ポストモダンにおけるデモクラシーの価値――宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』

 

 

〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

吉田徹『二大政党制批判論』や宮本太郎『生活保障』、菅原琢『世論の曲解』など、昨年後半は政治学者の手になる良質の新書が相次いで出版された*1。これを一つの流れとして、併せて読まれるべきなのが本書である。

政治思想史を専門とする宇野重規によって著された本書は、個人の尊重が人々の唯一共通の価値基準となり、「他人と同程度には特別な存在」としての〈私〉の平等が求められる現代を、平等(化)の思想家アレクシ・ド・トクヴィルの思想を手がかりに読み解く。さらに現代フランスの政治哲学の議論なども交えながら、デモクラシーの現代的意味を問うものになっている。

なお著者は、2007年に一般向けのトクヴィル入門書として水準の高い『トクヴィル 平等と不平等の理論家』を著している*2

 

〈私〉の漂流とデモクラシーの新たな意味

宇野はまず、苅谷剛彦・宮本太郎・佐藤俊樹・城繁幸などの議論を引きながら、現代日本の個人が社会内の中間集団から切り離されている姿を描き出す(第1章)。職域型に「仕切られた生活保障」によって支えられていた戦後日本の「小さな福祉国家」が80年代以降の行財政改革によって解体されてきたことで、過去にヨコの連帯を可能にしてきた「閉じた共同体的空間」は崩壊しつつある。さらに、家族的拘束の薄まりが世代を超えた不平等是正への期待を失わせる一方、長期的な所得再分配機能を含んでいた日本型雇用慣行が破壊されていくことで、若者は世代間格差を強く意識するようになる。このようにタテの結び付きが弱まると、人々はより短期的な境遇を重視するようになり、「いま・この瞬間」の不平等へと意識を鋭敏化させていく。平等への渇望は強まりながらも、それを可能にする連帯はますます困難になっているのだ。

現代の個人が置かれている状況は、近代的原理の帰結としての新たな局面であると言える(第2章)。そもそも福祉国家に代表されるような近代に成立した諸制度は、個人を中間集団から解放し、自立して生きていくことを可能にした一方で、個人が置かれている境遇のほとんど全てを自らの選択と行動の帰結たる「個人の問題」として理解可能にする皮肉な効果も生んだ(「個人化」)。自立≒孤立した個人は、自己を管理することを求められる。個人を社会内に位置=意味付け、拘束すると同時に保護してくれた「閉じた共同体的空間」は既に無い。私たちは、自分自身が「どんな個人」であるのかを自ら解釈・提示し、絶えず自らの行動に自分で意味付けし、自らがさらされるリスクに責任を負わねばならない。少なくとも、そのような強迫に追われる。

かくして現代の〈私〉たちは、中間集団から切り離されて浮遊するだけでなく、自己の意味と針路を求めて漂流する。それは現実政治にも濃い影を落としている(第3章)。古代ギリシアのポリスには私的領域(オイコス)と公的領域(エクレシア)の間を繋ぐ領域として広場(アゴラ)が在ったが、現代にはそれが無い。人々がそこから離れていく中間集団としては、政党も例外ではない。〈私〉と〈公〉を結ぶ伝統的回路が弱まり、大文字の政治が機能を果たせずに信頼を失う中で、〈私〉を直接〈公〉へと短絡させようとする感情のポリティクスが横溢するようになる。

このような現状においては、公共的利益が何であるかを集合的に画定していくプロセスであるとともに、他者との対話の中で〈私〉とは何であるかかを問い直すことのできるプロセスでもあるデモクラシーが、ますます重要になっている。そこでは、平等が実現されるべき〈私たち〉の中身も問い直され得る。したがって、「答えがない」現代であるからこそ、「手続き」としてのデモクラシーの意味は大きくなるばかりなのである(第4章、むすび)。

 

政治的回路の再整備へ

「政治の意味の回復」のために「政治的回路の再整備」が必要であるとの著者の認識(119頁)には、強く同意する。しかし、その具体的方策は、本書ではほとんど語られていない。デモクラシーの新たな可能性を2008年末の「年越し派遣村」の中に見ようとするのは、率直に言ってあまり説得的でも魅力的でもないだろう。私自身デモクラシーの中にポストモダンの明るい未来を構想する者として、著者が「どのようなデモクラシー」に希望を見ているのかが明確に読み取れなかった点は、少々残念に感じた。

個人的感懐だが、現在は理念のみならず制度にまで貫通するような「理論」が求められているのではないだろうか。それは勿論、かつての「大きな物語」という意味ではなく、人々の一つの選択肢「でしかない」ものの提示として、である。

本書の中でも語られているように(126頁)、少なくとも大嶽秀夫が『日本政治の対立軸』を著した頃から*3、人々の選択肢を構成し得るような一貫した政治的理念を明確にした政治が求められてはきた。現に、政治家が新党を作る際には、誰しも理念の重要性を語る。しかし理念は制度や政策と結び付かなければ、現実に影響を及ぼさない。「大きな政府か小さな政府か」などといった点に限定されることなく、例えば選挙制度や司法制度まで含んで「どのようなデモクラシー」がなぜ選ばれるべきなのかを一体的に説明するような、有り得る複数の社会構成原理の提案が求められていると思うのである。

