〔2005〕や渡辺〔2004-05〕を参考にした。近代国家については萱野〔2006〕が包括的な説明を与えている。

*3:これは、個々の国民の差異が消し去られ、内外差異が本質化されやすくなっていく過程でもある。

*4:これを国家の民主主義段階への移行と捉えよう。国民国家の形成によって、主権概念は単に統治権力を指すだけでなく、統治の正統性を汲み出す淵源をも意味するようになり、「国民主権」の思想が登場する。

*5:「国民国家とは、暴力行使の独占を要求する集団と、それを要求される人びととの関係がひとつの共同体へと再編成されたときにはじめて成立するものである」(萱野〔2006〕、16頁)。

*6:なお、憲法パトリオティズムは単なる法理念への忠誠や愛着だけに基づくものではなく、固有の歴史的文脈を伴った具体的法理の下での統合を意味していることに注意されたい(齋藤〔2008〕、50-51頁)。シビック・ナショナリズムも同様である。

*7:したがって、国家的統合を想定しないネーションは在り得ないが、国家的統合を獲得できていない――ないし剥奪されている――ネーションは在り得る。例えばクルドの人々がそれであろう。

*8:無論、戦前日本にもシビック・ナショナリズムの要素が無かったわけではない。しかし、ここでは近代日本の思想史を紐解く余裕は無いので、論の対象を最小限に留めることにしたい。

*9:近代的なナショナルの論理と伝統的なローカルの論理の衝突の諸相は、吉田〔2002〕に詳しく描かれている。

*10:「序論」を参照。

*11:「テクノロジー/メディア」の項を参照。

*12:「政治/イデオロギー」の項を参照。

*13:「経済/労働」の項を参照。

*14:会が携わった扶桑社の教科書(「歴史」「公民」)は、2001年に文科省の検定に合格した。

*15:靖國神社には、85年8月15日に中曽根首相が公式参拝したが、アジア諸国からの猛烈な反発を受けて、翌86年には参拝を自粛していた。

*16:3月に島根県が「竹島の日」を制定し、10月に韓国の慶尚北道が対抗して「独島の月」を定めた。

*17:とはいえ、生活保守主義的ナショナリズムとの連続性を無視するべきではない。その連続性は、後述するパラサイト・ナショナリズムの性質に現れる。

*18:日本の反米保守は極めて少数派であり、反グローバリズムの一点においては左翼と親和的な主張を展開している。

*19:「経済/労働」の項を参照。

*20:「政治/イデオロギー」を参照。

*21:したがって、ネオリベラルな諸改革の進行に伴う経済的分裂への手当の必要性からナショナリズムが喚起されるのだとして、ネオリベラリズムといわゆる「新保守主義」の共犯関係を指摘する左翼的見解は、そこから階級的作為の想定を脱色して機能的説明として変換するなら、まず受け容れ可能であると思われる(ハーヴェイ〔2007〕、渡辺〔2007b〕)。

*22:「テクノロジー/メディア」、「スピリチュアル/イデオロギー」の項を参照。

*23:ただし、市場を通じて再帰的に選択された価値――パッケージ化された「差異」や「伝統」――は、消費者の「再解釈」を通じて本質化され、相対性が忘却されていくことも多い。「敢えてする選択」だったものが、「これでしか有り得ない」ものとして必然化されてしまうのである――「クボヅカ的ナショナリズム」。

*24:人々は、情報化によって無数に見せつけられる可能的自己(あり得る/なり得る自己)と、現実の自己とのギャップに苦しむ。あらゆる価値や属性が相対化される――私は誰/何にだってなれた――中で、隣人の恵まれた境遇と自分の無残な現状を分けるものは、偶然でしかない。本来は自分と同じはずの人間が(せいぜい自分と同程度にしか努力していないはずなのに)利益に与かって、自分は何も得られないことの不満が、アンダークラスをして、「既得権層」≒正社員中流への敵視に向かわせる――同じであるべきなのになぜ違うのか。他方で富裕層には不満が向かず、「違う世界の住人」として差異が本質化される(赤木〔2007〕、214頁)。

*25:「教育」の項を参照。

*26:「共同体/市民社会」の項を参照。

*27:「経済/労働」の項を参照。

*28:以下、「現代国家とポピュリズム」も参照。

*29:「ポピュリズムと対抗政治」、「一橋大学機関リポジトリHERMES-IR」を参照。ポピュリズムの歴史の簡潔なレビューは、篠原〔2004〕、第4章を参照。

*30:そうした「敵」の代表例が「官僚」である。

*31:権威主義的で主流的なポピュリズムとは別に、多様な空間で表出している敵対性が何とはなしに糾合し、一時的な共同性を生み出していると見做せる事態もある。そうした経験においては、ポピュリズム的凝集がもたらす共同性ゆえに、運動そのものがカタルシスをもたらす自己目的的なものになる(「共同体/市民社会」の項を参照)。

*32:「ガンバレ、ニッポン」然り、日の丸然り、反中然り、嫌韓然り。

*33:「正義の臨界を超えて」を参照。

*34:「http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070711/1184139994:title=gated communityとリバタリアニズム」を参照。

*35:もとより、具体的な政治的意思決定能力の具備を前提とする「人民」集団には政治的無能力者(子ども・精神障害者・過去ないし未来世代)は含まれておらず、「プープル主権」において彼らの利害が「代理」されることはないが、事態はそれを超えた範囲に拡大する可能性を持つ。

*36:コストを負担していないサービスは提供されないし、自らが享受することのないサービスのコストを負担する必要は無いと考えられるようになる。

*37:もっとも、ネーションの解体がそれ程進んでいなければ、国家を負担に応じたサービスを提供する機関と捉えながらも、社会的連帯を維持することは可能なのかもしれない。国民の重負担に見合う公共サービスを提供している北欧諸国では、国民が政府に対して強い信頼を寄せ、それゆえに重い負担を厭わないという好循環が維持されている。こうしたリベラルな原理とソーシャルな実践の幸福な結合は、歴史的文脈はもとより、「国民」の一体性が信じられていなければ不可能ではなかろうか。

*38:「セキュリティ/リスク」の項を参照。

*39:「現状認識と評価の差異」を参照。

*40:「政治/イデオロギー」の項を参照。

*41:「セキュリティ/リスク」の項を参照。

*42:何しろ、ポストモダンにおいては、思想は「小さな物語」に向かうか(コミュニタリアン)、「大きな非物語」(形式的普遍性=リベラルデモクラシー)に向かうしかないのだと言う(東〔2000-01=2007〕、530頁)。

*43:選択を意識させずに統治するテクノロジーの駆動=「ディズニーランド化」(宮台〔2006a〕)。

*44:東は、一方で富の再配分の必要性を肯定しながら、自らの構想の中でそれがどのようにして実現されるのかについて明確な答えを提出していない。ベーシックインカムへの期待感が表明されているものの、「小さな公共圏」の林立が国家単位の「公共圏」に止揚される回路を塞ぎながら、ベーシックインカム導入の政治的・社会的条件をどのように整備するのかは不明である。

*45:「東的国家観について」を参照。

*46:セキュリティが及ぶ範囲はどこまでなのか。システムを設計・運営するのは誰で、そのコストを負担するのは誰なのか。コストを負担していない者にもセキュリティ機能は提供されるのか。されるとしたら、負担者の同意はどのように取り付けられるのか。

*47:象徴ではなく具体に、総体ではなく個別に、代表ではなく代理に着目した論である。

*48:具体的行為主体としてのピープルの社会構成力をスキップしてしまっている。その意味では国民代表による裁量的統治を基軸とする「ナシオン主権」の想定に引きずられているとも言えるかもしれない

*49:「政治/イデオロギー」の項を参照。

かかわりあいの政治学2――個体の「本質」を疑う

 

(承前)

前回、何が「自分のこと」であるのかは、何が自分に「関係する」のかについての意識に依存していることを述べて、いわゆる「自己決定」原理が前提としている論理を抉り出して見せた*1。今回は、その関係の主体、意識する主体について、掘り下げて考えてみたい。丁度、roryさんに言及を頂いたのを契機に、少し前に気になった一節を思い出したので、それを足掛かりにしよう。

 

言語哲学の有力説によれば、名前(固有名)は、決して(それによって指示される個体の)性質についての記述に還元されえない。「大澤真幸」という名前は、「社会学者で、大学教員で、松本の出身で……」といった、アイデンティティの内容を示す諸性質の記述に置き換えることはできない。理由は簡単だ。これら諸性質のすべてを失っても、大澤真幸は大澤真幸だからである。だから人は「大澤真幸が松本出身でなかったならば」等のことを、いくらでも仮想できる。要するに、名前は、個体の諸性質に還元することができない余剰Xを指示しているのだ。

[大澤真幸『不可能性の時代』岩波書店(岩波新書)、2008年、65頁]

この考えは、ほぼ完璧に間違いである*2。「諸性質のすべてを失っても、大澤真幸は大澤真幸だから」との主張は無根拠であり、ただ直感に訴えているに過ぎない。「諸性質の記述」を「確定記述」と呼ぶが、現に存在している「大澤真幸」の確定記述を一つ変えても同じ「大澤真幸」であり続けられると考えるのは、単なる錯覚である。これは別著で大澤自身が出している例だが、仮に大澤が虫に変身して過去の意識も失ったとしたら、その後でもなお、その虫を「彼」――かつて私たちが意味していた「大澤真幸」――であると考えるのは無理な話だし、間違ってもいる*3

個体は、確定記述を含めて、全体で「その個体」として構成されているので、記述が書き換えられれば、その度毎に「大澤真幸」の指示内容は更新されていく。今現在の大澤真幸は、松本出身であるから――ないしは松本出身であると信じているから――今のような大澤真幸になった。同じ遺伝子を持っていても、別の地に生まれ育ち、別の経験をし、別の人間関係を築き、別の職業に就けば、私たちが意味する「大澤真幸」にはならない。彼は、社会学者となり、大学教員になったからこそ、今存在しているような大澤真幸へと至ったのである。そして、唯一無二の個体としての「大澤真幸」は、定義上、時空間を通じて一個しか存在しない。したがって、「松本出身でなかった大澤真幸」は、現に松本出身である大澤真幸とは別の個体である。

今現在の大澤真幸(マサチA)と仮想された「大澤真幸」(マサチB)が同一人物であるように思えるのは、今現在の大澤真幸の像を通じて仮象を構築しているからである。これと基本的に同種の誤りとして、過去の「大澤真幸」(マサチC)や未来の「大澤真幸」(マサチD)をマサチAと完全に同一視することがある。マサチAは、マサチB・マサチC・マサチDのそれぞれと大半の確定記述を共有しているが、単にそれだけである。確定記述がほとんど一致していても、完全に一致していなければ同一人物とは言えない。

マサチAをマサチB・マサチC・マサチDと同一人物であると思い込む誤りが生じるのは、確定記述の集積に還元されない「余剰」、すなわち個体に固有の「本質」が存在しているとの想定があり、その「本質」の存在によって「大澤真幸」であることを同定できると考えられているからである*4。しかし、その「余剰」とは一体何であるのか。

おそらく、そんなものは存在しない。存在するのは個体の唯一無二性だけである。個体が唯一無二であるのは、絶対に他の個体と重複しない「本質」を保有しているからではない。無数の確定記述の組み合わせと、それを総合する「器」としての個体が今・此処に存在しているという端的な事実が、それ自体として唯一無二でしか在り得ないのである。

もちろん私たちの直感は、確定記述を一つ違えた自己(私B)や、過去および未来の自己(私C/私D)を、今現在の自己(私A)と同一人物だと教える。また、社会生活や法制度においても、私Aを私Cや私Dと同一人物であると見做さなければ、著しい混乱が引き起こされてしまうだろう*5。だが、少なくともマサチA≒マサチB≒マサチC≒マサチDと考える――社会運営上の必要からマサチA=マサチB=マサチC=マサチDと「見做す」――ためには、「余剰」の想定など必要無い。単に複数の「マサチ」の間で大半の確定記述――すなわち〈関係〉――が共有されているから彼らを同一視するのだと、ありのままの事実に即して考えればよい。
個体の確定記述は一瞬一瞬に更新されていくので、今現在の私は、この文章を書き始めた時の私とは全然別人である。しかし、他の個体との差異に比べれば、異時点の私に生じた差異などはほとんど無視できる程に微小であろう。したがって、異時点間における人格の同一性が相対的であることを一旦認めるなら、自己の利害と他者の利害を同水準で配慮しなければならなくなる、と考えるのは無理がある*6。私はそうした極端なことを主張したいのではなく、個体の「本質」のような不明朗な想定に頼って個体間の差異を絶対化するよりも*7、確定記述の重なりと差異という観点から、個体の構成と個体間の関係を一元的に(フラットに)把握することによって、より見通しが良くなるのではないかと言いたいだけである。

 

*1:誰も覚えていないであろう連載の第2回目であるが、当然のように再開してみる。

 

*2:私は言語哲学に詳しくないが、この説は研究者から一般の人に至るまで広範に支持されている様に思う。法学分野での「有力説」とは多数の支持を得るまでには至っていないものの説得的な論拠を提示している説を意味するが、ここで示されている説は法学で言うところの通説ないし多数説となっているのではないだろうか。

 

*3:衝撃的な「変身」の後でもなお、その個体に固有の「本質」が(たとえわずかでも)残されていたと描く数多のファンタジーは、記憶の連続性を前提とする限り、「諸性質のすべてを失っ」た後でも「本質」が残されるという事態を描けてはいない。ある想定がファンタジーとしても描けないということは、それが人間の想像力を超えており、(私たちにとって)根源的に在り得ない事態であるということを意味する。

 

*4:論点先取。

 

*5:思うに、確定記述に還元されない「余剰」とは、マサチBやマサチCやマサチDがマサチAと同一人物にしか思えないという感覚に基づいて、遡及的に構成された想定である。

 

*6:D.パーフィットがこれに類する主張をしている。議論の詳細は、北田暁大『責任と正義』(勁草書房、2003年)を参照。

 

*7:私の主張はもしかすると解りにくいかもしれないので端的に確認すると、「個体は確定記述に還元し得るが、唯一無二である」との旨である。なお、この意味での唯一無二性は、「この私」も「この消しゴム」も、完全に同等である。

かかわりあいの政治学2――個体の「本質」を疑う

 

(承前)

 

前回、何が「自分のこと」であるのかは、何が自分に「関係する」のかについての意識に依存していることを述べて、いわゆる「自己決定」原理が前提としている論理を抉り出して見せた*1。今回は、その関係の主体、意識する主体について、掘り下げて考えてみたい。丁度、roryさんに言及を頂いたのを契機に、少し前に気になった一節を思い出したので、それを足掛かりにしよう。

 

言語哲学の有力説によれば、名前(固有名)は、決して(それによって指示される個体の)性質についての記述に還元されえない。「大澤真幸」という名前は、「社会学者で、大学教員で、松本の出身で……」といった、アイデンティティの内容を示す諸性質の記述に置き換えることはできない。理由は簡単だ。これら諸性質のすべてを失っても、大澤真幸は大澤真幸だからである。だから人は「大澤真幸が松本出身でなかったならば」等のことを、いくらでも仮想できる。要するに、名前は、個体の諸性質に還元することができない余剰Xを指示しているのだ。

 

[大澤真幸『不可能性の時代』岩波書店(岩波新書)、2008年、65頁]

 

この考えは、ほぼ完璧に間違いである*2。「諸性質のすべてを失っても、大澤真幸は大澤真幸だから」との主張は無根拠であり、ただ直感に訴えているに過ぎない。「諸性質の記述」を「確定記述」と呼ぶが、現に存在している「大澤真幸」の確定記述を一つ変えても同じ「大澤真幸」であり続けられると考えるのは、単なる錯覚である。これは別著で大澤自身が出している例だが、仮に大澤が虫に変身して過去の意識も失ったとしたら、その後でもなお、その虫を「彼」――かつて私たちが意味していた「大澤真幸」――であると考えるのは無理な話だし、間違ってもいる*3

個体は、確定記述を含めて、全体で「その個体」として構成されているので、記述が書き換えられれば、その度毎に「大澤真幸」の指示内容は更新されていく。今現在の大澤真幸は、松本出身であるから――ないしは松本出身であると信じているから――今のような大澤真幸になった。同じ遺伝子を持っていても、別の地に生まれ育ち、別の経験をし、別の人間関係を築き、別の職業に就けば、私たちが意味する「大澤真幸」にはならない。彼は、社会学者となり、大学教員になったからこそ、今存在しているような大澤真幸へと至ったのである。そして、唯一無二の個体としての「大澤真幸」は、定義上、時空間を通じて一個しか存在しない。したがって、「松本出身でなかった大澤真幸」は、現に松本出身である大澤真幸とは別の個体である。

今現在の大澤真幸(マサチA)と仮想された「大澤真幸」(マサチB)が同一人物であるように思えるのは、今現在の大澤真幸の像を通じて仮象を構築しているからである。これと基本的に同種の誤りとして、過去の「大澤真幸」(マサチC)や未来の「大澤真幸」(マサチD)をマサチAと完全に同一視することがある。マサチAは、マサチB・マサチC・マサチDのそれぞれと大半の確定記述を共有しているが、単にそれだけである。確定記述がほとんど一致していても、完全に一致していなければ同一人物とは言えない。

 

マサチAをマサチB・マサチC・マサチDと同一人物であると思い込む誤りが生じるのは、確定記述の集積に還元されない「余剰」、すなわち個体に固有の「本質」が存在しているとの想定があり、その「本質」の存在によって「大澤真幸」であることを同定できると考えられているからである*4。しかし、その「余剰」とは一体何であるのか。

おそらく、そんなものは存在しない。存在するのは個体の唯一無二性だけである。個体が唯一無二であるのは、絶対に他の個体と重複しない「本質」を保有しているからではない。無数の確定記述の組み合わせと、それを総合する「器」としての個体が今・此処に存在しているという端的な事実が、それ自体として唯一無二でしか在り得ないのである。

 

もちろん私たちの直感は、確定記述を一つ違えた自己(私B)や、過去および未来の自己(私C/私D)を、今現在の自己(私A)と同一人物だと教える。また、社会生活や法制度においても、私Aを私Cや私Dと同一人物であると見做さなければ、著しい混乱が引き起こされてしまうだろう*5。だが、少なくともマサチA≒マサチB≒マサチC≒マサチDと考える――社会運営上の必要からマサチA=マサチB=マサチC=マサチDと「見做す」――ためには、「余剰」の想定など必要無い。単に複数の「マサチ」の間で大半の確定記述――すなわち〈関係〉――が共有されているから彼らを同一視するのだと、ありのままの事実に即して考えればよい。

個体の確定記述は一瞬一瞬に更新されていくので、今現在の私は、この文章を書き始めた時の私とは全然別人である。しかし、他の個体との差異に比べれば、異時点の私に生じた差異などはほとんど無視できる程に微小であろう。したがって、異時点間における人格の同一性が相対的であることを一旦認めるなら、自己の利害と他者の利害を同水準で配慮しなければならなくなる、と考えるのは無理がある*6。私はそうした極端なことを主張したいのではなく、個体の「本質」のような不明朗な想定に頼って個体間の差異を絶対化するよりも*7、確定記述の重なりと差異という観点から、個体の構成と個体間の関係を一元的に(フラットに)把握することによって、より見通しが良くなるのではないかと言いたいだけである。

 

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

責任と正義―リベラリズムの居場所

責任と正義―リベラリズムの居場所

*1:誰も覚えていないであろう連載の第2回目であるが、当然のように再開してみる。

*2:私は言語哲学に詳しくないが、この説は研究者から一般の人に至るまで広範に支持されている様に思う。法学分野での「有力説」とは多数の支持を得るまでには至っていないものの説得的な論拠を提示している説を意味するが、ここで示されている説は法学で言うところの通説ないし多数説となっているのではないだろうか。

*3:衝撃的な「変身」の後でもなお、その個体に固有の「本質」が(たとえわずかでも)残されていたと描く数多のファンタジーは、記憶の連続性を前提とする限り、「諸性質のすべてを失っ」た後でも「本質」が残されるという事態を描けてはいない。ある想定がファンタジーとしても描けないということは、それが人間の想像力を超えており、(私たちにとって)根源的に在り得ない事態であるということを意味する。

*4:論点先取。

*5:思うに、確定記述に還元されない「余剰」とは、マサチBやマサチCやマサチDがマサチAと同一人物にしか思えないという感覚に基づいて、遡及的に構成された想定である。

*6:D.パーフィットがこれに類する主張をしている。議論の詳細は、北田暁大『責任と正義』(勁草書房、2003年)を参照。

*7:私の主張はもしかすると解りにくいかもしれないので端的に確認すると、「個体は確定記述に還元し得るが、唯一無二である」との旨である。なお、この意味での唯一無二性は、「この私」も「この消しゴム」も、完全に同等である。

現代日本社会研究のための覚え書き――スピリチュアル/アイデンティティ(第3版)

 

16日付ですが、書いているのは12日です。既に書いた項の改訂版を一挙に載せたかったので、7日から16日まで使って1日ずつ載せました。一度に10個更新したわけですが、ほとんどの項は細かな修正がほとんどで、加筆・増補と言えるようなことをしているのはわずかに留まります。ただ、「家族」の項は構成を組み換え、元々文章化していなかった「共同体/市民社会」は一応見られるようにまとめました。全体に議論の基本線は変えていないので、「共同体/市民社会」だけ読んで頂ければ十分です。あとは自己満足(と自己便宜)に近い。

 

「スピリチュアル」的なものの台頭

21世紀の日本では、「スピリチュアル」的なものが市民権を得ている。「スピリチュアル spiritual」とは、「スピリチュアリティ spirituality」の形容詞形であり、本来は「精神的な」「霊的な」などと訳されるべき言葉である。一般には、「スピリチュアル・カウンセラー」および「スピリチュアル・アーティスト」を自称する江原啓之に象徴されるように、「前世」や「オーラ」などを云々することや人が「スピリチュアル」であると考えられている。

 

この意味での「スピリチュアル」は現在ブームの様相を呈しており、関連市場が拡大している。2002年11月からは、「癒しとスピリチュアルの大見本市」を標榜する「スピリチュアル・コンベンション」(通称「すぴこん」)が全国で開催されており*1、主催者によれば、年間11万人の動員数を持つとされる(「すぴこん:癒しとスピリチュアルの大見本市 スピリチュアル・コンベンション」)。また、2001年に刊行した著書がロングセラーとなって以来、江原がマスメディアに露出する機会は急増した。2003年からテレビでレギュラー番組を持つようになり、2005年には、現在もレギュラーとして出演中の『オーラの泉』の放送が始まっている*2

 

このような現象――エハラ的意味での「スピリチュアル」――を採り上げて検討するだけでも、それなりの意味はあろう。しかし、私がここで「「スピリチュアル」的なもの」と呼ぶ範囲には、そうした狭い意味での「スピリチュアリティ」関連の言説・運動・生活様式・商品・消費行動だけでなく、占い・超能力・オカルトなどの神秘的・脱科学的なものから、血液型に基づく性格分析や多くの代替医療などに代表される「疑似/似非科学」、さらには「エコ」「ナチュラル」「オーガニック」「ロハス」「スローライフ」「レトロ」「和」などへの志向性も含めている。私はここで検討の対象としたいのは、これらを包括するより広い意味での「スピリチュアル」、あるいは、それに近しく思えるもの(「~的なもの」)である。

このように広範な事象を一括りにするのは、一見いかにも乱暴な所作に思えるが、これらが互いに密接に結び付き合っていることは、幾つかのスピリチュアル関連サイトを眺めれば、直ぐに分かる。例えば、「スピリチュアルマガジンKAZUART」や「女性誌トリニティ:女性向けスピリチュアルマガジン 」(特に「スピリチュアル用語集」)のサイトからは、ヒーリング、アロマテラピー、ヨガ、気功、瞑想、オーラ、チャクラ、超能力、カルマ、ジャパニーズ・スピリット、精神世界、チャネリング、宇宙からのメッセージ、UFO、地球、人類、エコ、スローライフ、フェアトレード、オーガニック、薬膳、マクロビオティック、パワーストーン、前世療法、代替治療、波動、ゲルマニウム、などといった語を採り出せる。したがって、それぞれの事象固有の歴史や文脈は措いた上で、これらが結び付きつつ受容ないし消費されているという事態の方に焦点を合わせることには、一定の意味がある。

 

欧米のニューエイジ運動

 

まずは、歴史を遡ることから始めたい。

 

第二次世界大戦後の西欧諸国や米国では、福祉国家と消費社会の成立に伴って世俗化が進行し、宗教の影響力は衰えを見せた。科学技術や産業が発展を続ければ、合理主義が浸透し、宗教的なものへの関心は薄らぐだろう。そういった観測は、ある程度まで、そしてある時期まで当たっていた。だが、1960年代後半から米国を中心に盛り上がりを見せたカウンターカルチャーは、ヒッピーに象徴されるように、近代的な文明に批判的な視線を送り、産業主義や物質主義から距離を取ろうとする姿勢を拡大させた。その際、既成の西洋文明への対抗を模索する中で、仏教、道教、ヨガ、気功、瞑想など、東洋文化が積極的に受容されることになった。

その土壌の中から現れたのが、「ニューエイジ」である。ニューエイジは、西洋文明や近代合理主義、物質主義への反発をカウンターカルチャーから受け継ぎつつ、東洋文化や神秘主義への接近を強め、意識面の改革や精神性の向上を目指す運動として、1970年代から80年代にかけて隆盛を見せた(由谷〔1998〕)。そこには、エコロジーから超能力、UFOに至るまで、現代にも見られる多様なスピリチュアル的なもののほとんどが含まれていた。

 

島薗進によれば、米国におけるニューエイジ運動の「中心」ないし「周辺」に位置する集団および運動には、ヒューマン・ポテンシャル運動(自己啓発セミナーの源流)、トランスパーソナル心理学、ニューサイエンス、ネオ・ペイガニズム、フェミニスト霊性運動、ディープ・エコロジー、ホリスティック医療運動、マクロビオティック、超越瞑想、神智学協会、人智学協会、クリシュナムルティ・ファウンデーション、ラジニーシ運動、グルジェフ・ファウンデーション、仏教的瞑想・共同体、レイキ、気功・合気道、UFOカルト、などが含まれる(島薗〔1996=2007〕、36-41頁)。

この中では、ディープエコロジーの思想を一瞥しておくことが、ニューエイジ的な発想を知るために最も解り易く、有用である。ノルウェーの哲学者A.ネスの論文「シャロウエコロジーとディープエコロジー」(1973年)に始まり、B.デュヴァル&G.セッションズ『ディープエコロジー』(1985年)によって確立されたディープエコロジーは、人間中心主義から生命中心主義への転換を訴え、自然への支配ではなく、自然との調和ないし融合を目指す。重視されるのは、社会構造の転換と言うよりもむしろ、意識や価値観の変革である。まずは自己の内面を変えていくことから始め、それを通じて社会を、世界をよりよい姿に変えていくことができる*3、と、そう信じられる(森岡〔1994〕、森岡〔1996〕)。

 

このように、社会の変革の前にまず自己の変容を置くのが、ニューエイジ的発想の特徴である。島薗が提示するニューエイジ的な信念・観念のリストから、ここで重要と思われる4点だけを引いておこう(島薗〔1996=2007〕、31-33頁)。

  • 「自己の心身において生じるある種の変容体験、とりわけ異なる次元のリアリティの体験を通して、より高い、またより本来的な自己とリアリティに近づいていくことができるし、そうすることが充実した人生の鍵である」。
  • 「高次の、あるいは本来的なリアリティは、宇宙や自然のうちに内在」しており、「それはまた霊性的な自己ともつながっている」。
  • 自己変容は「癒し」をもたらすが、「多くの人々の自己変容によって、個人的な癒しにとどまらず、社会的地球的環境にも良い効果がもたらされる」。
  • 「自己変容や霊性の覚醒はそれだけで、現実に超常的、神秘的な変化を与える」ものであり、「明るい想念を持てば、明るい現実(成功)がもたらされ、恐れや暗い想念が失敗や不幸をもたらす」。*4

 

ところで、ニューエイジ運動が拡大する1970年代後半は、いわゆるファンダメンタリズムが台頭を始める時期でもある。確かに、米国における宗教右派ないしキリスト教右派の活性化は、明白にカウンターカルチャーへの反動としての側面を持っている。しかしながら、戦後の世俗化に伴う物質主義の否定という観点からすれば、それがカウンターカルチャーやニューエイジと共通の役割を担った事実も見えてくるだろう。結局のところ、宗教的なもの・神秘的なもの・呪術的なものへの関心は、衰えることが無かった。その事情は、1990年代以降も基本的に変わっていないと思われる。

 

精神世界と新霊性運動/文化

 

日本に目を転じよう。戦後に世俗化の時期を経た欧米諸国と異なり、日本では戦後になって新宗教が拡大を始め、高度経済成長期に信者を膨張させる。事情の違いの第一は、それら新宗教が戦前・戦中期の政府による弾圧から解放されたことによるのだろう。第二として、高度成長期には地方農家の次三男が都市に移り住んできた後、故郷や家族に代わる心の拠り所を求めて宗教に接近するケースが多かったとされる点が挙げられる。もっとも、1970年代に入ると、百万人以上の信者を持つような大型の新宗教は縮小傾向に転じたと言う(創価学会、立正佼成会、霊友会など)。

 

1974年には、ユリ・ゲラーが来日。テレビ番組で人気を博し、超能力ブームに火を点ける。さらに同年、映画『エクソシスト』が日本公開され、オカルトブームが巻き起こる。以降、学生を中心に「こっくりさん」遊びが大流行し、社会問題化する。1970年代末から1980年代前半にかけては、ニューエイジが「ニューサイエンス」などの呼び名で紹介され始め、文明批判や心の豊かさの強調などのメッセージが受容され、「精神世界」なる書棚ジャンルを確立するに至る。

 

並行して、新宗教にも変化が起こる。従来は、新宗教と言えども、仏教や神道などの伝統的な日本宗教の教義や儀礼を継承する部分が大きかった。ところが、1980年代から、外国の複数の宗教文化や心理学理論などを摂取した新しいタイプの団体が目立ち始めたと言う(GLA、幸福の科学など*5)。なお、阿含宗を脱会した麻原彰晃がヨガ道場を開いたのは、1984年である。麻原は1986年にオウム神仙の会を設立。翌年、オウム真理教に改称し、1989年には宗教法人格を得ている。広く指摘されているように、オウム信者の中には、「精神世界」やニューサイエンスに触れた経験を持つ人が多かった。

 

島薗によれば、米国発のニューエイジ運動に限定するなら、それはヨーロッパやオーストラリアなどに加えて日本でも一定の展開を見せたと言えるに留まるものの、ニューエイジの「周辺」に位置するような運動ないし現象を含めるならば、韓国、ブラジル、タイ、ナイジェリアなど、世界各国で目にすることができると言う*6。それらは、「ゆるやかではあるが相互に影響しあいながら」、「それぞれ自生的に多様な形で展開している」グローバルな運動群であって、特定地域に限定されるものでも、特定地域から一方向的に伝播したものでもないとされる(島薗〔1996=2007〕、48-49頁)。

島薗は、こうしたグローバルな運動群を「新霊性運動new spirituality movements」ないし「新霊性文化new spirituality culture」と呼び、その大衆運動としての起点を1970年頃に求めている。定義によれば、新霊性運動は、「個々人の「自己変容」や「霊性の覚醒」を目指すとともに、それが伝統的な文明やそれを支える宗教、あるいは近代科学と西洋文明を超える、新しい人類の意識段階を形成し、霊性を尊ぶ新しい人類の文明に貢献すると考える運動群である」。その特徴は、「固定的な教義や教団組織や権威的な指導体系、あるいは「救い」の観念といったものをもたず、個々人の自発的な探究や実践に任せる傾向が強い」ことと、「信仰と科学を対立的にとらえることなく、科学的な認識と霊性の深化とが一致できると考え、比較的、学歴にめぐまれた層に支持者が多い」ことである(島薗〔1996=2007〕、50-51頁)*7

 

別の宗教社会学的な整理も見ておこう(深澤〔2004〕)。近現代の宗教を教義によって三分類した場合、新霊性運動/文化にイコールされる宗教性(「スピリチュアリティ・オブ・ライフ」)は、「神的なるもの、人間、自然の三者を一体的に、ホーリスティック(全体論的)に考え」、「主観的宗教体験を重視」する点で、「差違性の宗教」(「神的なるもの、人間、自然的なるものを峻別し、階層的に考え」、「聖典や伝統の権威を重視」)や「人間性の宗教」(「神的なるもの、人間、自然をバランスよく分離して考え」、「人間を神にも自然にも隷属させまいとする」)と区別される。他の二つの宗教性は、神的なものは何らか上位の次元に存在すると考えるのに対して、「スピリチュアリティ・オブ・ライフ」においては、神的なものの人格性は後退し、神性・人間・自然の三者は、その奥底では同一の生命性として繋がっていると考えられる。また、何かよき事をもたらすのは、過去への学びや様々な修養であるよりも、自分自身の意識改革、すなわち「気づき」であるとされる。自己や世界を改善するための源泉は、全て自己の内部に求められる。

この、何らか超越的・神秘的なものとの「繋がり」を意識することを通じて、「自己変容」に至ろうとする点こそ、新霊性運動/文化≒「スピリチュアル」(的なもの)の核心である。この点については、既にほぼ合意ができていると言ってよいだろう(磯村〔2007〕、24頁)。しかしながら、なぜ70年代以降に、そのような「繋がり」が希求されるようになったのか、「自己変容」が欲せられるようになったのか、これらの点については十分に明らかになっているとは言えない。それは社会の変化に対応しているはずであるが、具体的にはどのような変化なのか。そのことを論じるためには、もう少し補助線が必要である。

 

信仰/無信仰と「心の豊かさ」

 

興味深いデータがある。NHK放送文化研究所が5年毎に実施している世論調査の中に信仰についての質問が設けられているのだが、そこでは信仰の対象として神や仏の他に、「奇跡」「お守り・おふだの力」「あの世」「易・占い」などの選択肢が用意されている(下図)。調査毎の推移(若年層)を見ると、1973年から1978年の間に、「何も信じていない人」(図右の棒グラフで上から二番目*8)の割合が11%も少なくなっている。この変化に1974年以降の超能力/オカルトブームが一役買っていることは、おそらく間違いが無い。その後、「何も信じていない人」の割合は1983年にさらに4%減少したが、それ以降は、1993年まで1%ずつ増やしているだけである。それが、1998年には一挙に6%増加した。この間に起きたことで影響がありそうなものと言えば、地下鉄サリン事件などに伴うオウム真理教幹部の逮捕と教団の解体が挙げられる(1995年)。オウム事件後、日本社会内部において、宗教的・神秘的なものに対する懐疑・警戒の視線は厳しいものとなった、かのように思えた。

 

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(NHK放送文化研究所編〔2004〕、138-139頁)

 

だが、2003年の調査では、「何も信じていない人」の割合は再び8%の減少を見せ、1983年の水準に戻っている。これを見る限り、宗教的・神秘的なものへの忌避は、一時的な現象に過ぎなかったことになる。加えて、注目すべきことに、98年から03年の間には「神仏のどちらかを信じている人」(棒グラフの一番下)の割合に、ほとんど変化が無い。つまり、この間の「何も信じていない人」割合の減少分は、主として「神仏以外のものだけを信じている人」(棒グラフ下から二番目)の割合に吸収されているのだ(6%増)。この点に注目して見直してみると、「神仏以外のものだけを信じている人」の割合は、少なくとも1988年以降(大まかに考えれば1973年以降)、一貫して増加していることに気付く。オウム事件を挟んだ93-98年間でも、減少したのは「神仏のどちらかを信じている人」の割合だけで、「神仏以外のものだけを信じている人」の割合は、その減少分の半ば(5%)を吸収する形で増加しているのである。つまり、オウム事件から社会が「学んだ」のは、一体何だったのだろうか? ここには巨大な問題が横たわっている。

 

98-03年の間に宗教を巡る事件が無かったわけではない。1999年にはライフスペースのミイラ事件が起こり、2000年には法の華三行の福永法源が逮捕され、2003年にはパナウェーブ研究所の白装束集団が騒がれた。その度にマスメディアは、また新宗教かと、憤慨と呆れと嘲笑が入り混じった視線と論評を投げ付けてきた。しかし、人々は宗教的なもの・神秘的なものと距離を広げようとするどころか、縮めているようにも見える*9。これは一体何によるものなのだろうか。

しばしば指摘されるように、新宗教絡みのトラブルを批判的に報道するテレビが、他方で超能力や霊能力、各種の占いなどを肯定的に取り扱った番組を毎日のように放送し続けている影響は無視できない。近年の目立った例としては、「六星占術」を掲げて人生相談を請け負う細木数子が2003年頃からテレビでの露出を増やし始め、複数のレギュラー番組を抱えるようになったことが挙げられる*10

しかしながら、テレビ番組で何が採り上げられるかは視聴者の反応が少なからず斟酌されて決定されることであるから、テレビの影響力を指摘するだけでは分析として十分でない。そうした放送内容を(潜在的にでも)求め、現に消費している人々の存在そのものに目を向ける必要があるだろう*11

 

例えば、一つのヒントはここにあるかもしれない。内閣府が毎年行っている「国民生活に関する世論調査」には、「今後の生活で心の豊かさと物の豊かさのどちらかに重点をおくか」との質問項目が設けられている。1978年、この問いに対して「心の豊かさ」と答えた人の割合が、「物の豊かさ」と答えた人の割合を初めて上回った(内閣府〔2007a〕、第2図)。その後、83年頃まで両者とも40%前後の割合で拮抗し続けるが、84年以後は「心の豊かさ」を重視する人の割合が「物の豊かさ」を重視する人の割合を引き離し始め、2007年には「心の豊かさ」重視が62.6%であるのに対して、「物の豊かさ」重視は28.6%にまで低下している(内閣府〔2007b〕、2-2-(3))。

「心の豊かさ」の内実が何を意味しているのかは不明であるが、そのような実体不明の何かが求められるようになっているということは知れる。むしろ実体不明であるからこそ、神秘的・超越的なものとの「繋がり」によって隙間が埋められる蓋然性があるのかもしれない。ここに「スピリチュアル」的なもの(新霊性運動/文化)の受容/消費を支える土壌を見出すことは、誤りではないだろう。しかし、ではなぜ「心の豊かさ」が希求されるようになったのか? 問いは遡及され続けるが、それに取り組むより先に、近年に勃興した「スピリチュアル」的なものの幾つかを改めて記述しておこう。

 

2001年には、「スローライフ」を掲げる辻信一『スロー・イズ・ビューティフル』が公刊されている(辻〔2001〕)。スローライフとは、現代の産業社会・消費社会は生活に速度や効率を求めるあまり、資源の浪費や匿名性の上昇、精神的余裕の喪失などを引き起こしてきたとの問題意識の下に、生活を「スローダウン」させることから人間が本来あるべき姿を回復させていこうとする立場によって提唱されているライフスタイルである。

その起源は、1980年代の北イタリアにおいて、ファストフード・チェーンの進出に対抗して展開された「スローフード」運動に求めることができる*12。スローフードとは、各地方の伝統や気候風土と密接に結び付いた食材や調理法を生かした食事を楽しむことだとされており、そのことによって同時に伝統文化や生物の多様性の維持、食の安全確保などが実現できると想定されている。したがって、スローライフを体現する人々は、省資源やリサイクルなどを通じてエコロジーに結び付くと同時に、地産地消や文化継承を通じて、地域共同体や伝統との関わりを強める蓋然性を持つようになる。

 

スローライフと非常に親和的ないし近似的であるとされるのが、「ロハス(LOHAS:Lifestyles Of Health And Sustainability)」である。この言葉は、1998年に米国で作り出されたもので、地球環境や世界平和、社会正義に対して問題意識を持つとともに、自身の健康や精神性の向上、自己実現に高い関心を寄せる人々の生活様式や消費行動を意味する。日本では2002年に初めて紹介され、2004年以降には雑誌『ソトコト』を中心に採り上げられる機会を増し、多くの人に知られるようになった(岡田〔2007〕)。スローライフとの比較で言えば、自己啓発的な要素が相対的に多くを占めている分だけ、新霊性運動/文化との結び付きは強固であると推測される。

 

レトロブームについても触れておきたい。2005年、1958(昭和33)年の東京下町を舞台にした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』が公開され、大ヒットを記録した(2007年には、続編『ALWAYS 続・三丁目の夕日』が公開)。この作品は、「決して裕福ではなかったけれども、人間関係が濃密で温かみがあった」時代の日本を再現したとされており、現にそのように受容された。ここには、「心の豊かさ」への志向性が顕著に現われている。

過去の日本への懐古ないし憧憬を消費行動に結び付けようとする傾向は、『ALWAYS』以前から見られる。分かり易いところでテーマパークに限っても、 新横浜ラーメン博物館(1994年開業)、デックス東京ビーチの台場一丁目商店街(2002年開業)、大分県豊後高田市の昭和の町(2001年開業)などが挙げられる*13

 

「スピリチュアル」的な消費

 

さて、「スピリチュアル」(的なもの)≒新霊性運動/文化が70年代以降に台頭してきたとは言っても、宗教的・神秘的・呪術的なものへの志向性が人々の間で一貫して保持されてきたのだとすれば、そこにどのような社会の変化があるのかは読み取りにくい。一体、何が変わったというのだろうか。

 

一つには、物質主義からの離脱を求めて「スピリチュアル」的なものに接近しながら、その受容の方法が市場的な消費行動以外の仕方を採ることがますます難しくなっている、ということが挙げられる。これは、「政治/イデオロギー」でも論じたように、現代の脱物質主義が物質主義的な基盤に支えられてしか存在し得ないということを示すものである。

島薗によれば、既に新宗教においても「消費主義化」が先進国共通の現象となっており、「自己の体験や能力向上に役立てようという態度で接近してくる」入門者/信徒に対して、教団側が「教えや儀礼や修行の習得の場を、情報や特定技術やサービスやエンタテイメントの提供の場として装う」傾向が顕著であった。その傾向は、新霊性運動/文化において一層あからさまなものになり、「企業的な組織が、不特定多数の消費者に、情報や技術やサービスを販売するという形での普及が支配的」になっている。「個々人の自己充足への志向がたいへん強い」新霊性運動/文化では*14、ボランタリーな共同行為の実践よりも商業的・消費主義的な枠組みの方が優勢にならざるを得ないのだと言う(島薗〔1996=2007〕、348-349頁)。

 

しかし、「スピリチュアル」な消費を可能にする資源は、ほとんどの場合、物質主義的ないし合理主義的な原理を徹底させた生産過程の中で獲得されなければならない。すると、非「スピリチュアル」的な日常から脱するために「スピリチュアル」的なものに接近するのだが、その接近を可能にする原資は非「スピリチュアル」的な日常から得なければならず、そうした日常の中で蓄積された不満や欠乏を埋めるため(「心の豊かさ」を得るため?)に一層「スピリチュアル」的なものへの没入を強める、というサイクルを描いて見せることができる。

このようなマッチポンプ的なサイクルは、再帰性を体現するものである*15。現代において、呪術的なものは、日常の中に在るのではない。脱呪術化された日常から*16、敢えて呪術的なもの(「スピリチュアル」的なもの)へ近づこうとする。「スピリチュアル」的なものの興隆は、そのような再帰的選択によって成立している。

 

「スピリチュアル」的なものへの接近によってもたらされる「何か」と繋がる感覚は、それを体験する個人にとって、自分が世界の中に位置づけられ、その生が意味付けられるという機能を果たす(磯村〔2007〕、46頁)。それは確かに宗教的な機能であるが、「スピリチュアル」的なものが(新宗教を含めた)既存の宗教と異なるのは、機能遂行における個人側の選択可能性が高く、自由な消費生活との親和性が大きいことである。一般に、「スピリチュアル」的なものへの接触は、「集団生活や人と人との対面的接触を通してではなく、各自の独立した生活空間から書物、映像、メディアを介した音(録音、放送、電話)などを通して」行われることが多く、「集会、講座、ワークショップなどへの参加が求められる場合も、集団での実践よりは個々人の実践の方に力点がある」とされる(島薗〔2007〕、57頁)。「スピリチュアル」的な商品は、様々な形態のものを個人単位で消費することが可能であるという意味で、個人化した社会に適合的な宗教メディア/ツールである。

 

個人を特定の場や関係に結び付けて固定する伝統や共同体の機能は、都市化の進行に従って衰弱していく。今や個人は、どこにでも行けるし、何にでもなれる。だが、それゆえにこそ不安に襲われ、寄る辺なさにさいなまれる。自らの生を意味付けてくれる大きな枠組みが無い*17。都市化や雇用の不安定化が進行し、社会が流動化すればするほど、生を意味付けてくれる宗教的機能への需要は高まる。だが、多くの人にとって既に獲得されている消費生活の利便性と個人的自由を手放すことは困難であるため、宗教的機能が提供される仕方は、個人主義や消費社会と両立可能な形態に変化せざるを得ない。それが「スピリチュアル」的なものなのだろう。

皮肉なことにと言うべきか、逆説的なことにと言うべきか、そこでは脱物質主義的な価値が物質的・市場的に提供されている。超越的なもの(「スピリチュアル」的なもの)が、内在的・即自的なもの(「モノ・サピエンス」的なもの)によって囲い込まれている(パッケージ化・テーマパーク化)。「政治/イデオロギー」の項で見たように、この事態は宗教的・精神的トピックに限らず、現代社会を特徴付けるものである。私たちは一律にパッケージされて陳列棚に並べられている諸価値を眺め、手に取り、試しに買ってみることができる。現代の「総消費社会」においては、消費主義的な相対化や市場のルールに服さない価値は、そもそも消費者の前に現れることを許されないのである。

 

オリジナリティの規範化

 

ここからは、「スピリチュアル」的なものに固有の文脈を離れて、より広く現代人のアイデンティティについて検討する議論に接続してみよう。ここで注目したいのは、若年層における職業に対する意識である。新入社員に就職先の企業を選ぶ際に重視した点は何かを尋ねた結果を見ると、「会社の将来性を考えて」と回答した人の割合が低下し、「自分の能力、個性が生かせるから」、「仕事がおもしろいから」、「技術が覚えられるから」と回答した人の割合が高まっている(内閣府〔2007a〕、第3-1-24図)。1971年と2008年を比較すると、「会社の将来を考えて」は27%から8.7%へと大幅に低下しているのに対して、「自分の能力、個性が生かせるから」は19%から28.3%に、「仕事がおもしろいから」は16%から23.8%に、「技術が覚えられるから」は7%から13.6%に上昇している(社会経済生産性本部・日本経済青年協議会〔2007〕、5-6頁社会経済生産性本部・日本経済青年協議会〔2008〕、5-6頁)。

このデータには、会社に身を任せるという忠誠心・依頼心の後退と、自助・自立ないし「やりたいこと」への志向性の強まりを見出すことができる。「会社の将来性を考えて」割合の一貫した低下は低成長時代への突入によって説明できるし、その低下分を吸収したことが「自分の能力、個性が生かせるから」割合増加の主因だろう。「仕事がおもしろいから」と「技術が覚えられるから」の割合が明確な上昇を始めているのは90年代半ば以降であり、これについては、長期停滞を契機とした大規模なリストラや日本的雇用慣行の衰退(即戦力志向、成果主義の導入、企業福祉の切り下げ)を背景として指摘できる。会社共同体の崩壊を見せつけられ、会社は以前のようには社員を守らないというメッセージにさらされ続けた若年層は、従来とは異なるマインドを持つことを迫られたのである。

経済/労働」で論じたように、機械化され、断片化され、マニュアル化された現代の労働においては、熟練の必要性が乏しくなり、やりがいを得られる可能性が縮小する。やりがいが得難くなればなるほど、やりがいのある仕事への渇望は強まっていく。また、雇用の流動化によって「労働=生活の安定」という等式が成り立ちにくくされるため、「何のために働くのか」という労働の意味が反省的に欲求されざるを得ない。働くことの自明性が失われるのである。それは一方では「面白い仕事」「個性を活かせる仕事」「自分らしい仕事」の希求に結び付き、長時間労働・離職率上昇・非正規雇用拡大などをもたらす要因になり得るだろうし、他方では、労働の意味喪失によるアノミーをもたらすかもしれない。

実際、現今の就職活動市場でのメインメッセージは、「なりたい自分」をイメージし、「やりたいこと」を見つけ、オリジナルな自己を構築すべき、というものである(速水〔2008〕、119-121頁)。現在の社会では、オリジナリティを確立すること、あるいはオリジナルなアイデンティティを持つことが、規範化されている

 

消費社会の高度化は*18、人々が採り得る選択肢を多様化させ、目標や生活様式の共有を困難にする。各人は多様な選択肢から自分に合ったものを自由に・自発的に選択するので、自分がなぜ「それ」を選ぶのかを問わざるを得ない。そのような社会では、「自分はどんな人間なのか」について、絶えざる反省が迫られる。それゆえに、「自分語り」や「自分探し」は不可避のものとなる。いわゆる「自分探し」的な振る舞いは、既に60年代末には現われているが(速水〔2008〕、83-85頁)、おそらく70年代までの「自分探し」は、社会が共有するモデル的な人間像への反発としての意味合いが強かったと思われる(80年代は共有されたモデルの虚構性が明らかながらもフェイクとして維持されていた時代――なのだろうか? 実際のところは分からない)。90年代以降に「自分探し」が全面化するのは、社会内部で普遍的に共有される物語が失われ、規範化=モデル化された人間像が見当たらなくなったためだろう*19。そこでは、むしろ「自分探し」の方が日常的な風景となるのが自然である。

メディアの発達がもたらした膨大な情報にさらされていれば、あらゆる「個性」がパターン化された陳腐な「キャラ」でしかないことは、否が応でも認識させられる。のんびりしていたら、自分はただの入れ替え可能な存在でしかないことになってしまう。だから、自分だけに固有の個性、「自分らしさ」を獲得しなければならない*20。「自分らしさ」は得難いものであるがゆえに求められるし、それを得ることによって自己肯定感をもたらしてくれる源泉である*21

ところが、固有であるはずの「自分らしさ」を構築するためのツールのほとんどは、パッケージ化されたものが市場で提供されている。それゆえ、大方の「自分らしさ」なるものは幾つかのパターンに分類可能(相対化可能)であり、在り得る個性などは、様々な要素(確定記述)の組み合わせとして、入れ替え可能なものである。消費社会では、「大量生産されたひとつの製品が、多様な個性を生む道具となる」。人々は、「アイデンティティのスーパーマーケット」で「適当なものをみてまわる」ことができる。消費を通じて、「アイデンティティを意のままに形成し、自由につくりなおす」ことができるのだ(バウマン〔2001〕、109頁)。つまり、現代の消費とは「商品との対話を通じた一種の自己探求の行動」であり、人々は「消費によって一種のアイデンティティ操作を行う」(野村〔1998=2002〕、16*22

差異を創出するために市場で選び採られる価値は、あくまでもパッケージ化されたものでしかないが、アイデンティティを構成する要素として商品を受容する人々は、選択した価値を次第に本質的なものとして再解釈していく(ヤング〔2007〕、263頁以下)。そうして差異は本質化され――「本来性」が偽装され――、人々は束の間の安心感を得る*23。自らが誇る「自分らしさ」などパターン化されたものでしかないことに気付けば、人はまた新たな自分探しへと駆り立てられるかもしれないが、その旅に本質的な終わりは無い――事実的な終わりがあるだけである*24

 

島薗は、救済を訴える既存の宗教が先進国において一様に不人気である理由の一つに、「悪の私事化」または「不幸の個別化」を挙げている(島薗〔1996=2007〕、314-316頁)。経済的な達成を経て、厚い中間層が形成された後では、「共同的な悪」「集合的な不幸」という観念は成立しがたくなり、人類/世界/社会を普遍的に「救済する」と言うようなロジックは、受け入れられにくくなっていく。新霊性運動/文化において「自己の変容」が第一の課題とされるのは、そうした共通基盤の衰弱に対応しているということであろう。

これは、中間層の拡大だけを根拠とするのでは不十分であるが、他の項で検討してきた社会の流動化や島宇宙化を前提とすれば、社会の共同性が信じられにくくなっていく状況下で起こる宗教性/精神性の変容を指摘するものとして、示唆的である。消し去られるべき悪が私事化され、乗り越えられるべき不幸が個別化されるということは、問題の解決にあたって期待できる社会的な支援がすり減っていくことを意味する*25。私的/個別的であるとされた問題は、個人的に取り組まれ、個人的に責任を取られるしかない(自己責任)。それが、自ら選択した結果であるのなら、尚更である(再帰性)。社会的な支援を期待できず、行動の結果について自らの責任で処理をしなければならないという状況は、大変な心理的抑圧と不安を喚起する。それゆえに、何らかの「寄る辺」を得るべく、「何か」と繋がる感覚を得たいという欲求が強まり、自己/生の意味および位置を求めて、「大きな物語」へと接近しやすくなる。現代のナショナリズムが過去と異なるとすれば、こうした再帰性の文脈を差異として考慮すべきだろう――ただし市場を通じて再帰的に選択された価値は往々にして本質化されて相対性が忘却されていく*26。ポストモダン社会では、人々はそれぞれの閉鎖的な価値コミュニティ(「小さな物語」)に没入する一方で、自我の拡散を防ぎ、何らかの「意味」に係留するため、超越的な存在(「大きな物語」)への同一化欲求を強めていく。現代の「スピリチュアル」的なものや「自分探し」の興隆、ひいてはナショナリズムの「復興」も、こうした流れに位置付けることができる。

 

*1:「癒し」なる言葉は、1999年頃にブームとなった。当初は主に特定の女性芸能人や音楽の特徴を言い表す際に使われた「癒し」「癒される」「癒し系」などの表現は、急激に普及するとともに対象の限定を失い、現在でも一般に通用している「癒し」@Wikipedia。

*2:「江原啓之 プロフィール」@江原啓之 公式サイト。「江原啓之」@Wikipedia。

*3:このような考え方は、後述する「ロハス」などにも受け継がれているものだと思える。

*4:この信念には、いわゆる「疑似科学」の一種とされる「水からの伝言」を想起させるところがある。

*5:ただし、GLAの設立は1969年。幸福の科学は1986年。

*6:日本における展開については、「精神世界のゆくえ」@G★RDIAS、も参照。

*7:疑似科学を含む「スピリチュアル的なもの」の受容者がどのような社会的属性を持つ人々であるのか、その実態についての実証的研究を私は渇望している。疑似科学などがなぜ信じられるのかについては例えば認知心理学による説明が既にあるが(例えば菊池聡『超常現象をなぜ信じるのか―思い込みを生む「体験」のあやうさ (ブルーバックス)』)、どのような人々によって信じられるのかについての社会学的説明は不足しているように思う。その不足が埋められなければ、疑似科学談義にこれ以上の益は無い。

*8:一番上の選択肢は「わからない・無回答」。

*9:ただし、日本生産性本部と日本経済青年協議会が行っている調査では、「宗教は大切」と考える人の割合は80年代後半に初めて「宗教は大切でない」と考える人の割合を下回り、以降は差が大きく開いていくことになった。90年代後半からは「大切」が20%台前半、「大切でない」が概ね50%台後半で安定的に推移しており、「宗教離れ」を裏付けている(石井〔2007〕、21頁)。この調査ではおそらく既成の宗教をイメージした回答が主であろうから、ここで言う「宗教的なもの・神秘的なもの」への接近と矛盾するデータであるとは必ずしも言えない。とはいえ、単純に「宗教回帰」を主張することには慎重であるべきなので、ここで一言しておく。

*10:「細木数子」@Wikipedia。

*11:この点は、「セキュリティ/リスク」で、体感治安の悪化の原因をマスメディアの報道姿勢のみに求めるのではなく、社会の認識枠組みの変化にも着目する必要があると述べたことと共通する。メディア論的には、こうした立場は「弾丸効果説」に対する「限定効果説」と呼ばれる(野村〔1998=2002〕、11)。

*12スローフードジャパン公式ウェブサイトを参照。なお、スローフードジャパンの設立は2004年。

*13:ここで挙げたテーマパーク全てが、一様に昭和30年代を「過去」として選んでいることは興味深い。

*14:「個々人の意識の変容の集積が、人類全体の意識の変革に自動的につながっていくという考え」は、「「自分が変わる」ことで満足して、「他者と行動を分け持ち、仲間と他者に対して責任をとるという立場を引き受けようとしない」態度と結び付いている。島薗〔2007〕、49頁。

*15:その健全性を評価する基準は、結局バランスであるとしか言えないだろう。

*16:現代の日常が「脱呪術化」されているかどうかは、過去との比較でしか言えない程度問題である。科学と技術の発展に基づく合理主義の浸透が、人々の生活に占める呪術的要素の割合を相対的に減少させてきたことは疑い得ない(「科学/生命」で詳述)。

*17:「テクノロジー/メディア」、「共同体/市民社会」を参照。

*18:「経済/労働」の項を参照。

*19:「教育」の項を参照。

*20:一般に言う「自分らしさ」とは、属性・確定記述に還元されず、相対化不可能な固有性として観念されている。

*21:そのような困難な作業が必然化されるがゆえに、「なりたい自分」に到達できない現状の自分をそのまま承認/肯定してくれることへの欲望は強まっているのだと考えられる(「そのままの君でいい」「そのままのあなたが好き」「無条件の愛」「無条件の肯定」)。その場合、自己の固有性(「自分らしさ」「本当の自分」)が何であるのかは分からないままであるとしても、それを「知っている」と告げる相手の存在によって、自己の位置付け・意味付けは(一時的に)達成され、自分は入れ替え不能な存在であるとの充足感覚が(一応)もたらされるのである。

*22:高度に発達した情報/消費社会では、あまりに情報や選択肢が多様なため、独立した選択は困難である。それゆえ、送り手側が需要を作り出すマッチポンプ商法が一般化する。「あなたが欲しいものはこれだ!」「本当のあなたはこうだ!」と断定して消費を促す方法論はスピリチュアル関連市場でも一般的に見られるし(鈴木・電通消費者研究センター〔2007〕、108-109頁)、amazonの「おすすめ」機能も同類のものであろう。そこでは、データベースの参照を促すことによって、その人が消費する「はず」のものを発見させているのである。

*23:差異の本質化は、現代の価値多元主義的傾向=「カラスの勝手主義」と結び付く(「政治/イデオロギー」参照)。つまり「自分は自分、他人は他人」であって、その差異は予め決定されてしまっていると考えられるのである(宿命論?)。

*24:以上については、「序論」で採り上げた宮台の議論も参照。

*25:U.ベックによれば、戦後の経済成長と福祉国家の実現によって階級概念が失効し、個人化が進行することによって、社会問題が個人の心理的問題へと還元される傾向が強まった(ベック〔1998〕、145&193頁)。社会的な危機であるはずのことが、「個人レベルにおける、満ち足りない気持ち、罪の意識、不安、葛藤、ノイローゼの問題となった」のである(同時に心理学がブームとなる)。

*26:「ネーション/国家」で詳述する。また、「テクノロジー/メディア」の末尾も参照。

現代日本社会研究のための覚え書き――政治/イデオロギー(第2版)

 

五十五年体制の形成と安定

 

1946年4月、日本で初めて行われた男女普通選挙は、戦後初の総選挙でもあった。新憲法案は、新たに選出された衆議院を含む帝国議会で修正・可決され、国民主権をうたう日本国憲法が46年11月に公布、47年5月に施行された。施行に先立つ4月には、新憲法体制を樹立するため、首長選挙、参議院議員選挙、衆議院議員選挙、都道府県議会議員選挙が相次いで行われた。こうして、統治権力の正統性の源泉が国民に求められ、政治的意思決定能力者の全てに国民代表=統治機関の具体的な構成への直接の参与が広い範囲で認められるという、明確な国民主権体制がその一歩を記した(民主化)*1

 

戦後、計7年にわたって首相を務めた吉田茂は、その後の日本政治を規定する一連の政治的決断を行った。全面講和か片面講和かを巡る議論で揺れる国内を背に、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約に調印。冷戦に突入した国際社会において西側世界への参入を内外に示すと同時に、共産圏に対する極東の防波堤として、米国と安全保障上の緊密な関係を保っていく方針を明確にした。当初の吉田が自衛戦争も禁じているとの解釈を示した日本国憲法第9条は、米国への安全保障の依存と組み合わせられることによって、その機能を発揮することになる。朝鮮戦争を機に日本が再軍備に踏み出して以後も、歴代自民党政権は憲法第9条と左派の抵抗を盾に、米国からの軍拡と軍事的貢献に関する要求を退けてきた。日米安保+憲法9条+自衛隊のセットによって比較的安上がりに安全保障を確保することで、経済成長の実現に集中できる態勢が整う。これが吉田の作り上げた戦後政治の枠組みである。

 

55年11月、前月の左右社会党統一を受けて危機感を強める保守勢力が自由民主党を結党する。保守合同が実現し、いわゆる「五十五年体制」の基礎が確立された。五十五年体制とは、自民党が国会の安定多数を確保して単独政権を担いつつも、社会党や共産党などの革新勢力が3分の1以上の議席を維持する状況(「1と2分の1」体制)を指し、冷戦状況の国内的反映を意味していた。講和問題をめぐって顕在化した左右対立は、この時期に固定化=制度化され、安保闘争と所得倍増計画を経て安定を得ることになる。

59年から60年にかけて、安保条約の改正に反対する安保闘争が国民的運動になったのは、教職員勤務評定の実施や警察官職務執行法の改定などにも現れた岸政権の戦前回帰を思わせる強権姿勢への反発が広がったことが大きい。新安保条約の内容については必ずしも反対でない立場の人も、議会制民主主義の危機であるとして、安保反対運動に身を投じた。59年11月のデモ中に全日本学生自治総連合(全学連)が国会構内に突入したことを契機に運動は訴求力を増し、参加者は一般学生にまで拡大した。60年5月に新安保条約の批准文書は国会で採択されたが、6月15日の運動中に学生1名が死亡したこともあって運動の規模は空前のものとなる。連日10万人が国会周辺に集い、18日には33万人が国会を包囲したが、翌19日の条約自然承認によって安保闘争は終わりを迎える。22日には、岸内閣が退陣を表明した。この結果を「平和運動の挫折」と見るべきか「民主主義の勝利」と見るべきかはともかく、以降の日本政治では、戦前から活躍していた吉田・鳩山・岸のような貴族的政治家は表舞台から姿を消し、民主主義体制への尊重が左右両勢力に共有される戦後政治への転轍が明確になる。

 

岸政権の退陣後に登場した池田勇人は、「寛容と忍耐」を掲げ、世論に配慮した政治を心がけた。強行採決を避けて合意を重視するとともに、憲法改正などの対立が激しい争点よりも経済成長を重視し、所得倍増計画を打ち出した。これは、日米安保への依存と小国主義に基づく経済成長の推進姿勢を明示的にした点で、吉田レジームを発展的に継承するものであった。以後、この「戦後レジーム」(吉田=池田レジーム)は(そこからの脱却を目指した佐藤栄作や中曽根康弘を含め)冷戦崩壊までの日本政治を決定的に特徴付けることになる。在任中は憲法改正をしないと明言した池田以後、憲法改正論議は下火となってイデオロギー色の強いイシューは後退し、利益分配政治が基調になる。この点では独自の経済政策を持ち得ない社会党も歩調を合わせ、与野党ともに福祉の充実と生活水準の向上を競い合う構図が形成された――経済政策上の政策目標の対立が消滅した――ため、左右対立は外交・防衛問題に限定されていく*2

五十五年体制が60年に安定したと言うのは、この意味である。五十五年体制下においては、「政党支持は、日米安保条約と自衛隊に対する態度をめぐる自民党と社会党の対立によって構造づけられ」、「経済政策は、保革を分ける争点にはなっていない」状態が続いた(大嶽〔1999〕、5頁)。国会での論戦は一見は激しい論戦の様相を呈しながらも、水面下ではきめ細かい調整と妥協が行われ、与野党の合意に基づいて決定が形成されることが多かった(「国対政治」)。多くの社会党議員は、「院外の大衆運動や一般有権者へのアピールでは自民党とは厳しく対立する姿勢をみせながら、自民党の族議員とともに、党内や国会内で利益団体として行動した」(大嶽〔1999〕、22頁)。自民党が農業や建設業を中心とする地元利益や職業利益を、社会党が官公労労働者の職業利益を代表することで、政党間対立は、「分け前をめぐっての対立」に変質した(大嶽〔1999〕、21頁)。選挙は団体単位で行われ、職場がそのまま集票機能を果たした。こうした政治が可能だったのは、第一次産業と第二次産業を中心とする産業構造と、職場や地域の強い結合力によるところが大きい。そうした条件が失われた時、団体中心の「合意の政治」は、それまで「合意」の外に置いてきた層から手痛いしっぺ返しを受けることになる。

 

とはいえ、五十五年体制の地盤沈下は早い時期から始まっている。高度成長を背景とする日本的雇用慣行の成立と企業社会統合は*3、労働者の生活改善による闘争性の後退をもたらした*4。企業の繁栄と運命を一にする民間労組の社会党支持率は、年を追うごとに低下していった(下図)。社会党の支持基盤は、官公労に女性中心の市民運動家を加えた程度に縮小していく。それに並行して、60年代から社会党の長期低落傾向が始まっている。社会党の議席は、58年5月の統一後初めての衆議院選挙以来、3分の1の枠内を越えることはなく、徐々に減少していくのである(原〔2000〕、176-180頁)。

 

f:id:kihamu:20080927143258j:image (渡辺〔2003〕)

 

社会党が長期低落から脱却する機会は存在した。それは50年代後半にイタリアから輸入された「構造改革論」の導入である。当時の「構造改革論」とは、さしあたり資本主義経済を前提としながら(革命ではなく)部分的改革を積み重ねて社会主義に至るという、いわば社会民主主義的転回を意味しており、60年の党大会で江田三郎が提案した方針に盛り込まれた。しかし、この方針は派閥間抗争に江田が敗れることにより、数年の内に葬られることになる。「構造改革論」の挫折によって、社会党が階級政党から国民政党へ脱皮する機会は逸失され、長期低落傾向を未然に防ぐ手立ては何も無くなった(原〔2000〕、183-190頁)。

 

もっとも、60年代から70年代初頭にかけての時期は、革新自治の相次ぐ成立によって、革新陣営が一時の盛り上がりを見せた時期でもある。京都では50年代から蜷川虎三が府政を執っていたが、63年に横浜で飛鳥田市長が誕生したのを端緒に、大阪や北九州など全国で革新市政が生まれ、翌64年には全国革新市長会が結成された。67年、ベトナム反戦運動を契機とする社共共闘の気運に乗って、両党から推薦を受けた美濃部亮吉が東京都知事に当選する。71年には美濃部が再選したほか、大阪府で黒田了一、川崎市で伊藤三郎が、革新派から当選を果たした。72年には沖縄県で屋良朝苗、埼玉県で畑和、岡山県で長野士郎が、74年には香川県で前川忠夫、滋賀県で武村正義が、75年には神奈川県で長洲一二、島根県で恒松制治が革新知事として登場した(同年に美濃部が三選)。72-73年には、野党4党による政権構想も持ち上がったほどである。しかし、73年の低成長時代への突入以降、革新派首長の経済無策が露呈するとともに、支持基盤の労組の弱体化も進行した。社共の共闘も揺らいで、70年代末に完全に決裂するに至る。79年に美濃部が引退し、保守の鈴木俊一が東京都知事に当選するに及んで、革新自治は終わりを告げた*5

 

80年代に入ると、五十五年体制崩壊の足音が聞こえ始める。82年に「戦後政治の総決算」を掲げて登場した中曽根政権が第二次臨時行政調査会を組織して推進しようとした行財政改革は、英米のサッチャー=レーガンに歩調を合わせるネオリベラリズム的な方向性を持つものであり、戦後型の利益分配構造を解体しようとするものだった*6。中曽根政権期に打ち出された各種の規制緩和や所得税の累進率の緩和などは、90年代以後のネオリベラルな改革に先鞭を付けるものであったが、とりわけ大きな影響をもたらしたのは日本電電公社、日本専売公社、日本国有鉄道の民営化である(84~87年)。三公社(特に国鉄)の民営化によって総評は大打撃を受け、社会党の支持基盤は一層弱体化することになる。

 

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五十五年体制の崩壊と改革の政治

 

90年代初頭を以て戦後政治の折り返し地点と見做すことに異論は少ないだろう。89年の冷戦終結と91年のソ連解体は、国内外の政治環境を決定的に変えた。91年初の湾岸戦争を機に、国是「専守防衛」に基づいて海外への自衛隊派遣を行わない方針には、強力な疑義が突き付けられることになる。92年の国連平和維持活動協力法の成立によって日本の軍隊が初めて海外派遣への道を開かれる一方、「普通の国」論や「国際貢献」論に基づく憲法改正論が支持を拡大していく。この潮流は、憲法9条を改正し、国際社会や日米関係における軍事的貢献を積極的に拡大していこうとする点で、吉田が敷いた路線の見直しを目指すものである。以降、かつて「平和勢力」の中心として憲法改正や軍備拡張への抵抗力となった革新政党が衰退し、北朝鮮や中国の軍事的膨張による脅威が喧伝される中、吉田路線の見直しは着実に実行に移されていくことになる*7

 

90年代初頭は、自民党型利益分配政治の弊害が広く国民に認識された時期でもある。利権構造と結び付く金脈への批判は、74年の立花隆による「田中角栄研究」と76年のロッキード事件での田中逮捕において既に激しく巻き起こっていたが、88年のリクルート事件と93年の佐川急便事件で金権体質への批判は頂点に達した。同時に派閥政治への批判も高まり、政治の刷新、「政治改革」の必要性が叫ばれた。そして、自民党の分裂と同時に行われた総選挙を経て、93年8月に細川護煕を首班とする非自民連立政権が誕生し、自民党は初めて野党に転落する。また、同選挙で革新勢力は3分の1議席を確保することができず、55年2月の総選挙以来続いてきた1と2分の1体制も崩れることになる。こうして五十五年体制は終わり、戦後政治は転換点を迎える。

 

戦後政治の新たな時代については、94年末の新進党の結成が、保守二大政党体制の未来を展望させた。冷戦終結後、かつて政治の一極を占めた革新勢力の衰退は決定的なものとなっていた。社会党は80年代からマルクス主義を放棄して現実主義路線に舵を切り、86年1月の党大会で福祉国家および自由市場の承認や議会制民主主義の肯定を打ち出し、「政権政党」を目指すと宣言していた(原〔2000〕、196-197頁)。それはかつて捨て去った構造改革論への遅過ぎた回帰であり、現実への対応であるよりは追認であったが、この時点においてもなお、党内には社会民主主義路線への移行に対する反発が存在したのである。90年2月の衆院選では躍進し、一時的な盛り返しを見せるが、それは自民党の腐敗に対する批判を強める無党派層の受け皿になったに過ぎない*8(大嶽〔1999〕、26-27頁)。五十五年体制を主体的に刷新する突破力も、体制を支えた条件の瓦解をバネにする対応力も欠いた社会党が現実への完全敗北を認めるのは、93年7月の総選挙での歴史的惨敗の後、非自民連立政権への参加と離脱を経て、自民・さきがけとの連立政権を樹立し、日米安保の維持と自衛隊の合憲性を容認するに至った94年6月である。村山政権の誕生を以て47年振りに首班を輩出した社会党は、政権が退陣した96年1月に「社会民主党」への党名変更に踏み切るが、以降は拡大する民主党への議席と支持基盤の割譲を続け、小政党へと転落した。