とはいえ、モダニティの変容とそれに伴う主体のアイデンティティや生の問題を現実政治やデモクラシーと連続的に論じた一般向けの書籍としての本書の価値は、決して小さくない。宇野自身はアンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベックにならって「後期近代」や「再帰的近代」といった言葉を使い、これを「脱近代」とは異なるものとして区別しているが、私はその区別に大きな意味を感じないので、ここでは本書を「ポストモダンにおけるデモクラシーの価値を問い直したもの」として敢えて要約する*4。宮台真司や東浩紀の魅力的な言説に跳び付きがちな若い読者はその飛躍に一定の足場を確保する意味で、他方「ポストモダン」の語だけで警戒姿勢になりがちな慎慮ある読者は流行の社会評論を視野中の適正な位置に収めて捉え直すための媒介項を得る意味で、是非一読されることを薦める。

 

関連文献

本書で論じられたようなデモクラシーの現代的位置を歴史的に把握するために、森政稔『変貌する民主主義』を強く薦めたい*5。また、現代社会の活路をデモクラシーに見出す立場について詳しく知るなら、一般向けの水準は乗り越えることになるが、田村哲樹『熟議の理由』が必読書だろう*6

政治学者がモダニティの変容についての議論に基づきながらデモクラシーの現代的在り方を問い直した一般向けの書籍としては、同じく岩波新書から2004年に出版された篠原一『市民の政治学』が先行している*7。田村著の主題である熟議/討議デモクラシーについての導入書としても役立つはずである。

また、現代社会における個人の位置について考えるには、直観的に理解しやすいところで岡本裕一朗『モノ・サピエンス』*8、いささか込み入った議論を厭わないなら鈴木謙介『ウェブ社会の思想』が参考になるかと思う*9。前者は消費(者)社会、後者はメディア環境に焦点を当てながら、現在および近未来において個々の主体が置かれる環境について考察を加えている。

二大政党制批判論 もうひとつのデモクラシーへ (光文社新書)

 

宮本太郎『生活保障――排除しない社会へ』岩波書店(岩波新書)、2009年

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

菅原琢『世論の曲解――なぜ自民党は大敗したのか』光文社(光文社新書)、2009年

世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか (光文社新書)

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

トクヴィルについては、「トクヴィル『アメリカのデモクラシー』」「アレクシス・ド・トクヴィル『旧体制と大革命』抜粋」なども参照。

 

日本政治の対立軸―93年以降の政界再編の中で (中公新書)

*4:「ポスト・モダン」である以上、それは近代の果てに生じてきた諸現象を指して観念されているのだと考える方が自然であり、運動としてのポストモダニズムの印象を引きずって、この語を使用する者が近代とは「まったく別の」何かを描いていると即断するべきでは、今やない(と言うよりも、英語の“modern”が「現代」も意味しているがゆえに“post-modern”なる奇妙な語の使用がためらわれるというのが実態に近いのかもしれない)。私自身は、一定の社会学的根拠に基づいていることが明示されるのであれば、ポストモダンという認識/用語は問題視するに足りないと考えている。そうした社会学的認識の構築をアマチュアながら試行したものとして「現代日本社会研究のための覚え書き」を参照。

 

変貌する民主主義 (ちくま新書)

 

熟議の理由―民主主義の政治理論

市民の政治学―討議デモクラシーとは何か (岩波新書)

モノ・サピエンス 物質化・単一化していく人類 (光文社新書)

ポストモダンにおけるデモクラシーの価値――宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』

 

 

〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

 

吉田徹『二大政党制批判論』や宮本太郎『生活保障』、菅原琢『世論の曲解』など、昨年後半は政治学者の手になる良質の新書が相次いで出版された*1。これを一つの流れとして、併せて読まれるべきなのが本書である。

政治思想史を専門とする宇野重規によって著された本書は、個人の尊重が人々の唯一共通の価値基準となり、「他人と同程度には特別な存在」としての〈私〉の平等が求められる現代を、平等(化)の思想家アレクシ・ド・トクヴィルの思想を手がかりに読み解く。さらに現代フランスの政治哲学の議論なども交えながら、デモクラシーの現代的意味を問うものになっている。

なお著者は、2007年に一般向けのトクヴィル入門書として水準の高い『トクヴィル 平等と不平等の理論家』を著している*2

 

〈私〉の漂流とデモクラシーの新たな意味

 

宇野はまず、苅谷剛彦・宮本太郎・佐藤俊樹・城繁幸などの議論を引きながら、現代日本の個人が社会内の中間集団から切り離されている姿を描き出す(第1章)。職域型に「仕切られた生活保障」によって支えられていた戦後日本の「小さな福祉国家」が80年代以降の行財政改革によって解体されてきたことで、過去にヨコの連帯を可能にしてきた「閉じた共同体的空間」は崩壊しつつある。さらに、家族的拘束の薄まりが世代を超えた不平等是正への期待を失わせる一方、長期的な所得再分配機能を含んでいた日本型雇用慣行が破壊されていくことで、若者は世代間格差を強く意識するようになる。このようにタテの結び付きが弱まると、人々はより短期的な境遇を重視するようになり、「いま・この瞬間」の不平等へと意識を鋭敏化させていく。平等への渇望は強まりながらも、それを可能にする連帯はますます困難になっているのだ。