 

五十五年体制の崩壊と社会党の衰退が意味するのは、イデオロギー政治の終わりであると同時に、戦後型の利益分配政治の限界である。利益分配政治への批判が自民党を野党転落にまで追い込んだのは、産業構造の転換によって、従来型の団体政治と利益分配構造による恩恵を享受しない層が拡大したことの影響が大きいと思われる。脱工業化や雇用の流動化、労組組織率の低下などを背景として、従来の職業的利益代表によっては捕捉されない有権者が拡大すれば、団体単位での利害伝達回路を前提とする戦後型利益分配政治への不満が高まるのは当然である(大嶽〔1999〕、22-23頁)。後述する無党派層の増加や政治的有効性感覚の低下についても、ある程度はこうした事情によって説明できる。

市民」の党として出発した民主党が、98年に旧新進党勢力を吸収して急成長を始めるのは、イデオロギー政治の終わりと旧来の利益分配構造の失効に対応した事態である。民主党は、自民党政治に対する「改革」の党としての性格を強調して議席数を伸ばし、現在では自民党と肩を並べる二大政党の一方に成長している。従来、その「改革」姿勢はネオリベラルな性格を帯びていたが、旧社会党の支持基盤を摂り入れるに伴って社会民主主義への傾きが強まっている。特に06年に小沢一郎が党首に就任して以降は、格差拡大への不満や社会保障制度への不安に訴求する狙いもあり、「国民の生活が第一」のキャッチフレーズを掲げ、「生活者」の党としての性格を強めている。

ネオリベラルな改革姿勢と生活者の党であろうとすることは、矛盾ではない。既に部分的に示唆しているように、中曽根政権以降のネオリベラリズム的な改革には、産業構造や社会構造の変化に伴う従来型の利益分配政治の失効への対応としての側面がある。そして、そうした改革の受益層こそ、旧来の団体単位の利害伝達回路から疎外されてきた非組織市民であり、イデオロギーよりも福祉や教育の充実を望む「生活者」とは、彼らを指すのである。民主党が激しい官僚批判を展開し、政府の歳出削減を強調する――そして小泉以降の自民党がその姿勢に倣っている――のは、これまで自分たちの意思が政治に反映されず、納めた税金が無駄に使われてきたとの強い不満を抱えている彼らに訴求するためである。ネオリベラルな改革を志向しながら社会保障の充実を唱えるのは、市民/生活者が政治に求めるものが、イデオロギーよりもサービスであるからにほかならない。

 

他方、戦後型の利益分配政治を支えた条件が失われてきたことは、自民党にとっては多大な困難を強いるものであった。自民党は従来、大企業管理職などのホワイトカラー上層のほか、地方の農業者、都市の中小企業・自営業者などを支持基盤としてきたが、事態の変化に対応しようとしてネオリベラルな改革に転ずることは、支持基盤(低生産性部門)への保護政策を打ち切り、打撃を与えることを意味する。既に80年代末には財界からも改革要求が突き付けられていたが*9、「自らの足を食う」改革は、容易に進めることができるものではなかった(渡辺〔1998〕)。

それでも、中曽根政権以降、自民党は漸進的にせよ改革を進めようとしてきた。とりわけ明確な改革姿勢の下に政策が断行されたのは、橋本政権(1996-98)における「六大改革」(「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」)と小泉政権(2001-06)における「構造改革」である。橋本改革においては、様々な規制緩和が構想・実行されたほか*10、省庁再編による行政効率化や内閣の権限強化、経済財政諮問会議の設置などが実現された。小泉改革では、多方面での規制緩和のほか、郵政民営化をはじめとする特殊法人改革、不良債権処理、公共事業投資の削減、地方分権改革などが実施された。

一連の改革によって旧来の既得権益が一定程度まで解体されたことは確かである。しかし、それは利益分配政治が解体されたことを意味しない。現代政治は利益の分配以外では在り得ない。「利益政治」の名で嫌われたのは既得権益者であって、利益そのものではない。解体が目指されたのは「従来の利益分配構造」であって、遂行されたのは利益分配構造の再編に過ぎない。

 

利益分配構造が再編されると同時に、政治の構造も変化した。小泉政権期の郵政民営化をめぐる与党内外での攻防に象徴的に現れているように、従来型の「合意の政治」が崩壊したのである。戦後日本における「合意の政治」とは、単に自民党と社会党の国対政治のみを指すのではなく、派閥と「族」によって分化した自民党が各業界の利益を吸い上げ、党内及び省庁間での調整を経て合意を形成するボトムアップ型の政策形成過程も併せて意味している。だが、橋本政権における内閣権限の強化によって、トップダウン型の政策決定の可能性が開かれた。その可能性を強い政治力によってフルに活用したのが小泉政権である。もとより、細川政権期に「カネがかかる選挙」と「派閥の悪弊」を除くためと導入が決定された小選挙区比例代表並立制は、公認権を握る党執行部の権力を強め、派閥の拘束力を弱めていた。従来は階級政党である社会党との政権交代が有り得ないために、国民の多様な利害が自民党に寄せられ、派閥による党内疑似政権交代が行われていたのであるが、民主党の成長によってその必要性は薄れている。かくしてボトムアップ型の「合意の政治」は醜い利害調整に汲々とする「談合政治」と指弾され、華やかなリーダーシップに基づくトップダウン型の決定がポピュリスティックな賛美に浴するようになった。

また、そうした迅速で断固とした決定こそ、「効率性」の要求に適う、望ましい政治の姿であるとされている。今や、政治は下手に「民主的」であるよりも「効率的」である方が評価されるようになっている。政治哲学としてのネオリベラリズムと重なるところが大きいリバタリアニズムは、集団主義からの個人の防衛を企図して、民主的統治に懐疑的であったり、何らかの制限を設けようとしたりする傾向がある。それに対応するように、ネオリベラリズム的な改革においては、重要な決定が非民主的で閉鎖的な機関によって行われることが多い。例えば経済財政諮問会議は、ごく少数の財界人と経済学者によって構成されており、民主的正統性に乏しいにもかかわらず、小泉政権下では甚大な影響力を振るった。

とはいえ、ネオリベラルな政治が民主主義をないがしろにすることを公式に認めるわけではない。彼らはむしろ、既存の制度的枠組みが世論の実態を反映しておらず、一部の既得権益者にとって有利な非民主的システムになっているとの批判を口にする。そして、「民意」の支持をテコとして、非制度的な「民主的正統性」を標榜するのである。リバタリアニズムないしネオリベラリズムの開祖の一人と見られることが多いF.A.v.ハイエクは、自生的に生成・継承されてきた「法」(自然法)の観点から民主的統治を批判するという保守主義的立場にあったが(ハイエク〔1977〕)、現代のネオリベラリストが拠り所とするのは、第一に統治の効率性――トップダウン――であり、第二に非制度的・脱集団的な「民意」の支持――ポピュリズム――である。

 

起こったことは、つまりこういうことである。社会の個人化によって団体単位の利益分配政治がダメになった。いわば政治過程の個人化である。そこでバラバラになった諸個人の不満に応える「かのように見せる」英雄的な「リーダー」が、獲得したポピュリスティックな支持を背景に「やりたいこと」をやった。しかし、従来の利益分配構造が失効したのならば、必要なのは政治の個人化の隙を突いて「英雄」にやりたいことをやらせることではなく、諸個人の多様な利害を伝達・総合する適切な回路を新たに整備し直すことではないだろうか。現代の政治にとっての課題は、利益分配政治の破壊であるよりも、その刷新である。この基本姿勢を確認した上で、もう少し考察を進めよう。

 

「政治離れ」とサブ政治

 

近年の政治現象における顕著な特徴の一つは、無党派層の増加である。NHK放送文化研究所の調査では、自民党の支持率は、80年代初頭をピークとして、以後は低落傾向にある(NHK放送文化研究所編〔2004〕、106-107頁)。とはいえ、非自民勢力が支持率を伸ばしているわけではなく、むしろ自民同様に低落傾向を示している。拡大しているのは「支持政党なし」の割合であり、98年以降は過半数に達している。

 

f:id:kihamu:20080926004418j:image (同、107頁)

 

同じくNHK放送文化研究所の世論調査では、「私たち一般国民の意見や希望は、国の政治にどの程度反映しているか」との質問に対して、「十分反映している」「かなり反映している」「少しは反映している」「まったく反映していない」の選択肢から答えてもらっている。それぞれの答えを順に政治的有効性感覚が「強い」「やや強い」「やや弱い」「弱い」ものと見做し、グラフ化したのが下図である。世論が多いに反映されていると感じている人は減少傾向にあり、特に98年以降は世論が全く反映されていないと感じている人が急増していることが分かる。

 

f:id:kihamu:20080926004314j:image (同、78頁)

 

また、「国会議員選挙のときに、私たち一般国民が投票することは、国の政治にどの程度の影響を及ぼしていると思いますか」との問いに対して、「非常に大きな影響を及ぼしている」「かなり影響を及ぼしている」「少しは影響を及ぼしている」「まったく影響を及ぼしていない」との選択肢を示した設問では(政治的有効性感覚は順に「強い」「やや強い」「やや弱い」「弱い」)、政治的有効性感覚の減退傾向がより顕著に認められる(同、82-84頁)。それに対応するように、国政選挙の投票率も減少傾向にある。

 

f:id:kihamu:20080926004212j:image (同、84頁)

f:id:kihamu:20080926004240j:image (同、85頁)

 

重要なのは、無党派層の増加や政治的有効性感覚の低下が何を意味するのか、である。無党派層と呼ばれる人々や投票所に足を運ばない人々は、決して社会的な問題に無関心であったり、無知であったりするわけではない。無党派層は、「既成の方法による政治参加には懐疑的である」ものの、「日本への貢献意欲、社会的支援に対する意欲は多数の人がもって」おり、「社会や政治には関心がある人たちである」(同、113頁)。つまり、彼ら――私たち――は、既存の政党や政治過程に満足するところが少ないだけである。

 

また、人々が政治的有効性感覚を低下させているのは、一面では政治への失望の現れであるが、他面では政治へ期待するところの少なさを示すものでもある。それは、「中央の政治や政党の役割と、現実の市民社会が持つ課題との間に大きなズレ」が生じているからである(篠原〔2004〕、55頁)。現代においては、社会を左右する決定権限の多くが、公式の政治過程における民主的統治原理による統制を受けずに漂流している。積極的な市場取引や利潤の追求、科学技術上の課題の探求などの諸活動が、「正当性の理由づけもされないまま」、社会生活上の変化を次々に引き起こす(ベック〔1998〕、378-379頁)。社会の輪郭は、「もはや議会での話し合いや行政府の決定によって決められるのではな」く、民主的な正統化を経ていない非政治的システムが、優越的な政治的形成力を有するようになる。社会を変える決定は、「どこかわからないところから無言で匿名で下される」ようになったのだ。決定権が政治過程から社会の側に移行しているのならば、政治過程に参加することの意味や必要性が乏しいと感じられるのも当然である。つまり、政治に対する不快感や不全感は、「公権力を委ねられた政治と、社会の広範囲にわたる変化との間に不均衡が生じていることから生じたもの」である(ベック〔1998〕、380-383頁)。

このように技術や経済など元来は非政治的性格を有していた領域が社会に大きな影響力を持つようになって単に政治的でも非政治的でもない独自の性格を帯びることを、U.ベックは「サブ政治」と呼ぶ。サブ政治が拡大すれば、政治の有効性は減衰する。ただでさえ社会の個人化によって利害伝達回路の弱体化に直面している人々にとって、政治が魅力や意義を失っていくのは必然である。こうした観点からは、政治の「劇場化」や「大衆迎合」は安易に批判できない。どうせ何も決定できない政治ならば、せめてエンターテインメントとなって話題を提供するぐらいのことをしてもらわなければいけない。人々がそう考えたとしても、無理はない。また、どうせ限られた影響力しか持たない政治ならば、マスメディアを介した大衆動員が行われたところで、大したことは起きやしない*11。そうした感触は、一面の真実ではある。

 

しかし、それでも、政治が完全に影響力を失ったわけではない。政治の有効性を回復する、ないしは政治から流出した決定権限に民主的正統性を確保するためには、どうすればよいのだろうか。問いを、空虚なポピュリズムに実体を与える方策は何か、と言い換えてもよい。その答えは、新たな利害伝達回路の確立であり、市民社会内部への利害関係原理≒自己決定原理の貫徹である。私はそう考えているが、詳細については「結論と展望」で述べることにしよう。

 

消費者主権政治と自由主義の勝利

 

最後の節では、脱イデオロギー的な現代の政治を決定的に特徴付けているイデオロギーについて、歴史を辿りながら論じてみたい。そのイデオロギーとは広く言えば自由主義であり、やや狭く言えば「消費者主義」である。そのイデオロギーの浸透に従って台頭する政治イシューは「生活政治」であり、生活政治をめぐる争いが展開される政治空間の性格を一言で言うならば「消費者主権政治」である。

1962年に米国のJ.F.ケネディ大統領が宣言した消費者の4つの権利、すなわち(1)安全を求める権利、(2)知らされる権利、(3)選ぶ権利、(4)意見が聞き届けられる権利は、そのまま現代の有権者が政府や政治家に対して主張することができる権利と見做しているものに一致する*12。人々は、タックスペイヤーとして官僚の無駄遣いに激しく憤る一方で、公共サービスの受益者として厳しい要求を突き付ける*13。政府は小さく、効率的でなければならないが、同時に充実した社会保障を国民に提供しなければならない。国家は国民の安全と健康にきめ細かく配慮するべきであり、リスクに対しては迅速かつ的確な処置を施し、必要な情報を直ちに公開しなければならない。政治家には広報とプレゼンが求められ、庶民の目線で「わかりやすく」語り、世論に耳を傾けなければならない。官僚や政治家は常に潔癖かつオープンでなくてはならず、国民が統治に参加可能な範囲は大きければ大きいほどよい。こうした国民=消費者の要求――誰も反対できないように思えるそれ――が基礎付けられているのは、ネオリベラリズムと言うよりも、非イデオロギー的な何かである*14

自由主義という長くて広い文脈をひとまず棚上げにすれば、現代政治を規定しているこの脱イデオロギー的なイデオロギーは、戦後の政治/運動史上、新左翼、「構造改革論」、革新自治、「新しい社会運動」、ネオリベラリズムなどと関係付けることができる。以下、順に述べていくことにしよう。

 

占領軍を解放軍と位置付けていた日本共産党は、コミンフォルムによる批判を受けて51年から武装闘争方針に転じたが、党内抗争を経た55年7月の第六回全国協議会で「極左冒険主義」との決別を宣言し、武力革命路線を捨て去った。二転三転する方針に、党への不信は強まっていた。56年2月にフルシチョフによるスターリン批判が報じられ、同年10月のハンガリー事件が知られると、中央集権的な党への反感は増幅され、学生革命家の分裂が引き起こされる。全学連における日共中央派と反中央派の対立を契機として、58年に共産主義者同盟(ブント)が結成され、次第に全学連の主導権を握るようになっていく。ブントは安保闘争における華々しい活動の後、闘争の総括をめぐって四分五裂していくが、既成の革新政党と激しく対立した彼らは、日本における新左翼の第一世代に位置付けられる。

50年代末以降に新左翼が形成された背景は、第一に先進資本主義諸国におけるフォーディズム=福祉国家体制の樹立によって失業や貧困からの大規模な解放が実現し、「豊かな社会」が誕生したことであり、第二には政治的抑圧に基づく社会主義国家が同様の豊かさを実現できていないことであった。飢餓や失業の不安から解放された若者が、「豊かな社会」における既得権益を維持することに汲々とする労働運動や革新政党の現実主義・物質主義に苛立つというアイロニカルな構図がそこにはあった(大嶽〔2007〕、13-14頁)。また、スターリン批判とハンガリー事件を経て既成左翼の集権主義への反発が強まり、社会主義国家と福祉国家を官僚制支配による管理社会と総括して批判を加え、広範な自治・参加・自己管理を目指す考え方が台頭した(大嶽〔2007〕、15頁)。反スターリニズム、管理社会批判、福祉国家批判、官僚制批判。これらの点で、新左翼は後に台頭するネオリベラリズムとの共通基盤を持っていた。新左翼が、「ネオ・リベラリズムが新左翼による既成左翼批判、福祉国家批判を換骨奪胎して、自らのイデオロギー的主導権を確立する」ことを通じて、「一九世紀から二〇世紀前半までのいわゆる(旧)左翼運動の伝統に致命的な打撃を与え、長期的には一九七〇年代以降のネオ・リベラリズムによる保守勢力の復権に貢献するという皮肉な役割を演ずることになった」と評される所以である(大嶽〔2007〕、25頁)*15

68年には、東大医学部の紛争に端を発して、大学紛争/闘争が勃発。各大学で全共闘が結成され、6月には東大安田講堂が学生に占拠された。翌69年1月には安田講堂の封鎖は解除されたが、運動そのものは拡大し、全国の大学で全共闘が結成されていった。しかし、時代は既に移り変わっていた。70年の3~9月には大阪万博が消費文化の爛熟を知らしめ、同年6月の安保条約自動延長は、安保闘争の再来を期待していた運動家の思惑をあっさりと打ち砕いた。乱立する党派は全国の全共闘を草刈り場として延命を図ろうとする。中核派・革マル・解放派を中心とする内ゲバが始まるのも、この頃である。やがて72年2月の連合赤軍によるあさま山荘事件が起こり、革命運動の袋小路が誰の目にも明らかになった。80年代には内ゲバの激化によって混迷の度が深まり、新左翼そのものは死んだ。しかし、その「遺産」は現代に引き継がれている。

欧米の先進資本主義諸国では、60年代後半から、人種・マイノリティ・ジェンダー・平和・環境・消費者など、経済的利害に限られない争点をめぐって、「新しい社会運動」が巻き起こる。その新しさは、新左翼と共通する脱物質主義と脱中心的なネットワーク型組織、そして運動の主体が階級や労働者ではない「市民」であることだった。日本では、運動内部の批判の展開により、70年前後に部落差別や民族差別、ジェンダーなどのマイノリティ闘争へのシフトが起こったが*16、「新しい社会運動」のさきがけとして知られているのは65年4月に、小田実や開高健らが発足させた「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)である。

安保闘争までは、大衆運動にせよ、知識人の先導的役割が大きかった。党の権威が失墜した後の全共闘では、脱中心性が強調された。ベ平連になると、市民が主役であることが強調され、個人単位の運動形態を採るようになる。ここで言う「市民」とは、「誰かに言われたからやるのではなく、自分で判断し、自発的に行動を選びとっていく」主体であり、自己決定と自己責任の主体である――「誰にでも開かれていて出入り自由、重視されるのは個人の自発性と創意、だからこそ、個人の責任は重い」(天野〔1996〕、176頁)。ベ平連においては、従来型のイデオロギーや党派からの自由と、自身の生活との連続性が強調されていた。無党派・脱イデオロギーの生活政治においては、運動主体は私的利害を優先しつつも、「ささやかな思い入れ」によって自発的に運動へと参加する(天野〔1996〕、182頁)。いわば「文化としての運動」であり、「心がけ」が重視される点では現代のロハスやスピリチュアルブームと共通する部分が大きい*17

ベ平連と並行して拡大した革新自治においても、その理論的支柱は松下圭一の「シビル・ミニマム」論であり、当時の政策課題としては自治と参加、環境、福祉への取り組みが強調されていた*18

また、「構造改革論」を掲げて社会党の刷新を目指した江田は、党内抗争に敗れた後、大量生産大量消費社会の物質主義と人間疎外への批判という新左翼に通ずる問題意識に基づき、市民運動へと接近していく(原〔2000〕、192-195頁)。何よりも生活水準の向上に関心を払う現実の市民の「生活者」としての意識を重視する江田は、党の指導よりも「政治を職業としないアマチュアの新鮮な活動」の主体性を尊重し、党の役割は国民の生活実感に基づく政策を形成して議会で実現していくことにこそ見出すべきであると説くようになる。既成の党体制の権威性を問題視し、現実主義的認識に基づく国民政党への刷新を目指した江田にとって、新左翼と新しい社会運動、ひいては現代の消費者主権政治にも繋がる「生活」重視路線へと踏み出すことは、極めて自然な成り行きだっただろう。

江田は77年3月に離党し、菅直人らと社会市民連合を結成した直後、同年5月に急逝した。社会市民連合は翌78年に社会民主連合に再編され、その中心であった菅はやがて鳩山由紀夫と民主党を結成して、「生活第一」を掲げて小泉政権と改革姿勢を競うことになる。こうして新左翼から革新自治、構造改革論、新しい社会運動、ポストモダニズム、ネオリベラリズム(小泉「構造改革」)、現代の生活政治までが、一本の近似線によって結び付けられる*19

 

生活政治は、環境問題に見られるように、サブ政治との重なりも大きい。社会運動やNPOなどの市民活動が盛り上がるのは、政治の機能不全や政治によっては対応できないイシューへの対応が必要とされているからでもある。大文字の党では対処できない「小さな政治」が各所で採り上げられ、環境やジェンダーなどの誰も反対できないイシューをめぐって政治の無能が嘆かれる。硬直的な官僚制への批判は高まり、いかに統治を国民の手に引き寄せるかが切実な問題として語られるようになる*20

消費者主権政治は、代表原理よりも代理原理を支持し、直接制への接近を帰結する。77年に生活クラブが提案し、79年の東京都練馬区議選から開始された「代理人」運動は、16年間で9都道府県で117人の「代理人」を地方議会へ送り出した(天野〔1996〕、204頁)。この運動は、政治を「市民が自らの生活を守る生活用具として」、議員を「地域で市民として暮らすために使いこなされるべき一つの生活用具」として捉えることからも明らかなように、代表原理への明確な懐疑に基づいている(同、204-208頁)。積極的な政治参加を志向するこの姿勢は近代的政治主体の完成であるように見えるが、「素性確かな消費財の共同購入」から「素性確かな議員の共同購入」へと踏み出したその姿勢には、人民主権原理に基づく市民=公民(シトワイヤン)よりも、タックスペイヤー意識――納税者主権――に基づく市民=私民の性格が色濃い。

かつてJ.シュンペーターは、大衆が統治するエリートを市場でモノを物色するように選び出すことによって、統治の正統性と(政治参加の過剰の防圧による)安定性を確保するシステムこそが代議民主政であると捉えた。今では同じように政治を市場のアナロジーで捉えながら、大衆=消費者が政治=市場へと直接に参与していく理論的回路が登場したのである。つまり、勝利したのは公民的共和主義ではない。しかし、自由民主主義が勝利したわけでもない。自由民主主義が価値を見出していた統治の安定性は今や危機にさらされているのだから――ポピュリズム*21

 

さて、Z.バウマンは、消費社会/消費者の原理があらゆる領域に浸透していく現代社会の傾向を、次のように言い表している。すなわち、「可能性の陳列棚をみわたし、展示品の感触を確かめ、手で触れ、手でつかんで品物を調べ、財布の中身、あるいは、クレジットカード限度額と商品の値段をくらべ、あるものは買い物カートのなかにいれ、あるものは棚にもどすことが「買い物」であったとすれば」、「われわれは外でも家のなかでも、働いているときも休んでいるときも、寝ているときも起きているときも買い物をしている」。「われわれがしていることはすべて、その行為につけられた名前が何であれ、一種の買い物、あるいは、買い物に似たかたちの行動である」(バウマン〔2001〕、95-96頁)。

人々は、あらゆる領域のあらゆる行動/選択を、消費行動/選択のアナロジーで捉えるようになる。労働然り、宗教然り、教育然り、恋愛・結婚然り、政治然り。このような「消費者社会」(総消費社会)では、選択主体=「顧客」としての自己の意思と権利を最大限に尊重することを求める消費者主権主義に加えて、多様な選択肢=価値の乱立を自然な前提として受け入れる価値多元主義が基調を成す(岡本〔2006〕、35&38-39頁)。

NHK放送文化研究所が実施している世論調査の結果の分析によれば、73年から03年までの30年間に、「他者に配慮した意識が増加」し*22、「他者を認めない一方的な意識が減少」した結果*23、「個人の考え方を尊重する意識」、「他者を尊重する意識」への画一化傾向が進展したとされる(NHK放送文化研究所編〔2004〕、222-225頁)。これは一面では異なる考え方を尊重し、多様性を承認し、他者の生活に干渉しない寛容な態度が醸成されたということになるであろうし、他面では「自分は自分、他人は他人」と割り切った相対主義が浸透し、他者への無関心が拡大したと言うこともできるだろう――「カラスの勝手主義」(岡本〔2006〕、166頁)。

以上から、「序論」で採り上げた東浩紀の議論、すなわち物語の共有化圧力が低下したとの主張は、ある程度裏付けられたと考えてよいだろう。「大きな物語」は失墜した。しかし、それは他者への寛容という自由主義的命題の勝利でもある。もとより、消費者主権の基底たる自己決定そのものが、自由主義の所産であった。自由主義は、経済面に限らず、生命の保全や思想の自由、国家の中立化や法治主義、男女共同参画や子どもの権利、共同体の拘束からの解放、プライバシーや個人情報のコントロール、自己決定の物質的基礎の保障など、全面的な勝利を収めた*24。おかげで私たちは自由になり、豊かになった。現状を過去と比較して、肯定的な要素の方が多いことは争う余地が無い。必要とされる作業は、評価すべきことは評価した上で、現代に固有の課題への対応を検討することである。

 

  • 参考文献
    • 荒岱介〔2008〕『新左翼とは何だったのか』幻冬舎(幻冬舎新書)
    • 天野正子〔1996〕『「生活者」とは誰か 自律的市民像の系譜』中央公論新社(中公新書)
    • 石川真澄〔2004〕『戦後政治史』新版、岩波書店(岩波新書)
    • 岩田規久男〔2006〕『「小さな政府」を問いなおす』筑摩書房(ちくま新書)
    • NHK放送文化研究所編〔2004〕『現代日本人の意識構造』第6版、日本放送出版協会(NHKブックス)
    • 大嶽秀夫〔1999〕『日本政治の対立軸』中央公論新社(中公新書)
    • 大嶽秀夫〔2007〕『新左翼の遺産 ニューレフトからポストモダンへ』東京大学出版会
    • 岡本裕一朗〔2006〕『モノ・サピエンス 物質化・画一化していく人類』光文社(光文社新書)
    • 小阪修平〔2006〕『思想としての全共闘世代』筑摩書房(ちくま新書)
    • 塩田潮〔2007〕『民主党の研究』平凡社(平凡社新書)
    • 仲正昌樹〔2006〕『集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』日本放送出版協会(NHKブックス)
    • 中村政則〔2005〕『戦後史』岩波書店(岩波新書)
    • デヴィッド・ハーヴェイ〔2007〕『新自由主義』渡辺治監訳、作品社
    • F.A.ハイエク〔1977〕『新自由主義とは何か』東京新聞出版局
    • ジークムント・バウマン〔2001〕『リキッド・モダニティ 液状化する社会』森田典正訳、大月書店
    • 原彬久〔2000〕『戦後史のなかの日本社会党 その理想主義とは何であったのか』中央公論新社(中公新書)
    • ウルリヒ・ベック〔1998〕『危険社会』東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局
    • 星浩〔2005〕『自民党と戦後』講談社(講談社現代新書)
    • 渡辺治〔1998〕『日本とはどういう国か どこへ向かって行くのか』教育史料出版会
    • 渡辺治〔2003〕『政治史』2003年度一橋大学社会学部講義
    • 和田仁孝〔2004〕「「個人化」と法システムのゆらぎ」『社会学評論』第54巻第4号

*1:「国民‐主権」の意味については、「法外なものごと」などを参照。

*2:外交・防衛政策では、革新政党をはじめとする「平和勢力」の強い抵抗によって、与党は憲法改正の封印と再軍備への一定の制約を余儀なくされた。その例として挙げられるのは、67年に佐藤首相が武器輸出の相手国を制限する旨を答弁したこと(武器輸出三原則)、71年に非核三原則が国会決議されたこと、76年に国防費をGNP比1%の枠内に制限することが閣議決定されたこと、などである。

*3:「経済」の項を参照。

*4:「共同体/市民社会」の項を参照。

*5:革新自治の問題点としては、労組に妥協的であったために公務員の汚職や放漫財政の横行を許し、非能率な官僚組織を温存したことと、いわゆる「バラマキ」政策によって財政難の悪化をもたらしたことなどが挙げられている。

*6:中曽根が同時に目指したのは、憲法改正による小国主義からの脱却であり、中曽根流「戦後政治の総決算」は、「吉田=池田レジーム」からの脱却を意味していた。

*7:97年の「日米防衛協力のための指針」の改定による「日米安保の再定義」。新ガイドラインの方向性を具現化するべく、99年5月に周辺事態法が、2003年6月に武力攻撃事態対処法が、04年6月に有事関連7法が、それぞれ立法された。憲法改正の可能性も大きくなっており、07年5月に国民投票法が成立した。

*8:この選挙での社会党は女性候補を多数当選させており、従来の支持基盤である労組よりも、市民派の支持が大きな影響を及ぼしたことがうかがえる。

*9:企業社会統合と開発主義的企業優遇政治によって70~80年代を乗り切った日本だが、80年代末以降のグローバル化の進展に伴って一国経済を前提にした政治介入が失効。多国籍化する大企業は規制緩和を求めるようになり、政治もそれに応えようとした。

*10:橋本内閣期に設置された行政改革委員会の規制緩和小委員会が提言した規制緩和の内、株式売買委託手数料の自由化、銀行の投資信託の窓口販売、損害保険料率の自由化、運輸分野での需給調整の廃止、持ち株会社とストック・オプションの原則解禁、有料職業紹介の対象業種と労働者派遣業務の原則自由化による労働市場の流動化支援、大店法の廃止、定期借家権の創設による借家市場の拡大、大都市での容積率規制の緩和などが実現した。

*11:せいぜい教育基本法が改正されるとか、憲法が改正されるなどといった程度のことでしかないだろう――それで生活に何の影響があると言うのか?