現代の個人が置かれている状況は、近代的原理の帰結としての新たな局面であると言える(第2章)。そもそも福祉国家に代表されるような近代に成立した諸制度は、個人を中間集団から解放し、自立して生きていくことを可能にした一方で、個人が置かれている境遇のほとんど全てを自らの選択と行動の帰結たる「個人の問題」として理解可能にする皮肉な効果も生んだ(「個人化」)。自立≒孤立した個人は、自己を管理することを求められる。個人を社会内に位置=意味付け、拘束すると同時に保護してくれた「閉じた共同体的空間」は既に無い。私たちは、自分自身が「どんな個人」であるのかを自ら解釈・提示し、絶えず自らの行動に自分で意味付けし、自らがさらされるリスクに責任を負わねばならない。少なくとも、そのような強迫に追われる。

かくして現代の〈私〉たちは、中間集団から切り離されて浮遊するだけでなく、自己の意味と針路を求めて漂流する。それは現実政治にも濃い影を落としている(第3章)。古代ギリシアのポリスには私的領域(オイコス)と公的領域(エクレシア)の間を繋ぐ領域として広場(アゴラ)が在ったが、現代にはそれが無い。人々がそこから離れていく中間集団としては、政党も例外ではない。〈私〉と〈公〉を結ぶ伝統的回路が弱まり、大文字の政治が機能を果たせずに信頼を失う中で、〈私〉を直接〈公〉へと短絡させようとする感情のポリティクスが横溢するようになる。

このような現状においては、公共的利益が何であるかを集合的に画定していくプロセスであるとともに、他者との対話の中で〈私〉とは何であるかかを問い直すことのできるプロセスでもあるデモクラシーが、ますます重要になっている。そこでは、平等が実現されるべき〈私たち〉の中身も問い直され得る。したがって、「答えがない」現代であるからこそ、「手続き」としてのデモクラシーの意味は大きくなるばかりなのである(第4章、むすび)。

 

政治的回路の再整備へ

 

「政治の意味の回復」のために「政治的回路の再整備」が必要であるとの著者の認識(119頁)には、強く同意する。しかし、その具体的方策は、本書ではほとんど語られていない。デモクラシーの新たな可能性を2008年末の「年越し派遣村」の中に見ようとするのは、率直に言ってあまり説得的でも魅力的でもないだろう。私自身デモクラシーの中にポストモダンの明るい未来を構想する者として、著者が「どのようなデモクラシー」に希望を見ているのかが明確に読み取れなかった点は、少々残念に感じた。

個人的感懐だが、現在は理念のみならず制度にまで貫通するような「理論」が求められているのではないだろうか。それは勿論、かつての「大きな物語」という意味ではなく、人々の一つの選択肢「でしかない」ものの提示として、である。

本書の中でも語られているように(126頁)、少なくとも大嶽秀夫が『日本政治の対立軸』を著した頃から*3、人々の選択肢を構成し得るような一貫した政治的理念を明確にした政治が求められてはきた。現に、政治家が新党を作る際には、誰しも理念の重要性を語る。しかし理念は制度や政策と結び付かなければ、現実に影響を及ぼさない。「大きな政府か小さな政府か」などといった点に限定されることなく、例えば選挙制度や司法制度まで含んで「どのようなデモクラシー」がなぜ選ばれるべきなのかを一体的に説明するような、有り得る複数の社会構成原理の提案が求められていると思うのである。

 

とはいえ、モダニティの変容とそれに伴う主体のアイデンティティや生の問題を現実政治やデモクラシーと連続的に論じた一般向けの書籍としての本書の価値は、決して小さくない。宇野自身はアンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベックにならって「後期近代」や「再帰的近代」といった言葉を使い、これを「脱近代」とは異なるものとして区別しているが、私はその区別に大きな意味を感じないので、ここでは本書を「ポストモダンにおけるデモクラシーの価値を問い直したもの」として敢えて要約する*4。宮台真司や東浩紀の魅力的な言説に跳び付きがちな若い読者はその飛躍に一定の足場を確保する意味で、他方「ポストモダン」の語だけで警戒姿勢になりがちな慎慮ある読者は流行の社会評論を視野中の適正な位置に収めて捉え直すための媒介項を得る意味で、是非一読されることを薦める。

 

関連文献

 

本書で論じられたようなデモクラシーの現代的位置を歴史的に把握するために、森政稔『変貌する民主主義』を強く薦めたい*5。また、現代社会の活路をデモクラシーに見出す立場について詳しく知るなら、一般向けの水準は乗り越えることになるが、田村哲樹『熟議の理由』が必読書だろう*6

政治学者がモダニティの変容についての議論に基づきながらデモクラシーの現代的在り方を問い直した一般向けの書籍としては、同じく岩波新書から2004年に出版された篠原一『市民の政治学』が先行している*7。田村著の主題である熟議/討議デモクラシーについての導入書としても役立つはずである。

また、現代社会における個人の位置について考えるには、直観的に理解しやすいところで岡本裕一朗『モノ・サピエンス』*8、いささか込み入った議論を厭わないなら鈴木謙介『ウェブ社会の思想』が参考になるかと思う*9。前者は消費(者)社会、後者はメディア環境に焦点を当てながら、現在および近未来において個々の主体が置かれる環境について考察を加えている。

宮本太郎『生活保障――排除しない社会へ』岩波書店(岩波新書)、2009年

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

菅原琢『世論の曲解――なぜ自民党は大敗したのか』光文社(光文社新書)、2009年

世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか (光文社新書)

世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか (光文社新書)

*2宇野重規『トクヴィル 平等と不平等の理論家』講談社(講談社選書メチエ、2007年)

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

トクヴィルについては、「トクヴィル『アメリカのデモクラシー』」「アレクシス・ド・トクヴィル『旧体制と大革命』抜粋」なども参照。

*3大嶽秀夫『日本政治の対立軸――93年以降の政界再編の中で』中央公論新社(中公新書)、1999年

日本政治の対立軸―93年以降の政界再編の中で (中公新書)

日本政治の対立軸―93年以降の政界再編の中で (中公新書)

*4:「ポスト・モダン」である以上、それは近代の果てに生じてきた諸現象を指して観念されているのだと考える方が自然であり、運動としてのポストモダニズムの印象を引きずって、この語を使用する者が近代とは「まったく別の」何かを描いていると即断するべきでは、今やない(と言うよりも、英語の“modern”が「現代」も意味しているがゆえに“post-modern”なる奇妙な語の使用がためらわれるというのが実態に近いのかもしれない)。私自身は、一定の社会学的根拠に基づいていることが明示されるのであれば、ポストモダンという認識/用語は問題視するに足りないと考えている。そうした社会学的認識の構築をアマチュアながら試行したものとして「現代日本社会研究のための覚え書き」を参照。

*5森政稔『変貌する民主主義』筑摩書房(ちくま新書)、2008年

変貌する民主主義 (ちくま新書)

変貌する民主主義 (ちくま新書)

*6田村哲樹『熟議の理由――民主主義の政治理論』勁草書房、2008年

熟議の理由―民主主義の政治理論

熟議の理由―民主主義の政治理論

*7篠原一『市民の政治学――討議デモクラシーとは何か』岩波書店(岩波新書)、2004年

市民の政治学―討議デモクラシーとは何か (岩波新書)

市民の政治学―討議デモクラシーとは何か (岩波新書)

*8岡本裕一朗『モノ・サピエンス――物質化・単一化していく人類』光文社(光文社新書)、2006年

モノ・サピエンス 物質化・単一化していく人類 (光文社新書)

*9鈴木謙介『ウェブ社会の思想――〈遍在する私〉をどう生きるか』日本放送出版協会(NHKブックス)、2007年

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

エドマンド・バーク『フランス革命についての省察』抜粋

 

フランス革命についての省察〈上〉 (岩波文庫)

フランス革命についての省察〈上〉 (岩波文庫)

 

 

この王家を特定して継承を認めた法律は、ウィリアム王第十二年、十三年の法である。この法律の条項は以前に我々をウィリアム王とメアリ女王の子孫に結びつけてきたあの権利宣言と全く同じ文言のもとに、「我々とその子孫ならびに後継人を、彼らとその子孫ならびに後継人」がプロテスタントである限り、未来永劫にわたって結びつける。それは、世襲的な王冠と世襲的な忠誠の両方をひとしく確保する。民衆の選択権を永久に排除する、この種の継承の確立を目指す立憲的政策以外のどんな理由にもとづいて、この時の立法府は、我々自身の国土が彼らに提起した広範かつ有望な選択権を入念に拒絶して、今後我々の将来の統治者の王統が長い時代にわたり何百万の国民を統治する資格をその母胎から引き出すべき外国の王妃を、わざわざ異国の地に探し求める手数を費したであろうか?

 

(上巻48-49頁。イタリックは原文傍点。以下同様)

 

かくして我々の自由は、過去に一度危機に瀕したにせよ、あらゆる大権と特権をめぐる抗争の嵐の中でもその都度保持されてきた。彼らの見通しは的確だった。実際に我々は、この世襲的王冠以外のいかなる手順、もしくは方法によっても、我々の自由が我々の世襲的権利として正規に恒久化されて神聖に保持されうるとは、経験から学ばなかった。不正規な突発的病気の退治のためであれば、不正規で突発的な対策も或いは必要とされるだろう。だが継承なる方針こそは、ブリテン憲法の健全な習性である。[中略]――彼らはこの種の外国人の統治が生み出すであろう弊害を、充分に、否、充分過ぎるほど正しく理解していた。だが彼らは、それが外国人の家系となることの危険性と不都合のすべてが予想されて彼らの心に多大の影響を及ぼしたであろう状況下で、なお敢えて世襲にもとづくプロテスタント継承たる旧来の方針の採用を堅持した。名誉革命の原理は、古来の統治の基本的原理への配慮抜きで、好き勝手に自分の手で国王を選ぶ権利などをブリテン国民に与えなかった、という彼らの深い確信を表わす決定的な証拠として、これ以上に有無を言わさぬ事実はありえない。

 

(上巻50-51頁)

 