*12:なお、日本では1968年に消費者保護基本法が制定され、70年からは国民生活センターが設置された。2008年には、消費者行政を一元化する消費者庁構想が具体的な議論に上っている。

*13:「顧客」は、コストに応じたベネフィットを求め、ベネフィットに見合うだけのコストしか負担しようとはしない。消費者のスローガンはいつでも、「より安く、より良いものを」である。

*14:誰も反対できない揚句に、誰も望んでいない裁判員制度が国民参加の掛け声の下に導入されたりする。

*15:ハーヴェイ〔2007〕、62-64頁も参照。

*16:70年代には、ウーマンリブを嚆矢として、私的領域・個人領域の政治化も推進された。

*17:新左翼から市民運動、そしてロハスまでの流れは、物質主義に足場を置きながら脱物質主義を志向することに自覚的になっていく歴史であるのかもしれない(「スピリチュアル/アイデンティティ」を参照)。

*18:松下圭一『シビル・ミニマムの思想』の出版は71年。

*19:「親密圏/人権」の項で述べたように、近代化のプロジェクトは前近代的な環境への依存によって成り立つ部分が大きく、中間集団や親密圏における暴力性への公権力の応答を意識的に断絶することによって維持されてきたが(和田〔2004〕)、近代化を推進する担い手は、必ずしもそのことに自覚的でない。日本の近代主義者たちは、そうした近代化プロジェクトの限定性を正しく認識せず、「近代的社会制度の確立によって社会権力による抑圧は解消される」との前提に寄りかかっていたために、大学や学校、病院や家庭に巣くう近代的な権力構造を視野の外に置いてしまった(大嶽〔2007〕、2頁)。70年代後半から80年代前半、ネオ・リベラリズムが「新左翼の議論を逆手にとって左派リベラリズムに厳しい批判を浴びせた時期」に、これと呼応するような形でポストモダンの議論が登場し、「両者が相まって、「丸刈り強制の反対」「学校選択の自由」「内申書の開示」「(臨教審的)大学改革」「インフォームド・コンセント」「カルテの開示」「医療過誤の法的追及」といった主張に理論的根拠を与えた」。「新左翼とネオ・リベラリズムとの双方から挟み撃ちされ」、「日本のリベラル左派たる近代主義」≒「戦後民主主義」は死んだのである(大嶽〔2007〕、9頁)。

*20:「現代国家とポピュリズム」も参照。

*21:この点は、国家役割についての自由主義的命題――法の形式的安定性――が「社会正義」の前に屈伏しつつある事態とパラレルであろう(「セキュリティ/リスク」を参照)。なお、ポピュリズムについては「ネーション/国家」の項で詳述する。

*22:具体的には、「生活の物質面での満足感、生活目標は〈身近な人たちとなごやか〉に、近所の人間関係は〈部分的つき合い〉、夫の家事手伝いは〈当然〉、政治的有効性感覚「デモなど」は〈弱い〉、支持政党は〈自民党〉から〈支持政党なし〉に変わり、職場での闘争は〈静観〉、憲法知識では〈人間らしい暮らし〉、外国から見習うべきことが多い、日本は一流ではない」など。

*23:具体的には、「職場での〈全面的つき合い〉の減少、名字は〈当然夫の姓〉が後退、婚前交渉は〈不可〉の後退、日本のために役に立ちたい〈そう思う〉の減少、他国への優越感の減少」など。

*24:「親密圏/人権」の項でも同様のことを述べたが、一方で自由民主主義や自由主義的国家観が退場しつつあると述べながら、他方で自由主義の全面的勝利を判定するのは、矛盾に見えるかもしれない。しかし、私見では自由主義は勝利することによって変質し、変質することによって勝利してきたのであり、直近の勝利も、決して自由主義の核――「自律」の実現――から逸脱するものではない。むしろ、それは根本的な自由主義の教義に最も適うものであり、それゆえにこそ全面的な「勝利」と呼ぶにふさわしいのである。この点に関しては詳しい議論の展開を必要とするだろう。可能ならばシリーズの結論部で触れたいが、それが叶わずとも、近い未来の内には関連するまとまった文章を書く機会があるだろう。

現代日本社会研究のための覚え書き――セキュリティ/リスク(第2版)

 

1.治安悪化言説の浸透と治安実態

 

現在の日本では、社会全体の治安が悪化しているとの認識が一般的になっている。2006年の世論調査では、最近10年間で日本の治安が「悪くなったと思う」人が約84%を占め、11%余りの「よくなったと思う」人を圧倒している(内閣府〔2006a〕、図2)。少なくとも1980年代のある時期まで、世界一の優秀さを誇る警察によって世界一良好な治安が保たれた国家こそが日本であるとの「安全神話」に疑いを差し挟む者は存在しなかった。社会全体の治安が悪化しているとの認識が人々の間に浸透したのは、概ね90年代半ば以降であると思われる。95年の地下鉄サリン事件を契機として、政府は警察官の増員計画を決定(久保〔2006〕、221頁)。以降、財政再建の名の下に公務員総数が減少する中、警察官だけは増加を続けてきた(下図)。地方の警察職総数は、85年から06年までの間に約3万3千人増員されている(総務省統計研修所〔2008〕、第24章*1

 

f:id:kihamu:20080826003442j:image (久保〔2006〕、220頁)

 

90年代末には凶悪な犯罪が連日センセーショナルに報道されるようになり、2000年代に入る頃には治安問題が本格的に政治イシュー化する。03年8月、警察庁は「緊急治安対策プログラム」を発表。翌月には政府が犯罪対策閣僚会議を組織し、同年12月に「犯罪に強い社会の実現のための行動計画」(以下、「行動計画」)を策定している。それに先立つ同年11月の総選挙では、自民党の公約の第二に「国民の安全を守ります」との宣言が掲げられ、5年間で「治安の危機的状況を脱し」、「不法滞在外国人を半減」すること、「警察官の数を思い切って増員」して「3年で空き交番ゼロ」を目指すことがうたわれた(「小泉改革宣言 自民党政権公約2003」@自民党)。同じく民主党も「犯罪に厳しく対処し、安全な地域を取り戻します」と宣言し、警察官3万人の増員、仮釈放のない終身刑の導入、凶悪犯罪の罰則強化を公約しており(「マニフェスト 2003」@民主党)、公明党も空き交番ゼロ、地域パトロールの強化、外国人犯罪対策の強化などを掲げていた(「マニフェスト進捗」@公明党)。

 

人々の不安を裏付けるように、統計上、犯罪は増加している(下図)。刑法犯の認知件数は1970年代後半から徐々に増加していたが、1996年から2002年にかけて、7年連続で戦後最多記録を更新し続けた。2003年以降はやや減少し、2006年は約205万件であったが、これは依然として1970年代前半までの水準の1.5倍を超える数である。また、検挙率は1980年代末から急激に下降し、従来は60%前後で推移していたのが、2001年には19.8%まで落ち込み、戦後最低を記録した。その後は上昇に転じ、2006年には31.2%まで回復したが、過去の水準には遠く及ばないものとなっている。

 

f:id:kihamu:20080826050711p:image (警察庁〔2007a〕、第1章第1節1

f:id:kihamu:20080826050712j:image (法務省〔2007〕)

 

しかしながら、統計資料を詳しく検討していくと、日本の治安が本当に昔と比べてかなり悪化しているのかどうかについては疑問の余地が大きく、一般に流通している治安悪化言説のほとんどは否定せざるを得ないものであることが分かる。まず、そのことを示しておこう。

 

1-1.犯罪数の増加

 

認知件数の推移を見る限りでは、現代の治安は終戦直後の混乱期よりも悪いように思えてしまうが、それは錯覚に過ぎない。終戦直後には警察力が十分でなかったため比較的軽微な事件は見逃されており、主に重大犯罪が記録されているだけで、暗数が膨大にあったと考えられるからである(河合〔2004〕、30頁)。したがって、高度成長によって経済状況の改善と雇用の安定などが実現される60年代には統計上の犯罪件数が減少しているが、犯罪実数においてはより一層顕著な幅で犯罪減少が進行したはずである。いわゆる「安全神話」が形成されたのは、こうした環境による。その後、70年前後には交通関係業過の増大によって認知件数が伸びを見せるが、一般刑法犯の認知件数は低い水準を保ったままである(河合〔2004〕、29頁)。80年代に入る頃になって一般刑法犯の認知件数が増加を始めるのは、窃盗の増加、とりわけ自転車盗の増加によるものである。これは、80年に自転車防犯登録制度がつくられた結果として自転車盗の被害を警察に届ける人が増えたことの影響が大きく、実数増加と言うよりも暗数の顕在化が主因である(河合〔2004〕、31-33頁)。自転車盗を除いて一般刑法犯の発生率*2を算出すると、80年代の犯罪増加傾向は消滅することがそれを証している(下図)。

 

f:id:kihamu:20080826003501j:image (河合〔2004〕、32頁)

 

すなわち、ひとまず90年代前半頃まで、犯罪実数は一貫して減少を続け、客観的な治安が改善の一途を辿っていたことに関しては、ほぼ疑い得ない。強盗を除けば、90年代半ばまでの主要犯罪の発生率は軒並み減少傾向であった(河合〔2004〕、41-43頁)*3

 

f:id:kihamu:20081012202903j:image (河合〔2004〕、42頁)

f:id:kihamu:20081012204156j:image (同、43頁)

 

97年頃から微増傾向となっているのは、おもに強盗の急増によるものであるが(後述)、それ以外の犯罪もわずかながら増加していることと併せて考えると、経済状況の悪化がもたらす影響が大きかったものと思われる。90年代後半以降の刑法犯認知件数の増減と失業率の上下は概ね対応していることが指摘されており(門倉・賃金クライシス取材班〔2008〕、147-149頁)、90年代後半から00年代初頭にかけて犯罪実数がわずかに増加したと認めるとしても、その原因は経済状況に求めるべきである。少なくとも、「治安悪化の原因」として世論調査で(景気の悪化よりも)上位に挙げられている外国人犯罪の増加、地域の連帯意識の希薄化、青少年の教育の不十分、多様な情報の氾濫と入手の容易化、規範意識の低下、などが犯罪増加をもたらしていると考えるべき根拠は乏しい(内閣府〔2006a〕、図3)。

 

f:id:kihamu:20080830223638j:image (門倉・賃金クライシス取材班〔2008〕、149頁)

 

その後、00年に認知件数が軒並みジャンプしているのは、警察の方針転換によるものであることが、複数の論者によって指摘されている(河合〔2004〕、42-44頁、谷岡〔2004〕、190頁、浜井・芹沢〔2006〕、24-27頁)。1999年10月の桶川ストーカー事件において適切な対応を取らなかったとして世論の批判にさらされた警察は*4、それを機に、市民からの困りごとへの相談体制を強化したり、市民が犯罪被害を警察に相談するように積極的に働きかけたりするようになった。方針転換の現れは、99年以後に警察への生活相談件数が激増していることから見て取れる(下図)。

 

f:id:kihamu:20080826003458p:image (警察庁〔2007a〕、第1章第3節3

 

警察が犯罪被害を積極的に発掘する方針に転換したことにより、従来行われていた「前さばき」(証拠不十分などで逮捕が困難と見られる事件の届け出を最初から受理しないこと)が撤廃され、軽微な事件が数多く届けられる/受理されるようになった。一般刑法犯の認知件数の8割程度は窃盗が占めているため、窃盗事件の増減によって認知件数全体の増減や検挙率の上下も左右される。近年の認知件数の増加に寄与しているのも窃盗の増加であるが、これは従来は届け出/受理されなかったような事件の増加によるところが大きい。

また、90年代末以降に顕著な急増を見せている犯罪として、「その他の犯罪」に分類される強制わいせつと器物損壊が挙げられる。まず強制わいせつに関しては、96年の「被害者要綱」策定に伴い、警察は既に積極的な犯罪被害の掘り起こしに取り組み始めていた(浜井・芹沢〔2006〕、30-31頁)。さらに、痴漢撲滅キャンペーンやストーカー防止法の制定などによる影響もあったと思われる。そこに市民相談の拡大による被害届受理の増加が重なり、急激な伸びに繋がったのだろう。

 

f:id:kihamu:20080826003457j:image (河合〔2004〕、40頁)

 

もう一方の器物損壊を押し上げているのは、「朝、駐車場にいったらフロントガラスが割られていたという類の事件」や落書きなどの検挙困難な事件であるとされる(河合〔2004〕、39頁)。従来は受理されることの少なかった犯罪であり、「前さばき」を取りやめたことによる影響が現れていると考えられる。また、こうした軽微な犯罪の届け出が増えていることの背景には、応報感情・処罰感情が強まっていることが考えられるとの指摘もある(久保〔2006〕、50-51頁)。さらに、窃盗と共通の背景として、保険制度の発達が被害の届け出を促し、認知件数を押し上げているとの指摘もある(谷岡〔2004〕、190-191頁、河合〔2004〕、39-41頁)。

 

窃盗犯が93年から02年までの一般刑法犯認知件数の増加に占める割合は75.4%であり、「その他の刑法犯」が19.4%である(角田〔2005〕、237頁)。したがって、近年の認知件数増加の大半はこの二つの罪種の増加による。いずれの罪種も「前さばき」廃止の影響をかなり受けているため、90年代末から認知件数が急上昇したのは、総じて今まで暗数であったものが警察の方針転換によって「発掘された」結果であり、社会全体での事件の発生数そのものが大きく変化しているわけではないと言える。

 

1-2.検挙率の低下

 

国際的に見て良好な治安を保っていた日本の警察は、70年代後半には欧米からも注目を浴びることになる*5。自信を深めた警察は、地域社会の中に積極的に介入していく独自の行政警察路線を強化していく(渡辺〔2004-05〕)。

しかし、80年代に入ると、黒田清率いる読売新聞社会部による大阪府警察官汚職事件の追及や、グリコ森永事件などの重大事件を解決できなかったことなどから、警察の権威は失墜し始めていた。また、検挙率上昇のために各県警が競って犯罪統計を改作している――「前さばき」等――事実も明らかとなり、警察に対する国民の信頼は揺らいだ(渡辺〔2004-05〕)。国民の信頼を回復すべく、88年に就任した金澤昭雄警察庁長官は、自転車盗のような「被害者意識が希薄で軽微な事案」に労力を割いて検挙実績を積み上げるよりも、市民が不安を感じるような重大犯罪の解決に捜査力を振り向けるように指示した(久保〔2006〕、45-46頁、浜井・芹沢〔2006〕、33-34頁)。80年代末の検挙件数・検挙人員の急落がこうした方針転換によるものであることには、合意がある(角田〔2005〕、227-228、230-231頁)。

検挙率は93年に一旦上昇するが、これは92年に就任した城内康光警察庁長官が検挙率向上への取り組みを強化した影響があると考えられる(角田〔2005〕、233頁)。この時期には検挙件数が上昇しているものの検挙人員は横ばいのままであり、余罪の追及を厳しく行うことで検挙率を引き上げたことがうかがわれる。

 

90年代後半になると、検挙率は再び大きく低下する。この時期の低下については、二段階の説明を必要とする。まず99年以前については、検挙件数も検挙人員も減少していないことから、認知件数の増加によるものだと考えられる(河合〔2004〕、78-80頁)*6。次に検挙件数のみが低下している99年以降については、前述のように警察が市民相談の拡充や犯罪被害の発掘に力を入れるようになったために認知件数が急増したことと、増大する市民相談を通じて対応せざるを得なくなった民事的性格の強いトラブルに人員を割くために人手が足りず、余罪の追及が十分に行えなくなったことによると考えられる(浜井・芹沢〔2006〕、28-30頁)*7

 

前述のように一般刑法犯に占める窃盗の割合は極めて高いため、一般刑法犯における検挙率の低下も、窃盗犯の検挙率低下を反映したものとなる(河合〔2004〕、76頁)。窃盗事件の検挙件数と検挙人員を見ると、件数は低下しているものの、人員は変わっていない。ここから、検挙されなくなった事件の大半が、既に逮捕されている犯人による余罪であることがうかがえる(浜井・芹沢〔2006〕、32-33頁)。

 

f:id:kihamu:20080826050713j:image (浜井・芹沢〔2006〕、33頁)

 

また、殺人事件については認知件数・検挙件数・検挙率のいずれも横ばいが続いている(下図)。比較的に捜査人員を削減されにくいと思われる重大犯罪ほど変化が見られないことからも、近年の検挙件数の増減は、余罪の追及がどの程度行われるかによって左右されている部分が大きいことが分かる。

 

f:id:kihamu:20080826050714j:image (浜井〔2008〕、113頁)

 

以上から総合的に判断すれば、警察の捜査能力・検挙能力に落ち込みが見られるとは考えられない(河合〔2004〕、81頁、浜井・芹沢〔2006〕、34頁)。

 

1-3.凶悪化

 

犯罪の実数が増えておらず、警察の捜査能力も低下していないとしても、犯罪が凶悪化していることは否定できないのではないか。最近の犯罪の傾向として「残酷になっている」点を挙げている6割以上の人は、こう考えるだろう(内閣府〔2006a〕、図7)。以下で否定する。

 

警察が「凶悪犯罪」としてカウントしているのは殺人・強盗・強姦・放火だが(警察庁〔2007a〕、第1章第1節2)、放火は社会状況の変化を反映する性質が希薄であるためか、年ごとにばらつきが大きく、長期的な増減傾向を読み取ることができないため、ここでは取り扱わないことにする。

 

まず殺人は、50年代前半をピークとしてその後一貫して減少を続け、90年代にはピーク時の3分の1以下にまで減少した。90年代後半からごくわずかに増加しつつあるが、極めて低水準にあることは変わらない(下図)。

 

f:id:kihamu:20080830014714j:image (河合〔2004〕、34頁)

 

次に強姦は、40年代末に急増して後、売春防止法が施行された58年に再び急増している。60年代前半をピークとして減少傾向を明らかにし、90年代半ばにはピーク時の3分の1以下にまで減少した(同、35-37頁)。

 

f:id:kihamu:20080826003455j:image(同、36頁)

 

最後に最も重要な強盗を扱う。強盗は経済状況の改善とともに減り続けており、90年から増加傾向に転じた後、97年以降に急増している。90年からの増加傾向はバブル崩壊に伴う経済状況の悪化によるものと思われる。強盗致死、強盗致傷事件ともに97年から急増しており、やはり経済状況の一層の悪化が影響していると思われる(同、60-63頁)。

 

f:id:kihamu:20080826003454j:image (同、34頁)

f:id:kihamu:20080826003452j:image (同、61頁)

f:id:kihamu:20080826003453j:image (同、63頁)

 

80年代末に強盗致死事件が低下していることを見ても、経済状況の影響が大きいことが推測される。強盗致死は死亡者が存在するため暗数がほとんど存在しないし(同、62頁)、また強盗致傷に関しても「前さばき」の影響は限定的であるとされており(同、67頁)、元々金銭目的の犯罪であるだけに、社会構造や経済状況の変化を反映し易いものと思われる。

 

f:id:kihamu:20080826003451j:image (同、65頁)

 

強盗事件の内、少年の検挙人員は97年に急増した後横ばいになっているのに対して、成人の検挙人員は97年から98年にかけて比較的緩やかに継続的に増加している。ここから、少年については警察の取り締まり姿勢が、成人については経済状況の影響が大きいことが推察される。後述するように、97年には警察が少年非行に対して厳正な姿勢で臨む方針を打ち出している。近年になって「荒っぽいひったくり」が強盗に分類されるようになっていることが指摘されているが(同、64頁)、これは少年への厳罰姿勢と無関係でないと思われる(同、66頁)。成人については、92~93年にも継続的な増加を経験しており、経済状況の悪化時期と検挙人員の伸びる時期が重なっている*8

凶悪犯罪とは規定されていないが、暴力的な犯罪である「粗暴犯」の内、傷害、暴行、恐喝、脅迫の発生率の推移は以下のようである(下図)。いずれも50年代末から60年代初頭をピークとして、高度経済成長期を通じて減少。90年代にはピーク時の概ね4分の1から5分の1に減少している。00年に一斉にジャンプし、増加傾向に転じているが、これは前述の警察の方針転換による「前さばき」廃止の結果である。

 

f:id:kihamu:20080826003450j:image (河合〔2004〕、43頁)

 

以上、全体として凶悪な犯罪が増えているとは言えない。強盗はやや増加しているが、増加分の中身は「荒っぽいひったくり」のような比較的「凶悪性」が低いものを多数含んでいると思われるし、増加の理由としては経済状況の悪化が最も大きいと思われることから、人格的に凶悪な犯罪者が増加しているとは考えられない。凶悪化については、「凶悪犯罪」の増加という量的側面よりも、個々の犯罪が「悪質化」しているという質的側面を重視するべきであるとの見解が示されることがあるけれども、「悪質化」をどのような方法で立証することができるのかは明らかでない。

 

1-4.少年犯罪の増加・凶悪化・低年齢化

 

97年に当時14歳の少年が起こした神戸児童殺傷事件は、社会に極めて大きな衝撃を与えた*9。芹沢一也によれば、この事件を契機として、少年犯罪に対する社会の視線が決定的な転換を迎えたと言う(芹沢〔2006〕、90-92頁)。凶悪な犯罪に手を染める少年の動機を解明することの困難さや、並行して拡大する被害者への注目と共感の中で、社会が少年犯罪に対して払う理解努力が急速に衰えていく。少年に対する社会の目は厳しさを増し、同年中に、警察は悪質な非行への厳正に対処する姿勢を打ち出した(久保〔2006〕、98頁)。00年5月の17歳少年によるバスジャック事件など、神戸児童殺傷事件以降に少年による重大事件が相次いでセンセーショナルに取り上げられたこともあり、00年11月に少年法が改正され、刑事処分可能な年齢の14歳への引き下げや、犯行時16歳以上の少年が故意の犯罪行為によって被害者を死亡させた事件については原則として逆送する(家庭裁判所から検察官への事件を送致して刑事事件として扱う)ことなどが定められた*10。かくして少年犯罪への厳罰姿勢は揺るぎないものとして確定され、世紀の変わり目の前後に、少年が「モンスター化」した。

 

内閣府の世論調査によれば、少年犯罪が増加していると考えている人は全体の9割を占めている(内閣府〔2005〕、図1)。こうした認識は正しいのだろうか。長期的推移を見ると(下図)、戦後、少年犯罪は増減を繰り返していることが分かる。交通関係を除く少年の検挙者数が最も多いピークは1983年の261,634人であり、その後は減少し、96~98年にやや増加したものの、99年以降は再び減少傾向にある。06年の検挙者数は131,604人(「少年犯罪統計データ」@少年犯罪データベース)。したがって、少年犯罪一般が増加しているとは言えず、むしろ減少していると言うべきである。97年以降に打ち出された少年非行への厳罰姿勢が少年刑法犯の検挙件数を押し上げていることは間違いない。また、前述のように従来なら窃盗と見做されていたような事件が強盗として処理されるといったカテゴリ変更も影響しているだろう。

 

f:id:kihamu:20080826003449p:image (警察庁〔2007a〕、第1章第4節1

f:id:kihamu:20080830224856j:image (法務省〔2007〕)

 

少年犯罪についても、凶悪化を指摘する声は強力である。世論調査によれば6割の人が「凶悪・粗暴化した」少年犯罪が増加したと考えている(内閣府〔2005〕、図2)。しかしながら、犯罪一般同様、凶悪化は否定される。

まず、10~19歳の殺人検挙者数を人口比で測ると、ピークは51年で人口10万人当たり約2.5人。60年代後半から急激に減少し、70年代半ばから97年ごろまではほぼ横ばいであり、90年代末からやや増加したが、それでも人口10万人当たり0.6~0.8人程度である(「少年による殺人統計」@少年犯罪データベース)。

 

f:id:kihamu:20080826050717g:image

 

次に、10~19歳の強姦検挙者数を人口比で測ると、ピークは58年で10万人当たり約25人。やはり60年代後半から急激に減少し、90年代以降は人口10万人当たり1~3人ほどで推移している(少年によるレイプ統計@少年犯罪データベース)。

 

f:id:kihamu:20080830014836g:image

 

強盗については、既に見たように97年以後の厳罰主義や窃盗からのカテゴリ変更が件数を押し上げていることが明らかである。

 

f:id:kihamu:20080830014932j:image (久保〔2006〕、95頁)

 

以上から、凶悪犯罪は全体として増えておらず、少年犯罪が凶悪化しているとする根拠は乏しいことが分かる。

 

なお、動機らしい動機の無い犯罪や、スリルを楽しむなどの動機による「遊び型」犯罪こそが、現代の少年犯罪の特徴として指摘されることも多い。だが、複数の論者が実例を挙げて指摘しているように、さしたる理由もなく凶悪な犯罪に手を染める少年や、「遊び型」犯罪は数十年前から一貫して存在していたし、そうした事件を憂う声も昔からあった(鮎川〔2001〕、125-129頁、芹沢〔2006〕、69頁)。したがって、客観的事実に立脚する観点からすれば、「動機なき」犯罪や「遊び型」犯罪が現代の少年に特有の犯罪であるとは言えない。こうした事実を認めつつ、それでも何らかの「質の変化」はあるのではないかとの感触を抱く人は多いと思われるが、少なくとも統計資料から「質の変化」を導き出すのは難しいだろう。

また、少年犯罪について6割以上の人が「低年齢層による」ものが増加していると考えていることを、世論調査が明らかにしている(内閣府〔2005〕、図2)。さらに、最近の犯罪一般の傾向を聞いた場合にも、7割を超える人が「低年齢化」を挙げている(内閣府〔2006〕、図7)。実際に統計を見てみると、70年前後から年少少年(14~15歳)・中間少年(16~17歳)と年長少年(18~19歳)の検挙人員に差がつき始めていることから(下図)、長期的に低年齢化が認められる可能性はある(ただし60年代半ば以前の状況はこのグラフでは分からない)。しかし、少なくとも90年代に限っては年少・中間少年と年長少年との検挙人員の乖離は大きくなっていないし、80年代と比較すればむしろ縮まっていると言える(久保〔2006〕、118頁)*11

 

f:id:kihamu:20080826003448j:image  (久保〔2006〕、119頁)

 

また、非行少年率(12~19歳の間に非行で検挙・補導される少年の割合を人口比で生年別に図示したもの)の推移(図)を見ると、より若い世代ほど、非行のピークが右側に移ってきていることが分かる(久保〔2006〕、121頁、浜井・芹沢〔2006〕、45-46頁)。低年齢化を否定するに留まらず、暴走族における成人比率が高まっている事実なども指摘しながら、現在進行しているのはむしろ非行の「高齢化」であると主張する論者もいる程である(浜井・芹沢〔2006〕、47-48頁)。もっとも、低年齢層の少年による非行の割合がより高かった80年代前半は、自転車盗などの取り締まりが強化されるとともに、校内暴力や家庭内暴力が大きく取り上げられていた時期であったので、過去の「低年齢化」そのものが警察の取り締まり姿勢によって演出されたものであった可能性も否定できない(久保〔2006〕、121頁)。ひとまずは、統計資料を見る限り低年齢化を裏付けるデータは出てこないと言うに留めておくのが無難だろう(久保〔2006〕、123頁)。

 

f:id:kihamu:20080826003447j:image (浜井・芹沢〔2006〕、46頁)

f:id:kihamu:20080826003446j:image (久保〔2006〕、120頁)

 

1-5.外国人犯罪の増加・凶悪化

 

92年頃から、警察は「ボーダレス時代の警察」論を唱え、犯罪の広域化・国際化への対応が必要であるとの主張を始める。警察庁には国際部が設置され、外国人犯罪対策への取り組みが強化された(渡辺〔2003-04〕)。「行動計画」も、治安悪化の原因に「来日外国人犯罪の凶悪化・組織化と全国への拡散」を挙げており、外国人犯罪が「深刻化」しているとの認識を示している。

近年、不法滞在者の取り締まりが強化されているのは、こうした認識に基づくものである。04年6月には入管難民法が改正され(同年12月施行)、不法滞在者に対する罰金上限の引き上げや、繰り返し強制退去処分を受けた者に対する再入国拒否期間の延長などが定められた。06年5月には再度同法が改正され、16歳以上の外国籍者の入国に当たって、顔写真の撮影と指紋の採取が義務付けられた(同年11月施行)。

また、06年の世論調査では、最近の犯罪の傾向について、40%以上の人が「外国人による犯罪が増えている」と回答しており(内閣府〔2006a〕、図7)、治安悪化の原因として「来日外国人による犯罪が増えたから」は55%を超えて1位となっている(内閣府〔2006a〕、図3)。政府においても世論においても、外国人の犯罪は単に増加しているだけでなく、それが社会全体の治安悪化の主因の一つとなっていると認識されていることが分かる。

 

確かに、外国人による犯罪は実際に増加している(下図)。「来日外国人」の検挙件数は80年代後半から上昇し始めるが*12、91年頃から顕著な伸びを見せ始める(警察庁〔1999〕、図1-10)。93年および95~97年にはさらに急増し、「その他の外国人」の検挙件数を引き離すようになる*13

 

f:id:kihamu:20080826050719j:image (法務省〔2007〕、第3編1)

 

とはいえ、日本に居る外国人の総数が増えれば、外国人犯罪の総数が増えるのは自然である。特に80年代末以降、入国者、外国人登録者ともに顕著に増加している(下図)。外国人犯罪が増加していること自体を問題視するのであれば、こうした流れを押し留めて、外国人の入国制限を主張するしかないだろう。

 

f:id:kihamu:20080830015011j:image

f:id:kihamu:20080830015009j:image  (法務省入国管理局〔2007〕、3&20頁)

 

そうした主張をしないとすれば、焦点は(1)日本に滞在する外国人が社会全体の治安を乱すような規模で犯罪を行っているのか、(2)彼らは日本人より犯罪を行い易いのか、(3)彼らは日本人より凶悪な犯罪を行い易いのか、といったことに限定される。

 

(1)については、外国人の検挙人員が全体の検挙人員に占める割合とその推移を見ればよい。中島〔2008〕によれば、刑法犯全体の検挙人員に占める来日外国人の刑法犯検挙人員は、93年から07年の間に概ね2%台前半で推移している。不法滞在者に限れば、全体の0.2~0.5%程度である。このようなわずかな割合の犯罪が全体の治安を悪化させる程の影響力を有しているとは考えられないし、近年になって割合が増加しているわけでもない。

来日外国人犯罪の増加を示すグラフにおいて注目されるのは、94年から03年頃までの検挙件数の著しい伸びに、検挙人員の伸びが伴っていない点である。集団による反復的な窃盗が多いため、検挙人員一人当たりの検挙件数が日本人と比べて多いのが外国人犯罪の特徴である(久保〔2006〕、151-153頁)。したがって、検挙された外国人の総数が変わらなくても、余罪の追及を厳しく行えば、検挙件数は増加する。少なくとも90年代半ば以降の検挙件数の伸びは、こうした取り締まり姿勢の変化によって説明できるところが大きいと思われる。

 

(2)に移ろう。ここでは、日本の総人口に占める刑法犯の割合と*14、来日外国人全体に占める来日外国人刑法犯の割合を比較する。算出した数値は表にまとめた。なお、来日外国人の総数は明らかになっていないので、推計とならざるを得ない*15。また、来日外国人総数の4分の3程度は、外国人登録が為されない90日以内の滞在者が占めており、その内の9割以上は15日以内の滞在である。したがって、こうした極めて短期の滞在者の数値をどう扱うかによって結論が左右されかねない。そこで以下では、来日外国人の数値に関して、90日以内に出国している者を含める場合と含めない場合の二種類を算出した*16。90日未満や15日未満しか滞在しないからといって犯罪を行い得ないというわけではないので、必ずしも後者の数値を用いて考えるべきだということではない。上限と下限の値を示すものだと考えられたい。

 

総人口(千人) 刑法犯検挙人員(人) 刑法犯人口比(%) 来日外国人(総数/90日未満の滞在者を除く数) 来日外国人検挙人員 来日外国人刑法犯人口比(総数/90日未満の滞在者を除く数)
1993 124,938 297,725 0.23 7,276
1994 125,265 307,965 0.24 6,989
1995 125,570 293,252 0.23 6,527
1996 125,859 295,584 0.23 4,255,850/1,072,774 6,026 0.14/0.56
1997 126,157 313,573 0.24 4,890,073/1,141,811 5,435 0.11/0.47
1998 126,472 324,263 0.25 4,578,518/1,164,138 5,382 0.11/0.46
1999 126,667 315,355 0.24 4,509,826/1,195,204 5,963 0.13/0.49
2000 126,926 309,649 0.24 4,611,594/1,283,785 6,329 0.13/0.49
2001 127,316 325,292 0.25 5,020,897/1,328,461 7,168 0.14/0.53
2002 127,486 347,558 0.27 5,885,323/1,363,651 7,690 0.13/0.56
2003 127,694 379,602 0.29 5,872,303/1,394,127 8,725 0.14/0.62
2004 127,787 389,027 0.30 6,597,197/1,417,373 8,898 0.13/0.62
2005 127,768 386,955 0.30 7,168,349/1,418,351 8,505 0.11/0.59
2006 127,770 384,250 0.30 7,842,725/1,439,193 8,148 0.10/0.56

 

この表に従えば、来日外国人全体の中で犯罪に手を染める人間が現れる確率は、日本全体で考えた場合よりも低い。ただし、90日以上滞在している来日外国人に限れば、その内部に犯罪者が現れる確率は日本全体における確率よりも高くなっている。考えられる理由としては、就労・研修・留学などを目的とする来日外国人集団において、児童や高齢者が比較的少数であることの影響が大きいと思われる。活動的な年齢層の人々が高い割合を占める集団では、そうではない集団と比べて、犯罪を行う人間の割合も高くなることは避けられない。参考までに、日本に住む15歳以上人口に占める刑法犯比率を算出してみると、95年=0.57%、00年=0.58%、05年=0.72%であり、来日外国人の刑法犯比率と概ね同水準となった。無論、この数値を単純に比較することはできないが、来日外国人が日本人と比べてとりわけ犯罪に手を染め易い性向があるわけではないことは十分に知れよう。

 

(3)については、(2)と同様の計算と比較を行う。結果は表の通りであるが、これによると、凶悪犯を輩出する確率を来日外国人全体と日本全体で比較した場合、後者の方がやや高めである。ただし、90日未満の滞在者を除いて計算した場合には、やはり来日外国人の方が高くなる。こちらも参考のために15歳以上人口を用いた場合の日本全体の凶悪犯比率を計算してみたが、95年=0.010%、00年=0.014%、05年=0.013%と、90日未満の滞在者を除く来日外国人に占める凶悪犯の比率と比較して、やや低水準であった。

 

凶悪犯検挙人員(人) 総人口比(%) 来日外国人凶悪犯検挙人員(人) 来日外国人総数比(%) 90日未満の滞在者を除く来日外国人比(%)
1993 5190 0.0041 218
1994 5526 0.0044 221
1995 5309 0.0042 176
1996 5459 0.0043 162 0.0038 0.015
1997 6633 0.0052 187 0.0038 0.016
1998 6949 0.0054 228 0.0049 0.019
1999 7217 0.0056 267 0.0059 0.022
2000 7488 0.0058 242 0.0052 0.018
2001 7490 0.0058 308 0.0061 0.023
2002 7726 0.0056 323 0.0054 0.023
2003 8362 0.0065 336 0.0057 0.024
2004 7519 0.0058 345 0.0052 0.024
2005 7047 0.0055 315 0.0043 0.022
2006 6459 0.0051 270 0.0034 0.018

 

これを以て、来日外国人には比較的凶悪犯罪に手を染め易い性向が(わずかながらでも)認められると断じてよいのかどうかは解らない。判断は留保しておこう。なお、仮にそのような性向が認められるとしても、来日外国人凶悪犯の検挙人員は(来日外国人の増加にもかかわらず)00年代前半をピークとして減少傾向にあることからも、外国人による凶悪な犯罪が増加しているわけではないことは確かである(警察庁〔2007b〕、第2)。

 

以上、外国人犯罪はそもそも犯罪全体の中で極めて小さな割合をしか占めておらず、その割合は増加していない上に、来日外国人に日本人よりも犯罪を行い易い性向があるわけでもないことを明らかにした。日本人よりも凶悪犯罪を行い易い性向があるとの主張を為し得る余地は残されたが、外国人による凶悪犯罪は減少している。したがって、日本の治安は外国人によって悪化させられているわけではない。

 

2.体感治安の悪化と刑事政策のパラダイム転換

 

以上、犯罪実数は増加しておらず、警察の捜査能力が低下しているとも考えられないため、日本の治安が悪くなっているとの主張を支持する根拠は乏しいと言える。また、少年や外国人による犯罪が増加ないし凶悪化しているわけでもないことも明らかになった。しかしながら、客観的に見れば日本の治安は悪化していないとしても、それならばなぜ治安の悪化を問題視する声が強いのだろうか。実際の治安が悪化しているかどうかはともかく、主観的に感じられる「体感治安」は、確実に悪くなっている。犯罪実数ないし凶悪犯罪がさして増加しているとも言えないのに不安を感じる人が増えているとすれば、そうした事態がなぜ生じているのかは、解くべき独立した問いである。

例えば、前述のように少年犯罪が増加していると考えている人は9割にも上っているが、「周囲で起こり問題となっている少年非行」について聞くと、最も多い回答は「特にない」34.9%である(内閣府〔2005〕、図4)。重大な犯罪事件と言えそうな「強盗・恐喝事件」や「殺傷事件」を挙げた人は4~6%に留まる。また、浜井浩一の調査によれば、2年前と比較して犯罪が増えたかどうかを「日本全体について」聞くと約90%の人が増えたと答えるが、同じ質問を「自分が住んでいる地域について」聞くと、増えたと考える人は27%まで減り、「同じくらい」との答えが64%で最も多くなると言う(下図)。

 

f:id:kihamu:20080901001730j:image  (浜井・芹沢〔2007〕、52頁)

 

このように、自分の身の回りでは大きな事件や変化は起きていなくても、日本全体では「なんとなく」治安が悪化しているような感覚が抱かれているとすれば、その原因を問わねばならない。本連載の観点からすれば、考えられる原因は「社会の流動化が引き起こす不安」と言うに集約される。既に各々の項で見たように(「テクノロジー/メディア」「経済/労働」「家族」「共同体/市民社会」)、都市化・郊外化によって地縁的な人間関係が希薄化し、雇用が不安定化して職業的な人間関係が流動化し、家族の個人化が進み、個別の趣味共同体に閉じたコミュニケーションが一般化した現代社会では、見も知らない隣人への信頼を形成・維持することが困難であり、不安が惹起されやすい。体感治安の悪化は、こうした現代社会のポストモダン的条件によって規定された社会の「自己参照」に基づいて生じているのである。

既に述べたように、「動機なき」犯罪や「遊び型」犯罪を起こすのは現代の少年に特有の傾向とは言えないが、そうした犯罪が現代の少年犯罪の特徴であるという認識が社会一般に受容されているとすれば、そうした社会の姿勢こそが現代的特徴と言える。少年が「モンスター化」していると言っても、少年そのものが変化しているわけでは必ずしもない。変化しているのは、少年よりもむしろ社会の認識枠組みの方である(鮎川〔2001〕、154頁、芹沢〔2006〕、69頁)。マスメディアで取り上げられるような事件は社会全体から見て本来特殊な事件であるはずであり、そうした特殊例を社会がどのように捉えるかによって、社会が自分たちの社会をどのように捉えているのかを知ることができる。たとえ同じような事件であっても、社会そのものの変化や、社会が有する「自己認識」の変化によって、取り上げられ方や語られ方は全く違ったものになる(芹沢〔2006〕、76-77頁)。体感治安の悪化の原因について、多くの論者はマスメディアのセンセーショナルな報道姿勢(のみ)を指摘するが、マスメディアが提供する情報パッケージは、それを受容する社会が有する認識枠組みから大きく隔たることはできない。マスメディアの報道姿勢を問題視するならば、そうした報道を促すような認識枠組みが社会の側になぜ形成されたのかを問わなければ、問題に接近したことにはならない。体感治安の悪化の背景に社会の認識枠組みが変化したことがあるのならば、単に客観的な事実を指摘するだけでは不安を解消する効果は期待できない。繰り返すように、事実が同じでも、それを解釈する認識枠組みが異なれば、抱かれる感情や考えは変化せざるを得ないからである。事実(のみ)に着目する議論が果たしうる社会的機能の限定性は、ここにある。

 

さて、体感治安の悪化に対して、現在提示されている対応は大きく二つに分かれる。一つは、治安が悪化していないのに体感治安が悪化しているとしたら、それは間違った認識だから、正しい情報を広めることによって不安を解消していく必要があると考える立場である。直前で述べたように、社会の認識枠組みが変化した後では、このアプローチには限定した効果しか期待できない。第二の立場は、客観的な事実がどうあれ、体感治安が悪化していて実際に不安が高まっているならば、厳罰化や警察官の増員などによって、治安対策を強化するべきであるというものである。こうした考え方を是とするべきかはさておき、当局はこの立場を採っている。警察がある時期から「安全」とともに「安心」を掲げているのは、客観的な治安情勢のみならず、主観的な不安にも対処することが必要とされているとの認識を反映したものである。

現に、体感治安の悪化への手当てとして、 04年の刑法改正により、幾つかの法定刑が引き上げられた。不安を膨張させた世論は、厳罰化を後押している。内閣府の世論調査によれば、死刑の存置に賛成する人は年々増加しており、04年には80%を超えている(内閣府〔2004〕、図2)。世論の厳罰主義への傾斜は司法にも反映され、死刑判決が03年以降に急増している(浜井〔2008〕、113頁)。無期刑判決については98年頃から急増しており、無期刑囚の仮釈放に至るまでの期間も長期化し、半ば終身刑化している(同、115頁)。

 

厳罰主義が支持され、犯罪被害者の感情への配慮が強調される中で、性犯罪者や触法精神障害者への視線も厳しくなっている。04年11月の奈良女児誘拐殺害事件を直接の契機として、05年6月に法務省が性犯罪者の出所情報を警察庁に提供する制度を開始。同時に警察庁は、13歳未満の児童に対して性犯罪を行った者の情報を登録して出所後も所在を継続的に確認する旨、通達した。自民党の治安再生促進小委員会は、08年4月に発表した提言で、常習的な性犯罪者にGPS装置の取り付けを義務付ける措置を検討課題に挙げている(芹沢〔2008〕)。また、精神鑑定の信頼性への疑念が強まるに伴って、心神喪失による刑の免除と心神減耗による刑の減軽を定めている刑法39条の削除を求める主張が少なからず表明されるようになる一方*17、「再犯のおそれ」なる曖昧な理由に基づく精神障害者の拘束を可能にした心神喪失者等医療観察法が2003年7月に成立している。立法の背景には、01年に大阪府池田市の小学校に侵入して無差別殺傷事件を起こした犯人が、過去に精神障害を理由とする刑事起訴猶予処分(措置入院)を経験していた事実が重視されたことがあった。

注目すべきなのは、法を犯したあらゆる人間に対して同様の処罰を与えることこそが、彼らに「一人前」の地位ないし権利を認めることであり、その尊厳を確保することであると見做す見解が現れていることである(高山〔2002〕など)。少年に対して成人同様の処罰を与えるべきであるとの主張はもとより、刑法39条の削除を求める主張の中にも、「裁判を受ける権利」や「法の下の平等」を触法精神障害者に保障するためにこそ、一般の犯罪者と同様の刑罰を与えるべきであるとの見解が少なからず見られる。ここには、「保護」の対象と見做されてきた「弱者」を弱者と見做さない決断、保護思想からの転轍が捉えられる。これを単に厳罰主義・応報主義の優勢と見るだけではおそらく不十分であり、人権思想が浸透した――ないしは個人化が進行した――帰結の一面であると、両価的に捉えるべきである。

 

さて、「行動計画」では地域防犯活動の強化もうたわれているが、地域警察路線の強化は90年代の警察が一貫して進めてきた方向性である。92年に外勤課が地域課に名称変更、94年には警察庁に生活安全局が、都道府県警に生活安全部が設置された。各自治体でいわゆる「生活安全条例」の制定が始まるのは、この頃である(「生活安全条例」研究会編〔2005〕、8-9頁)。「防犯」「治安回復」「安全・安心」「地域安全」「まちづくり」など、看板となる言葉はそれぞれであっても、自治体・事業者・住民の「防犯」についての責務を規定している点が、「生活安全条例」の共通の特徴である*18。地域パトロールなど「民間防犯活動」の広がりが、「地域安全活動」の促進によって積極的な予防警察活動を可能にしようとする警察の意図に沿うものであることは疑い得ない。地域住民との協働は地域への積極介入を容易にするし、住民の「警察化」を通じた地域共同体への治安維持のいわば「丸投げ」は、公共部門のコストを削減せよとの現代的要求にも適う。しかし他方で、子どもや家族を犯罪から守りたいという住民の善意や、かつて存在したはずの地域の「ふれあい」を取り戻したいとの共同性の希求こそが地域安全活動の隆盛を支えていることは否定することができない(浜井・芹沢〔2006〕、156頁)。

むろん、こうした善意や欲求は、多分に危険を含んだものである。「防犯を軸に地域コミュニティの再生」が目指される「治安共同体」の形成は、地域の防犯活動に参加しないこと自体によって、不審者と見做されかねない状況を招く(浜井・芹沢〔2006〕、177頁、「生活安全条例」研究会編〔2005〕、25頁)。いまや挙証責任は転嫁され、誰かを「不審者」と名指す方ではなく、自分は「不審者」ではないと主張する側にこそ、その証明が求められる*19。また、地域防犯活動・生活安全活動によって喚起された秩序意識は、地域のルールやモラルからの軽微な逸脱行為にも過敏な反応を為すように促す。夜中に若者がたむろしている、ゴミが散乱している、落書きが目立つ、酔っ払いが徘徊している、ホームレスが横たわっている、など・など。それが違法であるかどうかなど、もはや問題ではない。地域住民にとって目障りなモノ/ヒトは、全て排除されるべき対象となっていくのである(芹沢〔2006〕、198-200頁)*20

 

このように単なる逸脱行動を犯罪同然に取り締まり、排除していくことを、犯罪学における新たなパラダイムが正当化可能にしている。70年代初頭に起源を持ち、80年代に発展した「環境犯罪学」は、伝統的な犯罪学のように、犯罪の原因を犯罪者の異常な人格(精神病理)や劣悪な境遇(社会病理)に求め、それらの原因を取り除くことで犯罪を防止できると考える立場に反対する(小宮〔2005〕、27-29頁、谷岡〔2004〕、188-189頁)。犯罪の原因よりも、犯罪の機会、可能性にこそ注目すべきだと言うのである。伝統的な立場では、何らの病理ともかかわりのない人間は犯罪を起こさないと考えられがちであったが、環境犯罪学は犯罪者と非犯罪者の間にそのような境界を設けることはほとんど無意味だとする。すなわち、環境による誘因が存在し、犯罪に踏み出す主観的合理性が認められれば、誰もが犯罪を実行し得るのであり、犯罪を減らすために必要なのは適切な環境設計によって犯罪機会を減少させることである。

環境犯罪学においては、犯罪者の社会背景や生育・教育環境、人格や性格は問題にされず、ある犯罪がどのような状況ではどのぐらい起こりやすいかという可能性、確率、リスクだけが問題とされる。環境犯罪学は犯罪者よりも犯罪の方に興味を持つと言われる所以である(谷岡〔2004〕、188頁)。日本では、犯罪事実だけでなく犯罪者の人格を考慮して適切な処罰を施そうとする現行刑法が1907年に制定されて以来、刑事政策の照準が「犯罪から犯罪者へ」と転換されたが(芹沢〔2006〕、32-35頁)、環境犯罪学の台頭は、一旦犯罪者に移された関心を逆方向に振り向けることを促し、「犯罪者から犯罪へ」の再転換を迫っている。もっとも、これを単なる先祖返りと見做すべきではない。犯罪学の現代的シフトにおいてはむしろ、「関心は犯罪それ自体ではなく、ひたすら犯罪の可能性に向けられ、違法であるかどうかを問わずあらゆる反社会的行為を対象とする」点が特筆される(ヤング〔2007〕、119頁)*21。つまりパラダイムの移行は、「犯罪事象から犯罪者へ、犯罪者から犯罪可能性へ」とでも描くべきものである。犯罪の可能性(リスク)に注目する立場からすれば、軽微な逸脱行為であろうとも犯罪同然に対処することを迷うべきではないのだ――排除と分離は最善のリスクヘッジである*22

 

環境犯罪学の発展は、体感治安の悪化に対応している*23。犯罪の原因となる精神/社会病理ではなく犯罪を誘発する物的/人的環境に着目する環境犯罪学においては*24、誰もが犯罪者予備軍と見做されるようになる。これは、いつどこで犯罪に遭遇するかもしれないという不安の高まりへの対処としての恒常的なリスク管理を導く一方で、あらゆる人を犯罪者予備軍と見做すことによって却って不安を掻き立てるマッチポンプ的機能を果たしている。

また、「犯罪者」に注目する伝統的なアプローチでは被害者へのケアが不十分になりがちであったが、犯罪者への「理解」を放棄して犯罪そのものに照射する新たなアプローチにおいては、被害者へのケアが重視されるようになる。既に犯罪者への共感の回路は断たれている。なぜなら「あなたにとっては事件を理解することよりも、事件を避けることのほうが重要なはずだ」から(ヤング〔2007〕、172頁)。もはや物語を共有できるような社会の統合性は期待できない。犯罪の背景とされる物語は、複数の方向から切り分けられて個別に消費されるか、端的に無視されるかしかない。視座は、社会から個人に移された。犯罪の意味が解釈される文脈が個人化されたのである。

 

ただし、誰もが犯罪者予備軍と見做されるようになるとしても、犯罪リスクが高いと見做されやすい種類の人々は厳然として存在する。2004年末時点での行刑施設における既決囚の平均収容率は117.6%であり、9割の刑務所では過剰収容に陥っていると言う(浜井〔2006〕、7頁)*25。しかし、これは決して凶悪な犯罪者が増加したからではない。体感治安の悪化と厳罰主義の浸透、治安共同体の形成が、いわゆる「社会的弱者」=「リスク高」な人々を刑務所へと追いやっているのである。受刑者の高齢化は最近20年程度の間に急速に進行しており、特に90年代後半以降は社会全体の高齢化を遥かに上回る速度となっている。また、同時期に精神障害を持つ受刑者も増加している。さらに職や家庭を失った受刑者も増加しており、長期不況による雇用環境の悪化の中、社会からはじき出された人々が「最後のセーフティネット」としての刑務所に流れ着いたことがうかがえる(浜井・芹沢〔2006〕、205-217頁)。過剰収容を根拠にした厳罰主義への傾斜は、更なる社会的排除をもたらすマッチポンプにほかならない。

 

f:id:kihamu:20081012204637j:image (同、207頁)

f:id:kihamu:20081012204610j:image (同、211頁)

f:id:kihamu:20081012204658j:image (同、209頁)

 

前述の治安共同体の形成が治安対策の「共同体化」を体現しているとすれば、「市場化」を体現するのはセキュリティ産業の拡大である。警備業者数、警備員数ともに80年代から顕著な伸びを見せており、警備業者数は2000年代に入って横ばいとなっているものの、警備員数はなお増加を続けている(「警備業の概況」@全国警備業協会、警察庁〔2006〕、図2-34警察庁生活安全局生活安全企画課〔2008〕 )。警備業の市場規模は3兆5千億円を超えており、ここ数年1兆2千億円前後の規模で推移している防犯設備市場と合計すると(「防犯設備推定市場の推移」@社団法人防犯設備協会、警察庁〔2006〕、図2-35)、少なくともセキュリティ産業は5兆円の市場規模を誇っていることになる。

近年、日本でも現れつつあるセキュリティタウンやgated communityは*26、民間警備会社の協力を得ながら強力な治安共同体を構築することを目指している点で、治安の共同体化と市場化が結託している象徴的な例であろう。特定の地域を物理的に区切ってセキュリティを上昇させることは、他の地域への「犯罪の転移」を招く危険性があり、セキュリティに支出を振り向ける経済的余裕の程度が、治安の格差をもたらしかねない(谷岡〔2004〕、192-195頁)。

 

セクリティタウンまで至らずとも、既に全国各地の自治体や商店街では、公共施設や街路に監視カメラの設置が一般化している。ビデオカメラによる監視装置が公共機関や金融機関などで採用され始めたのは60年代からであり、83年までに15台設けられた大阪釜ヶ崎のカメラについては、90年代を通じて撤去訴訟が争われている(浜島〔2003〕、154-155頁)。しかし、公道を歩く人々を監視するカメラが一般化したのは、02年2月に警察によって新宿歌舞伎町に50台のカメラが設置されたことを契機とする(斎藤〔2004〕、118頁、小笠原〔2003〕、56頁)。以降、警察のみならず自治体や商店街が独自にカメラを設置する例が多く現れ、04年7月には東京都杉並区が初めてカメラの設置と運用に関する基準についての条例を設けた(斎藤〔2004〕、127頁)。

複数の調査によれば、あらゆる空間にカメラが設置され、犯罪や問題行動を監視することについて、圧倒的多数の人々は肯定的である(斎藤〔2004〕、122-126頁)。「やましいことがないのなら、撮られても問題ないはず」であると、ここでも挙証責任は転嫁される。商店街をはじめとする民間領域における監視は、記録された映像が適宜捜査機関に提供されることを通じて、公権力と結び付き得る。公権力による監視としては、70年代から登場した道路の自動監視・記録システム(オービス)と、その進化形として86年以降に全国配備された自動車ナンバー自動読み取りシステム(Nシステム)が代表的である(浜島〔2003〕、154-156頁)。Nシステムのカメラによって撮影された情報は、瞬時に専用のデータベースと照合され、手配車両のナンバーと一致したものについては、撮影端末付近の警察機関への通報が行われるようになっている。現在では乗車している人間の顔も識別可能であるとされ、全国数千ヶ所にまで増加していると言われる端末を駆使することで、犯罪者に限らない特定人物の行動を逐一把握することも技術的に可能であると考えられている(大谷〔2006〕、120頁)。民間による無数の監視カメラによる記録と、Nシステムのような公権力の監視記録および個人情報が結び付けば*27、極めて精緻な個人監視が可能である*28。それでも、「やましいことがないのなら」、格別の問題は無いのかもしれない*29。かくして、監視カメラ市場もまた、拡大の一途を辿っている。

 

f:id:kihamu:20080826003445g:image (「拡大する防犯カメラ市場」@SAFETY JAPAN)

 

体感治安の悪化が、職場・地域・家庭などにおける流動化や島宇宙化によって惹起される不安に起因するものだとすれば、失われた共同性、連帯、安定性、統合性を求めて治安共同体の形成による共同性の疑似創出が行われたとしても不思議ではない。だが、共通のアイデンティティを強調し、共有された規範意識に訴えることで治安の「復興」が可能であるとは、今や誰にも信じられてはいない。周囲は得体の知れない他者=「不審者」ばかりであるとの実感を前提としている治安共同体の運営は、市場や技術を通じた隔離や排除――環境管理――によって支えられる部分が大きい。公権力の治安活動が共同体と市場の両方に外注されていくとともに、三者が協働することで共同体と市場にとって危険/不要な人間が公権力によって社会から放擲されていく。現在生まれつつあるのは、そうした事態である。

 

3.ナショナルセキュリティの新局面と多面的なリスク管理

 

ところで、日本において1990年代半ばを境に大きく変容したのは、国内のセキュリティ環境だけではない。ナショナルセキュリティ環境もまた、大きな変容を経験している。90年代以前の日本において、ナショナルセキュリティ領域での議論基調を支配していたのは(その内実はともあれ)平和主義――ないしは軽武装主義――であった。戦後の短くない期間における左派勢力(「平和勢力」)の間で強い魅力を保っていたスローガンは「非武装中立」であったし、50年以降の再軍備を支持する勢力にしても、「専守防衛」を強調することなしには国民に訴える言論の構成は不可能であった。

 

例えば67年、佐藤栄作首相が武器輸出の相手国を制限する旨を答弁(武器輸出三原則)、71年に非核三原則が国会決議され、76年には国防費をGNP比1%の枠内に制限することが閣議決定された。この間、国会議席の三分の一を平和勢力が占め続けた事実は、こうした政治的決定の背景を成している。GNP比1%枠は既に87年の時点で撤廃されていたが、事態の変化を決定づけたのは89年末の冷戦終結と、91年初の湾岸戦争であった。冷戦の終わりは安全保障面での楽観論を生起させたが、湾岸戦争における米ソをはじめとする各国の共同行動は、新しい時代の容易くない意味を印象付けた。東西に分裂していた世界の統合は、常にグローバルな規模範囲を前提とした対応を迫り、あらゆる地域の紛争や危機への迅速な行動を求める。かくして「専守防衛」を国是としてきた日本でも「国際貢献論」が高まり、92年のPKO協力法成立により、自衛隊の海外派遣の道が開かれた。

対ソ防衛に眼目を置いた冷戦期の「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」(78年)は、97年に新ガイドラインとして更新される。冷戦終結に伴うグローバル秩序防衛の必要性に直面した米国をバックアップする役割を日本にあてがう、「日米安保の再定義」である。新ガイドラインの方向性を具現化するべく、99年5月に周辺事態法が、2003年6月に武力攻撃事態対処法が、04年6月に有事関連7法が、それぞれ立法される。この間、98年8月には北朝鮮によるミサイル発射が、01年9月には米国での同時多発テロが、国民の恐怖と不安を掻き立てた。同時多発テロの翌月には米国のアフガニスタン攻撃を後援するべくテロ特措法が可決成立され、自衛隊の派遣が根拠づけられた。03年3月のイラク攻撃に際しては同年7月成立のイラク特措法が04年1月の自衛隊派遣を可能にした。

大国としての存在感を増す中国や、05年2月に核保有を表明した北朝鮮が脅威と見做される中、人々の危機意識や国防意識が高まっている。世論調査によれば、日本が戦争に巻き込まれる危険性があると感じる人は増加しており(内閣府〔2006b〕、図24)、自衛隊・防衛問題に対する関心が高まっているとともに(内閣府〔2006b〕、図1)、自衛隊に対して好意的な印象を抱く人が増えている(内閣府〔2006b〕、図4)。こうした世論の動向に呼応するように、戦後一貫して阻止されてきた憲法改正にも現実味が増している。00年に設置された衆参両院の憲法調査会は、05年にそれぞれ報告書を提出。同年、自民党は新憲法草案を取りまとめている。07年5月には、憲法改正発議に基づく国民投票の手続きを定めた国民投票法が初めて制定された。

 

こうしたナショナルセキュリティ環境の変化は、固定的な二極構造が瓦解したことによる不確実性の増大に伴う、「リスク」意識の高まりに対応している。そして、リスク意識という点では、衣・食・住・健康福祉など、生活にかかわるリスク情報への敏感さが高まっていることも無関係ではない。BSE、鳥インフルエンザ、SARSなど、グローバル化が呼び寄せるリスクが市民の不安を喚起する。情報化は、食の安全や健康、環境ホルモンや防災など、多面的なリスク情報を膨大な規模で氾濫させ、不安を掻き立てると同時に、ビジネスチャンスを創り出す(ベック〔1998〕、29頁)。安全と安心はブランド化し、付加価値となって市場を拡大させる。他方、企業の経済活動が何らかのリスクを生じさせている疑いを持たれれば、市民による厳しい責任追及を避けることはできないため、現代の企業においては、世論への弁証を生業とする広報部門の地位が上昇する(ベック〔1998〕、43-44頁)。各領域の専門家は、そうした世論への弁証を担う弁護士として、しばしば企業のお抱えになる。

 

多くのリスクは目に見えないものであり、直接には全く認識できないので、専門家の判断を仰がなければならない(ベック〔1998〕、35-36頁)。自らがさらされているリスクの存在や程度・範囲・形態などを自分では知り得ず、他者の知識に依存せざるを得ないことは、それだけで不安を喚起する(同、82頁)。しかも、専門家なる人々の見解は、往々にして一致しないものであり、最終的にはリスクの存在は「信じられる」しかない(同、38頁)。もとより何をどの程度危険であると見做すかの判断においては、価値観の介入は避けることができないのであって、何を守るべき価値として措定するかによって、リスク認識は左右される(同、38-40頁)。この点では専門家も市民も同様の地平に立っているのであり、それゆえ、「市民的合理性」が科学的合理性の観点からしていかに「非合理」に見えたとしても、そのことを以て市民を侮り・笑うのは愚かなふるまいである。「危険について述べる場合には、われわれはこう生きたい、という観点が入ってくる」(同、90頁)*30

 

食にせよ住にせよ、企業や商品への信頼は、元々無根拠なものでしかない。だが、社会は無根拠な信頼に基づいて成り立っているものであり、その信頼が掘り崩されることは、不安の極大化を招き、市民生活を困難にする。不安ゆえに安心を求め――この食品の生産者は誰で何を原料にしてどのような工程を経ていかなる流通経路によって此処に至っているのか――、求めるがゆえに不安になる、マッチポンプ機能が働き出す。そして、不安を解消するためにリスクを抑制せよとの声が高まり、様々な領域で規制の強化や基準の創設が求められるようになる*31。かくして「評価国家」が形成されるが、国家が市民よりも専門的な情報に通じているとは限らない。普遍化し、膨張する多面的なリスクの管理を国家に委ねることは、知らないのに裁可し、どうでもいいのに推進し、わからないのに評価する、無責任な権力機関を生み出す危険性は否定できない。それでも、個人化された社会で不安にさいなまれる個人に手を差し伸べられるのは国家でしか在り得ない以上、人々は国家を頼らざるを得ないのである。

 

4.国家の役割の限定化と肥大化――市場化・共同体化と予防国家

 

リスクと危険は違う。リスクとは、選択・決定に伴う不確実性の認知に関連している。天災や外敵、暴政などは自らの選択の帰結とは認識されていないので、リスクではない。規範や秩序が選択の結果だと認識される近代以降でないと、リスクは出現しない。リスクは再帰性を必要条件とするのである(大澤〔2008〕、129-130頁)。したがって、リスク社会の到来は再帰性の上昇によって引き起こされている。伝統が崩壊し、社会が流動化することで、全てが自分の選択の結果だと考えられるようになったため、不確実性への不安が惹起され、リスクが認識されるようになった(大澤〔2008〕、136頁)。そして、このように様々な領域で自分が何をするかを自由に選べるようになればなるほど、結果を外的要因のせいにすることは難しくなり、自己責任と見做されやすくなる(山田〔2004=2007〕、44-45&60頁)。かくして、リスクを自らの責任で引き受けなければならなくなった人々の不安は増幅する一方となる *32

恐怖が具体的・現実的対象に向けて抱かれるのに対して、「不安は起るかもしれないことと結びついている」(セネット〔2008〕、56頁)。リスクは未来についての認識であり、予防されるもの、食い止められるものである(ベック〔1998〕、47頁)。職場・地域・家庭が流動化を余儀なくされ、情報化が膨大な量の情報を氾濫させる中、「不確実性は不安となって、あらゆる地位の人々のまわりに蔓延する」(セネット〔2008〕、57頁)。だから、リスク社会における人々の行動は、未来についての不確実な予測――すなわち不安――によって規定され、組織される(ベック〔1998〕、47頁)。リスク社会の特徴は、「不安の共有」であり、不安ゆえの連帯が生じるケースもある――治安共同体――のである(ベック〔1998〕、75頁)。

 

犯罪者への理解努力が虚しいものであることが誰の目にも明らかになる程に、今や社会の統合性が消え去りつつあるのにもかかわらず、治安維持や国防において共同性の疑似的な復興現象が見られるのは、こうした文脈から部分的に理解可能であるかもしれない。一体性を失いつつある社会はもはや連帯が困難となっているはずであるが、不安の共有や共通の「敵」の存在をテコにすることで、辛うじて繋がることができる。セキュリティイシュー、「安全・安心」の問題であれば繋がることができる――逆に言えばそうしたイシュー以外には連帯が不可能になっている――現状があるのかもしれない。

いずれにせよ、そうした不安を基盤として、国家の役割が変容している。歴史的に言えば、現代の国家が多面的なセキュリティ政策に多大な力を注ぐようになっていることは、戦後の福祉国家体制の樹立と無関係ではない。ソーシャルセキュリティを充実させる国家が同時に市民を監視・管理する統制国家でもあるように、国民を保護すべき「安全国家」は、国外からの脅威を防ぎ、国内の安全を確保しなければならない(森〔2008〕、64頁)。同時多発テロを機に「テロとの戦争」「テロ対策」が唱えられるようになって以来、例外状態は常態化され、国防と治安の境界が消し去られつつある*33。政府は04年12月に「テロの未然防止に関する行動計画」を策定。05年4月の旅館業法施行規則の改正では外国人が旅館などに宿泊する際に旅券の提示による本人確認が求められ、06年5月には前述の入管難民法改正によって外国人の入国に際して顔写真撮影と指紋採取が義務付けられた。バイオメトリクス技術が実用化されるに従って、あらゆる個人があらゆるシーンで位置と行動を同定=捕捉されるようになるであろうことは想像に難くない。今や私たち一人一人の全てが、犯罪者予備軍であると同時にテロリスト予備軍であり、リスク情報として管理されなければならなくなっている*34

 

リスクが一度認識されたら、後戻りすることはできない。リスクは常にどこにでも存在するため、リスクの管理がアジェンダに上った後には、リスクの不在や危険の軽微さを主張する側にこそ挙証責任が求められるようになる。あなたがそれを立証できないのであれば、安全を確保するために国家が介入することを拒むことはできない(白藤〔2007〕、53頁)。

新しい犯罪学のパラダイムは、犯罪の原因となる病理を治療するよりも、「ただリスクを最小にすることだけを考える」ものだった(ヤング〔2007〕、119頁)。セキュリティを確保するために重視されるべきなのは治療よりも予防であり、過去に遡及するよりも、未来を統御すべきである。「リスクは常に存在するために事前の配慮が国家に求められる」(大沢〔2007〕、5頁)。かくして、国民のセキュリティを確保「しなければならない」国家には、予見されるリスクを排除する「予防原則」に基づくことが迫られる。「個人aが将来、他者の権利を侵害するであろうという予測は、aの基本権を現在制限する正当性を基礎づける」ことを「主張する予防原則の命題は、それを唱えるだけで、確立した憲法学の知見に対する大胆な挑戦を意味する」(西原〔2008〕、76頁)。

この挑戦を基礎付けるのは、安全を「個人の権利自由の行使の前提」として位置付けながら、個人が有する「基本権」としての安全を確保することが「国家の義務」であると見做して「自由の制限は安全の確保のために行われる」のだから正当化し得ると主張する「安全の中の自由」論である(大沢〔2007〕、5頁、白藤〔2007〕、55頁)。いかにもナイーブに見えるこのような主張はしかし、「親密圏/人権」で見たような実質的自己決定の困難なケースを考慮に入れれば簡単に論駁することができるものではないし*35、高度の流動性ゆえの不安にさらされている現代社会においては極めて説得的に響くものであることは想像するに容易い。

 

かくして挑戦は一定の成果を得て、国家のメタモルフォーゼは進む。安全国家の現代的形態である「予防国家」の登場は、国家役割が社会的/福祉国家的に拡大するに伴って、個人の自律を基礎とする形式的な法の安定性――自由主義的命題――よりも実質的法益としての安全の確保――社会正義の実現――が国家の任務として引き受けられていくことの現れなのである(大沢〔2007〕、5-6頁、白藤〔2007〕、52頁)。たとえ予防国家が全体主義的な傾きを見せたとしても、「安全」――ひいては「安心」――の確保という「正当性」を覆すことができない限り、私たちはその傾きに身を任せるほかないいだろう(ベック〔1998〕、127-128頁)。

 

まさに危険の増大のゆえに危険社会において、民主主義に対する全く新しい種類の挑戦が生まれる。危険社会は危険に対する防衛のためという「正当な」全体主義的傾向を持っている。この全体主義は最悪の事態を阻止するためによくあることだが、別のもっと悪い事態を引き起こす。文明のもたらす「副作用」は政治的な「副作用」であり、政治上の民主主義体制の存続を脅かす。組織的に生み出される危険に直面して、二者択一の窮地に陥ることになる。民主主義体制が機能不全に陥るか、あるいは、権威主義的で公安国家的な「支柱」によって民主主義の基本原則を失効させてしまうかどちらかを選ばねばならない。このような事態を打破することこそが、当面する未来の危険社会における民主主義的な思考と行動に課せられた基本的課題である。

 

  • 参考文献
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    • 大沢秀介〔2007〕「現代社会の自由と安全」『公法研究』第69号
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    • 大谷昭宏〔2006〕『監視カメラは何を見ているのか』角川書店(角川oneテーマ21)
    • 小笠原みどり〔2003〕「視線の不公平――くらしに迫る監視カメラ」小倉利丸編『路上に自由を 監視カメラ徹底批判』インパクト出版会
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    • 門倉貴史・賃金クライシス取材班〔2008〕『貧困大国ニッポン 2割の日本人が年収200万円以下』宝島社(宝島新書)
    • 久保大〔2006〕『治安はほんとうに悪化しているのか』公人社
    • 警察庁〔1999〕『平成11年版 警察白書』
    • 警察庁〔2006〕『平成18年版 警察白書』
    • 警察庁〔2007a〕『平成19年版 警察白書』
    • 警察庁〔2007b〕「来日外国人の検挙状況(平成19年)」
    • 警察庁生活安全局生活安全企画課〔2008〕『平成19年における警備業の概況』
    • 小宮信夫〔2005〕『犯罪は「この場所」で起こる』光文社(光文社新書)
    • 斎藤貴男〔2004〕『安心のファシズム――支配されたがる人びと――』岩波書店(岩波新書)
    • 白藤博行〔2007〕「「安全の中の自由」論と警察行政法」『公法研究』第69号
    • 「生活安全条例」研究会編〔2005〕『生活安全条例とは何か 監視社会の先にあるもの』現代人文社

*1:なお、95年から06年までの間に、地方公務員総数は約28万人削減されている。

*2:人口10万人当たりの認知件数

*3:詐欺や横領などの「知能犯」は、50年前後をピーク(20万件超)として減少を続け、70年代半ばからやや増加するものの、80年代後半以降再び減少局面に入り、6万件前後で推移している(角田〔2005〕、203、207頁)。

*4:99年には神奈川県警での不祥事揉み消しや桶川ストーカー事件での埼玉県警の対応の不手際などが問題視され、警察に対する国民の信頼は一挙に失われた。批判を受けて00年8月、警察改革要綱が策定された。

*5:D.H.ベイリー『ニッポンの警察』(77年)、E.F.ヴォーゲル『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(79年)など。

*6:認知件数が増えれば、検挙件数が変わらなくても検挙率は下がる。

*7:「親密圏/人権」で論じたように、公権力に期待される役割が拡大し、警察が介入可能な範囲と程度が拡大したことによる仕事増加に対応し切れないことが、公権力の機能不全として認識され、不満と不安が増幅するという過程がここでは重要である。

*8:92年に警察庁長官が打ち出した検挙率向上の取り組みが影響している可能性もある。

*9:それ以前の流れは以下の様である。76年、警察庁に少年課が新設されるとともに、全国の都道府県警察でも一斉に新設され、予算と人員が付けられた。82年に少年非行総合対策要綱が策定される。84年には風俗営業取締法の全面改正に伴って警察の行政権が拡充され、深夜飲食店などに対して営業禁止権限を盾に時間制限や年少者立ち入り禁止などの規制を指示可能になった(渡辺〔2004-05〕)。

*10:07年5月に再度の改正が行われ、児童自立支援施設ではなく少年院に送致する年齢の下限が、14歳以上から「おおむね12歳以上」に引き下げられた。

*11:80年代における年少少年検挙人員の異常な伸びは、自転車盗の増加が主な原因であろう。

*12:来日外国人≒在日外国人-(永住者+永住者の配偶者等)-在日米軍関係者-在留資格不明の者≒外国人登録者-(永住者+永住者の配偶者等)+90日未満の滞在者+不法滞在者

*13:「その他の外国人」は来日外国人以外の在日外国人、すなわち永住者やその配偶者等および在日米軍関係者などを指す。

*14:ここでの「刑法犯」は、交通関係業過などを除いた「一般刑法犯」を指す。

*15:来日外国人総数は、「外国人登録者-(永住者+永住者の配偶者等)+90日未満の滞在者+不法滞在者」の式によって算出した。90日未満の滞在者は、その年に再入国の許可を得ずに出国した90日以内に出国した外国人の数を用いている。不法滞在者は、不法残留者・不法入国者・不法上陸者を合計して算出している。資料は、「統計」@入国管理局、総務省統計研修所〔2008〕、などを参照した。

*16:90日以内の滞在者数を日割で圧縮することによって1年当たりの実質滞在者数を算出する方法を採る論者もいるが、外国人登録者とて1年間滞在すると決まっているわけではないので、そうした方法が正しいのか、私には解らない。

*17:議論の詳細については「刑法39条を擁護してみる」を参照。

*18:中には、路上喫煙やつきまとい、ペットの糞尿についての規制にまで対象が拡散する例もある。「生活安全条例」研究会編〔2005〕、10頁。

*19:治安共同体化によって不審者視される可能性が高いのは、フリーター、ニート、ホームレス、移民、外国人、障害者などであり、彼らは後述する犯罪リスクが高い(と見做される)層と重なっている。

*20:私の家の近くにある小学校の門扉には、「公衆道徳を見つめる防犯カメラ」なる文句が掲げられている。語義矛盾が矛盾と感じられない程に、モラルに反していることは既に犯罪を意味しているのだ。

*21:強調は原文傍点。以下同じ。

*22:こうした考え方を象徴するのが今や有名になった「割れ窓理論」である。簡潔な紹介は、浜井・芹沢〔2007〕、162-163頁を参照。

*23:「行動計画」では、「国民が自らの安全を確保するための活動の支援」とともに「犯罪の生じにくい社会環境の整備」を強調して掲げており、環境犯罪学が当局に大いに取り入れられていることが分かる。

*24:環境犯罪学においては、単に物理的環境(アーキテクチャ)の設計に留まらず、地域の団結心や防犯意識を高めるなどの「人的環境」を整備することも犯罪機会を減少させるとして奨励される。

*25:06年末時点での平均収容率は115%(法務省〔2007〕、第2編)。

*26:「gated communityとリバタリアニズム」を参照。

*27:99年に通信傍受法が成立(00年8月から施行)。同年には、住民基本台帳法が改正され、住民基本台帳の電子化が定められた(02年8月に第一次稼働、03年8月に第二次稼働)。

*28:犯罪に強い社会の実現のための行動計画では、携帯電話やカーナビゲーション装置による位置情報の発信を防犯・防災に役立てる取り組みが挙げられている。

*29:なお、少なくとも01年以降、国会の外周などにカメラが設置され始めていると言う。小笠原〔2003〕、74頁。

*30:客観的事実に反して体感治安が悪化している事態を「非合理」と言って笑って済ませることの愚昧さは、ここからも明らかである。体感治安の悪化を訴える市民は、そうした不安も感じずに生活したいという価値観を表明しているのであり、他方、事実を重視する人々は、統計的な悪化が認められないならば生活上の不都合は存在しないはずである(事実に見合わない不安は社会的対処に値しない)との価値観を表明しており、両者は同レベルに位置する。ここでは異なる価値観が衝突しているに過ぎず、どちらかが正しいとか間違っているなどということが一義的に決定できるわけではない。結局のところ、社会的に何を問題と見做してどこまでの対応を為すべきかの判断は、何らかの形での政治的決定に委ねられるしかなく、科学的合理性によって自動的に解が出るものではないのである。また、リスクは一般的・統計的に測定されるものであり、本来ゼロにすることはできないために政策的にはコストに応じた対処が求められるべきであるが、一人一人の当事者にしてみれば自分や身の回りの被害や危険が全てであって、その領域においてリスク・ゼロが求められがちである(中西〔2004〕、100-101頁)。ここにリスクへの社会的対処の困難がある。