先へ進む前に、私はここで貴下の許しを得て、選挙を王冠への唯一合法的な資格と喧伝する徒輩が、我が国の憲法の正当な原理への支持を多少とも厄介な課題へと仕立てる魂胆から好んで提起する二、三のけち臭い策略について一言したい。これらの詭弁家は、我々が王冠の相続に関する属性の擁護に乗り出す場合には、あたかも我々が肩入れしていると想像される架空の大義や偽りの人物を必ずや持ち出してくる。つまり彼ら一味の常套の手口は、彼らが、「王冠は神聖で不可侵な世襲的相続権によって保持される」と言う、今日では誰一人として主張しない言説を以前に唱えていた一部の時代後れの奴隷制の狂信的支持者を相手に論争しているかのように見せかけることである。これら一個人の恣意的権力の旧套な熱狂家は、ちょうど我々の民衆の恣意的権力の新しい熱狂的な信者が、民衆の選挙を権威の唯一合法的な源泉であると主張するのと全く同様に、世襲的な王統が世界で唯一合法的な統治であるかのように、独断的に立論してきた。事実、これら旧時代の国王大権の熱狂家は、愚かしくも、また多分不敬にも、君主政体がまるで他のどんな統治形態よりも一層多く神による裁可を得ているかのように思弁してきた。その結果、この相続による統治権は、たまたま王位継承の権利を持つどんな人物、どんな状況であっても厳密に破棄不可能となるが、そのような個人的政治的権利なるものは最初からありえない。

 

(上巻52-53頁)

 

 

確かに社会は一つの契約である。従属的で単なるその場限りの利益のための契約は、任意に解除されてもよいだろう。だが、国家は例えば胡椒やコーヒーの、キャラコや煙草の取引やその他の卑俗な用途の物品のように、細かい一時的利益のために締結されて当事者の意向一つで解約される程度の共同事業協約と考えらるべきではない。それは、別種の崇敬の念でおのずと仰ぎ見らるべきである。事実、これは一時的な壊れ易い本性の粗野な動物的存在に資するに過ぎない物事の共同事業では断じてない。それはあらゆる学問、あらゆる芸術の共同事業、すべての美徳、すべての完徳における共同事業である。この種の共同事業の目的は、数多の世代を経ても達成されないから、それは単に生きている人々の間のみならず、現に生きている者とすでに死去した者や今後生まれる者との間の共同事業となる。個々の特定国家の個々の約定は、永遠な社会の偉大な原初契約の単なる一条項に過ぎない。それらは下位の本性を高位のものと、可視の世界を不可視の世界と連結して、あらゆる物理的本性とあらゆる精神的本性をその定められた場所に配置する不可侵の制約が裁可する、確乎たる盟約に依拠している。それ故に人々は、自己を遥かに越えた高次の義務にもとづいて、彼らの意思をこの法に従属させる責任を有し、決してこの法を彼らの意思に従属させてはならない。同時にこれら普遍的な王国内の自治的な団体も、彼らの気まぐれ一つで、偶然的な改善の思惑にもとづいて、任意にその従属的共同体の紐帯を残らずずたずたに切断して原始的要素の非社会的で粗野な個々ばらばらの混沌へと解消する真似は、道義的に許されない。

 

無秩序への復帰を辛うじて正当化しうるのは、選択されるのでなく選択する第一の至高な止むなき必然性、如何なる考慮をも超越して一切の論議を許さず、何一つ証拠を要求しない非常事態だけである。この最終的な必要性は、決して規則への例外ではない。何故ならば、この止むをえない必要性そのものが、合意と強制の区別なく人間が服従せねばならぬ、事物のあの道徳的物理的な配置の一部を形成するからである。もしもこれと逆に、必要性への単なる服従に他ならないものが選択の対象にされるならば、法は破壊されて自然な人情は無視され、その結果これら叛乱分子はこの理性と秩序、平和と美徳、そして稔りある悔悟の世界から狂気や不和と悪徳、そして詮ない悲嘆という対照的な世界へと法外化され、追放され、配流される。

 

(上巻177-178頁。一部改行を加えた)

 

 

人間の道徳的な条件や傾向を入念な正確さで追跡する古代の共和国の何人かの立法者によるこの有能的な配置とは正反対に、彼らは、自分たちが君主政体の質朴で粗野な組成の下にさえ見出した、あらゆる身分階層を残らず平準化して圧殺した。実はこの種類の政体では、市民たちの分類は共和国におけるほどには重要でないにせよ、これらの個々の分類は、もしも適正に配置されればあらゆる統治の形態で有効であり、これは共和国に効力と永続性を与える必要な手段であるのと同程度に、過度の専制への強力な歯止めを間違いなく形成する。この種の何かが欠如しているために、もしも現在の共和国の計画が失敗するならば、適度に抑制された自由のあらゆる保障もそれとともに消滅するだろう。専制政治を緩和するすべての間接的な抑制は消滅して、その結果、今後万一にも、現在もしくはそれ以外の王朝による君主制が再びフランスを完全に支配する事態にでもなれば、それは、発足に際して、君主の聡明で有徳な助言によって自発的に和らげでもされない限り、恐らく歴史上未曾有の完全な恣意的権力となるであろう。これは全く絶望的な賭事を弄ぶにひとしい。

 

(下巻95頁)

 

 

私は、我々の幸福な状態が我々の憲法に由来すると確信するが、それは、これの単一な特定部分でなくてその全体に、つまり、我々が変更もしくは追加してきた要素と並んで、我々の何度かの点検と改革の際にも敢えてそのまま保存してきた要素に大部分由来している。我が国民は、彼らが保有する財産を侵害から防衛するための真に愛国的な自由で独立的な精神を、今後も充分に発揮するだろう。私は変更を必ずしも排除しない。だが、変更を加える場合にも、それは保存のために行なわるべきである。私は非常な苦痛に接して初めて、私の救治策を講ずるだろうが、それを実際に行なう場合にも、私は我が祖先の手本に見習いたい。私は、補修を加える場合にも可能な限り旧来の建物の型に似せて行ないたい。賢明な用心、周到な用意、気質的というよりも道徳的な臆病心等々は、我々の先祖が彼らの最も決然たる行動に際して依拠した原理の一つであった。

 

(下巻199-200頁)

 

「熟議に基づく教育政策形成シンポ」傍聴記

 

4月17日に文部科学省内の講堂で開催された「熟議に基づく教育形成シンポジウム」を傍聴してきましたので、その模様について、気付いたことや個人的な感想を簡単に書き留めておきたいと思います。

コンセプト

 

「熟議」とは「熟慮と討議」を縮めた言葉で、近年、政治理論の分野で盛んに論じられている「熟議デモクラシー(deliberative democracy)」という考え方に由来するものです。その内容を理解するには、本年2月から始動している文科省の「「熟議」に基づく教育政策形成の在り方に関する懇談会」の第1回(2月10日)配布資料「「熟議」について」を見るのが手っ取り早いでしょう。

そこでは、田村哲樹『熟議の理由』に依拠しながら、「関係者」が一堂に会して課題への学習・討議を行うことを通じて課題および相互の立場についての理解を深めることが自律的な問題解決を促す、といったプロセスが熟議民主主義の姿として描かれています。また、本年1月から始動している内閣府「新しい公共」円卓会議第5回(4月9日)における鈴木寛文科副大臣提出資料では、「当事者による熟議」が中央教育審議会のような専門家による議論と共に政策形成における「車の両輪」として位置付けられています(ほぼ同内容の資料は、シンポジウムの参加者・傍聴者にも会場で配布されました)。

そうした「熟議」の「実践の第一弾」として行われたのが今回のシンポジウムでした。全体テーマとしては、「小・中学校をよりよくするにはどうすればよいか」なる問いが掲げられていました。具体的には、事前に一般から募集された参加者を10名程度ずつの小グループに分けた上で教育をテーマとした討論をそれぞれ実施し、各グループの議論内容を最後に報告し合う、という形の設計です。文科省としても未だ試行錯誤段階にあるようで、こうした熟議空間の設計は今後変化する可能性が言及されていました。

 

構成・進行

 

今回のシンポでは小グループ(G)は9つ作られ、1~5までが小学校、6~9が中学校について話し合うということにされていました。事前の告知では「10名×10グループ程度」とされていましたが、会場設営の都合上か、9Gとなったことで1Gあたり平均12~13人にまでメンバーが膨らんだようです。さらに討論のファシリテーターとして1人、議事録作成係として1人の計2人の文科省スタッフが各Gに参加したので、(目算でざっと数えた結果なので正確さは保証しませんが)平均約16人で1Gが構成されていました(一部、さらに「懇談会」の委員が参加したGもあったようです)*1

参加者の男女比は7:3から6:4ほどでしょうか。ファシリテーターや記録補助を務めた文科省スタッフも3分の1ほどは女性でした。年齢層は18~19歳の大学生から青年・壮年・老年層まで幅広く、あまり偏りはなかったように思います*2。職業的には学校教員、保護者(元教員含む)、教育委員会委員、教育関連企業社員、大学教員、大学生、キャリアカウンセラー、職業ファシリテーターなど、こちらも様々でしたが、私が把握できた限りでは学習塾関係者はいませんでした(単に私が把握し切れなかっただけの可能性が大きいです)。

各Gは直径2mほどの円を作って着席し*3、9つの輪の左右・後方の壁際にコの字型の傍聴席が形成されました(傍聴者は討論中は歩き回って各Gの様子を近くで見ることができました)。Gごとに1台のビデオカメラが設置され、討議の様子が記録されるとともに、中継用のビデオカメラやiPhoneによるustream中継によって、インターネット生配信も行われました。

進行はほぼプログラムに沿って行われました。冒頭に鈴木副大臣から挨拶とWebサイト「熟議カケアイ」の公式発表があり、続けて文科省スタッフから50頁超の冊子資料(当日配布)の内容について頁をめくる手を止めることのできない速さでの説明が為されました*4。その後、「懇談会」委員の金子郁容氏による「熟議の心得」伝授が行われて、ようやく「熟議」が始まりました。

前後半に分かれた討論のうち、前半1時間は副大臣や高井美穂政務官が各Gの議論を外から眺め、休憩を挟んだ後半1時間は副大臣や政務官、金子委員が10分程度ずつ順繰りに各Gの中に入って議論に参加する、という形が採られていました(政務官は後半途中で早引け)。Gごとの討議終了後、議論の結果を各Gの代表者が順番に報告した後は、特に全体の結論を取りまとめることはせず、副大臣を中心とした運営側の挨拶や「懇談会」委員の金子・田村哲夫・城山英明各氏からの一言などあって終了となりました。

 

討論の様子と内容

 