*31:例えば05年に発覚した耐震偽装問題を契機とする建築基準法の改正がそれに当たる。

*32:また、一方では自己関係領域をコントロールしたいと言う欲求は高まっているのに、同時に不確実性が高まっていることによってリスクが大きく感じられるため、リスク低減の求めが強まっている。

*33:92年には暴力団対策法が、99年には組織的犯罪処罰法が制定され、03年には、組織的犯罪を計画段階から取り締まり対象とする「共謀罪」を新設する法案が国会に提出された。同法案は二度の廃案後、06年に修正を経て再提出され、継続審議中である。

*34:同時多発テロは個人のエンパワーメントによって可能になり、その遂行によって個人の地位を更に高めた。私たちにとって光栄なことに、「テロとの戦争」――非対称な戦争――においては、たった一人の個人が国家の対等な敵と見做され得る。

*35:この意味で、「安全なくして自由なし」との主張は、自由主義から逸脱するような命題でありながら、紛れもなく自由主義から生まれ出てきたものであるとも言える。

現代日本社会研究のための覚え書き――親密圏/人権(第2版)

 

女性の権利と公私の分離

 

近代化を支えた主要な思想は、人権の観念である。アメリカ独立戦争やフランス革命など、18世紀以降の政治変革の中で、ヨーロッパの幾つかの国では、「普遍的」な人権が市民の手に獲得されていった。だが、そこで人権の主体となった「人間」の範囲には、女性は含まれていなかった。人権思想が定着していくにつれて女性の不満も高まり、19世紀後半から女性の地位向上を主張する社会運動が盛り上がってくる(第一波フェミニズム)。この時期の運動の主要な眼目は、男性と同等の法的地位を女性にも承認させることであり、具体的には参政権や財産権を女性にも拡大することが要求されていた。やがて1893年にニュージーランドで女性参政権が認められたのを皮切りに、20世紀前半には欧米各国で女性が政治に参与する道が開かれていく(1917年にソ連、20年に米国、28年に英国、44年にフランスで女性参政権が確立)。

 

1945年12月、日本でも女性に参政権が付与され、翌年4月の総選挙で初めて行使された。その後、79年に国連総会で女性差別撤廃条約が採択され、日本は85年に批准。同条約は、(1)男性と同等の権利を保障し、(2)法律上の平等にとどまらない事実上の平等の実現、(3)男性優位論や性別役割分業論の克服、(4)国その他の公的機関だけでなく、民間の企業および団体、個人によるものを含む、あらゆる形の差別を取り締まることを求めている。これを受けて、同年に男女雇用機会均等法が成立。同法は、二度改正されており、97年の一回目の改正(99年施行)では、募集・採用から退職までの差別の禁止や事業者にセクシュアル・ハラスメント防止への配慮を義務付ける規定などが盛り込まれた*1。2006年の二度目の改正(07年施行)では、間接差別への言及が初めて為された。

この間、99年に男女共同参画社会基本法が成立している。「男女共同参画」の推進が政府の方針として明確に位置付けられたのは、総理府に男女共同参画室および男女共同参画審議会が時限設置されると同時に、婦人問題企画推進本部(75年~)が男女共同参画推進本部に改組されて内閣に設置された94年である。96年7月には、男女共同参画審議会が「男女共同参画ビジョン」を答申。これを受けて、同年12月に推進本部が「男女共同参画2000年プラン」を策定した。翌年4月には男女共同参画審議会が新たに設置され、98年11月に同審議会による答申「男女共同参画社会基本法について」が提出された。答申に基づき、翌年6月に男女共同参画社会基本法が成立・施行されている。2000年5月には審議会が新たに「男女共同参画基本計画策定に当たっての基本的な考え方」の答申を行い、これに基づいた男女共同参画基本計画が同年12月に閣議決定された(05年12月に第二次計画を閣議決定)。01年には省庁再編に伴って内閣府に男女共同参画局が設置され、男女共同参画会議が編成されている。

 

各領域での現状と国際比較を見る限り(内閣府〔2007〕、第1部第2節)、未だ「男女共同参画」が十分であるとはとても言えないが、女性の社会進出が拡大していることは疑いのないところである*2。それに並行して、性別役割分業意識も弱まってきている。「夫は外で働き、妻は家を守るべきである」という考えに賛成する人は70年代末には7割を超えていたが、現在では賛否の割合が拮抗している(山田〔2005〕、174頁)。女性は結婚したら家庭を守ることに専念した方がよいと考える人の割合は減少し、結婚して子供が生まれてもできるだけ職業を持ち続けた方がよいと考える人が増加している(NHK放送文化研究所編〔2004〕、36-37頁)。また、夫が家事や育児をするのは当然と考える人の割合は年々増加しており、その傾向は男女に共通である(同、32-33頁)。

 

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もっとも、現実の男性が家事に参加している程度を見ると、欧米諸国と比較して未だ不十分であると言わざるを得ない(湯沢〔2003〕、31、117頁)*3。意識がある程度変わっても、実態の変化はそこまで追い付いていないということだろう。加えて、家計を支える責任の所在を夫に求める人はまだまだ圧倒的多数を占めている(山田〔2005〕、176-177頁)。この点では、意識の変革さえあまり進んでいないと言えるかもしれない。

 

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20世紀前半までの女性運動で問題にされていたのは、法的地位や権利など、公的空間での形式的な平等であった。そこでは男性優位論や特性論、性別役割分業論に対する理論的な批判はあまり行われなかったし、制度的地位が女性に保障された後でも、人々の意識の変革がそれ程進んだわけではなかった(井上〔2006〕、196-201頁)。1920年代には終息した第一波フェミニズムの後、制度的な地位や権利の平等だけでは依然として解決されない経済的・社会的不平等に対して、制度を支えている考え方そのものを問題にする女性運動が盛り上がるのは、60年代後半になってからである(第二波フェミニズム)。

この時期の運動においては、社会の中に根付いている家父長制(男性が女性を支配し抑圧する構造)を鋭く抉り出す批判が激しく繰り広げられ、社会内部の不平等な力関係が私的空間における男性の権威的・暴力的振る舞いを促進し、私的空間における不均衡な男女関係が男性優位の社会構造の再生産に貢献するという循環構造が問題にされた(戒能〔1997〕、284頁)。公的な領域での権力関係は私的領域に由来するのだから、公的空間における制度的な平等を目指すだけでは不十分で、私的空間における男女関係の在り方や、それを規定している意識を問題にしなければならない。そこでは、近代的な公私二分論が俎上に載せられ、政治は公的なこと・集団的なことだけを扱うものだと考える仕方は間違っていると主張されたのである。このように私的領域(親密圏)における問題、従来は個人的なことと見られていた問題が公共的な関心に見合う問題であると主張されたこと(「親密圏の公共化」)は、近代の原理に重大な見直しを迫るものであった。

 

親密圏の暴力と公権力

 

もっとも、「個人的なことは政治的である」という第二波フェミニズムのスローガンは、私的領域の範囲が政治的に決定されるという意味であって、公私の区分そのものの廃棄が主張されたわけではない(仲正〔2007〕、119-120頁、井上〔2006〕、209頁)。近代における公私区分は、多様な価値の追求が許される私的領域を自由が制約され得る公的領域から切り離して確保しておくことによって、個人の自由を保障するために構築された(仲正〔2007〕、69-70頁)。国家に対置される「市民社会」においては私的自治の原則が支配するものとされ、私人同士の問題解決は基本的に社会内部の問題解決能力に委ねられてきた。憲法が保障する人権はあくまでも国家を相手取って主張されるのが主であり、公権力が市民間の紛争に介入することは抑制されるべきとされていた(民事不介入)。特に家庭のような親密圏に公権力が踏み込むことはほとんど無かった。地域に密着した「おまわりさん」が夫婦喧嘩のような身近なトラブルにも関与を持つことは日本警察の特色の一つではあったが、そうはいっても実際には仲裁以上のことは行われないのが従来であった。現在の位置から読むと一種味わい深いことに、90年代半ばまでの日本警察の姿は、「一一〇番しても来ない、来ても「夫婦ゲンカだから」とすぐ帰る、被害届を受け付けない、告訴を勧めない」などの対応が目立ち、「ドメスティック・バイオレンスを犯罪と明確に認識しておらず、まともにとりあおうとしない」ものだと要約されている(戒能〔1997〕、298頁)。

 

ところが、2000年代に入って以降、親密圏における暴力を防止し、被害者を保護・救済するために公権力の積極的な関与を定める立法が相次いでいる。それは、第二波フェミニズム以降に提起された公私区分の問い直しが、具体的な政治プロセスに上ったものであると見做せる。

 

まず、2000年5月に児童虐待防止法(児童虐待の防止等に関する法律)が施行された。同法は、身体的虐待・性的虐待・ネグレクト・心理的虐待を禁止対象とし、児童福祉に係る者の早期発見義務と一般的な通告義務を定めている。通告を受けた福祉事務所ないし児童相談所は、児童の安全を確認した上で必要に応じて一時保護などの措置を行うことができるものとされ、都道府県知事の許可を得た上で、虐待が疑われる家庭への立ち入り調査を行う権限が与えられる。その後、二度の改正(05年、07年)を経て、虐待が疑われる児童の保護者に出頭を要求する制度や、児童養護施設などに入所させられた保護児童に対して虐待を行った保護者の接近を禁止する命令を発することができる制度などが新設された。

 

同じく2000年5月、ストーカー規制法(ストーカー行為等の規制等に関する法律)が成立し、同年11月から施行されている*4。同法は「つきまとい等」と規定した8種の行為と、当該行為を同一の相手に対して繰り返し行う「ストーカー行為」を規制対象として、警察本部長による警告及び都道府県公安委員会による禁止命令措置ができる旨を定めており、禁止命令に従わない場合には、罰則が科せられる(ストーカー行為の場合には告訴によって検挙対象になる)。

 

続く01年4月には、DV防止法(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律)が制定されている(同年10月施行)*5。同法は、配偶者からの身体に対する暴力を規制し、被害者を保護するために、裁判所が加害者に対して被害者への接近禁止(6か月)や住居からの退去(2週間)などの罰則規定を伴う保護命令を発することができることを定めたものである。04年の改正により、「(身体に対する暴力)に準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動」が規制対象に加えられるとともに、退去期間の2か月への延長、被害者と同居する子への接近禁止(6か月)の新設などが盛り込まれた。同法の規定によれば、都道府県が設置する配偶者暴力相談支援センター(婦人相談所など)は被害者の相談や一時保護などに応じるものとされ、警察は被害発生の防止のために必要な措置を講じることとされている。

 

児童虐待防止法の立法背景には、89年に国連で採択された子どもの権利条約を、日本が90年に署名、94年に批准したことに伴う国内法制整備が挙げられる。99年には児童買春・ポルノ防止法(児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律)が成立している。虐待そのものの状況はどうかと、児童相談所で対応した相談件数の推移を見てみると(下図)、一貫した増加傾向にあり、特に90年代末からは飛躍的な伸びを見せ、2006年度現在では37,323件に上っている(厚生労働省〔2007〕)。また、2006年度の立ち入り調査件数は238件、一時保護件数は7,081件である。

 

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これだけの増加を、法施行と虐待問題への認識が拡大したことによる暗数の顕在化だけで説明することは困難であるから、児童虐待は現に増えているものと思われる。児童虐待につながる要因として指摘されているものは、大きく経済問題(経済的困難、就労の不安定、劣悪な住環境)と育児環境(親族、近隣、友人から孤立、ひとり親家庭、育児に嫌悪感、拒否感情、育児疲れ、他の家族間のあつれき)の二つに分けられる(内閣府〔2001〕、第3-3図)。虐待の増加を90年代以降に見るのならば、その説明として考えられるのは、これら二方向での状況の悪化であろう。すなわち、経済問題では(1)長期の不況、(2)低所得世帯の増加、(3)雇用の流動化が*6、育児環境では(4)育児ネットワークの衰退(核家族化/地域の流動化)、(5)離婚率の上昇が挙げられる。ただし、(4)については育児ネットワークは弱体化していないとの研究(井上〔2005〕)から否定され得る*7。育児への嫌悪感や拒否感情を持つ親の割合が急激に増加するとは考えにくいため、そうした心理的要因よりも、離婚の増加に代表されるような家庭内の流動性の上昇に経済的な不安定性が重なったことが虐待増加の主因であろう。

 

次に、ストーカー規制法の立法背景としては、前年の桶川ストーカー事件の影響が大きく、成立過程そのものに歴史的意味を見出すことには無理がある。では、帰結からすればどうか。警察が規定する「ストーカー事案」の認知件数は、03年→07年に11,923件→13,463件と増加している(警察庁〔2008a〕)*8。同じ期間内の警告件数や検挙件数は増加しているが、禁止命令の発令件数は減少している。目立って増加しているのは「警察本部長等の援助」(856件→2,141件)、すなわち仲介や相談である。統計的な概況を眺める限り、現下において進行しているのは、親密圏への警察権力の侵食であるよりも、警察の単純な負担増が主であると考える方が自然かもしれない*9

 

他方、DV防止法に関しては、その背景について豊かな指摘を行い易い。同法が超党派の女性議員で構成されたプロジェクトチームから議員立法された経緯からもうかがうことができるように、その背景にはフェミニズムおよび男女共同参画の国際的潮流が存在している(戒能〔1997〕、289-294頁)。国際連合総会は、85年に「ドメスティック・バイオレンスに関する決議」を採択し、93年には「女性に対する暴力撤廃宣言」を採択している。これらの外圧が立法の実現に影響を及ぼしたことは想像に難くない。とはいえ、ウーマンリブによる「夫の暴力からの駆け込み寺をつくろう」とする運動を受けて、77年に東京都の婦人相談所が「緊急保護と自立支援を要する女性のための機関として再オープン」した事例があるように(戒能〔1997〕、288頁)、国内の継続的な運動によって地歩が固められていたことを無視することはできない。

DV被害の現況はどうなっているだろうか。警察が発表している「配偶者からの暴力相談等」の対応件数は、02年→07年の間に14,140件→20,992件と着実に増加しており(警察庁〔2008b〕、「配偶者からの暴力に関するデータ」@内閣府男女共同参画局)、保護命令の発令件数も、1,128件から2,186件へと増加している(前掲「配偶者からの暴力に関するデータ」)。また、配偶者暴力相談支援センターへの相談件数も、同じ期間内に35,943件から62,078件へと大幅な増加を見せている(同)。ストーカー規制法との比較で言えば、単なる相談件数の増加に留まらない「公権力による親密圏への介入」を見出しやすい現状である。

 

近時、以上のように親密圏への公権力の介入を為し得る立法が連続した背景には、個人化がある。近代市民社会の原則たる私的自治は、自由で平等な個人が自己決定によって様々な関係を採り結んでいくことを前提としている。しかし現実には、家庭をはじめとする様々な中間団体内部において、個人が自己決定を不能にされ、抑圧的な扱いを受けることが少なくなかった。最近10年程度の間に公私区分の問い直しが立法化にまで至っているのは、個人化に伴ってエンパワーメントされた個人が、実質的な自由を手に入れる――自己決定を可能にする――ために、中間団体内部の暴力を告発し、国家による中間団体への介入を求めていることによる*10。従来は家族が社会内部の最小の単位とされ、その構成員が一体的に捉えられがちであったため、構成員相互の暴力が見逃されてきた。だが、単に女性の地位向上と言うに留まらない――それだけでは児童虐待など他の問題を把握できない――個人化によって、家族の構成員一人一人の権利が配慮されるようになったのである。

 

戒能民江は言う。「伝統的な権力論では市民と国家権力の対立関係が主要軸となり、もう一方にある市民社会内部、とりわけ家族や私的な女と男の間の権力関係は問われることがなかった」(戒能〔1997〕、300頁)。伝統的な法律学は、権力による保護を求めず、権力から自立/自律し、むしろ権力と対決していこうとする近代的主体像(「強い個人」)を措定した上で(只野〔2006〕、184頁)、警察権の親密圏への介入に批判的であった/ある(「法は家庭に入らず」)。伝統的立場に抗して戒能が押し出す主張は明確である。「「家族的奴隷制」に閉じ込められた暴力の被害者の保護と安全の確保のためには、加害者を引き離し、暴力をやめさせる強制力として、警察権の適正な行使が必要なのである」(同、301頁)*11。ここには、人権を実質的に保障するためには、国家権力が積極的に市民社会や親密圏の中に入り込んでいくこともためらわれるべきではないという、脱‐近代的な認識が鮮明に見て取れる。

 

無論、これらの趨勢には評価すべき面が大きい。とはいえ、そこに国家権力の肥大化という問題がはらまれていることは否定できない。ある良心的な憲法学者は、従来の法学的常識との整合性を尊重しつつ、「すべてのものに自己決定の実質的可能性や条件が保障される」ためには、「生命身体への重大な危害、あるいは恒常的な「暴力」「支配」のものに置かれた人々を保護するための介入が、許容されるのみならず、要請される」ことがあると認めると同時に、「公権力による直接的な介入は、原則としてかような要請が強く働く場合に限定されよう」と但し書きを付すことを忘れない(只野〔2006〕、184頁)。しかしながら、肝心なのはむしろそこから先の問題、つまり「かような要請」の有無や強度の判断が、誰の手によって、どのようにして行われ得るのかということである。介入の前提となる判断の基準が乏しく、公権力の裁量によるところが大きければ、それだけ恣意的な運用がなされる危険性は増すことになる。公私の区分が問い直されるに伴い、公権力の在り方も変容することは避けられない。それをどのようにコントロール/デザインしていくのかは、避けることのできない課題として、「個人的なことは政治的である」との声が挙げられた場に投げ返されてくる。

 

プライバシーと自己決定への欲望

 

近年、「プライバシー」「プライベート」なる言葉が人口に膾炙する一方、個人情報保護が政治的イシューとして一般化しているが、これらは公私区分の問い直しと公権力の再編成の問題に深くかかわっている。現在ではプライバシーと言えば個人情報全般を指すかのような理解が一般的であるが、“privacy”は、古典的には「一人で居させてもらう権利」を意味した。それは元々、19世紀末から20世紀前半の米国におけるイエロージャーナリズムの興隆を背景として主張された、私生活への望まない侵入を排除する権利だったが、その保護範囲は次第に拡大されていく(白田〔2003〕、82-87頁、仲正〔2007〕、78-90頁)。1965年に連邦最高裁判所はプライバシーの権利を憲法上保護されるものとして承認したが、67年の判例では、「人がプライベートにしておこうとするものは、たとえ外部からアクセスしうるものであっても憲法上保護される」と述べられるに至り、プライバシー権の保護領域が合理的期待を認められる仮想空間まで拡張された。70年代には情報化社会の到来が喚起した「ビッグブラザー」への警戒を背景としながら(岡村〔2005〕、21頁)、国家による私的領域への介入を拒絶するプライバシー権の判例が形成されていく*12

プライバシー権の主張が個人情報保護の意味合いを帯びてくるのは、この頃からである。情報化は、個人情報保護のイシュー化をもたらし、同時にプライバシー概念をそこに合流させた(白田〔2003〕、91-96頁)。理論的には、まず67年に、A.ウェスティンが「プライバシーとは、個人、グループ、または組織が、自己に関する情報を、いつ、どのように、どの程度伝えるかを自ら決定できる権利」であるとの主張を行い、続いて71年、A.R.ミラーがプライバシーの権利を「自己に関する情報の流れをコントロールする権利」と定式化した(白田〔2003〕、88頁、白田〔1999〕、仲正〔2007〕、98-99頁)。後述するような「自己情報コントロール権」としてのプライバシー権の理解が登場するのである。

 

個人情報保護法制の流れをさらっておこう。60年代に実用化されたコンピュータは、70年代には行政機関での導入が進み、膨大な個人情報の管理に利用されるようになった。これを受けて、欧米では個人情報保護に関する立法が相次ぎ(並行して情報公開法制も進む)、日本でも各自治体で条例が作られるようになった。80年にOECD理事会でプライバシー保護と個人データの国際流通についてのガイドラインに関する勧告が採択され、個人情報保護に関する8原則が示される(OECD理事会勧告8原則@総務省)。日本では、88年に行政機関の保有する電子計算機処理に係る個人情報の保護に関する法律が公布されたものの、民間部門も含む包括的な個人情報保護法制の整備は滞っていた。

99年8月、住民基本台帳法が改正され、住民基本台帳ネットワークの整備が開始される(2002年8月運用開始)。個人情報保護法制を巡る情勢が動き始めるのはこの前後からであるが、それは、住基ネットの稼働後に個人情報が民間団体などに流出した際に備えて、民間事業者への規制を可能にする法整備が必要とされたことによる(岡村〔2005〕、28-30頁)。2000年10月には、政府高度情報通信社会推進本部の個人情報保護法制化専門委員会が「個人情報保護基本法制に関する大綱」を策定し、これに基づいて、翌年3月には個人情報の保護に関する法律案が国会に提出された。同法案は02年の国会で廃案となるが、03年3月に再提出され、5月に成立した(05年4月から全面施行)*13

 

古典的なプライバシー概念の意味は、公的領域から切り離された私的領域で「放っておいてもらう」という意味で、伝統的な公私二分論に支えられていた。それが自己情報コントロール権のような意味を帯び出して、むしろ公権力による積極的な規制や保護を求めるようになっていく過程は、親密圏における暴力事案への公権力の介入が求められていく過程とパラレルである。しかし、そこでは公私の区分が曖昧になっていると言うよりは、私的領域の範囲が個人単位に縮小していっているのだと考えた方がよい。つまり、個人化である。従来のプライバシー概念は「家のプライバシー」を問題にしていたが、プライバシーの意味は次第に脱領域化され、「個人のプライバシー」へと移り変わっていく。そして、そのようにして最小化された私的領域における権利を保護するのは、国家である他無い。

 

ところが興味深いことに、「自己情報コントロール権」を肯定的に捉え、その確立を積極的に訴えているのは、日本弁護士連合会や日本共産党など、むしろリベラル勢力や左翼勢力の側に目立つ。日弁連は国家による個人の監視・管理の強化が進むことを警戒しつつ、「憲法13条が定める個人の尊厳の確保、幸福追求権の保障の中に自己情報コントロール権が含まれることを改めて銘記し、自己の情報が無限定に収集・利用・提供されることを防止するとともに、他人によって収集・管理・利用・提供されている自己の情報について開示・訂正・抹消を求めることができることを再確認する必要がある」との驚愕すべき主張を行っている(日本弁護士連合会〔2004〕)。共産党は、自己情報コントロール権を「どんな自己情報が集められているかを知り、不当に使われないよう関与する権利」と定義した上で*14、個人情報保護法への明記を求めている*15

日弁連が主張するように、自己の情報が「予期しない形」で「収集・管理・利用・提供されること」一般を防止しなければならないとなれば、私たちの社会生活や人間関係は、全て停止せざるを得ないだろう。そこまで徹底せずとも、あらゆる個人が自らの情報を自らの欲する範囲にしか流通させまいとする社会では様々な活動が円滑さを失うであろうことは想像するに容易いし、現に個人情報保護法施行後には少なくない実例が得られている。また、現代社会では個人情報が流通する規模は公共部門よりも民間部門の方が圧倒的に大きいのであるから、各人が自己情報コントロール権を実現しようとすれば、国家による法規制に依存する度合いが強まることは必定である。このような権利の確立を声高に主張する人々の思惑がどうあれ、その要求が国家の役割強化に結びつかない未来は想定不可能と言わざるを得ない。

 

もっとも、左派勢力こそが自己情報コントロール権の実現を求める事態には、不可解なところは無い。自己情報コントロール権なる主張は、自己に関わる全てのことをコントロールしたい、管理したい、自己決定したいと言う欲望に支えられている。これは、人権思想が自然に喚起する欲望であり、自由主義思想が当然に行き着く進歩的な価値観に支えられている。それが現代社会のありとあらゆる領域に浸透している欲望であり、市場原理に親和的な消費者的欲望であることにも、何ら不思議なところは無い*16。それは近代化の必然であり、人権思想の勝利であると見做すべきなのだ。この欲望を否定したところに、よりよい社会など存在しない。少なくとも私は、そう思う*17

 

犯罪被害者の権利と「役に立つ」司法

 

ここまで採り上げてきた問題と並列にして犯罪被害者の問題を論じることには当惑を覚える向きもあるかもしれない。だが、人権をテコにした国家役割の変容を捉える上では、この問題を抜きにすることはできない。また、特に最近10年程度の間に被害者運動が急速に盛り上がりを見せた理由も、その現象をよりマクロな見取り図の中に置くことによって理解し易くなるだろう*18

 

中世までは、犯罪の被害者が加害者への賠償要求や攻撃によって直接被害を回復すること(自力救済)が広く行われていたが、国家が国の隅々まで権力を行使するようになる近代への移行に従って、犯罪者を罰する権利は国家の独占的権限として社会から回収されていった。復讐などの自力救済は禁じられ、犯罪者は国家の法に従って、国家によって裁かれ、罰せられるようになる。

刑罰権の独占は、強大な権力を国家が握ることを意味したから、その権力が恣意的に用いられれば、被疑者・被告人・囚人などの人権が侵害されかねない。憲法や様々な法律によって刑事事件における厳密な手続きが取り決められたのは、そのような人権侵害を未然に防ぎ、あまりにも強大な国家権力に相対する国民を保護するためである。現代では加害者の人権が「過」保護されることに批判が集まりがちであるが、近代的な立憲主義は個人の権利や自由を確保するために国家権力を制限することを目的としていたこと、そして人権概念が何よりも「公権力からの不当な侵害を抑制する原理として発展してきた」(只野〔2006〕、177頁)ことを思えば、刑事司法において加害者の人権が保護されるのは当然であった。

また、検察は被害者の代理ではなく国家の代表であるため、被害者の権利・利益の救済よりも一般的な法益保護を主目的として行動するのが本来である。国家による法益保護・回復行為を妨げると見做されれば、たとえ被害者による行為であっても制約される。加害者への報復が禁じられ、処罰権力が国家によって独占されているのは、その現れである。これもまた伝統的な法学の常識と言うべきであるが、現在ではこうした法学的常識こそが挑戦を受けているのである。

 

さて、現代のような形で犯罪被害者の地位がイシュー化されたのは、1960年代の英米・カナダ・オーストラリアなどの国々でのことであった。64年に英国で犯罪被害者への国家補償制度が成立し、70年代には犯罪被害者を支援する民間組織が設立されていく。85年には国連犯罪防止会議が「被害者の人権宣言」を採択。90年には、英国内務省が「被害者憲章 犯罪被害者の権利についての宣言」を制定した。96年には、この憲章を後継する形で、新たに「犯罪被害者のサービスの基準についての宣言」を制定した。

翻って日本では、80年に犯罪被害者等給付金支給法が制定された(81年施行)ものの、未だ犯罪被害者の地位が本格的な政策課題として採り上げられるまでには至っていなかった。給付金制度が設けられたといっても、それは加害者や労災などから何らの補償も得られなかった被害者にごくわずかな一時金が出るだけの例外的な恩恵措置であった。被害者への連絡を根拠づける法律がないことを理由に、事件の捜査状況や公判日程などはほとんど連絡されなかったため、被害者が新聞記事やマスコミ関係者を通じて事件の情報を得ることは珍しくなかった。公判を傍聴する際にも、公判記録の閲覧権が認められていないことを理由に、マスコミには配られる起訴状・弁論要旨・論告要旨・判決文などは被害者には一切開示されず、被害者は裁判の進行から取り残されがちであった。その上、刑事裁判での公判記録を利用できないため、民事訴訟を提起するための資料として、新聞記事に頼るしかない場合も少なくなかったという*19。総じて、刑事司法が犯罪被害者を無視してきたことは確かだと言えるだろう。

 

事態が変化を見せ始めるのは、地下鉄サリン事件を経た90年代後半である。被害者の精神的苦痛や経済的苦境が知られ始める中、96年に警察庁が犯罪被害者対策への取り組みを開始し、「被害者対策要綱」を取りまとめる。翌97年には警察から犯罪被害者への連絡制度が全都道府県で整備され(被害者連絡制度@警察庁)、被害者が事件の捜査・処理状況や被疑者についての情報を知ることが可能になった*20。同じ年には、日弁連も犯罪被害回復制度等検討協議会を設置し、被害者問題への取り組みを始める。

98年に設立された全国被害者支援ネットワークは、翌99年に「犯罪被害者の権利宣言」を発表する。これは、日本での被害者の地位向上を目指す運動を明確に「権利の言説」の上に載せたという意味で重要な文書である。同年、日弁連の検討協議会は「犯罪被害者基本法」の要綱案を取りまとめており、埼玉県嵐山町議会では、犯罪被害者等支援条例が成立していた(2000年施行)。また、警察に続いて検察も被害者通知制度の整備に着手し、公判期日や裁判結果が(希望する)被害者に直接通知されるようになった(被疑者等通知制度@法務省)。

2000年には、前年から法務省内部で議論が行われていた犯罪被害者保護二法が成立する。その主な内容は、(1)公判中に原則一度、被害者による意見陳述(30分)を認める、(2)民事訴訟を提起するためであれば、公判記録の一部を閲覧することができる、(3)性犯罪被害者が証言を行う際に、衝立によって姿を隠すことや、別室からビデオを用いて証言する方法を認める、というものである。90年代後半の被害者運動が結実したものと言えようが、被害者にとっては依然として不満が少なくなかった。同年末に設立シンポジウムを開いた全国犯罪被害者の会(あすの会)は、そうした不満を積極的に表明し、以降の被害者運動の主導的役割を担っていく。

 

01年、犯罪被害者給付金制度が改正され、給付水準の引き上げなどの改善が行われる(犯罪被害給付制度とは@警察庁)。03年には、犯罪被害者の会が被害者の公訴参加と附帯私訴制度導入を求める署名を森山眞弓法務大臣に提出。翌04年、被害者運動の盛り上がりと国民による支持の拡大を感じ取った小泉純一郎首相は、自民党内部に「犯罪被害者プロジェクトチーム」を組織して検討を進めるよう指示。この検討会には被害者団体の代表も参加しており、取りまとめられた「犯罪被害者のための総合的施策のあり方に関する提言」は、犯罪被害者等基本法案の下敷きとなった。被害者の権利を強調する同法案は、議員立法の形で可決成立を果たす(犯罪被害者等基本法)。

基本法に基づき、2005年には政府の犯罪被害者等施策推進会議犯罪被害者等基本計画を作成。また、2007年には犯罪被害者の刑事裁判への参加制度と附帯私訴を新設する法改正が行われた*21。ここに、日本の犯罪被害者運動は最大の達成を得て、新たな段階に入った。

 

犯罪被害者運動について語る際、それが国家による「保護」を求めた結果として国家権力の強化を助けた、などという安易な否定的評価を下すことは、運動当事者にとっては全く笑止千万のことであろう。被害者の地位向上を国家による(恣意的・散発的)「恩恵」としてではなく、被害者が当然に持つべき(必然的・恒常的)「権利」として実現しなければならないというテーゼこそ、(少なくとも90年代末以降の)被害者運動の中心で掲げられていたものだったからである。無論、機能面からすれば「国家権力の強化」に繋がる部分があるとしても、「恩恵から権利へ」の移行が国家のフリーハンドになる範囲を限定するものであることを考えれば、一面的な評価ははばかられるはずである。

 

全国犯罪被害者の会の代表幹事を務める弁護士の岡村勲は、被害者を排除してきた日本の刑事司法に底流する論理として、「犯罪の捜査及び検察官による公訴権の行使は、国家及び社会の秩序維持という公益を図るために行われるものであって、犯罪の被害者の被侵害利益ないし損害の回復を目的とするものではなく被害者又は告訴人が捜査又は公訴提起によって受ける利益は、公益上の見地に立って行われる捜査又は公訴の提起によって反射的にもたらされる事実上の利益にすぎず、法律上保護された利益ではないというべきである」と述べた1990年の最高裁判決を槍玉にあげる(岡村〔2000〕)。

これは従来の法学的常識に則った論理であるが、岡村の述べるところによれば、このような論理に拠って立つ「司法は被害者にとっては役に立たない」ことが分かったので、「被害者は、自分たちの権利に目覚め、刑事司法を被害者のために取り戻すために立ちあがったのである」。重要な言である。司法は被害者の「役に立つ」ものでなければならないのだ。ここに見られるのは、国家に依存する態度と言うよりも国家を利用する態度であり、「国が何とかしてほしい」という受動的・依頼的姿勢であるよりも、「国がやるべきことをやっていない」という能動的・批判的姿勢である。このような姿勢は、女性の権利を訴える立場や、親密圏における人権侵害の救済を求める立場、自らの個人情報や私生活にアクセス可能な相手を自由に限定したいと感じる人々と共通したものである。

その共通性とは、人権/権利をテコにした主張を行っているということであり、当然認められるべき便益を求める権利主体者として発言しているという部分に在る(権利の言説)。現代社会は、まさにこのような権利言説が全面化した社会である。そして、現代国家の変容は、そのような「権利化社会」の反映として現われているのである。権利の言説は、国家が為すべきことを定め国家に要求できる資格を個人に獲得させるという意味で、確かに国家権力を縛る面がある。とはいえ、権利の実現を保障する役割を国家に求め、そのための能力を国家に具備することを認める点で、国家権力の強化という面も間違いなくある。その両面を過不足なく捉え、適切な評価を与えることが、現代の困難な課題なのである。

 

介入国家――人権に対する脅威から人権の擁護者へ

 

そもそも近代法は、公私の領域を明確に区分した上で、私的領域については各人の自由(私的自治)に委ねる一方、公的領域における「主体」のあるべき姿を規定してきた。それは「自律した個」という一種のフィクションではあるが、権利を有し、義務を果たし、責任を負うという近代的な法主体像が公的領域において構築されることは、私的領域においても個人が前近代的な共同性/関係性からの自由を獲得することを間接的に支援する意味合いがあった(和田〔2004〕、414-415頁)。

和田仁孝によれば、現代の司法には、民事・刑事を問わず、紛争当事者間の具体的関係性や感情への適切な配慮を求めるなど、本来は司法システムの外部に位置していたニーズが向けられるようになっていると言う(和田〔2004〕、414頁)。近代的な司法には元々、「法主体」としての個人を単位と見る点で、現実の紛争に対しては部分的な応答性しか備わっていない。従来は、地域や家族など、共同性を残した市民社会内部の集団や機構が、司法によっては掬い/救い尽くせないニーズに何らかの形で対処してきた(手当/抑圧)。だが、社会が流動化して個人の自由が拡大すればするほど、かつての共同的な社会制度の問題解決機能を期待することは困難になり、「法主体」的な個人を単位とした関係性が全面化する(和田〔2004〕、416-417頁)。これは、いわば近代的な法主体化プロジェクトの完成である。しかし、その完成は個人をして司法により多くのことを求めるように駆り立てる一方、それゆえにこそ部分的な応答性しか有しない司法の「機能不全」に苛立ち、司法制度や法曹への批判を強めていく。批判にさらされる司法の側は、その姿勢の変更を余儀なくされ、市民への応答性を高めようとする(和田〔2004〕、418-420頁)。近年において司法官僚が世論に敏感となって、被害者や国民の感情に配慮を示し、「市民感覚」を重視するようになっているのは、その現れである*22