自ら応募してきただけあって、全体に参加者のモチベーションは高く、議論は活発に行われたと思います。発言数の偏りは当然ありますが、文科省スタッフのファシリテーション(と言うよりも司会)も概ね無難であったと思われ、私が眺めていた限りでは各Gとも大きな混乱もなく、それぞれ程々に活発な議論が穏やかに行われていたという印象でした。

討論は比較的自由な雰囲気で行われ、PCを開きながら討論に参加した人は全体で10人以上はいたと思います。PCで何をしているかと言えば、twitterがほとんどで、自ら議事録を作っている人もいました。iPhoneを傍らに置いていた参加者も数人確認しました。参加者以外の傍聴者や設営スタッフにもPCやiPhoneを手にしていた人が多く、局地的とはいえtwitter&ustが行政にかなり食い込んでいる様子を目の当たりにしました。紙にアイデアを次々に書いて床に置いていくファシリテーション技法を用いながら討論に参加している人も見られました。

報道陣は最初はカメラマンが2人ぐらいかなという印象だったのですが、討議後半になって副大臣・政務官が議論に参加する段にはグッと記者が増えた感を抱きました(それでも計10人ぐらいでしょうか)。副大臣が参加するGを移動する度に、議論の内容に耳をそばだててメモを取る記者とフラッシュをたくカメラマンたちによって厚みが増す輪も移り変わっていくのですが、その一方で政務官の参加するGは他とあまり変わらず、副大臣と政務官の扱いの差が目に見えてよく解りました。

議論の内容としては、G報告として教師をバックアップするためのバックヤードの整備(「スーパー事務室」)などの提案も為されましたが、そのように具体的なところまで踏み込んだのは少なく、全体としては現状認識および考え方や体制・態勢についての議論が中心であったとの印象を受けました。総じて言えそうかなと思ったのは、教師の大変さについての認識が広く共有されており(参加者に教員が多かったこともあるでしょう)、支援の必要性が確認される一方で、教師の資質向上が必要であるとの認識も根強く持たれているようだ、ということです。それに伴い、学ぶ目的設定の重要性や授業内容をドラスティックに改革する方法、教員の評価法などについての議論が為されていたようです(あくまで私が見聞きできた範囲での話です)。学校を地域や大学・NPOその他の外部機関と連携させる必要性が複数Gで話し合われていたことも印象的でした。

 

その他(少し長めの)感想

 

後は雑駁な感想を。最初に感じたのはファシリテーターをしていた文科省スタッフ(の一部)が声小さいな、ということ。局長級までもがファシリテーター役として出張ってきたのは余程背負っているのか副大臣の号令で駆り出されたのかは知りませんが、いずれにしてもファシリテーターとしてちょっとどうかと思った部分はありました。ただ、これは全体としての問題でもあって、1Gあたりのメンバーが明らかに多いのに加えて会場のキャパシティもギリギリでキツキツだったので、G間の距離が十分に取れておらず、周囲の音のせいで話者によっては同じG内でも声が聞き取れないということが珍しくありませんでした。

あと、雰囲気が自由なのはいいとしても、全体のオーガナイズが弱すぎるように感じました。総合司会が「懇談会」メンバーの女史だったのですが(名前失念)、討議を中断して休憩時間に入る旨の伝達が十分に行き渡っておらず、そのまま討議を数分継続したGが幾つかあったので、後半の討議に入るタイミングがずれてマチマチになってしまっていました。前述の声の問題もあるので、これはいただけないな、と。ここまでは比較的些末な運営上の点。

 

もう少し本質的と言うか、「熟議(民主主義)」というコンセプトや制度設計そのものにかかわる点についても幾つか。先にも書いたように、参加者の中には職業ファシリテーターの人もいて、それを聞いたファシリテーター役の文科省スタッフが「じゃあファシリテーター代わりましょうか?」と冗談めかして言う場面も見られたのですが、実際代わるべきだったのではないかと思いました。事務局はまだしも、個々の討議のファシリテーションを行政側が担う必然性は無いですし、むしろ担うべきではないとも言えます。行政=文科省自体が、教育政策についての重要な当事者・関係者に含まれるであろうと考えられるからです。第三者的にファシリテーションをし得るような立場ではない。

この点、文科省側のスタンスが象徴的に現れていることがあって、それは各Gごとに設けられた固定カメラの位置です。カメラは全て例外無く、並んで座るファシリテーター役と記録役の2人の文科省スタッフの背後に設置されていました。あくまで「裏方」であるスタッフを映しても意味が無く、「主役」である一般参加者の人々を映さなければならない、という自然と言えば自然な考えの現われなのでしょうが、しかし行政を「裏方」的位置に固定するこの考え方にはある種の危険性が潜みます。「裏方」とは決して明示的には記録されず、「見られる」ことのないままに場を統御・支配する、いわば不可視の権力です。必ずしもそのように働くわけではないとしても、そのように解釈される可能性には敏感でなければなりません。カメラを背にすること=自分たちを局外の地位に置くことの特権性への自覚が薄いのではないかな、と感じました*5

教育政策において文科省は明らかに当事者・関係者ですから、討議のファシリテーターであるよりも、純粋なメンバーである方が相応しい。文科省全体とまではいかなくとも、文科省に勤めている人々が教師や保護者などと同じ立場で討議をしてみてもいいでしょう(むしろ、するべきなのですが)。実際、ファシリテーター役をしていたスタッフの心の内をこそ聞きたいな、と私は見てて思いました。「実際代わるべきだった」と先に述べたのは、そういう意味です。事務局までを第三者機関に任せるのは難しいかもしれませんが、少なくともファシリテーター役だけは、今後開かれる同様の試みでは文科省の外部の人(できれば職業ファシリテーター)にお願いするべきでしょう。

 

この点は、結局「当事者」ないし「関係者」の概念についての認識の甘さや不明朗さに結び付いていることだと思います。「関係者」を中心とした熟議を謳っているシンポジウムでありながら、文科省スタッフの座席に「関係者席」と大書した紙を堂々と貼り付けているセンスに、私はちょっと笑ってしまったのですが、しかしそのセンスが全てを物語っているのでしょう。

副大臣は締めの挨拶の中で、これからの行政はマネジメントの立場、ファシリテートやエディットの役割を果たしていくことになる、との認識を示しました。それはそれとして的を得た認識です。しかし、行政の役割が非政府的アクター間の集合的解決をマネジメントすることに限定されていくとしても、依然としてアクターの1つであり続ける行政機関そのものが当事者・関係者でなくなることはありません。行政主体にも利害はありますし、その内部では選好も形成されるでしょう。同じことは専門家にも言えます。行政のマネジメント的役割や専門家の専門知を重んじ、それらに独自の地位を与えるということは、行政や専門家を局外の地位に置いてよいということではありません。当事者ないし関係者、つまりstakeholderが誰であるのかを考える場面では、行政・専門家は他のアクターと並列の立場に戻されるのです。

 

展望

 

他にも、田村・城山両委員などから言及があった、このシンポを今後どのように政策形成に繋げていくのかという部分とか、小Gに分けて取りまとめもしないなら個別のテーマを割り振った方が議論が散漫化せず良かったのではないかとか、「熟慮と討議」のうち「熟慮」の部分は今回あまり見出せなかったように思うが今後どう考えていくのかとか、関連して熟議デモクラシーにおいて最も肝要である「選好の変容」という部分についてはどうか(それを望むためにはやはり明確な問題設定をして予め対立構造を顕在化させることが必要なのではないか)、などなど色々思ったのですが、文科省としては前述の「熟議カケアイ」(朝日記事)を中心に継続的に試していこうという姿勢はあるようだし、少し前のタウンミーティングとかよりはずっと良い試みなのではないかという気がするので、これ以上細かいことはひとまず措いておきます。

それから最後に。傍聴は疲れます。始終歩き回って、観察したり聞き耳立てたり。こういうのは参加する方がずっと楽だし楽しいですね。

 

熟議の理由―民主主義の政治理論

熟議の理由―民主主義の政治理論

 

関連で、「リスク社会における公共的決定2」で紹介した松浦正浩氏の新著が参考になるので、以下に掲げておきます。

実践!交渉学 いかに合意形成を図るか (ちくま新書)

実践!交渉学 いかに合意形成を図るか (ちくま新書)

*1:参加者・傍聴者を含めて、当日は200名近い人が集まったそうで、確かに会場はごった返しており、活気には満ちていました。

*2:ただし、小学生も中学生も高校生もいませんでした。

*3:討論が始まると、メンバーの声を聞き取るために円を一層狭めるGが多かったです。

*4:資料の内容は日本の小中学校教育についての基礎的なデータと最近の調査統計、政策動向などを整理したもので、1.確かな学力の向上、2.豊かな心の育成、3.特別支援教育の充実、4.教員の資質向上、5.教員の数の充実、6.学校、家庭、地域の連携協力、の6項目。

*5:今回のシンポでは、私が見る限りファシリテーター役の人々は総じて無難な司会に徹していて、議論の内容を特定の方向に誘導するなどの恣意的な操作や暗黙の圧力などは確認されなかったと思いますが、参加者によっては何らかの恣意や圧力を感じた人もいるかもしれません。

「アメリカ化」する日本の政治学

 

北田暁大氏による最後の編集号となった『思想地図』vol.5には、巻頭の野中広務氏を迎えたシンポジウム記録をはじめとして多数の興味深い論考が掲載されていますが、私がとりわけ広く読まれて欲しいと願うのは、特集の末尾に収められた「「アメリカ化」する日本の政治学」と題する論文です。著者は、昨年末に出版された『世論の曲解』で近年の日本政治の動向を計量分析に基づくアプローチで批判的に捉え直した菅原琢さんです。

論文自体が非常にクリアカットな論旨となっているため、現物を見て頂くのが一番ということで、ここで下手に内容を要約することは控えます。論文執筆の経緯などは著者本人がブログで語っていらっしゃるので、そちらも参照下さい。近年の若手政治学者が置かれている環境や学会・学術誌の動向と、そこから産出される研究の内容や質との関係が具体例を交えて論じられており、計量型研究の査読の実際などを知ることもできるので、他分野ないし一般の方々にとっても非常に興味深い内容になっていると思われます。是非ご一読あれ。

 

以上、簡単な紹介まで。

 

NHKブックス別巻 思想地図 vol.5 特集・社会の批評

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世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか (光文社新書)

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