今や司法を支配するべきは「市民感覚」である。しかし、その中身が明らかにされることは決してない。ただ「市民感覚」と大書された空っぽの容器に、各々の正義観/感に基づいた自前の法解釈が充填される*23。それでも「市民感覚」さえあれば、専門的知見と対等以上に渡り合うことができる(和田〔2004〕、421-422頁)。岡村が言うように、司法は市民の「役に立たなければならない」。そこには、「司法は(各自が解釈する)正義を実現しなければならない」という善意だけでなく、司法を積極的に活用しようとする消費者的な「権利意識」の伸長が見える(和田〔2004〕、422頁)。

 

さて、既にまとめるまでもなく論旨は明らかであるが、一応まとめておこう。人権思想の浸透に伴って、国家役割が変容した。従来は人権に対する脅威であり、侵害者としてその権力を制約しなければならないとされていた国家が、社会内部の人権侵害者から個人を擁護し、保護する役割を割り当てられるようになった。国家に対抗的・警戒的な近代的(自由主義的)法律学は影響力を失いつつあり、代わって人権を守るための能動的・積極的介入を国家に求める新たな立場が支持を拡大しつつある。

 

このような変化を総合/象徴するかのように思えるのが、人権擁護法案である。1996年に制定された人権擁護施策推進法に基づき、1997年に人権擁護推進審議会が設置され、2001年に答申「人権救済制度の在り方について」が提出される。この答申に基づいて、02年に人権擁護法案が国会提出されたが、継続審議の末、03年に廃案となった。05年に再提出の動きが見られたものの、与党内で意見の一致を見ず、提出が断念されている。現在でも与党・政府内には提出を模索する活動が継続している。

同法案は、「不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為」を禁止し、人権侵害の予防・救済のために独立行政委員会(法務省外局)として人権委員会を設置することを定めている。委員会は、あらゆる侵害行為を対象として、助言や他の機関・団体の紹介、その他の援助、加害者への説示・啓発・指導といった一般救済措置と、そのために必要な調査を任意で行うことができる。また、公務員による差別・虐待、商店やサービス業者が顧客に対して行う差別、事業主が労働者に対して行う差別、「人種などの共通の属性を有する不特定多数の者」に対する悪質な差別的言動、セクハラ、児童虐待、DV、マスメディアによるプライバシー侵害や過剰取材など特別な人権侵害行為を対象として、調停・仲裁、勧告とその公表、訴訟援助などの特別救済措置を行うことができる。特別救済措置の場合、出頭や資料提出の要求や立ち入り調査などの権限が認められており、拒絶や妨害に対しては過料規定が設けられている。

 

同法案は、公権力からの不当な侵害に留まらず、市民社会内部の人権侵害を防止・救済するために国家的機関が介入を為し得ることを定めている点に特徴がある。それは、国家役割の変容を国家自身が引き受けていく宣言のようにも見え、上で取り扱ってきたような多様な領域での現象と関連して、無視できない歴史的意味を主張している*24

 

個人化の中で、中間集団からの自由を求める個人が国家への依存を強めるのは自然なことである。そこには個人の自由の拡大と権利の実現という評価すべき歴史の成果が燦然と輝いている。他方、そのような人権思想の浸透と権利意識の伸長が、国家役割の変容をもたらし、権力布置の再編を進行させていることを見逃すわけにもいかない。本シリーズが繰り返し強調しているのは、このような現状の両価性なのである。

 

*1:89年にセクシュアル・ハラスメントを理由とした民事訴訟が日本で初めて提起され、92年に福岡地裁で実質的にセクハラを認定した初の判決が出された。

*2:例えば、法曹人口に占める女性の割合は年々増加している(内閣府〔2008〕、第1-1-11図)。なお、戦後の女性の社会進出については「家族」の項を参照。

*3:2001年において、男性が家事・育児を担当する割合は12.5%に留まっている。内閣府〔2007〕、第1-特-19図

*4:同法の概要については、「ストーカー規制法について」@警察庁、を参照。

*5:同法の概要については、配偶者からの暴力事案、ストーカー事案の被害者への対応@警察庁、を参照。

*6:山田昌弘によれば、少なくとも2000年代の虐待事例は「若者が経済的に破綻している中で生じる虐待が大多数を占める」とされるが、その詳細は明らかにされていない(山田〔2005〕、220頁)。

*7:虐待増加の原因としてこの他、育児情報の氾濫による混乱や、少子化によって乳幼児に触れる経験が減少しているなどの点が指摘されることがある。だが、少なくとも後者については、夫婦が産む子どもの数自体は減っていないことや(「家族」の項を参照)、少子化によっても一人の人間が生育過程で密接に関わる子どもの数はさほど変わらないであろうことなどから、妥当しないと言える。

*8:ただし、04年に急増した後に減少し、07年に再増加しているので、一貫した増加傾向とまでは言えない。

*9:この点は「セキュリティ/リスク」の項で述べることと関連する。

*10:市民社会における伝統的/共同体的拘束からの解放については、「共同体/市民社会」を参照。

*11:こうした主張は、学校空間におけるいじめ/暴力事案に対する警察権の適正な行使を求める内藤朝雄の主張と完全にパラレルである。内藤〔2007〕、200-202頁。

*12:日本では、64年の「宴のあと」事件でプライバシーの権利が初めて承認されている。国家による介入を警戒する米国と異なり、日本でのプライバシー訴訟はメディアが被告となることが多いとされる。白田〔2003〕、89頁。

*13:個人情報保護法制の経緯については、「個人情報保護基本法制に関するこれまでの経緯」@首相官邸、「法の立案の経緯」@総務省、などを参照。

*14「自己情報コントロール権とは?」『しんぶん赤旗』2002年12月22日付

*15:「2007年参院選 個別・分野別政策/社会・教育・人権 【20】人権の尊重」@日本共産党。

*16:自分の身体の治療方針は自分で決めたい(インフォームドコンセント)、望まない妊娠はしたくない(人工妊娠中絶)、生まれてくる子の病気や障害を予め調べて産むかどうかを決めたい(優生)、自分がいつどのように死ぬのか自分で決めたい(安楽死/尊厳死)、自宅に近寄る人を限定したい(ホームセキュリティ)、近隣地域に不審者が入り込まないようにしたい(地域防犯)、友人・恋人・家族といつでもコミュニケーションができるようにしておきたい(ケータイ)、自分がどんな一日を送ったのか、誰とどこに行って何を買い何を読み何を聞き何を見て何を食べたのか、全てを記録しておきたい(ブログ)、親しい人々との思い出を記録しておきたい(写真/ビデオカメラ)、いつでも好きな時間に好きな情報を得て好きなコンテンツを楽しみたい(インターネット)、余計な広告や不要な情報はできるだけカットして欲しい情報だけに直接アクセスしたい(VTR)、食品の成分や生産地はできる限り知りたい(食の安全)、エトセトラエトセトラ。

*17:この点は「政治/イデオロギー」の項で再論する。

*18:以下、犯罪被害者関連の制度と運動については、河原〔1999〕と東〔2006=2008〕に拠る。また、「犯罪被害者等基本法制定までの経緯」@内閣府、や、「警察による被害者支援の経緯」@警察庁、なども参照。なお、本来であれば犯罪の被害者本人とその家族・遺族・その他関係者は区別すべきだが、以下では煩瑣を避けるために敢えて区別せず、「被害者」の呼称を包括的な意味で用いたい。

*19:公判記録は刑事裁判確定後に公開されるが、民事裁判は事件発生後3年以内に訴訟を提起しなければならないため、刑事での確定を待っていては間に合わないことが多かった。

*20:ただし、通知対象は殺人・傷害・強姦・交通死亡事故などの被害者で通知を希望する者に限られる。

*21:同時に、被害者による公判記録の閲覧を許可する条件の緩和と、性犯罪被害者のプライバシー保護策の強化も盛り込まれた

*22:00年代後半には検察の国策捜査が相次ぎ、09年からは裁判員制度の導入が予定されている。

*23:この構造がポピュリズムを駆動させるメカニズムとして現代に共通の構造であることは、「ネーション/国家」の項で詳述する。

*24:犯罪被害者の中に、同法案の成立を通じた報道機関の規制を強く望む声がある点も、注目に値する(「人権擁護推進審議会答申に対する意見書」、「人権擁護法案についての要望」@全国犯罪被害者の会)。

現代日本社会研究のための覚え書き――共同体/市民社会(第2版)

 

地域共同体の変容の実態と背景――地域の流動化

 

現代では地域社会が空洞化しており、かつてのような少し息苦しいかもしれないけれども人の温もりが感じられた隣近所の濃密な結び付きは失われた、とは頻繁に語られる常識となっている。しかしながら、そのような地域社会の空洞化や地縁的人間関係の希薄化といった言説は、どこまで実態に即しているのだろうか。また、そうした変化は、どのような要因によって、どのような過程を経て、進行してきたのだろうか。このような疑問について正面から詳細に検討を行っている議論に出会うことは、なかなか無い。ここではそうした作業を試みてみよう。

地域社会に変化が生じているとすれば、それは近代化の過程と密接に結び付いている。一般にはそうした長いスパンを視野に収めた議論は低調であり、戦後の経済成長(物質主義)や「アメリカ化」、利己心の増長を促す憲法、道徳心の荒廃などが採り上げられがちである。しかしながら、例えば2007年の『国民生活白書』では以下のような記述が為され、地域社会の変化とは少なくとも戦後の変化として片付けられるようなものではない長期的な変動であることに注意が促されている(内閣府〔2007〕、第2章第1節2)。ここでも、そのような長期的視野に基づいた議論を展開していくことにしよう。

 

しかし、地域のつながりは、昔から希薄であったわけではない。むしろ極めて強い地域のつながりの下、人々は、生産、教育、福祉など生活にかかわる多くのことを地域住民と共同で行っていた。ところが、このような強いつながりは、経済・社会環境が変化するとともに希薄化していった。1952年に公表された「地方自治世論調査」には、「近所づきあいをしないと毎日の暮らしで早速困ると言うものが約27%であり、大多数(70%)のものは日常生活に困らないと言っている」、「約半数のものは同地域に住む隣人間にあっても余り深くつきあわない方がよいとの態度をとっており、深く交際することを望んでいるものは38%である」との調査結果の概要が記されている。これは今から50年以上前においても、農業時代の「村」に代表されるような、地域のつながりなくしては生活が成り立たないといった状況からは、既に大きく変化していたことを示している。また69年に公表された「コミュニティ―生活の場における人間性の回復―」(国民生活審議会調査部会編)では、近隣の人々との結び付きが次第に希薄化している点が指摘されたとともに、地域のつながりの希薄化により生ずる問題について懸念が表明された。つまり60年代後半においては、地域のつながりが一定程度希薄化していたことがうかがえる。

 

まず、地方の農村に象徴されるような伝統的地域共同体の解体を促した要因として第一に挙げられるのは、産業化である。「経済/労働」で論じたように、日本では19世紀末から進行した工業化は、第2次産業の従事者を増加させ、第1次産業の就業者数を減少させた。第2次産業就業者が増加すると、都市への人口流出によって後述する都市化が起こり、離農と賃金労働者の増加によって職住の分離が進むことになる。就業者に占める雇用者の割合は一貫して拡大しており、現在では8割以上の就業者がサラリーマンである(内閣府〔2007〕、第1-2-35図)。第1次産業が中心である社会では、労働と生活の場は一体であり、地縁的人間関係は職業的人間関係とほとんど重なっていた。過去の農村共同体において濃密な人間関係が維持されていたのは、そうした条件に依存している。したがって、職住の分離が進行すれば、人間関係が相対的に希薄化することは避けられない。

国勢調査に基づいて従業地・通学地ごとの人口分布を見てみると、1990-2005年の期間に限っても、より遠隔地で就業ないし通学している人が増えていることが分かる*1。今や就労または通学している人の3割は、居住地とは異なる自治体に通っているのである*2

 

従業または通学している人の総数 自宅で従業 自宅外の自市町村で従業・通学 県内の他市町村で従業・通学 他県で従業・通学
1990 85,035,058 11,777,523/13.9 50,839,573/59.8 16,800,957/15.8 5,817,005/6.8
1995 85,010,070 9,560,142/11.2 50,566,002/55.5 18,237,182/21.5 6,246,744/7.3
2000 81,531,609 8,784,788/11.9 48,308,687/55.3 18,476,614/22.7 5,961,520/7.3
2005 78,232,051 7,722,432/9.9 47,477,487/60.7 17,156,104/21.9 5,876,028/7.5

(人/%)

 

まして、70年代半ば以降に第3次産業へのシフトが生じると転勤や単身赴任が増え、90年代に日本的雇用慣行が衰退すると社宅や寮における「職住の一体」が崩れ、非正規雇用が拡大すると一つの職場に勤続する期間の短縮に伴って同じ地域に居住する期間も短縮する。居住の流動性が上昇して地域社会における人口の流出入が盛んになれば、近隣の人々と強固な結び付きを形成することは困難になるし、結び付こうとするインセンティブも弱まる。産業構造や経済構造が変化すれば、地域社会の結合力や人間関係の濃度が影響を受けることは避けられないのである。

 

「地域の空洞化」をもたらし得ると考えられる要因の第二は、「都市化」である(佐藤〔1998〕、35頁)。「テクノロジー/メディア」や「経済/労働」で述べたように、交通手段や通信技術の発達と産業の発展は、都市の爆発的な人口拡大を促す*3。前近代においては、生まれ育った土地から移動するということそのものが危険や困難を伴うものであった。だが、交通手段の発達によって比較的容易かつ安全に移動が可能になると、都市への、あるいは都市間の人口移動は不可避となる。これは、先祖代々同じ土地に暮らし、同じ職業を営み、同じ権利を得て、同じ義務を果たす、身分秩序に支えられた前近代的な共同体の拘束力が弱まるということを意味する(流動化)。こうして農村からの人口流入によって都市の拡大が進めば、周辺地域は過疎化へ向かうことになる。また、都市の発展が都市の物理的拡大に結び付くなら、周辺地域は都市の「郊外」として都市に吸収されていくことになる*4。多数の人口を抱える近代的な都市は、互いに「顔の見える」共同体ではなく、相対的に匿名性の高い空間である(匿名化)。加えて、市民の多くは他の都市や地方から流入してきているので、同じ土地に住み続ける人々によって構成される農村共同体と比べれば地縁的結合が弱くなりがちである。

以上のような議論に触れる人の中には、このような思いを抱く向きもあるかもしれない。すなわち、「都市化」と言っても、近代以降にも農村は存在しているし、地方に居住する人口は無視できるような規模ではないのだから、都市だけに注目して社会全体を語るような真似はすべきでない、と。もっともである、が、事はそう単純ではない。近代においては、既述のような交通手段の発達による移動の高速化だけでなく、後述するような通信手段の発達による通信の高速化も生じる。すると、たとえ農村に住む人々であろうとも、都市と無縁ではいられなくなる。都市文化は絶えず地方に発信され、都市的な生活/消費様式や価値観は少なからず非-都市にも流れ込む。非-都市は都市=「中心」との関係性によって社会に位置付けられる「周辺」であることを余儀なくされ、非-都市の住民は伝播して来る「都市的なもの」への追従/黙過/対抗などの態度決定を通して自らの生活/消費様式や価値観を構成しなければならない。ここに示されているのは、通信手段の発達によって日常的に都市文化に触れることができ、交通手段の発達によって何時でも都市に移住することが可能な状況においては、それでも非-都市に住み続けるということが「敢えて」する意識的な選択にならざるを得ないということ(再帰性)である。

 

第三に、「郊外化」の影響を指摘しなければならない。郊外化とは、広い意味では都市化の一環と捉えることが可能な現象であり、日本では「団地化」の形をとって進行したとされる(宮台〔2000a〕、宮台〔2004〕)。

家族」の項で触れたように、56年以降に日本住宅公団が建設した賃貸住宅は71年までに4万5千戸に達し(三浦〔1999〕、22-24頁)、地方から都市に流入してきた多産少死世代が高度成長期に近代的な核家族を形成する際の住環境を提供した。宮台真司によれば、この帰結として「家族への内閉」が進行し、地域共同体が空洞化した。専業主婦を擁する近代的な核家族が珍しかったそれ以前には子どもは地域で育てられたものが、隣近所に見知らぬ者同士が住まうようになる「団地化」の後では、地域の育児ネットワークは失われ、育児における母親の孤立化が進んだとされる。

「団地族」においては近所付き合いが低調であったということは、事実のようである(落合〔2004〕、92頁)。しかし、落合恵美子によれば、「団地族」を形成していた多産少死世代には兄弟やいとこが多かったので、育児において親族ネットワークを頼ることが可能であったとされる(落合〔2004〕、93-95頁)。落合は親族ネットワークと近隣ネットワークは代替的であるとの調査結果も示しているが、この主張は井上清美の研究によって否定されている(井上〔2005〕)。井上によれば、育児援助においては、親族ネットワークと地域ネットワークのいずれも衰退しているとの事実は確認できず、他方で配偶者による育児サポートは拡大しているので、育児における母親の孤立はむしろ緩和されているはずである。したがって、単純に「地域の空洞化」が進んだと言うにはこれでは足りないし、母親の孤立化が進んだという主張は客観的事実ベースでは否定されることになるだろう*5

 

最後に、地域社会の流動性を高め、「地域の空洞化」をもたらし得る第四の要因として、「国際化」を挙げておく。日本に入国する外国人は、1955年には約5万5千人だったが、2006年には800万人を超えている(法務省入国管理局〔2007〕、2-3頁)。また、外国人登録者数は、1955年には約64万人で国内人口の0.71%を占めるにすぎなかったが、2006年には約208万人にまで増加し、国内人口に占める割合は1.63%へと上昇している(同、20頁)。外国人登録者数が総人口に占める割合は、80年代までは横ばいだったが、90年代に入ってからは一貫した伸びを見せており、地域における定住外国人の存在感は確実に増している*6。入国/定住する外国人の増加は、それだけで地域の流動性上昇を示す現象だが、文化や慣習が異なる外国人が地域社会に馴染むことが容易ではないことを考え合わせれば、外国人世帯の増加は地域社会の統合力を弱めることに一役買っていると思われる。

 

以上、「地域の空洞化」をもたらし得る4つの要因について述べてきたが、それでは実際に「空洞化」は起こっているのだろうか。内閣府の世論調査によれば、少なくとも最近30年程の間に、近所付き合いの程度が小さくなっていることは確かである(内閣府〔2007〕、第2-1-19図)。ただし、1970年代半ば以降には、単身者世帯が2倍以上に増加しており(内閣府〔2007〕、第2-1-40図*7、一般に単身者世帯では近所付き合いをすることが少ないことを思えば(内閣府〔2007〕、第2-1-38図)、親しい近所付き合いをする人の割合が低下しているのは自然なことであるとも言える。単身者以外の世帯間での近隣関係にはあまり変化が見られないかもしれず、これだけで近隣関係一般が希薄化していると結論付けるのはやや早計であろう。

また、人々が「地域の空洞化」についての実感を持っているかどうかも微妙なところがある。やはり内閣府の世論調査によれば、10年前と比べて地域のつながりが「(やや)弱くなっている」と感じる人は約3割とのことだが、「変わっていない」か「(やや)強くなっている」と感じる人は5割を超えており、こちらの方が多数派である(内閣府〔2007〕、第2-1-25図)。あるいは、10年というスパンではより長期にわたる変化が上手く捉えられないということなのだろうか――既に「空洞化」が済んでしまった後の10年(?)。他方、住んでいる地域の土地柄を聞く質問に対しては、1988年と2007年の比較で、「庶民的で、うちとけやすい感じ」「なにかと相談しあい、助け合う感じ」などの回答が割合を減らし、「お互い無関心で、よそよそしい感じ」「わからない・無回答」といった回答の割合が増加している(内閣府〔2007〕、第2-1-27図)。こちらのデータは、「空洞化」説を補強してくれそうである。

 

ここまで、敢えて「空洞化」説への慎重な態度を示してきたが、濃密な近所付き合いを望まない人が増えていることは確かである。NHK放送文化研究所が実施している人間関係についての世論調査を近所付き合いについて見ると、最近30年間では「部分的」付き合い(「あまり堅苦しくなく話し合えるようなつきあい」)を望む人が最も多く、概ね50%台前半で推移している(NHK放送文化研究所編〔2004〕、194-195頁)。「全面的」付き合い(「何かにつけ相談したり、たすけ合えるようなつきあい」)を望む人は1973年には35%を占めていたものの、2003年までの間に20%へと低下して、「形式的」付き合い(「会ったときに、あいさつする程度のつきあい」)を望む人より少なくなっている(内閣府〔2007〕、第2-1-28図、も参照)。生年別にみると、戦前生まれの世代では、後の世代に比べて「全面的」付き合いを望む人の割合と「部分的」付き合いを望む人の割合の差が小さくなっているため、近所付き合いについての意識が戦後に変容したことがうかがえる(NHK放送文化研究所〔2004〕、196-197頁)。

 

f:id:kihamu:20081012195119j:image (同、195頁)

f:id:kihamu:20081012195044j:image (同、197頁)

 

もとより、長期的な近代化の過程で伝統的な村落共同体が解体され、地域社会の結合力の弱体化や地縁的人間関係の希薄化が進行したことを否定する人はいないだろう。それに加えて、以上のデータを総合すると、(世帯構造の変化に注意を払うことが必要であるとしても)最近30~40年間に地域社会の統合性が一層衰弱していることは確かであると結論しても大きな誤りにはならないように思える。その変化を「地域の空洞化」と呼ぶことも、有り得る選択だろう――私は「流動化」と呼ぶが。

地域社会の流動化は、地域社会に共有されている伝統や慣習の影響力を弱め、近隣関係における共同体的な監視と規律の視線からの解放を実現する。保守的な価値観から逸脱する多様な価値観やライフスタイルへの寛容(無関心)が拡大し、地縁的な人間関係への配慮の必要性が低下することによって、日常生活における個人の自由度は増した。しかし、同時に相互の匿名性が上昇することで、近隣に居住する者同士でも得体の知れない「他者」と感じられるようになり、不安が抱かれるようになる。地域の流動性上昇による不安の拡大は、「家族への内閉」を昂進させ*8、子どもへの愛着を強化するとともに*9、セキュリティ意識の上昇を招き、体感治安を悪化させる*10。自由は人を不安にするのである。

 

会社共同体と職業的連帯の変容――職場の流動化

 

地域の流動化は近代化過程から生じている長期的な変動であるが、近年においては、それだけに留まらない別種の流動化も生じている。それが職場の流動化である。先に触れたNHK放送文化研究所の調査では、職場での人間関係についても聞いている(NHK放送文化研究所編〔2004〕、194-196頁)。1973年には、職場での「全面的」付き合い(「何かにつけ相談したり、たすけ合えるようなつきあい」)を望む人は59%、「部分的」付き合い(「仕事が終わってからも、話し合ったり遊んだりするつきあい」)を望む人は26%、「形式的」付き合い(「仕事に直接関係する範囲のつきあい」)を望む人は11%だったが、30年の間に前者の割合は減少、後二者の割合は増加している。2003年調査では、「全面的」と「部分的」が38%で並び、「形式的」が22%で続く(内閣府〔2007〕、第3-1-8図)。生年別の回答割合では、48年を節目として、それ以前に生まれた世代では「全面的」付き合いを望む人が多数派であり、それ以降に生まれた世代では、若年になればなるほど「部分的」付き合いを望む人が多くなっている(NHK放送文化研究所編〔2004〕、199-200頁)。

 

f:id:kihamu:20081012195026j:image (同、195頁)

f:id:kihamu:20081012195010j:image (同、199頁)

 

こうした変化は、部分的には個人主義の浸透などによって説明できるかもしれないが、より大きいのは脱工業化や日本的雇用慣行の衰退による影響であろう。「経済/労働」で論じたように、70年代から始まった経済構造の変化は90年代以降に一層進行し、そこに長期不況が重なったことで、日本的雇用慣行は変質を余儀なくされた。職場の流動化や労働者の意識変化は、そうした環境の変化から帰結された事態である。

 

70年代からの顕著な変化を示すのは、労働組合の組織率である。日本の労組組織率は先進国の中では元々相対的に低い水準にあったが、70年代までは30%台に落ち着いていた(「労働組合数、労働組合員数及び推定組織率の推移」@たむ・たむページ)。70年代末から低下傾向が明らかになり、以降は一貫して漸減を続け、2007年現在では18.1%にまで落ち込んでいる(厚生労働省〔2007〕、1)。

組合組織率の低下傾向は先進国に共通して観察される現象であり(「労働組合組織率の国際比較」@社会実情データ図録)、その要因としては、産業構造や就業構造の変化が挙げられることが多い(久米〔2005〕、26-27頁)。同じような労働条件で長時間協働して仕事を行う工場労働者は、比較的組織化が容易である。そのため、第2次産業が主流であった時代には、労働組合組織を維持・成長させやすい。ところが、第3次産業が占める地位が上昇したり、非正規労働者が増加したりすると、労働条件や労働者の均質性が低下するため、組合として団結するのは難しくなる。就業形態別の組合加入率を見ると、正規従業員は3割台を維持しているのに対して、非正規従業員では9割が未加入であり、非正規雇用の拡大が組織率を引き下げている現状が裏打ちされている(下図)。

 

f:id:kihamu:20081012194943j:image (岩井・佐藤編〔2002〕、109頁)

 

NHK放送文化研究所の世論調査では、新しくできた会社に雇われてしばらく経った後に、労働条件についての強い不満が起きた場合、自分ならどうするかを尋ねている(NHK放送文化研究所編〔2004〕、98-99頁)。選択肢は、「静観」(「できたばかりの会社で、労働条件はしだいによくなっていくと思うから、しばらく事態を見守る」)、「依頼」(「上役に頼んで、みんなの労働条件がよくなるように取りはからってもらう」)、「活動」(「みんなで労働組合をつくり、労働条件がよくなるように活動する」)の三つである。一位は一貫して「静観」であるものの、73年時点では「活動」が32%で二位に付けていた。それが88年には「依頼」に逆転され、2003年には18%にまで落ち込んでいる。他方、「静観」は50%に届いた。

 

f:id:kihamu:20080801003315j:image

 

このデータに関しては、石油危機後の低成長による経営安定維持を優先する意識の広まりを指摘する立場がある一方(NHK放送文化研究所編〔2004〕、99頁)、組合に加入していない労働者が持っている組合の必要性認識は低下していないことを採り上げて、労働者の間にフリーライダー志向の高まりを見出す立場もある(久米〔2005〕、28-29頁)。だが、そのようなフリーライダー志向の高まりがあるとするなら、なぜそれが生じたのかまでを説明しなければなるまい。それゆえ、直ちに支持するに足る説であるとは言えない。組合一般への信頼度を聞く調査に対する組合未加入の労働者の最多割合の回答が「わからない」(37%)であることを考慮するなら、むしろ――フリーライダーを志向する以前に――組合との接触経験が乏しい労働者の増加による影響が大きいように思われる(下図)。

 

f:id:kihamu:20081012194915j:image (岩井・佐藤編〔2002〕、110頁)

 

ここでは差し当たり、状況論的な分析と構造論的な分析を総合する立場を選択し、組合への期待や信頼そのものはさほど低下していないものの、経営環境への配慮や就業構造の変化に由来する組織化の困難によって、組合の組織や活動が困難に行き当たっているのだと理解しておこう。

 

経済構造の一層の変化と日本的雇用慣行の衰退が生じた90年代には、職場結婚が減少し(国立社会保障・人口問題研究所〔2006〕、 1-(2)、内閣府〔2007〕、)、職場の同僚と旅行に行く人も減っているが(内閣府〔2007〕、第3-1-11図)、これは非正規雇用の拡大を主とする雇用の流動化による影響が大きいと思われる。

企業福祉が切り下げられ、職業能力の開発に向けられるコストも削減される中(同、第3-1-26図第3-1-27図)、労働者は企業に頼らずに自分の力で職業生活を生き抜くことを余儀なくされている(同、第3-1-25図)。もはやかつてのような企業への忠誠心を維持することは困難であり、日本的な「会社共同体」は崩壊している。労働を通じた連帯が困難を極め、職業的な人間関係が希薄化することは、自然な帰結であると言うほかない。

 

「島宇宙化」と「社会」の衰弱

 

内閣府の世論調査によれば、過去と比べて人間関係が難しくなったと感じる人は、6割にも上っている(内閣府〔2007〕、第6図*11。その主な原因として考えられているのは、「モラルの低下」と「地域のつながりの希薄化」である(内閣府〔2007〕、第7図)。また、「人間関係を作る力の低下」といった能力面や、「核家族化」「親子関係の希薄化」「兄弟姉妹の不在」などの家族内部の変容、「学校など教育環境の悪化」のように教育面も挙げられている(「ビデオ・テレビゲームの普及」は位置づけが難しい)。

しかし、戦後の日本で「核家族化」が進行したとの事実は確認しがたいし、少なくとも80年代末頃までの既婚夫婦がつくる子供の数は減っていない以上、兄弟姉妹を持つ人の割合が減っているとも考えられない*12。「モラルの低下」や「人間関係を作る力の低下」などは具体的な検証が困難であるし、「ビデオ・テレビゲームの普及」が人間関係の形成において具体的にどのような影響を及ぼしたのかを検証することも難しいだろう。「教育環境の悪化」については、むしろ教育現場の外部環境の変化によって教育に寄せられる期待が増大した結果、そのように感じられるだけではないかと思われる*13。挙げられている要因の中で人間関係形成の困難に影響していると判断可能なのは、ここまでの議論で検討した「地域のつながりの希薄化」と「職場環境の悪化」ぐらいであると考えられる*14

 

とはいえ、「モラルの低下」や「人間関係を作る力の低下」が上位に挙げられているという事実は重要である。その実態はともかく、多くの人々がこのように感じるのは、日常生活におけるそれなりの経験に基づいてのことであろう。その経験とはすなわち、自分の行動や状態に対して相手は「本来こうするはず(べき)」である反応が返ってこないという、「予期への背反」であると思われる。制度的/規範的な予期が妥当するのは制度(慣行)/規範に対する認識を共有している――同じ社会に生きている――人の間だけであるから、「予期への背反」を経験する人々が全体の半数程度の規模で存在しているという事実は、モラルや能力の問題であるよりもむしろ、予期の前提となる認識が共有されていないということを明らかにしている。言葉を換えれば、私たちはそもそも同じ社会に生きていない者同士である疑いが濃い。人間関係を形成することが難しくなったのは、日本社会に亀裂が生じ、人々がそれぞれ別の社会に生きるようになったからではないのか、ということである。

このように社会の細分化・断片化が進み、人々が自らの帰属する集団や結社以外への関心や想像力を磨滅させていく事態を、宮台は「島宇宙化」と呼んだ。宮台によれば、社会の「島宇宙化」は80年代末に決定的な段階を迎えている。この頃になると、若者のコミュニケーションは「各種の等価な「島宇宙」によって分断され尽く」されてしまい、「島宇宙」相互の間には圧倒的な無関心が横たわるようになった(宮台〔1990=2006〕、281頁)。もはや、異なる趣味共同体に属する他者に対しては、コミュニケーションを成り立たせるために最低限必要な程度の関心でさえ抱かれることは無い。90年代以降の日本では、別の「島宇宙」に属している得体の知れない他者から予期せぬ反応を受けるリスクを回避するため、コミュニケーションを特定の回路に限定し、自らの「島宇宙」に閉じこもることで自我の安定を図る行為態度が一般化している(同、292頁)。別の言葉で言い換えるなら、社会内部で同一の物語を共有できる可能性が低下し、「大きな物語」が衰退する一方でそれぞれの「小さな物語」が乱立する事態が生じているということでもある。

 

「島宇宙化」の進行は、国家に対置される固有な領域としての「社会」≒市民社会を弱体化させる。近代社会では、公的=国家的領域から区別された私的=非国家的領域においては私的自治の原則が支配するものとされ、私人同士の問題解決は基本的に「社会」内部の問題解決能力に委ねられてきた。憲法が保障する人権はあくまでも国家を相手取って主張されるのが基本であり、公権力が市民間の紛争に介入することは抑制されるべきとされてきた(民事不介入)。だが、地域が流動化し、職場が流動化し、家族が個人化するなど、中間集団が衰弱し、個人が自立/孤立するようになると、国家が個人と直に接触するようになり、その存在感が増す。拠り所を失った個人は超越的な存在との繋がりを求めやすくなるし*15、従来の公使分離が隠蔽していた暴力からの保護を求める個人の招きによって、かつて国家が踏み込めなかった領域にまで公権力の介入が実現するようになる*16。独自の問題解決能力を衰弱させている「社会」=非国家的領域は縮小し、国家の役割が拡大していくのである*17

 

市民的公共性への傾斜――公共化する市民社会

 

「地域の空洞化」なる表現はネガティブな印象しか与えないが、起こっていることは果たして否定的な効果しか生み出さないのであろうか。そんなはずはないだろう。既に述べたように、伝統的な共同体原理からの個人の解放がポジティブな効果の第一であるが、それだけではない。地縁集団からの個人の離脱は、「地縁とは異なるボランタリズムの原理」による結合を生み出しているのである(武川〔2004〕、330頁)。

 

近年、人々の社会への貢献意識は高まっており(内閣府〔2007〕、第2-1-30図、内閣府〔2008〕、図8)、ボランティアに参加する人やボランティア団体が増加すると同時に(経済企画庁〔2000〕、Ⅰ-1-5図)、注目度も上昇している(同、Ⅰ-1-2図)。特定非営利活動促進法(98年制定・02年改正)に基づき認証された非営利法人は年々増加の一途を辿り、2007年現在で3万を超えている(国民生活審議会総合企画部会〔2007〕、3頁)。NPOやボランティアに参加している人は全体の1割程度であるが、今後参加したいと思っている人は5割に上っている(内閣府〔2007〕、第2-1-32図)。また、国際NGOの総数は、53年から93年までの間に6倍以上に増加している(遠藤〔2005〕、202頁)。

 

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このようなボランタリズムや市民的結社の興隆は、部分的には60年代後半から盛り上がった「新しい社会運動」の流れを汲んでる。かつては市場を念頭に「欲求の体系」として把握されていた「市民(ブルジョワ)社会bürgerliche Gesellschaft」概念は、「新しい社会運動」以後には非市場的な市民的公共圏としての「市民社会Zivilgesellschaft」概念へと再解釈されるようになったが(ハーバーマス〔1994〕)、そうした「市民社会の公共化」は90年代以降に昂進した。

地域社会の流動化から地縁による同質性を期待できなくなる一方で、地縁・血縁を越えた目的意識や利害の共有による組織化が活発になっている現状は、非国家的領域が集団単位の共同体(家族/地域/会社)から、個人単位の市民社会へと再編されたと言うことが可能であるかもしれない。それは、かつて「生活世界」として国家的領域と対峙していた「社会」領域がその凝集の自明性を失い、何らかの目的意識と自発的合意による選択的な凝集しか得られなくなったことを意味する。市民社会が再帰性を帯びたと言ってもよい。

「社会」領域の凝集がもたらされる回路が組み換わっても、市民的結社(アソシエーション)の興隆によって国家に対抗的な非国家的領域が維持される可能性が確保されるのであれば、現状は決して否定的に評価すべき事態ではない。むしろ、共同体原理から解放された個人が再帰的に市民的結社に身を投じ、公共圏への独自の接続経路を得ることができるようになるのであれば、それは諸手を上げて歓迎すべき事態ではなかろうか。

 

もっとも、単純に喜んでばかりいられるのかは微妙である。市民運動や市民的結社の興隆は、「島宇宙化」を体現するものでもあるのだ。一口にボランティア、市民運動と言っても、その内容は多様であり、参加する人々の関心もバラバラである。決して少なくない場合において、その活動は趣味的に行われ、趣味仲間を見つけたり、「自分探し」の一環として行われたりする側面も持っている*18。世論調査において、NPOに期待されている役割の1位が「人と人との新しいつながりを作る」ことであるのは示唆的である(内閣府〔2005〕、図3)。通常は市民運動とは区別される労働運動も含めて、現代の社会運動においては、拠り所を失った個人が活動への参加を通じて孤独感と不安を埋め合わせる機能が肥大化しており、活動が自己目的化している面が見て取れる。いわば、社会運動が「カーニヴァル」化しているのである(鈴木〔2005〕)*19

もちろん、出自や関心もバラバラである人々が共に活動することを通じて、日常生活では形成し得なかったような人間関係が成立し、異なる「島宇宙」に橋が架かるような効果が全く期待できないとは言えない。現代の社会運動に読み込まれる「市民社会の公共化」が、島宇宙化を体現しつつ、島宇宙化を克服できるのか(ないしは島宇宙化への対応を打ち出せるのか)。公共性の(不)可能性が問われていると言えよう*20

 

*1:以下の表は、「常住地又は従業地・通学地による人口(夜間人口・昼間人口)-全国,都道府県,市町村(平成2年~17年)」@政府統計の総合窓口、に依拠した。従業または通学している人の総数は、全人口から「従業も通学もしていない」人口と不詳分を引いて算出した。自宅外の自市町村で従業・通学の数は、「自宅外の自市区町村で従業・通学」と「自市内他区で従業・通学」の数を合計している。

*2:ここには交通機関の発達が影響していることも無視できないであろう。

*3:ロンドンでは、19世紀の間に、96万だった人口が454万人にまで増加した。また、1840年に31万人だったニューヨークの人口は、1860年には81万人、1900年には344万人となり、1816年に22万人だったベルリンでは、1871年に93万人、1900年に271万人となった。ともに10倍以上の規模への膨張である。江戸時代と比べて人口を減らしていた東京でも、1872年の57万人が、1890年には115万人、日露戦争後の1908年には219万人にまで膨らんだ(佐藤〔1998〕、26-27頁)。1903年に人口5万人以上の都市は25(内地のみ)、総人口は555万人(内地人口の12%)であったのが、1925年には71都市(内地のみ)、1213万人(内地人口の20%)となっており(五味文彦ほか編〔1998〕、416頁)、日本における本格的な都市化は第一次世界大戦後に始まったと言ってよい。

*4:1885-86年にはドイツのG.ダイムラー(二輪)やK.F.ベンツ(四輪)が自動車を発明する。米国では、19世紀末には自動車が普及し始め、1913年にはH.フォードがT型フォード車の大量生産を開始する(佐藤〔1998〕、29-30頁)。自動車が本格的に各国で普及するのは第二次世界大戦後であり、日本では1964年10月の東京五輪に合わせて首都高速道路が開通し、各地の道路が拡張された(東海道新幹線の開通も同時期)。1960年代後半には、いわゆる「3C」の一つとしてマイカーの保有が大衆に促された。自動車の大衆化はミクロには人々の日常的な生活圏そのものを拡大させ、マクロには都市を郊外へと拡大させることによって周辺の農村共同体を解体ないし変質させた。

*5:ただし、山田が指摘するように、「客観的に見れば、子育ては確実に楽になっている」一方で「子育ての負担感はむしろ上昇している」という現実が観察されるのであれば(山田〔2005〕、105-106頁)、問題はそれとして残るし、その理由を検討する作業が必要とされるであろう。

*6:「セキュリティ/リスク」の項も参照。

*7:「家族」の項も参照。

*8:「家族」の項を参照。

*9:「教育」の項を参照。

*10:「セキュリティ/リスク」の項を参照。

*11:調査データは、内閣府〔2004〕のもの。

*12:「家族」の項を参照。

*13:「教育」の項を参照。

*14:もっとも、「職場環境の悪化」が具体的に何を指しているのかは不明なのだが。

*15:「スピリチュアル/アイデンティティ」を参照。

*16:「親密圏/人権」を参照。

*17:この変化は、「生活世界」が衰退して「システム」が全面化したと言い換え可能である。

*18:もちろん、市民運動を趣味的に行うことが悪いわけではない。むしろ私が言いたいのは、多くの人は趣味的に参加しているに過ぎない活動に対して、社会を変革するような大きな役割を期待する側の方に問題があるのではないか、ということである。もっとも、本人たちの間においても、趣味的な活動(文化としての運動)に過ぎなくても、その「心がけ」や「意識」を通じて社会を変えていくことができると信じられていることが多いのは確かである(「政治/イデオロギー」、「スピリチュアル/アイデンティティ」を参照)。

*19:運動の当事者はこのような指摘――「遊びでやっているみたいにいわれる」こと――に激しく反発しがちであるが、機能の分析は主観的認識とは切り離せる問題であるし、その際には本人がどれだけの物理的コストを払っているかという問題は無関係である――「祭」に命を懸ける人もいる(雨宮・萱野〔2008〕、208-209頁)。

*20:もっとも、この際に言う「公共性」とは、既成の社会範囲を前提とした「公共性」でしかないわけで、社会の分裂を追認する――個別の「島宇宙」での公共性が実現されればよいと考える――立場も有り得るだろう。

現代日本社会研究のための覚え書き――教育(第2版)

 

国民教育の成立

 

国家の近代化を担う国民の教化・啓蒙を進めるため、明治政府は1871年に文部省を設置する。翌72年には学制を公布して、あまねく国民に自律した近代的主体としての能力を身に付けさせることを目指す、「国民教育」の建設に着手した。全国に小学校が設立され始めると、江戸期から寺子屋で庶民教育が行われていたこともあり、75年には男子の小学校就学率が50%を超えた(五味ほか編〔1998〕、328頁)。79年の教育令、80年の改正教育令を経て、86年に公布された学校令によって、保護者には児童に教育を受けさせる義務が課せられた(義務教育の開始)。その後、1900年に義務教育期間が4年に確定されるとともに授業料が廃止されたことにより、就学率は大幅な伸びを見せる。男子に後れを取っていた女子就学率も急激に上昇し、義務教育期間が6年に延長される1907年には、男女ともにほぼ100%に届いていた(五味ほか編〔1998〕、384-385頁)。

 

f:id:kihamu:20080907140932j:image(浜島書店編集部〔1998〕、173頁)

 

国家による国民教育は、近代化を担う人材育成のみならず、国家機関によって整備された空間における集団生活の中で、身体の同時的な規律、画一的な言語や知識の受容、様々な象徴の共有などを通じて、国民(nation)の統合を実現することも主要な目的としている。1890年には天皇を頂点とする日本国家のイエ的一体性を説く教育勅語が発布され、1903年から小学校で使用が開始された国定教科書などを通じて、国家体制を道徳規範秩序と結び付ける機能を果たす「国体」観念が国民に植え付けられていくことになる(五味ほか編〔1998〕、385頁)。20世紀初頭における初等教育の一般化は、国家を外面的/内面的に支える近代的主体としての国民を規律訓練する仕組みが確立したことを告げるものであった。

 

もっとも、国民教育なる国家プロジェクトが最初からすんなりと進行したわけではない。貴重な労働力である児童の就学に反対する声は農村で根強く、授業料や学校設立費などの負担もあいまって、学制公布後には小学校の廃止を求める一揆も発生した(五味ほか編〔1998〕、329頁)。

初等教育への就学が一般化した後にも、社会に占める学校の存在感は極めて限定的なものであった。第一次産業が産業の中心である時期には、学校で習得する知識や行動規律などは、多くの人々にとって、さして重要なものではなかった。実質的な職業選択の余地が乏しく、階層上昇の機会も閉ざされている環境において、農村の人々が学校に期待していた役割は、覚えておけば多少便利な読み書きそろばん能力を子どもに身に付けさせることがせいぜいであった(広田〔1999〕、40-41頁)。

また、家族が未だ地域社会や親族に対して開かれていた状況下では、子どもへの社会規範の伝達や人間形成は、家庭や学校に限られないより大きなネットワークの中で行われていた(同、47頁)。親が子どもに払う関心は今ほどに集中したものではなく、家庭教育なるものが行われることはほとんどなかった。総じて言えば、20世紀初頭の段階では、「教育」なる行為の必要性そのものが未だ認識されていなかったということである。

 

そうした状況が本格的な変革を迎えるのは戦後になってからだが、変化の兆しは、既に1910年代以降の都市部から現れ始めていた。この時期から、家庭での育児やしつけ、教育に関するノウハウ本が多数出版されるようになる(同、50頁)。それは、医者や学者、教師、軍人、公務員、銀行員など、都市の新中間層が家庭教育への関心を持ち始めたことに由来する(同、53頁)。この階層に芽生えた教育意識は、家内領域を公共領域から分離された閉鎖的空間と捉え、その内部における情緒的な結び付きを強調しながら、性別役割分業を強化する、「近代家族」観念の成立に伴うものである*1。家庭の外で勤務する夫/父に対して、家に係留された妻/母には家事と育児が割り当てられる。家族への内閉が始まるとともに、子どものしつけは家庭外のネットワークから切り離され、家庭内で、それも主として女性が行う役割として認識されるようになっていく(同、54-55頁)。こうして、教育する主体の形成とともに、教育される対象としての「子ども」が発見される(同、69-70頁)。

親が子どもの教育に関心を払うようになれば、学校への期待が高まるのは当然のことである。農村と異なり、都市部の新中間層の子弟の将来は、学校で習得した知識や技能によって左右されるところが大きい。また、家庭外のネットワークを通じた人間形成機能を期待しにくくなれば、子どもが日常的に通う学校に同じ機能を期待するようになるのも、自然な帰結と言える。子どもを介した家庭と学校の結び付きは強固なものとなり、国家の教育方針は学校を通じて家庭にも流入してくる。学校的価値観が家庭にも浸透し、学校における価値基準と家庭における価値基準の摩擦が、より小さくなっていく(同、56-57頁)。国民教育システムが大きな効果を生み出すことができるのは、このようにして国家に対置する社会独自の価値観が弱体となった状況下においてである。当該の状況は、戦後に全面化する。

 

大衆教育社会の成立と国民教育の成熟

 

久冨善之によれば、戦後日本の教育に関しては、4つの時期区分が可能である(久冨〔2002〕、久冨〔2003〕、久冨〔2003-04〕)。各時期の期間と特徴は表にまとめた(進学率の推移は、文部科学省〔2007〕の参考資料「就園率・進学率の推移」を参照)。この節では第3期、すなわち90年代以前までを扱い、次節で90年代以降の第4期について述べることにする*2

 

区分 第1期(1945~59年) 第2期(1960~74年) 第3期(1975~90年) 第4期(1990年~)
進学率 高校:40~50%台/大学:10% 高校:58%→90%/大学:10%→38% 高校:90%台前半/大学:30%台後半 高校:90%台後半/大学:30%台後半→50%台前半
制度・政策の基調 新学制の定着期 教育機会の拡大 「教育問題」の噴出への対応 学校不信の定着と「教育改革」
競争の性格 抑制された競争(階層的限定性) 開かれた競争(大衆教育社会) 閉じられた競争(進学率頭打ち) 不安定型競争(競争の局所化)
社会状況 戦後復興期;階層分離 高度成長期;階層上昇と格差縮小 低成長期;平準化後の競争秩序 長期停滞期;階層再分離?

(久冨の整理を大幅に改変)

 

第1期は戦後復興期であり、未だ貧困が一般的に存在した時代である。第一次産業が中心であることから学校での勉強が大して役立つとは考えられていなかったことや、子どもも貴重な労働力であったために親が学校に行かせないケースが少なくなかったことなどが、戦前から持続する状況として存在した。長期欠席者数の長期推移を見ると、調査が開始された1959年から70年代半ばまで、小中学校ともに一貫して減少が続いている(久冨〔1994〕、36頁、久冨〔2003-04〕)。その要因の一端は、経済状況の改善である。53年に文部省が行った調査では、中学校での50日以上の長期欠席者の内、「家庭の無理解」を理由とする者は28.5%、「教育費が出せない」(6.7%)、「家計の全部又は一部を負担させなければならない」(15.5%)、「学用品がない」(0.3%)、「衣服やはき物がない」(0.3%)など直接に経済的理由による者は合計で22.8%であった(久冨〔1994〕、40頁)。「家庭の無理解」も前述のような産業構造や経済状況に由来するものがほとんどであると推測されるため、当時の不登校の過半数は何らか経済的な事情によるものだったと考えてよい。

もっとも、1930~40年代には既に、農村においても義務教育以上の教育を子どもに受けさせたいと考える親が多くなっていたが、経済的事情により実現が困難な場合がほとんどであったと言う(広田〔1999〕、89頁)。結果として、義務教育を超える中・高等教育には階層的な限定性が伴うこととなり、大多数の人々にとっては、高等教育はひどく縁遠いものであった。当時の学校における教師の権威が極めて大きなものであり、親が教育内容に注文を付けるようなことがまず起こらなかったのは、このような背景によるところが大きい(同、90-91頁)。

 

状況が変わるのは高度成長期への突入によってであり、第2期への移行はこれに対応する。経済成長による所得の向上と、産業構造の変化による農業の縮小が、高校・大学への進学率の急激な上昇をもたらした。この時期、離農や兼業化の選択をした農家の子弟が大量に高校に進み始めることで高校進学率が上昇するとともに、農業の世襲率が下降する(苅谷〔1995〕、133-134頁)。経済の急成長を背景に、学歴の獲得による階層上昇(「生まれ変わり」)の機会が広い範囲に拡がるとともに(佐藤〔2000〕)、学歴が子どもの将来を左右するとの認識が一般化し、農村を含むあらゆる社会層を巻き込んだ大衆的な競争が開始される(広田〔1999〕、108頁、苅谷〔1995〕、132頁)。

このように階層的限定性を突破した進学競争を久冨は「開かれた競争」と呼び、苅谷剛彦は、こうした競争の開始を画期として「大衆教育社会」が成立したと規定する(苅谷〔1995〕、12-13頁)。大衆教育社会とは、「教育が量的に拡大し、多くの人々が長期間にわたって教育を受けることを引き受け、またそう望んでいる社会である」と同時に、「どの階層に対しても教育が開かれており、また、階層によらず、だれもが教育に高い価値を置いている――そのようなイメージが定着している社会」である。60年代から70年代にかけて、教育問題や少年非行を貧困や階層性と関連付けて扱う研究や調査が姿を消していった事実は、このような「イメージ」の定着――非階層論的な認識枠組みの一般化――を傍証している(広田〔1999〕、138-141頁、苅谷〔1995〕、38-40頁)。

経済構造の変化と進学率の上昇に伴い、学校の役割も変容した。進学競争が一般化することで、学校は「生まれ変わり」の成否にかかわる決定的に重要な空間として、ほとんどの人にとって重大な意味を持つようになり、学校に対する期待は高まった(広田〔1999〕、108-110頁)。進学のみならず、進行するサラリーマン化の中(内閣府〔2007〕、第1-2-35図)、就職の世話をすることも学校の主要な役割の一つになる。また、農村とは異なる都市での規範・作法や、組織労働における行動規律の習得も、学校以外では不可能であった。

学校が担う役割の拡大は、近代における国民教育が完成しつつあることを告げていたし、それは拡大する経済にとって必要な人材を供給するという別種の要請にも合致するものであった。共通の価値尺度に基づき、共通の目標に向かって、横並びの競争をする学生は、所属する企業の方針に従順で、組織単位で共通の目標を達成しようと努力する、均質的な労働力として有用な人材となる(苅谷〔1995〕、200頁)。また、万人に開かれた学歴競争は、人々の間に平等意識を植え付けると同時に、現実に生じる不平等は、公正な競争の結果であり、積み上げた努力の差であるとして、社会の階層性を正統化する機能をも果たした(苅谷〔1995〕、201頁、佐藤〔2000〕、68-69頁)。総じて、大衆教育社会の成立は、国家統合の強化を促すものであったと言えるだろう。

 

経済が低成長ないし安定成長期に入る70年代半ばには、文部省による抑制方針の影響もあり、進学率の上昇はストップする。以降、90年前後まで、高校・大学ともに進学率は横ばいが続く。門戸の広がりが制限される一方で、進学志向の高まりは鈍化せず、戦後最も受験競争が激しい時代、すなわち「閉じられた競争」の第3期が幕を開ける。激化する競争の中、「乱塾時代」と言われる程に進学塾や予備校が林立し、家計における教育費の割合も顕著な拡大を始める(下図)。

 

f:id:kihamu:20080907141040j:image (山田〔2005〕、207頁)

 

他方、校内暴力やいじめ、不登校など、学校における諸問題が注目を浴び始めるのもこの時期である。75年前後には、前述のような一貫した減少傾向にあった不登校が増加に転じる(奥地〔2005〕、153-154頁)。70年代後半以降、子どもによる親への家庭内暴力事件が盛んに報じられるようになったが、その背景には加熱する受験競争や閉鎖的な学校空間のストレスがあるとされた。70年代末から80年代初頭にかけては、管理教育や体罰の批判・告発が相次ぎ、学校や教師の責任が厳しく追及されるようになった(広田〔1999〕、118頁)。一連の「教育問題」の噴出を引き起こした大きな要因は、学校への期待が高まった分だけ、批判的な視線が浴びせられやすくなったことにある。無論、人権意識の高まりに伴い、元来は国民を啓蒙する機能を帯びていた学校が保守的で人権抑圧的な装置であると捉えられやすくなったことも影響しているだろう(同、132-133頁)。

 

だが、それに加えて、宮台真司が指摘する「学校化」の影響も見逃すことができない。「学校化」とは、本来は学校空間における価値尺度である偏差値が、大衆教育社会の成立とともに社会的尺度としても通用するようになり、家庭や地域、そして社会全体が学校的価値観によって貫かれるようになった変化を指す。

宮台によれば、少なくとも60年代においては、家庭・学校・地域のそれぞれに異なる評価原則が生きており、「たとえ学校で勉強ができなくても、家に帰れば「お前は家業を継ぎさえすればいいから、勉強をやめて麻雀に加われ」「そんなに勉強してたら嫁のもらい手がなくなるから、花嫁修業をしろ」などと言う親がいた」し、「地域には竹とんぼ作り名人・虫取り名人・折り紙名人のジイチャン・バアチャン・アンチャン・ネエチャンがいた」ので、「学校に居場所がなくても、家や地元には、ちゃんと別の居場所があった」のだと言う(宮台〔1996=2000〕、146頁)。「ところが、とりわけ七〇年代後半から、急速に評価原則の均質化が始まる」が、それは家族の空洞化の埋め合わせによるものだとされる(同、146-147頁)。高度成長期を通じた「近代家族」の確立と「家族への内閉」の進行により、家庭に――とりわけ母親に――求められる教育役割は拡大したが、そのような過剰な負担に応えるべく、親は子どもを「いい学校」に入れようとする。それは「子どもをいい学校に入れるのは、近所や親戚の誰から見ても明瞭な「良きこと」だと親は予期する」からだが(同、147頁)、そのような予期が生じるのは、社会的尺度は偏差値に一元化されていると、親が既に認識しているからである。

このようにして社会が学校的価値観に浸されている状況下では、子どもたちのアイデンティティ形成においても、学校的価値尺度=偏差値が中心的な地位を自然と占めるようになる。学校の勉強さえできれば他者が介在せずとも自己肯定感を得ることができるようになった一方で、勉強ができなければ尊厳を得られなくなった(宮台・速水〔2006〕、22頁)。学校に馴染めないことは社会に馴染めないことになり、親の期待を裏切ることになり、アイデンティティの危機も帰結するようになった*3。価値尺度が一元化されてしまえば、学校の問題は家族の問題になり、社会の問題になる。学校に反抗しようと思えば家族に反抗することになり、家族に反抗しようと思えば学校に反抗することになる。学校的価値を否定することは社会的価値を否定することであり、社会的価値を否定することは学校的価値を否定することである。社会の問題も家族の問題も自我の問題も学校に結び付けられざるを得ないのであれば、学校空間における問題が増加し、目立つようになるのは、必然と言える。かくして大衆教育社会の成熟がもたらした「学校化」は、「教育問題」の噴出を通じて「学校不信」を招き、「教育改革」のイシュー化を促すことになる。

 

常態化する「教育改革」と局所化する競争

 

90年以降の第4期(「不安定型競争」の時代)は、70年代後半以降に噴出した様々な「教育問題」を背景として、国民の間に「教育改革」の必要性が広く認識されるとともに、政府による「教育改革」についての議論や実践が活発化した時代である(苅谷〔2002〕、12-13頁)*4。首相の諮問機関に限っても、中曽根内閣期に先駆的に設置された臨時教育審議会(84-87年)に始まり、小渕内閣から森内閣にまたがる教育改革国民会議(00-01年)、安倍内閣期の教育再生会議(06-07年)、福田内閣期の教育再生懇談会(08年~)と、持続的な流れが見て取れる。

とりわけ多くの注目を集めた改革は、いわゆる「ゆとり教育」の導入である。第15期中央教育審議会が96年に提出した第一次答申では、過度の受験競争による悪影響への反省に基づき、子どもの「ゆとり」の確保と、知識量の多寡に還元されないような「生きる力」の育成を目指すべきことがうたわれた(同、45-48頁)。こうした認識に基づいて2002年から実施されている現行の学習指導要領(98年公示)は、「ゆとり」の名の下に授業時間や学習内容を削減したことから、子どもの学力低下を招くとして激しい批判を浴びた。批判への対応を迫られた文科省は、08年公示の新学習指導要領では授業時間増などを打ち出して「脱ゆとり」の方針を鮮明にしたものの、その一方で「生きる力」の育成方針は堅持している(学習指導要領改訂の基本的考え方@文部科学省)。

いわゆる「ゆとり」路線は、77年公示・80年実施の学習指導要領から文科省が継続的に取り組んできたものである。その基調は過度の受験競争への反省であるが、そうした方針に基づきつつ、89年公示・92年実施の学習指導要領では「新しい学力観」なる概念と、個性を尊重した教育が打ち出された。「新しい学力観」とは、「自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力を育成するとともに、基礎的・基本的な内容を重視し、個性を生かす教育を充実すること」を目指す立場である(苅谷〔2002〕、56頁)。この立場は、従来の「詰め込み型」教育に代わって、子どもの主体的な学習を促すことを通じて、創造性・思考力・判断力・表現力などを育成することを目指すものであり、後に「自ら学び、考える力」として打ち出されることになる「生きる力」と通底している(苅谷〔2002〕、48-49、56-59頁)。

 

こうした「ゆとり」路線や、少子化の進行、センター試験の導入(90年)などの影響から、全体としての受験競争は緩和されている(苅谷〔2002〕、113-115頁)。それは、90年代に入って4年制大学への入学率(進学志望者に占める合格者の割合)が上昇を続けていることに示されている(下図)。また、以前よりも大学に入ることが容易になっていく状況にバブル崩壊後の高卒労働市場の収縮が重なり(厚生労働省〔2007〕、24頁)、70年代半ば以降頭打ちだった進学率が再び急激な上昇を始めた。00年代後半には、大学ないし短期大学への進学者が18歳人口の過半数を占めるようになっている。

 

f:id:kihamu:20081012193733j:image (苅谷〔2002〕、114頁)

 

しかし、より重要なのは、競争への動機付けに生じた変化である。バブル崩壊後の長期不況と、それに伴う大企業の倒産や日本的雇用慣行の衰退、相次ぐリストラや若年失業率の上昇などの事態は、学歴競争に身を置く子どもが社会から受容する人生モデルを喪失させた。「いい学校に行けば、いい会社に入ることができて、いい人生を送ることができる」という神話は、実生活では役に立たない知識の競争でも、それを勝ち抜けば安定した地位が得られると認識させることで、学習への動機付けを確保する機能を持っていた。そうした神話が崩れてしまえば、学習への動機付けは弱体化することが避けられず、受験競争や学校知識から撤退する子どもが多数出現しても不思議ではない。「輝かしい未来」が約束されなければ、今を犠牲にしてまで役に立たない知識に関する辛い競争に身を置こうと思う人間は、誰もいないからだ(宮台〔1997=2000〕、268頁)。

学校教育から「降りる」子どもたちがまとまった規模で現れてきているのかどうかについては慎重な判断が必要とされるが、中高生の学習時間が減少傾向にあることは確かなようである(苅谷〔2002〕、119-133頁、山田〔2004=2007〕、235&237頁)。90年代以降になっても、偏差値上位層での受験競争は緩和されたわけではない。しかし、「大学を選ばなければ入れる」と言われる近年では、あからさまな形で「降りる」振る舞いをせずとも、適度に折り合いを付ける形で競争から撤退することは容易になっているだろう。「いい学校」神話が崩壊した後でも上位校を目指して競争に身を投じる層と、競争から(全面的/部分的に)撤退する層の間で、二極化が進んでいると思われる(競争の局所化)。

 

f:id:kihamu:20081012193709j:image (山田〔2004=2007〕、237頁)

 

「競争の局所化」は大衆教育社会の重大な変革であるが、社会ないし生涯全体における競争性は、むしろ高まっている点に注意が必要である。雇用が流動化するとともに年功賃金や終身雇用が保障されなくなる中、生活の「安定」は容易に得られるものではなくなっている。現代の企業が労働者に求めるのは、第一に創造性であり、第二に専門性であり、それらを持たなければ、単純労働力として「柔軟に」活用されるだけである*5。言うなれば、かつては学校的価値観に基づく競争に勝ち抜くことが自動的に生活の安定を保障してくれたが、現代では学校的価値観を超えたところで存在する競争において、自らの能力を現に示さなければならない。

90年代における教育政策の方向性は、そのような「生涯競争」を生き抜くための能力を身に付けさせることを目指すものである――とまで言うのは、おそらく不正確である。だが、ここに対応性があることは否定できない。「新しい学力」≒「生きる力」を重視する方針においては、学習上の力点は「理解する」ことよりも「問題を解決する」ことに移り、教育上の着目点は「何を学ぶ/覚えるか」よりも「どう動く/考えるか」に移った(苅谷〔2002〕、60-61頁)。その意図や成果はともかく、この転換自体は、経済/労働領域における現代的な要請――従順で均質的であるよりも主体的で創造的たれ――と合致している。また、自ら学ぶ意欲が重視されていることから、「いい学校」神話の崩壊による学習への動機付けの弱体化への対応が先取りされている面も読み取ることができる。

「いい学校」神話の崩壊は、教育現場における従来の評価軸(学校的価値観)を失効させたが、その結果として、親や子どもの側でも、単なる学歴志向よりも「やりたいこと」に即した「個性を伸ばす」教育への志向性が高まっている。今や、役に立たない知識を詰め込まれるよりも、現に役に立つ知識を習得するか、自分に必要なものを自分で探して獲得することができる姿勢や能力を身に付けることの方が、「輝かしい未来」に近づく道だと認識されつつあるのだ。

 

教育の個人化と国民教育の困難

 

現代において一般化している、子どもの主体性を重視する教育方針、いわゆる「子ども中心主義」の浸透の背景をどう見るべきだろうか。

第一には、「家族への内閉」が親の子どもへの愛着/固執を強めていることがあるだろう。「家族への内閉」が深化した結果、赤の他人が子どものしつけに口を出すことは許されず、「親と、親が認めた者だけが、子どものしつけの担い手の資格を持つような状況になってきた」(広田〔1999〕、127頁)。その結果、親は強迫的に教育主体としての責任を引き受けざるを得なくなっていく(同)。学校に対する親の視線がますます厳しくなっているのは、子どもの教育の最終的責任を帰せられる親の意向に反して、学校が「勝手なことをしてくれては困る」からである。親は教育サービスの「消費者」として、「正当な権利」に基づく学校教育への意見・介入を為し得る立場にあると見做されている(広田〔1999〕、130頁)*6

それと同時に、子ども自身が主体化ないし個人化していることも挙げられる。子どもを人権主体として捉える見方は70年代後半から現れていたが、明確に子どもを人権主体として認識し、尊重する態度が広まるのは、90年代に入ってからであろう*7。子どもの意思を尊重する一方で、自ら選択した行動の責任は取らせるべきだとの考えが強まっている*8。子どもを権利主体として尊重することは、自己責任を求めることと一体であり、強まる一方の少年犯罪への厳罰姿勢とも一体である。子どもが愛情やケアの対象としてますます「愛玩動物化」する傾向と*9、その内面が理解不可能であるとして「モンスター化」する傾向の並立は、こうして無矛盾に説明できる。「新しい学力」≒「生きる力」の重視は、子どもを自立/自律する主体として捉え、そうした認識に即して、相当の「配慮」と「要請」が、同時に子どもへと向けられていることの現れだと考えられる。

 

「いい学校」神話の崩壊に伴って、共通の評価軸が失われ、ライフコースの多様化が認識されることで、子どもの将来にかかわる選択肢も多様なものとして現われてきた(苅谷・増田〔2006〕、38頁)。既に評価軸は個別化されており、それぞれの選択の結果についての責任は、個人に求めれるようになる(同、41頁)。今や重要なことは、自分にとって/自分の子どもにとって有用な選択肢は何であるかであり、子どもの「個性」や「やりたいこと」に合った教育の確保である(同、42頁)。教育は、集団としての子どもを相手にする公共的営為であるよりも、個別の子ども=消費者に対価に応じたサービスを提供する私的取引としての性格を強めている。教育の個人化が、教育の(疑似)市場化ないし私化を生じさせている*10。それは、国民教育の第一の目的である自律的主体の形成を脱公共化するとともに、第二の目的である国民統合を欠損させる。教育による統合が、チープなシンボルやダイレクトな「心の教育」に期待されるようになっているのは、その不可能性を示すものだろう*11

 

  • 参考文献
    • 奥地圭子〔2005〕『不登校という生き方 教育の多様化と子どもの権利』日本放送出版協会(NHKブックス)
    • 苅谷剛彦〔1995〕『大衆教育社会のゆくえ』中央公論新社(中公新書)
    • 苅谷剛彦〔2002〕『教育改革の幻想』筑摩書房(ちくま新書)
    • 苅谷剛彦・増田ユリヤ〔2006〕『欲ばり過ぎるニッポンの教育』講談社(講談社現代新書)
    • 苅谷剛彦ほか〔2000〕『教育の社会学』有斐閣(有斐閣アルマ)
    • 久冨善之〔1994〕「日本の学校―その現状と子どもの権利」『一橋論叢』第112巻第4号、1994年10月号
    • 久冨善之〔2002〕「教育における競争を考える 第1回 教育における競争の光と影」『塾ジャーナル』2002年9月号
    • 久冨善之〔2003〕「教育における競争を考える 第3回 90年代教育における競争の性格転換」『塾ジャーナル』2003年1月号
    • 久冨善之〔2003-04〕『教育社会学』2003年度一橋大学社会学部講義
    • 厚生労働省〔2007〕『平成19年版 労働経済白書』
    • 五味文彦ほか編〔1998〕『詳説日本史研究』山川出版社
    • 佐藤俊樹〔2000〕『不平等社会日本 さよなら総中流』中央公論新社(中公新書)
    • 内閣府〔2007〕『平成19年版 国民生活白書』
    • 浜島書店編集部編〔1998〕『新詳日本史図説』浜島書店
    • 広田照幸〔1999〕『日本人のしつけは衰退したか 「教育する家族」のゆくえ』講談社(講談社現代新書)
    • 藤田英典〔2007〕「学校選択制――格差社会か共生社会か」藤田英典編『誰のための「教育再生」か』岩波書店(岩波新書)
    • ウルリヒ・ベック〔1998〕『危険社会』東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局
    • 宮台真司〔1996=2000〕「郊外化と近代の成熟」『まぼろしの郊外』朝日新聞社(朝日文庫)
    • 宮台真司〔1997=2000〕「酒鬼薔薇聖斗のニュータウン」『まぼろしの郊外』朝日新聞社(朝日文庫)
    • 宮台真司・藤井誠二〔2001〕『「脱社会化」と少年犯罪』創出版
    • 宮台真司・速水由紀子〔2006〕『サイファ 覚醒せよ! 世界の新解読バイブル』筑摩書房(ちくま文庫)
    • 文部科学省〔2006〕「平成17年度 生徒指導上の諸問題の現状について」
    • 文部科学省〔2007〕「平成19年度学校基本調査」
    • 山田昌弘〔2004=2007〕『希望格差社会』筑摩書店(ちくま文庫)
    • 山田昌弘〔2005〕『迷走する家族――戦後家族モデルの形成と解体』有斐閣
    • 『週刊ダイヤモンド』第96巻第14号(通巻4223号)、2008年4月

*1:「家族」の項を参照。

*2:以下、各時期の特徴については久冨の認識に負うところが極めて大きいため、いちいち示すことはせず、ここで述べておくに留める。

*3:学校的価値観に染まることができない若者はストリート、バーチャル空間、テレクラなどの「第四空間」に流出し、匿名的存在として「まったり」するようになったが、他方で学校から流出することができない「良い子」が苦しむようになり、90年代になって「アダルトチルドレン」や「ひきこもり」という形で問題が現れ出したとされる(宮台・藤井〔2001〕、29頁)。

*4:以下、教育行政の動きについては、『週刊ダイヤモンド』第96巻第14号(通巻4223号)、2008年4月、35-37頁、を参考にした。

*5:「経済/労働」を参照。

*6:家庭教育の衰退が喧伝される一方で学校不信が深まる状況下で、家庭と学校は教育の責任を巡る日常的な駆け引きへと駆り立てられている。油断すれば、どちらが社会から指弾されるか分からないので、相手の隙を見つけては攻撃に転じるのである。「モンスターペアレント」なる言葉の浸透は、そうした駆け引きの一局面として捉え得る。

*7:89年に国連で採択された子どもの権利条約に、日本は90年に署名、94年に批准した。

*8:子どもはますます早期に将来について考え、進路を決定することを求められている――「13歳のハローワーク」。それは、子どもの「意欲」を喚起しようとする教育と方向を同じくするものである。

*9:U.ベックは、家族の個人化が親と子どもの繋がりに質的変化をもたらしたと論じている。「子供は、最後に残った、取り消すことのできない、交換不可能な第一次的関係となった。パートナーは変わったり、いなくなったりする可能性があるが、子供はそこにとどまっている。パートナーシップのなかに切望したものの十分には享受しえなかったことすべてが、子供に向けられる。男女関係がひびの入ったものとなるとともに、子供は独占的な地位を占めるようになり、子供との関係によってのみ二人の人間関係を体験し、生物的なやりとりをし、情に満ちた生活を楽しむことが可能になる。(中略)子供は、人間が自分の手から抜け落ちていく愛の可能性に対抗して築くことのできる、孤独に対する最後の対抗物ととなった」(ベック〔1998〕、237-238頁)。

*10:97年に文部省が「通学区域の弾力的運用について(通知)」を各教育委員会に出したことで、学校選択制の道が初めて開かれた。その後、02年の学校教育法施行規則の改正(03年施行)により、各教育委員会の判断に基づく学校選択制の導入が自由化された。小泉政権下の総合規制改革会議の答申「規制改革推進のためのアクションプラン・12の重点検討事項」には「株式会社、NPOなどによる学校経営の解禁」が盛り込まれ、安倍政権下での教育再生会議の第二次報告第三次報告では学校選択制に教育バウチャー制を結び付けることが提言された(藤田〔2007〕、121-123頁)。

*11:99年の国旗・国歌法成立以後、全国の公立学校では日の丸と君が代への明示的な敬意表明を求める締め付けが強化されている。また、06年12月には保守派の悲願たる教育基本法の改正が行われ、道徳教育の重視と愛国心の育成が盛り込まれた。02年には文科省が道徳の副教材として「心のノート」を作成・配布しており、目下、「徳育」の教科化に向けて検討が進められている。